「――――エイメン」
青白い顔をしたまま眠り続ける霧子ちゃんを抱きかかえ、思い出したように神父は言った。よろしく頼む、との意を込めて軽く頭を下げ、遠坂・セイバーと並んで教会を出る。やはりと言うか――――この教会は昔からどうも好きになれなかった。かつてこの教会を任されていた前任の神父に対する嫌悪感が、未だに抜け切れていないのかもしれない。
まもなく日付が変わろうとしている。遠坂の治療の甲斐あって霧子ちゃんの傷は塞がってくれたが、どうやら血を失いすぎていたらしい。意識を失ったまま目を覚まさない彼女を人目につかないようこの教会に運ぶために、宵の帳が落ちるのを待ちここに来た。
――――脱落したマスターの保護は、監査役の神父の任務でもある。
少なくとも今回の戦争にけりがつくまで、あの神父は霧子ちゃんを守ってくれるはずだ。
「…………」
遠坂とセイバー。二人と並んで夜の道を歩く。周囲に人影は無く、それどころか物音一つしない。ぼんやりと輝く月下、この世界にいるのは俺達三人だけのようだった。
視線だけを動かして、両隣を歩く二人を見る。その表情はどちらも硬い。きっとこちらの表情も同じようなものだろう。胸に去来するのは、緊張でも後悔でも怒りでもない。ただ、
落ち着け、と焼けた鉄のように熱を持つ脳髄の芯に言い聞かせる。今からそんなに熱くなってどうする、と。
「遠坂」
「なに? 」
隣を歩く遠坂が、静かにこちらを見上げてくる。その視線で想起されるのは、教会を訪れる前に遠坂から聞かされたこと。つまり、『セイバー』達の襲撃がある直前まで遠坂がエリスから聞き出した情報だ。
大聖杯。第三魔法。三度目の聖杯戦争。アインツベルン。そしてアベンジャーと呼ばれたサーヴァントと、汚れた聖杯。
二百年という聖杯戦争の歴史は、しかし。
「さっきの話で、大聖杯って魔方陣のことは解かった。正直、第三魔法なんて言われてもぴんとこないけどな。
――――俺には、この戦争の本来の目的なんてどうでもいい。大事なのは、桜とエリス。あとは聖杯の中にいるっていう
……ああ、そうだ。この戦争の目的なんてどうでもいいんだ。第三魔法。それは魔術師にとって大事かもしれないが、俺には関係ない。
目を閉じる。瞼の裏に映るのは、視覚を閉ざしたことによって訪れた闇よりも、なお濃い黒。それこそが
先刻教会に着くまであれこれと考えて、そうして湧き出た疑問の一つを遠坂にぶつける。
「結局、アンリマユと桜はどう繋がるんだ? あの影からは、間違いなく五年前に柳洞寺でみたアンリマユの気配を感じた。あれは、桜の魔術なんだろう」
「……桜は聖杯と繋がっている」
絞り出すように、遠坂は言った。
「それがどんな感覚なのかは知らないけれど、同じ聖杯であるエリシールは、桜を一目見ただけでわかったらしいわ。――――あの子の心臓に、聖杯の欠片が埋め込まれている事が」
「聖杯の……欠片?」
「おそらく、四度目の聖杯戦争の時の聖杯の一部よ。……破壊したのは貴方だったわよね、セイバー」
遠坂に視線を向けられ、セイバーは小さく頷いた。
「はい。当時、キリツグの命令で。……聖杯を破壊した後、すぐに私は現界できなくなりましたが、まさかそんなものが残っていたとは……!」
「それに関して、貴女に責任は無いわセイバー。とにかく、聖杯の欠片を回収した臓硯は、それを当時の桜の心臓に埋め込んだ。……ここから先は、エリシールの話を聞いた上での推測になるけれど」
一呼吸置いて、遠坂は続ける。
「聖杯の中のアンリマユは、どれだけの力を持っていようと“サーヴァント”なのよ。サーヴァントとして呼び出されて、そのまま人の願いを叶えるという形で聖杯の中で実体化した。……それでもサーヴァントとしての性質が変わっていないのなら、マスターであればアンリマユを従わせることができる」
「つまり、桜は」
「ええ、あの子はアサシンのマスターであると同時に、アベンジャーのマスターでもあるんでしょうね。多分、臓硯は四度目の戦争が終わった時点で、聖杯の中にアンリマユがいることに気がついていた。その上で、欠片を埋め込むときに桜がアベンジャーのマスターになるように調整してたんだわ。束縛は、マキリの魔術が得意とするところだしね」
つまり、臓硯は。
十数年も前から、桜を依り代として聖杯の中のアンリマユを制御するための準備を整えていたということか……!
「……アンリマユの制御なんて、本当にできるのか? いくらマスターだからって、アベンジャーなんてサーヴァントは手に余るだろう」
「できないでしょうね。あんなのが本当に聖杯から出てきたら、多分桜の精神が持たない。魔力汚染で人格を根こそぎ吹き飛ばされて、とてもじゃないけどマスターなんて務まるはずが無いわ」
「っ!だったら――――!」
だったら臓硯は、一体何が目的でアベンジャーなんてサーヴァントを現出させようとしているっていうんだ。
こちらに向けていた視線を外し、前を向いた遠坂は、
「……わからない。臓硯の目的なんて、それこそ当人にでも聞かなきゃね。……最も、多分その機会はもう無いんでしょうけどね」
「……? どういうことだ? 遠坂」
再びこちらを向いた遠坂の表情は、ぞっとするほど冷酷だった。
「辻褄が合わないのよ、今の状況は。貴方もわかっているでしょう? 士郎。今回の“聖杯戦争”に、私達はもう負けてる。残る二体のサーヴァントはあっちの手駒で、聖杯すらも向こうの手の内にある。――――臓硯の目的が何であれ、あの老怪はこの瞬間にもその目的を達成できるし、そうしない理由なんてあるはずがない」
「……ああ」
遠坂に言われて、改めてそのことを認識する。
俺達は、負けた。アーチャーを失い、それだけの代償を払って連れてきたエリスを奪い返された時点で俺達は――――“七騎のサーヴァントと七人のマスターが聖杯を巡り争う”戦いには敗れている。
「臓硯にとって、サーヴァントは文字通りただの駒のはずよ。エリシールを手中にした時点で『セイバー』もアサシンも用済みだわ。後は二体の内どちらかが脱落すれば聖杯は完成する。なのに――――『セイバー』がセイバーに言った台詞を覚えてる? 」
遠坂の言葉に頷いて、自然と視線がセイバーの方へと向かう。
────沈んでもらうぞ、騎士王。貴殿の魂をもって、今回の聖杯を完成させる。
不吉な呪いにも似た『セイバー』のその言葉を思い出す。不安が表情に出てしまっていたのか。こちらの瞳を真っ直ぐに見つめ返していたセイバーが、神妙な面持ちで目を伏せた。
