24 らんま1/3 後編
「嬉しいわあ、乱ちゃんからお茶に誘てくれるやなんて」
「え?」
乱馬は愛想のよい笑顔を崩さなかった。なぜかいつもよりやさしい。右京もそれを変に思わないわけではなかったが、女としては信じたいところだ。右京は乱馬が引いて座らせてくれた椅子にもう一度尻をすえた。
「そやけどこんなとこで御飯食べんでも、うちの店に来たら」
右京は喫茶店を見回して言った。
「馬鹿だな。出かけて一緒に食べるのがいいんじゃないか」
さらりと馬鹿だな、と言ってしまえる乱馬が格好良くて、右京はうっとり見つめた。
「なんか乱ちゃん、いつもと違う感じがするわ」
「そお?」
「うん。いつもよりカッコええ」
「おれはいつでもかっこいいぞ」
「そやね」
くすくすっと右京は笑った、「ほんまに嬉しいわ、うち、ずっと待ってたんよ」
「これから映画観にいかない?」
乱馬は自然に話を切り替えた。それはもう自然で、重い話と軽い話の継ぎ目かわからない。今の乱馬なら「好きだ」も「映画に行こう」も同じトーンで言い出しそうで、右京は恋の冒険でもしている気分になり、ハラハラしている自分に酔った。
「ええよ。お店は定休日やし」
「じゃ、決まり。何を観・・・」
次の瞬間、乱馬は右京の頭をつかんで店の内側に向けた。
右京は、
「な、何?」
と声を裏返した。
「いや、ごめん、ちょっと嫌な知り合いが窓の外にいたもんだから」
乱馬はすまなさそうに手を離した。
しかし窓の外の知り合いは諦めていなかった。「coffee」の文字が吹き付けられた通り側のガラスを、ごんごん叩く者がいる。
―――誰や、人の恋路邪魔しよって。
必要とあらば潰す。鬼の目で窓を睨んだ右京は、驚いた。
「…らっ」
窓を叩いているのは乱馬だった。
「乱ちゃん!?」
右京はテーブルに手をついて立ち上がった。窓を打つ鈍い音が店内の視線を集めている。窓を叩く乱馬の口の動きは、このやろう、と罵倒していた。客の視線を意識してか、右京はひそめた声で、だが早口で、テーブル向かいの乱馬に尋ねた。
「どういうことなん」
乱馬は立ち上がり、
「映画はまた今度にしよう」
身をひるがえしたと思うと、自動ドアから飛び出した。
窓を叩いていた乱馬もそれを追って駆け出した。ドアが開いた瞬間に外から、待ちやがれ、と声が聞こえた。
今の何。喧嘩。あの人たちふたご? 店内には静かな疑問が投げ出されたままだ。
右京は連れが店を騒がせたことで少し後ろめたさを感じ、釈然としないまま店を出た。表通りに乱馬の姿はない。右京は諦めて帰路をたどり始めた。
―――せっかくデートやと思たら、乱ちゃんが2人。
「乱ちゃんに兄弟なんて、聞いたことあらへんわ」
乱馬はここ2日ほど早起きしていた。理由は、誰にも言わない。あかねより早く朝食を食べて学校へ行く。
今朝も一足先に家を出て、川沿いの道に出たところだった。
後ろからたたた・・・と一定のリズムで足音が聞こえてきた。振り向かなくてもあかねの運動靴だとわかる。乱馬は川に沿って伸びているフェンスの上に飛び乗った。
「乱馬」
視界の隅で、あかねがこちらをうかがった。乱馬は嫌な気持ちになった。先に行けばいいのに、と思ったし、なんで一緒に歩こうとするのかわからない。
乱馬は歩みを止めた。あかねも続いて減速した。早足が急に止まったのであたりが静かになった感じがした。
「一人で登校しろよ」
乱馬は腹から絞った声を出した。
「どうしてそんなこと言うの」
