観音橋の上に“潮音寺”と言う臨済宗の寺刹があり、観音堂がありました。
もともと宇和島城築城にあたり、
鬼門鎮護のため“観音様”を安置すために、
観音堂が建てられたと伝えられています。
境内の観音堂に、一体の千手観音菩薩と、
二体の菩薩坐像が祀られておりました。
四年に一回のご開帳があり、
毎年の縁日には、大勢の参詣客で賑わったものであります。
観音菩薩と書かれた旗が、追手通りの辺りから角々に立ち並び、花火も上がり、
それはそれは大変な賑わいでした。
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千手観音一体は、現在宇和島市の「光国寺」に安置されています。
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二体の菩薩坐像については、
もともと八幡浜の忠光寺の「梅の堂」に、五尊佛として祀られていたものを、
天和三年、宇和島藩主“伊達宗利”が宇和島に移し補修し、阿弥陀三尊佛は
龍華山等覚寺に移された。
地蔵菩薩、龍樹菩薩の二体が潮音寺に移されて、
昭和四十年代までは、毎年八月九日に、縁日や、
四年に一回、御開帳が行われていました。
この観音様が、橋の由来と考えられます。
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三尊佛(阿弥陀如来像、観音菩薩像、勢至菩薩)は、
明治五年、幕末の儒学者、左氏朱山の尽力により、八幡浜の
「梅の堂」に返還され、現在に及んでいます。
(国指定重要文化財)
さて、潮音寺の二体の坐像菩薩の消息は?、
答えは・・・現在、奈良国立博物館に収蔵されております。

(奈良国立博物館HP参照)
時の流れの中に消えかけている、市井の歴史の一端が見えます。
「観音橋」、「観音様の縁日」の謎を辿れば、
意外にも、当時の藩主や藩に支配翻ろうされた、寺刹の姿が蘇って来ます。
謎解きは如何だったでしょうか。?
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五体揃った五尊物であれば、国宝級であると聞き及んでいます。
制作時代は平安時代(12世紀)。
作者は不明ですが、
藤原彫刻の仏師、定朝の流れをくむ者の作であるといわれています。
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観音橋と縁日の由来

(重文の菩薩像の画像が下にあります。)