「────彼の殺意は、本物でした。『セイバー』は真実、私を倒して聖杯を完成させるつもりだったのでしょう」
「けれど、そんな必要は無い。サーヴァントの連中はともかく、臓硯には聖杯を完成させるための最後の魂がセイバーのものである必要は無いわ。まさか『セイバー』とアサシンの両方に聖杯の祝福を────なんて慈悲の心があの爺にあるはずもないでしょうに」
最も、既にアンリマユなんて願いを受諾している聖杯に祝福も何もあったものじゃないけどね――――そう遠坂は呟いた。
「十数年も前から
だったら未だに、この冬木の街が表面上だけでも平和を保っていられるのはどうしてだと思う? 」
……待て。
つまり、それは。
「――――イレギュラーが起こったのは間違いないわ。今回の戦争の勝者は、多分臓硯じゃない」
だとしたら、俺は一体誰を止めればいいんだ。
いや。
俺は一体、誰を■せば――――
「……すまない、遠坂。そこから先は言わなくていい。今お前に何を言われても……それでも桜を信じたいって気持ちを消すことは、できそうに無い」
「……サーヴァントの反逆。仮に主導権を握っているのがアサシンと『セイバー』で、桜は連中の傀儡にされてるだけだとしても、状況はあまり変わらないわよ」
こちらの甘えを一言で切り捨て、遠坂は言った。
まったく、本当に遠坂は、清々しいほどに容赦が無い。
「もう負けているはずの私達が逆転勝ちするための方法は二つだけ。アンリマユが出てくる前にそいつの潜んでいるっていう大聖杯を破壊するか、それとも依り代である桜を殺すか。どっちにしても『セイバー』とアサシンが立ちはだかるでしょうけど、それでもどちらが簡単かは言うまでも無いわ」
遠坂の言葉に、頷く。けれどそれは、桜を殺すことに同意したわけじゃない。ただどうしたって、もう桜と対峙する事は避けられないだろう。
それでも、もしかしたらという思いがある。
もしも。
もしも桜が依り代として選ばれた理由が、サーヴァントとマスターの契約によるものだとしたら――――
「……どっちにしても、『セイバー』とアサシンとの戦いは避けられない。それだけは変わらないな」
「そうね」と遠坂は小さな溜息をついた。対してセイバーは「はい」と力強く頷く。
苦虫を噛み潰したような表情の遠坂に、セイバーは静かな闘志込めた声で、
「いつ、仕掛けるのですか? 凛」
「……そうね。ただでさえ戦力的にはこっちが不利なんだから十分な準備をしたいけど、エリシールの話じゃタイムリミットまであんまり時間も無さそうだし」
そう言うと、遠坂は天を仰ぎ。
「――――明日は満月。決着をつけるには、ちょうどいい夜かもね」
そう宣言した。
月の浮びし聖なる杯 第二十四話 〜決戦〜
――――そいつにとって、彼は憧れの存在だった。直接顔を合わせたことなんてなかったけれど、一族の始祖であるその武士の英雄譚を、そいつは何度も好んで聞いた。
そいつにとって、彼は正に英雄そのものだった。ああ、そうだ。彼は真実英雄だったのだろう。人の身では不可能なことを成し遂げることが英雄の条件であるのなら、彼は間違いなく英雄だった。殺せないはずのものを殺し、勝てるはずの無い戦いに勝った。それを偉業と呼ばずしてなんという。
彼は国を救ったのだ。ここでいう国とは、彼が治め、そいつの生まれた土地を指す。勿論一人で成し遂げたことではなかったけれど――――そんなことは大したことじゃない。彼が救国の英雄の一人だったことに違いは無いのだ。だからそいつはずっと、馬鹿みたいに彼に憧れ続けた。
そいつはやがて大きくなって、かつて彼が守り治めた国を今度は自身が受け継ぐ事になった。そいつには出来のいい兄貴が何人もいたけれど、彼を受け継いだのはそいつだった。
大きな戦があったのだ。その戦でそいつは大功を立てた。だからそいつが当主になることに、不満を言える奴なんているはずがなかったのである。
つまり、そいつもまた英雄になったのだ。最もそいつは彼に並んだなんて思っちゃいなかっただろう。自分の成したことが彼の功績に遠く及ばないことなんて、そいつが一番わかっている。そもそもそいつは、自分が英雄だなんて思ったことはなかったに違いない。
『それでも』
憧れには遠く及ばなくても、自らの人生が否定されるわけではない事をそいつはもう知っていた。彼にはなれない。成れなくていい。だからもう、その頃のそいつにとって彼は単純な憧れの対象ではなく――――彼のような男が自分たちの始祖であるという、静かな誇りだったのだろう。
その誇りと共に、そいつは時折その物語を思い出す。幼い頃に胸をときめかせた英雄の物語。この国に訪れた災厄と、それに立ち向かった武士達の戦いを。
けれどそいつは、もう子供じゃなかった。国を治める頭領なのだ。だからその物語は、今はもう単純に胸の躍る英雄譚なんかじゃなく、小さな痛みをそいつの心に与えた。
その理由はこうだ。かつて武士達はこの国を襲った大きな災厄を退けたが、その戦火の爪痕は今もそいつの治める国を苛んでいたのである。それは決して癒えぬ傷だった。解くことのできない呪いだった。その大きな爪痕を前に、国を守るべきそいつは何もできなかったのである。
もっとも、そのことでそいつを責めるなんてことはできない。だってそれは、そいつの兄貴たちも、父親も、そいつが憧れていた始祖にすらどうにもできない傷だったのだ。
――――だから、無力なそいつを許せなかったのは、他ならないそいつ自身だけ。
何もできなかったそいつは、それでも望みを捨てる事だけはしなかった。だからそいつは、弓を引いた。何もできないそいつに残された唯一のもの。まるで神事か何かのように、戦場跡へと向けて矢を放つ。
『南無八幡大菩薩――――』
神仏に、祈る。矢を番え、思う。弓を引いて、請う。
願わくば。
願わくば、いつの日にかこの痛みが消え去る日が来る事を――――。
そいつの願いが叶うのは、それから百年以上も先の話。
それだけの時間を、そいつは「長い」と嘆いたのか。あるいはそれでも、自らの祈りが届いたことを喜んでいたのか。
その答えを知る機会は、もう無い。
「…………」
夢を、見ていたような気がする。けれどそれは曖昧で、おぼろげで、目を開けた瞬間に頭のどこかに飛んでいってしまった。
「…………ん」
それを思い出してみようとして、けれどすぐに止めた。どうでも良いと思ったわけじゃない。内容なんて覚えていないのに、それでも今の夢が――――何かとても大切なものであるのだという確信だけはあった。
けれど今は、それを思い出すことはできない。それがどうしてか理解できる。