あかねが戸惑い気味に視線を合わせようとしたが、乱馬は真正面を強く見詰めたままだ。
「なんでついて来るんだよ。相手間違えてるんじゃねえか。お前が何考えてるのかさっぱりだ」
一人言のように言ったが、あかねに向けられた言葉だった。
「あいつのどこがおれよりいいんだ? おれの何が劣るってんだ。あーいうヘラヘラしたのが好みなら、最初からおれの許婚なんてやめときゃよかったんだ」
「なに言ってるの?」
あかねがちょっと笑ったように見えた。
「あかね。どうしたいんだよ」
乱馬はちらっとあかねを見て、言葉に勢いをつけるために、息を吸って、吐いた、
「…おれの代わりにあいつと学校行ったらどうだ? ついでに許婚も代わってやろうか」
「どういう意味?」
「コピーを家に置くつもりなら、おれから出てってやるっつってんだ!」
乱馬が声を強くすると、あかねは目を見張った。乱馬は負けないようにぎゅっとあかねを見たが、強く睨めば睨むほど自分が辛くなった。
「コピーとあたしが付き合うのはお芝居だって言ったじゃない」
あかねが笑いを噛み殺して言った。「どうして? 話したでしょう」
瞬間、風船の空気が抜けていくような気分だった。血圧も下がる。
「え?」
「お芝居よ。嘘。言ったわよね」
「―――聞いてない」
「あっ、わかった。コピーだわ」
あかねは何が嬉しいのか、晴れ晴れした表情で掌を打った、「あたしが話したとき、コピーが乱馬のふりをしてたのよ。きっと」
「何の話だ」
あかねは3日前の説明を繰り返した。
「あたしは頼まれて彼女のふりをしてるの。コピーらんまちゃんを諦めさせるためなんだけど。あたしが彼女のふりをするのと交換条件で、コピーはナンパをやめるって言うのよ」
「で?」
「それで、打開策として、コピーらんまちゃんを先に鏡の世界へ帰した後、コピーを追い出すの。コピーらんまちゃんのありがたみを分からせるの。そうすれば鏡へ帰ると思うのよ」
あかねのなめらかな説明を聞き、乱馬はふぅんとうなってフェンス上を歩き出した。早く家を出たので遅刻する心配はない。
あかねが、
「でもコピーのらんまちゃん、昨日から見かけないのよ。乱馬、知らない? ちゃんと協力してよね」
「どういうふうに」
「諦めて帰るようにコピーらんまちゃんを説得して。あたしじゃ駄目だから」
「やけを起こしてなきゃいいけどな」
乱馬は自分がやけになってたのを思い出した。次を曲がればもう学校が見えてくるはずだ。
あかねは冗談で怒ったふりをした。
「もう! コピーに取って代わられないように、しっかりやってよ」
乱馬にはそんなあかねがずいぶん眩しく感じられた。
午後の授業を終えて、あかねは早くも頭の中で商店街への道すじを辿っていた。下駄箱で靴を履き替え、校門を出ていつもと逆の方向へ歩き出した。商店街への道だ。
空が滑らかなドーム状に感じられるほど天気が良かった。その空の下を歩いていても気分爽快というわけにはいかない。この、どこか胸に宙ぶらりんな違和感の正体は分かっている。
彼女のふりをしてあげると約束はしたものの、あっちが乱馬に化けて嘘までつくなら約束違反だ。これからの接し方をはっきりさせるためにとっちめてやらないと。あかねはそう考えていた。
あかねは商店街からこちらに向かって歩いている人の顔を一人一人確かめた。はたから見ればずいぶん落ち着きがなかっただろう。
しばらくそうして歩いていると、コピー乱馬がいた。もっとも、見た目で判断したわけじゃない。乱馬とはさっきまで学校で一緒に居たから、先回りして商店街にいるなんてことはないだろうという簡単な予測だ。
