カーチャンのパッチワークキルト

現代表現にて転載 

文責 uw0042

八つ鹿物語
八ツ鹿舞歌

1、廻れ廻れ水車 遅く廻りて関に止まるな 関に止まるな

2、仲立ちが 腰にさしたるすだれ柳 枝折り揃えて休み仲立ち 休み仲立ち

3、十三から 之迄連れたる雌鹿をば こなたのお庭に隠しおかれた 隠しおかれた 

4、何ぼ尋ねても 居らばこそ 一本芒の蔭に居るもの 蔭に居るもの

5、白鷺が あとを思えば立ちかねて 水もにごさぬ立や白鷺 立や白鷺

6、風が霞を 吹き払うて 今こそ雌鹿に逢うぞうれしや 逢うぞうれしや

7、奥熊が 奥の永途を越えかねて 爪を揃えてはやす面白 はやす面白

8、つばくろが 蜻蛉返りて面白や 一つもすげなやあをちかやせな あおちかやせな

9、国からは 急ぎ戻れと文が来て お暇申していざかえろ いざかえろ

 「廻われ廻われ水車、遅く廻りて関に留るな・・・」

 秋風もさわやかな10月始め頃、裏町の街角から、少年達の唄う可憐な唄声と、太鼓のリズムが流

れて来る。秋祭りの練習の始まりであります。

 真剣なまなざしで練習にはげむ少年達の周囲には、大勢の大人達の、時には厳しく、時には優し

く、手にとって指導している八ッ鹿踊りの練習風景があり。このような練習が毎晩続けられて行きま

す。 道具類は祭りの数日前に蔵出しされて、宵祭りの早朝から組立作業が始まり、その年の当番

の家に飾り付けられて本番を待つのであります。

 このような光景が400年近く休むことなく続けられています。

 「八つ鹿踊り」の始まりは、藩の命によるものか、信仰から発したものであるのか、または郷里をし

のぶ郷愁によるものか定かではないが、その永い年月の間には、様々な苦難な時代が度々あった

ことと充分に想像されます。

 そこには、当時の人々の忍耐と努力が必要であり、これらの作業も、一語につくせば「この八つ鹿

踊りを後世に伝承していかなければならない」、「無くしてはならない」と、その時代々の多くの人々が

思い継承して来たから、現在の「八つ鹿踊り」が存在しているのではないかと考えられます。

 この「八ッ鹿踊り」は、元和元年(1615)初代宇和島藩主伊達秀宗公が、宇和島に入封されたおり、

仙台地方に伝わっていた「鹿(しし)踊り」を宇和島にもたらしたものと云われており、現在、宮城県・

岩手県地方に伝わる鹿踊りの歌詞の一端にもうかがい知ることができます。

 伊達秀宗公は、元和四年、当時の神社仏閣を整理して、現在の宇和津彦神社を一ノ宮と定め、慶

安(1648〜1652)の頃より、一ノ宮の祭礼の練り物として、八ッ鹿が踊られるようになったと伝えられ

ております。

 旧伊達藩領には、各所に鹿踊りがあり、そのほとんどのものは五つ鹿か七つ鹿で、一ノ宮にのみ

八頭の鹿が許されたと云われています。

 安政四年(1857)、当時の事情は不詳(経済的事情とも言い伝えられている)であるが、五ッ鹿に

縮小改変されて近年まで踊り続けられてきました。その頭面は、藩のお抱え面師で当町住人、森田

屋磯右衛門源ノ吉晶が製作したもので、現在その古面は、有形民俗資料として宇和島市の文化財

に指定され、宇和島伊達博物館に保管されている。

 秋の宇和津彦神社の祭礼に踊られている「八ッ鹿踊り」は、大正十一年十一月、故、昭和天皇が

摂政の宮として宇和島に行啓のおりその供覧に選定されたので、それを機会に従前の八ッ鹿に復

元したものであり、市の無形文化財に指定されています。




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