その夢の記録が、消えてしまったわけで無いことはわかっている。だったらいずれ――――何かの拍子に飛び出てくる事もあるだろう。
頭の奥に僅かな痛みを感じて、それを振り払うために軽く頭を振る、と。
「……九時か」
小さな欠伸を洩らしながら、時計を見る。当然、起床するには遅すぎる時間だった。決戦に備えできるだけ体を休めておくようにと、半ば強制的に遠坂の魔術で与えられた眠りは、しっかりと体に休息を与えてくれたようだ。体調は良好、肋骨の痛みもほとんど無い。これならかなりの無茶がききそうだ。
だが。
「やっぱり、無理か」
魔力の方が、未だ完全に回復しない。それでも七割がたは戻っているが、この状態では通常の戦闘に支障はなくとも、単独での固有結界の維持は恐らく不可能だろう。
――――万全の状態で、決戦に臨めない。あの『セイバー』とアサシンを相手にするというのに、だ。
だからといって、遠坂とパスを繋いで魔力を貰うわけにはいかない。ただでさえセイバーに魔力を回しているのに、この上俺まで背負ったら遠坂の方が潰れてしまう。
『セイバー』とアサシン。奴らとの戦いにおいて魔力を最も必要とするのはセイバーであり、次点はそれを支える遠坂なのだ。むしろ、こちらの方こそ二人に魔力を供給しなければならない立場だろう。
けれど、セイバーの戦闘を支える為に必要な魔力とはとてつもない量なのである。遠坂だからこそ供給できるその魔力量の前に、俺のそれなど雀の涙も同然。だったら俺は自分の魔術を維持するために使った方が、まだ戦力になる。
「…………」
しかしそれで、何が出来るというのか。アサシンはともかく、あの『セイバー』相手に俺に一体何ができる。
「決まってる」
衛宮士郎にできるのは投影だけ。考えなければならないのは、何をするかではなく何を造るか。今の魔力を全部つぎ込んで、何を鍛え上げればアサシンを倒し、『セイバー』の宝具を打ち破れるか。
その答えは、奴等と対峙する前に出しておかなければならない。
が、
「……起きるか」
寝ぼけた頭では、そうそう都合よく考えは纏まらない。体を動かして、頭を目覚めさせることにする。
下手の考え休むに似たり、なんて諺があるが。
休むのは、いいかげんもう十分だろう。
着替えを済ませて居間に到着すると、そこには既にセイバーと遠坂がいた。
いや、居たというより片方は卓袱台に突っ伏して死んでいた。それでもこちらの気配に気がついたのか、顔も上げず遠坂は片手を挙げて力なく振る。
そんな遠坂とは対称的に、綺麗な正座のまま「おはようございますシロウ」と挨拶をくれたセイバーに、
「おはようセイバー。……ごめんな、一晩中セイバー一人に見張りを任せちまって」
「いいえ。夜通しの警戒となれば、睡眠を必要としない私が適任です。シロウと凛には、十分に休んでもらわなければ困ります」
そう言って、疲労の色を微塵も見せずにセイバーは微笑んだ。とはいえいくら肉体的に問題は無くても、少しは眠って心の方を休ませた方がいいことに違いは無い。
それでも、セイバーがいてくれることで安心して休めたことはありがたかった。
「ああ、おかげさまでしっかり休ませてもらった。遠坂は――」
「…………」
返事はない。やはりただの屍のようだ。
いや、よく耳を澄ませてみれば、時折「あ゛〜〜」だの「う゛〜」だのといった呻き声が微かに聞こえてくる。
「酷いな、こりゃ。そもそも、俺より先に遠坂が起きていたことが驚きなんだが。――どのくらいこんな状態なんだ? 」
「まだ、ほんの五分ほどでしょうか。この様子だと、後十分はこのままかと」
「……だな。それじゃその間に、紅茶でも淹れてくるか。飲むだろ? 遠坂」
「ん゛ん゛〜〜」
いよいよ呻きは獣の唸り声じみてきた。それを「お願い」だと解釈して、お湯を沸かすためにキッチンへと向かう。
本来なら軽い朝食でも作りたいところだが、生憎と材料が無い。本当に、見事なくらい何も無い。昨日のごたごたで買い込んだ食糧は道端に放置したまま、回収する事なんてまるで頭になかった。
「こりゃ、一度外に出ないとだめか」
茶請けの一つも無いが、それでも紅茶だけは入れようとやかんを火にかける。と、
「シロウ」
背後から声をかけられて、振り向く。そこに居たのはセイバーだ。
その表情が、少しだけ硬い。……何かあったのか?
「どうしたんだ? セイバー」
「はい。凛が完全に目覚めるのを待ってから、とも思ったのですが、やはりすこしでも早く報告をした方が良いでしょう」
そういうとセイバーは、
「……昨夜、新都で再び昏睡事件があったということです」
「――!」
「死者は出ていない、とのことですが、被害にあった人数が前回の比ではありません。これは――」
「……あいつの仕業、か」
こちらを嘲笑う女の顔が、一瞬で浮ぶ。他者から魔力を奪うとしたら、『セイバー』ではなくヤツの方だろう。再度の襲撃を警戒して昨日はセイバーに寝ずの番をしてもらっていたが、アサシンはここに至ってなお魔力を求めて行動したらしい。
だけど。
「それだけの魔力を集めて、何をしようってんだ、あいつらは。俺達に対する備えってだけか? 」
「わかりません。ですが十分に注意する必要があります。『セイバー』は勿論――正直、あのアサシンは未だに得体が知れない。どんな奇策を弄してくるかわかりません」
「……ああ」
セイバーの忠告に頷いて、何となくやかんを熱する火に目を向ける。
その時――――ふと、頭の片隅に引っかかるものがあった。
いきなり振り返った俺の視線に違和感を感じたのか、セイバーは「シロウ? 」と小首を傾げた。
「なあ、セイバー。昨日のことなんだが、セイバーはいつアサシンが霧子ちゃんに化けてるって気がついた? 」
「? アサシンがシロウを攻撃する直前です。……もっと早くに気がついていれば、みすみすエリシールの身柄を奪われる事はなかったかもしれませんが――――」
「いや、それを言うなら、そもそも俺は殴られてもまだ気がつかなかったわけだからな。それに『セイバー』の相手をしてたんだから、そんな余裕もなかったろ」
悔しそうに俯くセイバーに、そんな慰めの言葉をかける。
どうにもセイバーは、最近内罰的になっているようだった。いや、最近というよりは、初めて『セイバー』と剣を交わし結果として遠坂が大怪我を負ったあの夜から、か。
「だから勿論、セイバーを責めてるわけじゃない。ただ、ちょっと確認がしたかっただけだ」
「確認、ですか」