あかねが駆け寄ると10mほどの距離でコピーが気づいた。
「あかねちゃん」コピーは立ちどまって、あかねの頭からつま先まで順に見た。「どうしたの。もしかして迎えに来てくれたとか?」
「ちょっと言いたいことがあるの」
あかねは無視して言った。「あたしが付き合ってるふりをしてあげるのは、コピーらんまちゃんの前でだけなんだから。ほかにでしゃばったことしないで」
コピーの表情が少し強張ったが、すぐに元に戻った。あかねとコピーは家に向かって歩き出した。
「でしゃばるって?」
「あたしとの約束破ったわ」
「守ってるさ。毎日大人しくしてる」
「うそ。知ってるわ。ナンパだってやめたわけじゃないでしょう。その手に持ってる…」
あかねはコピーの手の中の箱を見た。いつもの土産の洋菓子だ。
「はい」と、コピーはいまさらのように差し出した。「お土産、今日はエクレア」
「受け取れないわ」
いささか台詞が芝居じみてたが、こうやって拒否したほうがいい。
「知ってるのよ、洋菓子屋さんのバイトの娘がすごく可愛いので有名なことぐらい」
洋菓子屋のレジの娘は、ふわふわパーマでナチュラルメイクが上手な、それこそキャンディーみたいな女の子だ。あかねは偵察に行ってどきりとしたのを覚えている。
「なんだそんなこと。もしかして妬いてる?」
「誰が」
コピーはあかねの手をとってエクレアの入った箱を握らせた。「おれはああいう派手な娘より、どっちかって言うとあかねちゃんの―――、っ痛て」
あかねちゃんのほうが、と言いながら握ってきたコピーの手を、あかねは強くつねった。
「ひどいな」
コピーは手をさすった。
「それだけじゃないわ。右京をナンパしたでしょう? 学校で本人に聞いたんだから間違いないわ」
「右京って?」
「お好み焼きの右京」
「ああ、あーあー。お好み焼き屋の娘? そんなんじゃないよ。あんなのナンパって言われたらたまらない。未遂だし」
しらばっくれるつもりらしい。
「じゃあ、3日前に乱馬のふりをしてあたしをだましたのは?」
「なんだ。分かってたの」
「当たり前」
コピーは真っ青な空を見上げて、
「あかねちゃん、冗談が通じないなぁ。困るよ」
「とにかく、これからそういう曖昧な態度を取るんなら帰ってちょうだい。迷惑だわ」
―――ちょっときつく言い過ぎたかしら。
あかねは気づかれないようコピーを見たつもりだった。このとき、あかねを見ていたコピーの視線とあかねのすがめがかち合った。
時間にして1秒もなかった。コピーの眼に寂しげな光がかすめたように見えたのはきっと気のせいだ。それが演技かどうか見分けはつかない。あかねはついと視線をそらした。
さっきより小さな声で、つぶやいた。
「ずっと家に置いてあげるわけにはいかないのよ。よく考えて行動して」
一方、乱馬は途方に暮れていた。こういうことには慣れてない。
「ひどいわ、ひどいわ、くやしい」
コピーらんまは両手に顔を埋めて泣いている。
家に帰るなり、縁側で愚痴につきあわされていた。女の子を慰める技なんて早乙女流にはない。
優しく肩を抱いて僕の胸でお泣き、と言えばいいと誰か言ってたな。そんなことをぼんやり思いながら、乱馬はただ横に座っていた。
「あ、あん、あんな寸胴女に盗られるなんて…。あんなののどこがいいの!?」
「さあ。好みの問題じゃねえか」
乱馬はすっとぼけた。
「その顔見てると、むかつくわ!」
いきなりコピーらんまは乱馬に組みついた。腕が伸びてきたと思うと喉元を締め上げた。
「こらっ 八つ当たりはやめろ」
乱馬は手加減しながらもがいた。「ヒステリーはみっともないぞ!」
コピーは急に力を失って乱馬から離れた。のろい動きだ。
「わかった。わかったわ。私、諦める。諦めて―――」
帰れ。と乱馬は胸の中で唱えた。
「もっっっといい男をモノにする! あたしの逆ナンの腕前、見せてあげるわ!」
いきなり人民服の前をはだけた、と思うと、下には胸の大きく開いたボディコンを着ていた。乱馬は走り出そうとする彼女の腰に抱きついた。
「こらこらこら違うだろ!」
「やめてやめて、放してっ」
コピーらんまの動きに合わせてがくがくと視界が揺らぐ。女の腰にすがりついて我ながら情けないポーズだ。コピーが腕を振り回すたびその肘が頭に当たる。
「そんなことで解決にならないだろ! しっかりしろ!」
乱馬が叫んだ。
コピーらんまの体いっぱいに張り詰めた力が萎えていく。乱馬はそっと腕から解放した。
「じゃあどうすればいいの?」
コピーらんまはかぶりを振りつづけた。
「行くところがないわ、あの人に嫌われたら。まして、他に好きな娘ができたなんて」
乱馬はコピーの感情の浮き沈みを危なっかしい気持ちで見守った。
諦めて鏡に帰るわ、という口の動きを待った。泣きわめこうが怒り出そうが構わない。それさえ言えばこっちのものだ。
「私、あの人を殺して自分も死ぬわ」
「それは無理心中だ。落ち着け、死んだら何もかもおしまいだ。終わりだぞ?」
乱馬は膝を進めた。
「もう美味いものも食べられないし、好きな男の顔だって2度と見られない。まだ若いんだし、なっ」
「そう―――そうね。慌ててた。自分が死ぬことないわ。あの女をヤればいいのよ」
ヤる、とはもちろん”殺る”と書いて”ヤル”と読むのだ。
コピーらんまは大きな瞳をいっぱいに輝かせた。
「どうして気づかなかったのかしら」
「ちょっと待て」
嫌な予感がした。「まさかあかねを…」
捕まえようとした乱馬の腕を、コピーらんまはするりと逃れた。振り向くと塀の向こうに飛び降りるところだった。こちらに向かってちょっと微笑んだ。
「行ってきます! 大丈夫、うまくやるから」
つむじ風の勢いで町を駆け抜ける影があった。
あんまり速いので動物と間違えた通行人もいたかもしれない。駆け抜けたふたつの影は人間だった。
人影の足はひと蹴りひと蹴りが素晴らしく力強い。ただ、両者とも地面の踏み切り方が全く同じだった。
「待て!」
と乱馬は叫んだ。聞こえないらしい。前方には飛ぶように走る女らんまがいた。その丸みのある肉のどこに人間離れした脚力があるのか。
「待てよ!」
もう一度叫んだ。
聞こえないのか聞こえないふりか。どちらにしろものすごく速い。なにしろ、鍛えぬいた乱馬の身体のコピーだ。筋肉を鍛えたのは自分なのに、コピーはなにもせずに完成した身体を手に入れた。
短距離走なら女に負けない自信があった。力いっぱい地面を蹴って、蹴って、相手より少しづつ大股に足を出した。この勢いに乗れば追いつける、そう確信した。
前方に目をやった、一瞬。
全力疾走のままコピーらんまに飛びつく体勢に入った。最初そんな荒っぽい方法は考えていなかった。事情が変わった。前方にあかねが見えたのだ。あかねと、隣に見えた人間はおそらくコピー乱馬。
コピーらんまが、
「先手必勝!」
と叫ぶと同時、乱馬はコピーらんまに向かってヘッドスライディングした。飛び込み前転に近い。
スカを食らった。
―――かわされた!