「ああ。つまりセイバーには――――アレがアサシンだって、霧子ちゃんの姿でもわかったんだな? 」
念を押すこちらの問いに、おずおずとセイバーは頷いた。
「はい。知っての通り私達には、他のサーヴァントの気配を察知することができます。……それを妨害するのがアサシン固有のスキルである“気配遮断”ですが」
そこまで言ってセイバーは、何かを確認するように目を閉じると、
「あのアサシンの変化は恐るべき能力ですが、昨日の襲撃を考えると、彼女の気配遮断は巧くない。アサシンが僅かにでも攻撃の意思を覗かせれば、確実に察知できるかと」
「そっか……だったらセイバー」
アサシンの変化は、セイバーの言うとおり恐るべき能力だ。その能力を用いて、もしもやつがセイバーの打倒を目論むとしたら。
やつが化ける対象は、恐らく二人しかいない。
「――――もしもあいつが俺や遠坂に化けてセイバーの前に現れたとしても、問題は無いな? 」
最後のその確認に、セイバーは僅かに目を見開いた。
が、即座に強く頷き、頼もしき剣霊は断言する。
「――――はい。例えあのサーヴァントがシロウや凛を装おうと、決して遅れを取りません。そして真正面からの戦いであるのなら」
セイバーがアサシンに負けることはない。どうあっても、セイバーがアサシンに破れる道理は無いということだ。
その結論に、知らず溜息が漏れる。
「そっか、安心した。アサシンのあの能力がセイバーにとって問題じゃないんなら、それでいいんだ」
……これで状況が好転した、というわけではないけれど。
それでも、アサシンがセイバーの敵ではないという事実は、淀んだ心を少し軽くしてくれた。
「はい」と頷くセイバーの返事と共に、やかんが甲高い音を立てた。コンロのスイッチに手を伸ばし、火を消す。
火が消えると同時に、「しかし」とセイバーが呟いた。茶葉を取り出すために戸棚をあけると。
「――――あのアサシンの襲撃がもう半日早ければ、その限りではありませんでしたが。もしもシロウが目覚める前に、彼女がアーチャーとしてこの家に侵入を果たしていたなら、私も危なかった」
――――ほんの一瞬、呼吸が止まった。
「……アーチャーとして?って――――」
それは、同じサーヴァントであるアーチャーとしてならば、あるいはあのアサシンはセイバーまでも欺くことができたかもしれないということか。
不意に、霧子ちゃんの一言を思い出す。いや、思えばあの時既にアサシンは彼女と入れ替わっていたのだ。ならばあの商店街からの帰り道、あの言葉を呟いたのはアサシンだ。
――――アーチャーさんの、ことなんですけど。
――――その、アーチャーさんがまだ残っているってことは……無いんですか?
あれは、確認だったのか? アーチャーが本当に消滅したのかどうか、ではなく、俺がアーチャーの消滅を確信しているのかどうかという。
……もしも俺が、アーチャーの消滅を確信していなければ、アサシンはこちらを暗殺するための手札を一枚増やしたというのか。
「最も、アサシンの能力が他のサーヴァントにすら化けられるほどのものであれば、ですが。いずれにせよもう、意味のない仮定の話です」
「……そうだな。もう残っているのはアサシン以外じゃ『セイバー』だけだ。仮にあいつが『セイバー』に化けたって、何の意味もないだろうし」
アサシンの能力の脅威は、これ以上考えても意味がない。残るサーヴァントは、アサシンを除けば敵である『セイバー』だけ。
だからこそ俺達は三人だけで、やつらを倒さなくてはいけないのだ――――。
紅茶を飲んで待つこと五分、ようやく遠坂が復活を果たした。時刻は十時の少し前、日が落ちるまで、勿論まだまだ時間はある。
決戦前だというのに暢気だとも思うが、とりあえずは二人に外食を兼ねた買出しを提案してみることにした。食材は何もないし、いいかげんに空腹も辛くなってきた所だ。
今日一日、単独で行動する事は避けたほうが良いだろう、と付け加えると。
「……そうね。私も家に用事があるからどっちみち外出しなくちゃいけなかったし、いいんじゃない? 」
特に悩むわけでもなく、遠坂はさらりとそう言った。セイバーは――――聞くまでもなかったか。何処となく目が獣チックになっていらっしゃる。
「じゃ、行くか……ところで遠坂。用事ってなにさ? 」
「こっちの工房に置いていった宝石を取りに行きたいのよ。 ……今夜はいくらあっても足りなさそうだしね」
「赤字だわ……」と世界の終末を迎えたような声で言って、遠坂は頭を抱えた。うん、まあ、なんというか――――頼りにしてるぞ、遠坂。
そんなやりとりをしつつ遠坂とセイバーと共に連れ立って、外に出る。見上げれば、そこにあったのは雲ひとつない晴天の空だった。この分だと、今夜の満月はよく見えそうだ。
商店街へと向けほんの少し歩みを進めると、昨日買い物袋を放り出した辺りに差し掛かった。色々あって回収することを忘れていたのだが、辺りを見渡してみてもそれらしきものは影も形もなかった。誰かが片付けてくれたのかと考えて、申し訳ない気持ちになる。
平日の日中、辺りに人気はない。
そんな中、隣を歩く遠坂が、
「……士郎、調子はどう? 」
そんな事を、探るような目で聞いてきた。見ればセイバーもこっちに視線を向けている。
「身体の方は、問題ない。遠坂のおかげだな」
「そう……で、魔力の方はどうなの? 」
「……結界は、無理だ。展開しても、今の魔力じゃ十秒も維持できないと思う。投影だけに回した方が、効率はずっといい」
万全ではない、というこちらの告白に、けれど遠坂は「そう」とあっさり頷いた。一度魔力が空になると、その回復は遅い。元々遠坂は俺の答えを予想していたのかもしれない。
現状、こちらの手に残っているカードを遠坂に伝え、
「遠坂、正直な話、何か策はあるのか? 俺もあれこれ考えてみたけど、結局思いついたのは俺の知る限り最強の剣を投影して、何とかアサシンを倒すしかないってことだけだ」
策とは呼べない、力押し。しかしこの力押しには当然穴がある。
一つはあの剣を――――セイバーのエクスカリバーはそもそも投影する事が困難だということだ。結界なしの純粋な投影で、どれだけあの剣を再現できるのか。いままで何度か試す機会はあったが、半年前の事件で投影した時ですら、その再現率は五割に満たない紛い物だった。あの剣は会心の出来だったにもかかわらず、だ。
そしてもう一つは、俺が真名を解放する剣で、本当にアサシンを倒しきれるのかということだ。先刻もセイバーが言っていた様に、あのアサシンは未だ底が知れない。もしもやつに何らかの方法でこちらの投影を凌ぎきられたら、その時点で俺は何も出来なくなる。セイバーの剣なんてものを投影すれば、こちらの余力は当然ゼロだ。