乱馬は素早く一回転して上体を起こした。
頭の中では最悪の場合が想定されていた。コピーらんまがあかねに襲いかかる、あかねは受け身がとれるといっても乱馬に言わせれば護身術程度、当然受けきれない、思い切り急所―――頭、胸の中央や腹を殴られて倒れるあかね。きっと気を失うだけではすまない。想像では、腕の中のあかねがぐったりしている。血の気を失っていく。
「あかねっ」
名を呼びながら顔を上げた。コピーもあかねもいない。どこだ。視線を巡らせた。塀の上に足が見えた。コピー乱馬があかねを抱いて跳んだらしい。
道路でコピーらんまが声をあげた。
「どうしてそんな娘かばうの!?」
コピー乱馬は、
「おまえこそ、いきなり何するんだ」
コピーのらんまはひと足で塀に乗った。
「私というものがありながらっ! あなたその女にたぶらかされてるのよ」
「人聞きの悪い! たぶらかすだなんて、あたしはねえっ…」あかねがコピー乱馬の腕の中で足をばたばた前後に動かした。「いつまで物みたいに抱えてるのよ、降ろして」
「あ、ごめん」
あかねの腰を掌で包むように持って、コピー乱馬は軽々と地面に降ろした。ちょうど乱馬の目の前だ。
乱馬は呆然とその様を見ていた。はっとした。向こうでコピーらんまが腰をかがめて黒い何かを持っている。怪しい動きだ。
黒いものの形が見えた。瓦だ。
―――危ねえ!
あかねを伏せさせようと思った。乱馬は獣のようにジャンプした。
ただそれより先に、コピー乱馬がひょいとあかねの頭を下げた。
1秒後には、あかねに向かって跳んでいた乱馬と瓦がゴッツンコした。衝撃は頭蓋骨の内部を駆け巡って
くわんくわんと鐘のような音が聞こえた。
乱馬は痛い、より先にくやしかった。燃えるように腹がたった。格好悪い自分にか、鮮やかにあかねのナイト役を務めるコピー乱馬にかは分からない。あるいはその両方。
乱馬は立ち上がった。打ち所が悪かったようだ。頭だけいやな感じで脈打っている。顔に手をやった。鼻血が出たかと思ったからだ。何もなかった。
「こらっ」乱馬は大きな声で言った。「お前らの痴話げんかに巻き込むんじゃねえ! あかね、帰るぞ」
「何言ってるんだ」
コピーがあかねをかばうように進み出た。「あかねにちょっかい出したら許さねえ」
今朝まで「あかねちゃん」だったはず。いつのまにか呼び捨てだ。
乱馬とコピーは攻撃的な視線を一直線にぶつけあった。熱されたコイルのようにその空間だけ強い磁場が発生した。火花を散らす、とはこんな感じだ。
「ちょっかい出してんのはお前だろうが」
「おれとあかねのことはお前には関係ない。ちがうか?」
「ああちがうな。おれの複製のくせに態度でかいんだよ」
「おまえにえらそうにされる筋合いはない」
「なんだと? 女の始末もつけられねえくせに」
両者は互いの悪態をつきはじめた。同じ声なので独り言にも聞こえる。どっちが何をしゃべってるのか、本人たちにしかわからなくなってきた。
「やめなさいよ」
あかねは割って入ろうとしたが、強くしめ出された。
乱馬とコピーの言い合いは堂堂巡りしていた。そのうち、ある一点においてだけ意見が一致した。
「白黒つけるしかないな」
「望むところだ」
「おれが勝ったら大人しく鏡へ帰れ」
「お前が負けたら、おれがあかねの許婚だ」
あかねは2人の言い合いと一緒に聞き流すところだった。その言葉の意味は重い。
「ちょっとっ、そんな勝手なこと!」
あかねの言葉を聞かずに、2人は民家の屋根へ駆け上がった。
乱馬とコピーが決闘場に選んだ屋根は比較的大きな日本家屋だった。あかねは一階の縁側にいたおばあさんに声をかけてはしごを貸してもらった。