暗澹たる想像に、思わず溜息が漏れる。けれどそんな俺を見て、遠坂は少しだけ表情を柔らかくした。
「そうね。まあ正直、策なんて上等なものじゃない、ただの賭けだけど」
遠坂は人差し指を立て、
「セイバーの剣を投影する――――私の意見も同じよ。けれどそれを振るうのはアサシン相手にじゃない。『セイバー』によ。あいつさえ何とかできれば、残るアサシンはセイバーの地力で何とかなる」
「は……? いやまってくれ遠坂。『セイバー』にはあの
「でしょうね。だから剣を振るうのは士郎だけじゃない。あなたもよ、セイバー」
「……私、も? 」
目を見開いて問いかけるセイバーに、遠坂は頷いた。
「士郎が投影する時間は、私と貴女で稼ぐ。
「…………」
そして遠坂は真っ直ぐに前を向いた。その眼差しは、あまりに強く、鋭い。
――――数多の刀剣を生み出したこの国において、間違いなく最上に位置するだろう、武神の担いし神代の剣。
神器と呼ばれ、信仰の対象ですらあるだろうその幻想を――――
「言ったとおり、これは賭けよ。士郎の投影とセイバーの剣。この二本を同時にぶつけて、真っ向勝負であいつの宝具を破る。
私達が勝つには、それしかないわ」
――――捻じ伏せるより他に道はないのだと、遠坂は、そう告げた。
――――そして宵の帳が落ち、やがて空に真円の月が浮ぶ。
降り注ぐ月光は、まるで舞台を照らすスポットライトのように煌々としている。
……これで、幕が開いた。
全てに決着をつける最終幕はすぐそこだ。
「…………」
遠坂とセイバー、二人と連れ立って家を出る。最後に一度だけ振り返ると、静寂が誰もいなくなった家の中を満たしていた。
――――今夜を無事に越えたなら、果たしてここに帰ってくることができるのか。俺達だけじゃなく、皆で、この衛宮の家に。
「――――士郎」
「ああ悪い、今行く」
その瞬間、全ての感傷を断ち切り、降り注ぐ月光へと身を浸す。
周囲は、ひっそりと静まりかえっていた。居並ぶ家々から漏れ出す灯りが、夜道を照らしている。……まるで今夜不吉な何かが起こることを知っているかのように、誰もが月の下に出る事を恐れているようだった。
向かう先は、円蔵山柳洞寺。正確には、その地下か。
冬木最大の霊脈であり、前回の聖杯戦争の決戦となったその場所こそが遠坂がエリスから聞き出した、大聖杯の存在する場所らしい。
「――――士郎、これつけておきなさい」
「……?」
歩を進めていると、急に遠坂はそういって右手を差し出してきた。
その掌に乗っているのは、やや大きめの宝石に、細い銀の鎖がついたネックレス。女性がつけるには少々無骨なそれは、しかしよく見れば丹念に研磨され、中々の魔力の込められた代物だった。
月の光に照らされて輝くその宝石は、
「……アミュレット? 遠坂、これ」
「アサシンの魅了対策よ。これでどこまで凌げるかわからないけど、何もないよりましでしょ? 」
そう言うと遠坂は、左手を首筋へともっていった。
「私も、ね」
その指先が摘まんだのは、首にかけられている銀鎖の光。遠坂邸に残してあったという宝石を回収し
「サンキュ、遠坂。助かる」
そう礼を言って、受け取ったアミュレットを月の光にかざす。ぼんやりと宝石自体が発光しているのではないかと錯覚させるその輝きは、何処までも澄んでいた。
とても急ごしらえとは思えない、上等な代物だった。抗魔術が弱い俺には、ありがたい。
「……で、セイバーにはこれ」
続けてスカートのポケットに手を突っ込んだ遠坂は、それを引き抜くなりセイバーに差し出した。ゆっくりと掌が開かれ姿を覗かせたのは――――小指の先ほどの大きさの、数粒の宝石である。
俺が受け取った物と違い、鎖などはついてない。宝石自体には何か加工がされてるようだが、それがなんなのかは一見しただけでは不明だった。どうやら魔力はしっかりと込められているようだが、
「凛、これは? 」
差し出されたセイバーも、少し途惑ったように小首を傾げた。馬鹿げた強さの対魔力を持つセイバーに、今更アミュレットもないだろう。
ならこれは。
「ええ。多少弄ってあるけど、ただの宝石よ。悪いけどそのまま飲んでおいて。今日の貴女には、いくら魔力があったって足りないだろうから、ね。パスが通っているとはいえ、私が持っているよりセイバーが直接飲み込んでくれた方が色々と効率がいいから 」
そう言って、遠坂は小さく苦笑いを浮かべた。その苦笑の意味はわかる。宝石に込められた魔力は俺が渡されたアミュレットと同じ、結構な量の魔力を内包しているものの、それでもあの武神相手に挑まねばならないセイバーにとってどれほど助けとなるものか――――その効果を、遠坂自身疑問に思っているに違いない。
例えるならそれは、大型車の前に差し出されたコップ一杯のガソリンだ。ほんの少しエンジンを廻して前に進めば、容易く燃え尽きてしまう予備の燃料。
けれど、その少しが時として生死と勝敗を分けることを――――セイバーは勿論知っていた。
「――――ありがとうございます。凛」
宝石を受け取ったセイバーはその一粒を摘まむと、それを口元へと運んだ。ころり、と宝石が歯に当たる小さな音が、こちらにも聞こえてくる。
「……ん」
顎を小さくあげて宝石を飲み下したセイバーは、次の瞬間掌を口元へと運び、逡巡も見せずに残りの宝石を全て口の中へと放り込んだ。ほっそりとした喉を無骨な宝石が通り抜けていく音が、ごくりと大きく響く。
「――――ふう」
吐息をついて、セイバーは小さく胸元を叩いた。全く見事な飲みっぷりである。
その様子を確認した遠坂は、小さく頷くと。
「それじゃもう一度確認するわよ。『セイバー』とアサシンに遭遇したら、士郎はとにかく投影に集中すること。今回の勝敗の鍵は、貴方の投影の出来にかかっているといっても過言じゃない。『セイバー』はセイバーが、アサシンは私が抑えておくから、士郎は何があっても投影だけに専念してちょうだい。――――何があっても、よ。いいわね? 」
「……ああ」
強く念を押す遠坂に頷いて、手にしたままだったアミュレットを首にかける。胸元を開いて宝石を落とし込むと、満足したように遠坂はもう一度頷いた。
「セイバー、貴方は『セイバー』を抑える事に集中してちょうだい。投影を終えた士郎が合図をしたら、射線上から離脱。士郎の投影の出来が十分なら、あいつは絶対に宝具を使わざるを得ない――――その間に、貴女も剣を解放して『セイバー』を追撃する。