一段づつはしごを上がって行く。昇りきると、くっきり青い空を背景に、乱馬とコピー乱馬が棟の上で間合いをとっていた。どっちがどっちだかあかねにも見分けがつかない。ふたりの構えは全く同じだ。ただ乱馬が鏡に向かって構えているのを横から眺めている景色に思える。
あかねは瓦に片足づつ足をつけた。
「ふたりとも、やめなさいよ」
あかねは大声で言った。しかしそれを聞く者はいない。台詞は宙に消えた。「互角の力で喧嘩しても怪我するだけよ」
乱馬(コピー?)が怒鳴った、
「うるせえ、黙ってろ!」
それがあんまり強い口調だったので、あかねは次の言葉を飲みこんだ。乱馬はこうなったら人の話を聞かない。
あかねは一瞬考えた後、はしごを降りて、縁側のおばあさんから猫を借りた。
猫を脇に、はしごを使って屋根に戻った。乱馬とコピーが取っ組み合いを始めていた。上になり下になり相手の襟首を力いっぱい引き合っている。
あかねはもつれあったふたりが近くまで転がるのを見計らって、太った三毛猫を投げた。投網の要領だ。乱馬とコピーは散るように逆方向に飛びのいた。猫はゆうゆうと屋根に着地した。
向こう側に飛びのいた乱馬はわあっ、と声を上げながら屋根の端から消えた。落ちた。
こっちに飛んで来た乱馬はまともにあかねとぶつかった。あかねは尻餅をついた。瓦が腰骨にぶつかって痛かった。あかねは尻をさすって顔をしかめた。
「痛たた」
乱馬はそんなことに構わず、涙まじりに、
「猫を投げるな!」
「だって喧嘩やめないから」
「ばかやろう、おれが負けると思ってんのか」
「そういう問題じゃないでしょ。こんなところで暴れたら屋根の下の家が…」
「おれが、負けると、思ってんのか!?」
あかねはあきれて溜め息も出なかった。
「負けるとは限らないけど、勝てるとも思ってないわ。だってあんたたち、力は同じだもの」
あかねはこのとき8割は、目の前の乱馬がコピーではないと信じていた。雰囲気が乱馬だったからだ。
「おれが負けたことないの知ってるな」
「うん、けど…」
「じゃあ、信用して待ってろ」
低く言ったと思うと、いきなり顔を近づけてきた、不意に視界が耳とおさげでいっぱいになった、あかねは口の端にふにゅっと柔らかいものを感じた。温かくしめっていた。
「なにするのよ!」
思い切り胸を突き放した。
気づけば屋根から落ちたはずの乱馬が屋根の上に戻って来ていた。仁王立ちして拳を鋼のように固く握り、こちらを凝視している。
そのとき、気づいた。
目の前の乱馬はコピーだ。コピー乱馬は、乱馬に見せるためにこんな真似をしたのだ。いま分かっても遅いことだ。乱馬は見てしまった。
あかねは思わず浮かんだ単語を口にした。
「乱馬」
誰も返事をしなかった。
急いで地面を蹴って、屋根に飛びついた。乱馬は肘をついて上体を屋根の上に引き上げる。
顔を上げた。
驚くべき光景が待っていた。
コピーが―――自分の後姿があかねにかぶさるようにしている。何かの間違いかと思ったが、あかねは「なにするのよ!」とコピーを突き放した。
あかねは手で唇を押さえた。
―――コピーのやつ、無理やりあかねに…
乱馬は屋根に立った。視界が煮立ち燃えていた。
弓をいっぱいに引き絞ったような空気が満ちた。次の瞬間に爆発が待っている。
乱馬は瓦の凹凸も忘れて、一直線でコピーに向かって行った。
あかねさえ視界に入らない。
つま先から下腹部、食道と肺を掻きむしるように第二波の怒りがこみあげてきて、それが脳天に達するとコピーを殴りとばした。逆らいがたい感情のうねりだった。