……あの怪物を倒したら、次はアサシンよ。連戦になるけど、いけるわね? 」
「了解しました、凛。この剣に賭けて、必ず」
やるべきこと。やらなければならないこと。必ず成し遂げなければならないことを、改めて胸の奥に刻む。
……段取りは決まっている。後はそれを、実行に移すだけ。
終劇の舞台へと向けて、俺達は歩みを再開した。
――――最後に一つ、聞いておかなければならないことがあった。
「そういえば遠坂」
「何? 」
「大聖杯やアンリマユの情報、その見返りにエリスが要求したモノって何だったんだ? 今まで聞きそびれてたけど、エリスのことだからよっぽどのものを要求してきたんじゃないのか? 」
「…………」
「――――? 遠坂?」
「……大したものじゃないわ。ううん、やっぱり等価交換の原則から言えば、大変なことかしら、ね。
本当に、馬鹿馬鹿しい話よ。魔術師の風上におけない、馬鹿みたいな依頼」
「…………」
「……士郎、貴方も気がついていると思うけど、エリシールはもう長く持たないわ。元々ホムンクルスとして不安定なのに、聖杯として調整されたあの子の身体は、もうボロボロだった。正直今この瞬間にだって、活動が止まってもおかしくない」
「……ああ。アインツベルンの城から家まで、エリスをずっと抱えてきたからな。けど――――俺の勘違いだと、そう思い込もうとしてた」
「……エリシールが情報の見返りに要求してきたのは、自分が居なくなった後、私達が吾妻さんの後見人になることよ。
『キリコはもう捨てるから、拾ってちょうだい』――――ってことらしいわ」
「……飲んだのか、遠坂。その要求を」
「ええ。――――ただし条件付きだけど、ね。こっちはただでさえへっぽこな弟子を一人前にするのに忙しいんだから。人一人の面倒を見るなんて、易々と引き受けるわけにはいかないでしょう」
「条件、って」
「――――限界までエリシールには生きてもらう。他人の――まして他の魔術師の生き死にに口を出すつもりはないけど、今回だけは話が別よ。
いざとなったら時計塔の錬金科に引っ張っていってでも長生きさせて、吾妻さんの面倒はエリシール自身に見てもらうわ」
「……そっか。そうだよな」
いつかは終わってしまう時間だって、それを少しでも長いものにするために、俺達にはまだできることがある。
けれど、それをするためには今夜を無事に乗り越えなければならないのだ。
だから。
「――――勝とうな、遠坂。絶対に」
「当然」
月に淡い願いをかけ。
この話は一先ず、これで終わりだ。
夜の柳洞寺には、日の光の下では感じる事のできない威圧感がある。月の下、御山は本来の神聖さに磨きをかけ、同時にこの場に渦巻く魔力が、生温い風と共にこちらの身体を打つ。
冬木最大の霊脈である、円蔵山柳洞寺。
エリスの話では、この地で行われる聖杯戦争の大元がこの地下に眠っているらしい――――のだが。
「こっちよ。士郎、セイバー」
そう言って、遠坂は階段から離れて暗い森の中へと入っていった。
遠坂の後姿を追いかけて、木々を掻き分け進みながら、
「セイバー、結界の影響は大丈夫か? 」
「多少身体が重くなったような感じは受けますが、問題はありません。何より、それは敵も同じ事でしょう」
柳洞寺に張り巡らされた結界の影響。その彼我の条件は同じだと口元を結び、
「それにこの地は私達サーヴァントにとって、魔力を回復するには最適の場所です。大気中の魔力を吸い上げれば、多少の無茶をしても大丈夫でしょう」
最も。
その条件もまた、相手と同じことなのである。
それきりもう話すこともなくなり、黙々と木々の間を縫って前に進んでいく。
月の光の恩恵で、夜の森だというのに視界はそれほど悪くはない。とはいえ獣道さえない悪路である。足元には十分注意して進む必要があった。
やがて、絶壁じみた岩肌を降り、少し進んだ所で、
「……さて、エリシールの話じゃ、地下への入り口はこの辺りのはずなんだけど」
立ち止まった遠坂が、辺りをぐるりと見渡した。それに倣うようにして、セイバーも視線をあちらこちらにさ迷わせている。
……地下への入り口と言っても、地面にぽっかりと穴が開いているわけでもないだろう。
しかし一見した限り、怪しいものは見当たらない。目に付くものといえばむき出しになった無骨な岩肌と、せいぜいがちろちろと流れる小川くらい――――
「……川? 」
待て。
この水は一体、何処から湧いてきてるんだ。
穏やかな水の流れを、視線で辿っていくと、
「遠坂、セイバー。あれ見てくれ」
小川の先、岩の固まった場所を指で指す。
「ほら、あそこ。ここからだと良く見えないけど、あれ、横穴になってないか? 」
「……横穴? 」
「――――確かに。どうやら天然の洞窟のようですが」
三人で頷きあい、小川へと降りていく。
流れの源では、幾つもの岩が重なり合い、そこに人一人がようやく通れるくらいの亀裂のような隙間がある。
見れば、入って直ぐの所に岩壁が立ち塞がり、行き止まりに見えるのだが、
「どう? セイバー」
「――――どうやら、ここが入り口に間違いないようです。この岩は魔術による幻影です」
差し出されたセイバーの手が岩肌に触れた瞬間、するりと通り抜けた。
一度手を引き戻したセイバーは、
「私が先行します。殿は、シロウが」
「ああ」
先に岩の中へと飛び込んだセイバーの言葉に従い、次に遠坂、その背中を追ってこちらも幻影を通過する。
そこにあったのは、ただひたすらの闇だった。
水に濡れた地面に手をつきながら、慎重に前へと進む。地面は急角度で下へと傾いていた。周囲は暗い。月の光に慣れすぎたのか、先を行っているはずの遠坂の姿が見えないほどだった。
「…………」
坂になった傾斜に手と背中をつきながら、ゆっくりと降っていく。このままこの坂道が、地獄まで続いているといわれても納得してしまいそうだ。
時折聞こえてくる息遣いが、辛うじてこの闇の中で自分は独りじゃないのだと教えてくれた。
降りる。降りる。降りる。降りる。
そうしてやがて、体感で百メートル以上は下ったか、と感じた時、
「……っと」
永遠に続くと思われた降下が、そこで終わった。視線をあげると、そこにはセイバーと遠坂がいる。その後ろには――――奥へと続く通路がある。
光がなくとも、二人の姿を視認することができた。周囲の壁自体がぼんやりと光っているのだ。いや、よく見れば光っているのは壁そのものではなく――――壁を覆っているのは、光苔の一種だろうか?