それだけで足らず、乱馬はコピーの頭をつかんで腕いっぱいに殴ろうとした。コピーの足が一閃し、乱馬の足元を払った、乱馬は転ぶ寸前に手をついた。それをきっかけに、コピーと乱馬は拳の応酬を始めた。
あかねが何か言ったがわからなかった。拳が肉を弾く音、筋肉が体の中で伸び縮みする音だけが聞こえる。
拳を交わし始めると怒りがすっと引いた。乱馬は格闘のプロである。あかねは「喧嘩」というが、むやみに殴るのではない、相手の蹴りのくせ、戦法を見極めつつ応じなければならない。
拳と蹴りの嵐の中、乱馬はできるだけ自分を殺してコピーを観察した。
途中、コピーの全力のパンチを腕に受けた。
肩甲挙筋がきしみ、しびれたようになった。
だが、と乱馬は思った。受けきれないほどじゃない。少なくとも喧嘩慣れしているパンチではない。コピーが鏡の中でのうのうとしている間にも、乱馬は良牙と試合し、修行していた。経験の量が違う。
乱馬は地面に手をついた拍子、かかとをはねあげた。
かかとは思い切りコピーの胸板に入る。その動きに少し遅れて、コピーの体が後ろへ吹っ飛んだ。
戦いの流れが止まった。乱馬はゆっくり立ち上がった。
静かになった。どしゃ降りの雨が急に上がる。そんな静けさだ。
コピーもむせながら起きた。ただ、その表情には敗者の色が翳っている。コピーにも技量のちがいが分かるようだ。
「今のうちに降参しといたほうがいいんじゃねえか」乱馬が言った。
「うるせえ」コピーが応えた。
そのとき、乱馬はほとんど勝った気になった。
あとは顎でも強く殴ってやれば相手は平衡感覚をなくして立てなくなる。
弱者を追い詰めたイジメッ子の気持ちで、コピーへ歩み寄った。
ちらとあかねを見た。
あかねは口元を手で覆うようにしてこちらを見ている。心配するな、おれは勝つんだ、と言ってやりたくなった。
乱馬は、あかねが殴られすぎたコピーの身を案じているとはつゆも思わなかった。
いきなり、コピーの女らんまが屋根に飛び出して来た。
「やめて!」
乱馬の背中に飛びついて、うまく羽交い絞めにした。
「おい!」と乱馬が叫んだ。「放せっ」
「駄目! これ以上殴ったら怪我させるもの」
「仕方ねえだろ」
乱馬は背中のコピーらんまを振り落とそうと、自分の尾を追う犬の動きでくるくる回った。
「おれが勝てばあいつは鏡に帰るんだぞ、お前が望んだとおりじゃねえか」
「もういいの」
コピーらんまは諦めの表情でかぶりを振った。背中側なので乱馬には分からない。
「あの人の気が済めばそれでいいの、無事でいてほしいのよ。怪我はさせないで!」
気づけばコピー乱馬が近くに立っていた。こちらを見ている。
乱馬は、殴られる、と思った。
しかし、乱馬を通り越して後ろ―――コピーの女らんまを見ている。その視線は何か言いたげにも見えるし、目で意味深い意味のことを語っているようにも見える。
やがて、たっぷり30秒はしてから、コピー乱馬がぼそっと言った。
「帰るか」
コピーらんまは乱馬を放した。
「うんっ」
と答える横顔は、輝いている。
コピー乱馬は腕を差し出した。コピーの女らんまがそれに白い腕を絡め、ふたりは歩き出した。
コピー乱馬が、
「お前が帰るんなら、つき合ってやってもいいぜ。やっぱり同じ顔のイイ男が同じ世界にいたらまずいだろ」
「どういう言い訳、それ? けど、私ももう心配するの飽きちゃった」
「鏡屋敷ももうちょっと都会にあればな」
「都会にあったら女の子をナンパするって言うんでしょう。浮気は駄目よ」
ふたりはひとっ跳びで屋根から降りた。
屋根に残されたのは乱馬とあかねである。
乱馬は呆気にとられた。あのふたりは何だ? あれで仲直りか? 勝負の続きは?
「な、なんなんだ」
声にして言った途端、張り詰めた気が一気に抜けた。乱馬はへなへなと尻餅をついた。
あかねが、
「乱馬」
と駆け寄った。
数日後の天道家である。あかねの声に反応するように、池の鯉がぽちゃりとはねた。
「なんか勘違いしてるでしょう」
「何が」
と、乱馬。
ふたりは縁側に座っており、あかねは膝下を廊下から庭へ出して揺らした。
「未遂よ、未遂。口の端っこからちょっと外れたところだったもの。最初からその気なんてなかったのよ」
「何の話だ」
あかねは乱馬をうかがったが、乱馬はふん、とい言ったきりだ。
隣にいるのが乱馬じゃなくて、実はコピーだったら、と考えて、あかねはおかしく思った。
「なに笑ってんだ」
「ううん、別に」
懸命にすまし顔をつくろった。
「コピーたち、納得して帰ってくれてよかったわね」
「結局あいつら、暇つぶしに来ただけだったんだよ。からかい半分だったんだ」
乱馬は普段の口調で言いながら横目であかねを見た。
あかねはその視線に気づいたが、知らないふりをしておいた。
「そうかしら。あたしは、”コピーくん”はけっこう本気で家出してきたと思うけど。”コピーちゃん”の気持ちが通じたんで帰る気になったのよ」
「そうかなあ」
少しひねたところのある乱馬は腑に落ちない。
「感動的じゃない? コピーくんがあたしを好きだなんて言ったのは冗談だったのよ。最初からコピーちゃんを困らせたくて意地悪してたのね」
「…かもな。おまえみたいのがいいなんて、おれのコピーが言うはずねえ」
「なにそれ」
あかねは大きく目をみはった。「どういう意味」
「そのまんまの意味だ」
乱馬は何が嬉しいのか、口調がいきいきしてきた。
―――
こんなのが素だからコピーも曲がった性格になるのよ。
「ならなんでキスなんかしたの?」
「未遂だったんじゃねえのか」
「あら、未遂かどうか、なんであんたに解るの」
「……」
止まってしまった。あかねには意地悪を言ったかな、という気持ちと、いい気味だという快感が半々で渦巻いていた。
雀の声と風の音が聞こえた。都会の住宅街とは思えない、何かに仕組まれているような静けさだ。
かさかさと手前の庭木が揺れたとき、突然、あかねは手を引っぱられた。乱馬があかねの手を掴んだ。予想にない動きだった。
怒鳴ったものか騒ごうか、どれを取っても照れ隠しになりそうで、あかねは乱馬の出方を待った。乱馬も同じ気持ちであるらしい。目がかちりと合った。
一瞬である。
意地と恋心が天秤の上で壮絶なシーソー運動を繰り広げた。
1秒しないうちにあかねの胸の内で何パターンもの場面が浮かんだ。何パターンもだ。思い切り乱馬の頬を張り飛ばすシーンから、ロミオとジュリエットのように愛を誓うシーンまで。どれも嘘のようで本当にもなる。
ふたりは散るように離れた。
あかねは正座をただして桃尻し、乱馬はあぐらのままあらぬ方に視線をやった。他人の気配を感じたからだ。早雲やなびきたちかと思った。が、見回してもそれらしい人影はない。
さっきの庭木が揺れているだけ―――と、そこの葉が震えてひょっこり女らんまが首を出した。
「コピーちゃん!?」
あかねは驚いた。
「あら、つづけてくれていいのに」
コピーの女らんまが縁側へ寄った。
「実はね、鏡屋敷へ帰る途中、あの人ったら女の子のお尻ばっかり見てるのよ。あたし腹がたって腹がたって! 家出して来ちゃった」
コピーらんまは乱馬を上目遣いに観て、
「しばらく置いてくれない?」
乱馬はうんざりといった様子で、首を横に振った。つられてうなじのあたりのおさげがゆっくり跳ねた。
「もういいよお前ら。ずっとやってろ」
おわり
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