「…………」
頬を撫でる感触に、思わず顔をしかめる。口の中が、不快な味で満たされる。通路の先から生温い空気と共に流れてくるのは、生々しい雰囲気を伴った濃密な魔力である。そこには確かに、生命の息吹のようなものが存在した。しかしそれは決して祝福されるべきものではなく、臓物を目の前に突きつけられているような錯覚を覚える。
「――――行きましょう」
余分な会話は必要なかった。遠坂のその号令で、セイバーがゆっくりと歩みを開始した。ここは既に死地なのだ。慎重に進まないといけない。
周囲に気を配りながら、頭の片隅にアサシンの顔を思い描く。こんな狭い場所で襲撃してくるとも思えないが、あのアサシンに限っては予想もつかない行動をとってくる可能性を否定できない。まさか、そこら辺の岩にまで変化できるとは考えたくはないけれど。
「…………?」
一瞬たりとも気の抜けない前進を続けていると、唐突に前を行くセイバーの歩みが止まった。当然、後ろにつく俺と遠坂の足も止まる。
何かあったのかと、セイバーの背中に声をかけようと口を開きかけると、
「……注意してください。シロウ、凛」
振り返ることもなく、固い声でセイバーは、
「――――この先に、
「…………」
誰が、とも何が、とも問いかける必要はなかった。
セイバーの小さな身体から、今や視認できそうなほど強い剣気が吹き出していた。ならば当然――――この先に居るのは、あの男以外にありえない。
生温い風を突っ切り、通路を抜けた。そこに広がっていたのは、地下とは思えないほどの広大な空間だった。広さは、学校の校庭に近いかもしれない。
高い天井に覆われた、地下にぽっかりと存在するドーム。
生命の気配を感じられない、その荒野の中央に、
「『セイバー』……!」
“武”の体現者が、無音で、直立していた。
「…………来たか」
固く閉じられていた男の眼が、ゆっくりと開いていく。濁った瞳で俺と遠坂を確認した『セイバー』は、最後にその視線をセイバーに固定した。ただの魔術師にすぎない俺と遠坂など、気にする必要もないといった様子だ。
吐き気を催すような鬼気に、自然と奥歯を噛み締めていることに気がつく。
…………やるべきことは、わかっている。
やつと対峙したら、俺は即座に投影に入る。それが、前もって決めていた俺の役割だ。
しかし、
「……セイバー、アサシンの気配は」
その前にまず、アサシンの姿を確認しなければならない。投影を開始した瞬間、あいつに後ろから刺されたのでは役割など果たせるはずもない。
ぼんやりと聖剣の輪郭をイメージしつつ、周囲に視線を走らせる。そのイメージを具体化するのは、アサシンの姿を確認し、遠坂とセイバーが交戦に入った後でなくてはならない。
視線を『セイバー』に固定したままセイバーは、
「……いえ。感じる事ができません。恐らく未だ、息を殺してこちらの様子を窺っているとしか――――」
僅かな焦りを声に滲ませ、そう言った。セイバーもまた、アサシンを知覚できなければ『セイバー』に専心することができないのだ。
……岩陰にでも潜んでいるのか? アサシンの能力がすでに割れている以上、何かに化けてこちらに近づいてくるとも思えないが、あるいは――――やつが本当に、その辺の岩のような無機物にすら化けられるとしたなら?
「……く」
答えは出ない。とはいえ、このまま『セイバー』との睨みあいを永遠に続けるわけにもいかない。
自然体で佇む『セイバー』の姿が、こちらの焦りを誘発する。いかにヤツが相手でも、そう容易くセイバーは負けない。しかしこのまま戦闘に入り、いつ姿を現すとも知れないアサシンにかまけて投影を遅らせれば、それは致命的な判断ミスになりかねない。
頼りはセイバーのサーヴァントを察知する感覚だったが、未だ意識に引っかかる気配はないらしい。
どうする。
投影だけに専念しろ。そう言った遠坂の言葉に従って、『セイバー』が仕掛けてきたら即座に投影に入るか?
それともいっそ、数秒に全てを賭けて結界を――――
「……余計な事をするな、衛宮士郎。僅かにでも戦闘行動をとったなら、私はこの場でそなたも捻じ伏せなければならぬ」
まるで心を読んでいるかのように迷いのない声で、
「そして警戒は無意味だ。ここにいるのは私一人。アサシンはこの場にいない」
唐突に『セイバー』はそう断じた。相変わらずか細い声だというのに、不思議と耳に残る声色である。
だから、聞き間違いでなどあるはずがない。
アサシンはこの場にいない、と。
確かに今、この男はそう言ったのだ。
「……どういうことだ、『セイバー』。だったらアサシンはどこにいるんだ」
「間桐桜とエリシール・フォン・アインツベルンの元だ。アサシンはこの先で聖杯の完成を――――『この世全ての悪』の出産を待っている」
視線はあくまでセイバーに固定したまま、『セイバー』は僅かにその身を横に引いた。
その先に、さらに奥へと続いているのだろう通路が見える。
セイバーから遠坂、そして俺へ。先ほどとは逆順にこちらを睥睨した『セイバー』は、
「そなた達は先に進め、衛宮士郎、遠坂凛。私の役割は騎士王を討ち果たすことのみだ」
――――反論は許さぬとばかりに、そう命じてきた。
「……一体何を企んでるの? 『セイバー』。あんたの言葉が本当なら、貴方たちはわざわざ戦力を分散させたってわけ? それもその言い振りじゃまるで、私と士郎には手を出さずに素通りさせるように聞こえるんだけど? 」
「…………」
「答える気がないなら、まあいいわ。どっちみち、こっちがあんたたちの思惑に乗ってやる義理はないもの」
そう言って遠坂は、いつの間にか取り出していた宝石を握り締めた。
遠坂の言ってることは、正しい。『セイバー』の言葉が本当で、アサシンがこの場にいないというのなら、これは俺達にとって『セイバー』を打倒するための千載一遇の好機だ。
セイバーは『セイバー』に専心し、俺は投影に専念し、アサシンにあたるはずだった遠坂がこちらのフォローに廻ってくれるなら、勝率は大きく上がる。恐らくは、この武神に対して望みようがないほどに。
……勝てる。
この最強を打倒し、その後アサシンを倒せば、桜とエリスを助け出すことができる。
「……セット」
腹が据わった。覚悟が決まった。後は頭の中のイメージを、何処までも強く深く鮮明にオリジナルに近づけていくだけだ。
こちらの魔力の高まりを感じたのだろう。僅かに身を沈め戦闘の準備に入ったセイバーを前にして『セイバー』は――――
「……よせ、と言ったはずだ衛宮士郎。ここでそなた達三人が私に向かってくるのなら、『この世全ての悪』の生誕は不可避となる。 それは――――そなた達にとっての敗北ではないのか? 」
――――こちらの集中を根こそぎ刈り取るような
「……何を、言ってやがる……!逆だろう、それをさせないために俺達は――――!」
「……アサシンがこの場にいない意味を、理解していないようだな衛宮士郎」
淡々と。
死の運命を告げる死神のように、『セイバー』は言葉を紡いでいく。
「私と騎士王、どちらが倒れても聖杯は完成する。どちらが倒れても、だ。仮にこの場で倒れるサーヴァントが私であったとして――――それでも、聖杯は完成の要件を満たす。その時点で、アサシンが何を成すと思っている。私を倒したそなた達がこの場から大聖杯の元へと駆けつけるまで、あの女が無為に待っているとでも? 」
「そ……れは」
『セイバー』の言葉にうっすらと目を細めた遠坂が、
「……聖杯が完成した時点で、
「騎士王にアサシンの首を刎ねさせ、
――――確かに、間桐桜は本能的に
故に、と呟いて。
一切の感情が取り除かれた、濁った昆虫のような瞳を『セイバー』は遠坂に向けた。
「遠坂凛、そなたの打算もあながち的外れではない――――
「桜のままでって……どういう意味よ、それ」
「…………」
刹那瞑目し、再びセイバーを見据えた『セイバー』は、
「聖杯が完成した時点で、アサシンは間桐桜の肉体を自らの物とする。それが、アサシンがこの場にいない理由だ」
「――――な!」
「より正確に言うなら、やつは自らの魂を間桐桜の肉体に移し替える心算だ。それが成ればアサシンは、嬉々として
……人間の精神では耐えられぬ出産も、中身が英霊であるのなら話は別だ。間桐桜の肉体を得て、
「……桜には、未使用の令呪が残っているのではないか? それがあれば、アサシンに肉体を奪われるようなことは――――」
「アサシンはあらゆる甘言を弄して間桐桜を篭絡している。マスター自身がそれを望んでいるのなら……望まされているのなら、令呪に意味などない」
呻くようなセイバーの呟きは、力なく『セイバー』に遮られる。
次いで、『セイバー』の話の穴を探ろうとしたのは遠坂だ。
「魂を別の肉体に移し替えるなんて大魔術、キャスターでもないアサシンにできるっていうの? それもこんな場所で、そんな短い時間に」
「できるかできないか。それは知らぬ。しかしやろうとしている事は事実だ、遠坂凛。そのためにアサシンが昨夜行った“準備”を、そなた達も耳にしているのではないか? 」
「……準備? 」
ほんの一瞬、意識を『セイバー』から外した遠坂は、ぎりと奥歯を噛み締めた。
「……新都の集団昏睡事件! まさかあれで集めた魔力は」
「魂を移し替える儀式のためのものだ。……何より今のアサシンの手元には黄金の聖杯がある。儀式の方法さえ知っていれば、聖杯がある以上成し遂げる事は容易い」
「……く」
まずい。
『セイバー』の話は――この話の流れは非常にまずい。
「……理解したか? 衛宮士郎、遠坂凛。ならば、もう一度言おう」
反論を封じられたセイバーも遠坂も、同じ結論に至らざるをえなかったに違いない。
『セイバー』の言葉が真実なら、俺達は――――
「私の役割は騎士王を討ち果たすことのみ。そなた達二人は先に進め。決して――――余計な事はするな」
――――真贋二本の聖剣で『セイバー』を打倒することは叶わず。
この武神の相手を、セイバー一人に押し付けざるをえなくなる。
「…………」
耳の痛くなるような刹那の沈黙が、重く身体に圧し掛かってくる。
『セイバー』の言っていることは簡単だ。つまり、セイバーだけがこの場に残って『セイバー』の相手をし、その決着がつく前に俺と遠坂だけでアサシンを倒すか――――あるいはセイバーが『セイバー』を打倒し俺達の元に駆けつけてくれるまで、アサシンを引き付けておくかだ。
さもなければ、アサシンは桜の肉体を乗っ取り、即座に
……『セイバー』があえて俺と遠坂を通すのは、一対一でセイバーと戦うためだろう。
最悪の状況だ。『セイバー』とアサシン、この二人が同時に襲い掛かってくるより遥かに。俺達三人で共に戦えるのなら、まだ対応策はあった。
その可能性を、アサシンと『セイバー』はこうして摘んできたのか。
勿論、『セイバー』の言葉が真実であるとは限らない。そもそも桜が、どんな甘言を囁かれれば身体を乗っ取られる事に賛成するっていうんだ。『セイバー』の言葉は、全て俺達を分断するためのハッタリかもしれない。
『セイバー』の言っている事は全てでたらめ。そう思うことはできる――――けれど。
黙り込んでしまったセイバーと遠坂の姿が。何より俺自身の直感が、
「…………」
この男の言葉に嘘はないのだと、そう告げている。
――――どうすればいい。
このまま『セイバー』の言うとおり、セイバーだけをここに残して行くしかないのか? 俺と遠坂の二人で、あのアサシンに勝てるのか。
何より、もし俺達がアサシンを倒せたとしても、この場に残るセイバーはどうなる――――
「――――行ってください。シロウ、凛」
それは、本当に静かな声だった。
一種の神聖さすら伴った響きだったといってもいい。どうしてこの状況でそんな声が出せるのか。その言葉が持つ意味そのものよりも、むしろそちらの方が気になるような済んだ声だった。
振り返る事もせず。
こちらに背を向けたまま、セイバーは穏やかな声で続ける。
「あの男の相手は私に任せて、二人はアサシンを――――聖杯を破壊し、桜とエリシールを救うために、行ってください」
「……ッッけどセイバー」
「貴方の言いたいことはわかります、シロウ。
――――そしてそれは、私にとって最大の侮辱だ。貴方は私を、何だと思っている」
強く。
どこまでも強く、自らを剣という少女は告げる。
「シロウ。貴方が意識を失った凛を私に託し、アーチャーと共に『セイバー』とキャスターの元に向かった時、私は止めませんでした。無論、アーチャーと彼の宝具を信頼していたためですが、私は何より、『勝つ』と言った貴方と、貴方の言葉を信じたのですシロウ」
「……セイバー」
ああ。
そうだ。確かにそうだった。
あの時もセイバーはこんな声で。
――――わかりました。シロウを信じて待っています。
無謀な戦いに挑む俺を、信じてくれたのではなかったか。
「――――だというのに、貴方は私を信じてはくれないのですか?」
……それはずるいだろう、セイバー。
そんな風に誓いを立てられたら。そんな顔で振り向かれたら。
「――――ああ。俺だって、そうだ。俺だって、セイバーのことを信じてる」
俺は、こう言うより他にないじゃないか。
肩越しに振り返ったまま微笑したセイバーは、
「ならばこの剣に賭けて誓いましょう。私は必ず、この男に勝つ。勝って必ず、シロウ達の元に駆けつけます」
ああ。
その誓いを信じる。剣に賭けた誓いを、絶対に破らないセイバーを信じている。
そして、そう信じているのは隣にいる遠坂も同じだろう。
「……セイバー、
握り締めていた宝石をスカートのポケットに戻し、遠坂はそう言った。
その顔に浮かべているのは、いつもの、遠坂が一番綺麗に見える自信に溢れた笑みだ。
「思えば
だから遠慮はいらない、と遠坂は繰り返す。
「証明してやりなさい、
「了解しました、マスター。……貴女に感謝を、凛」
それで、全員の意思が固まった。
『セイバー』に向き直ったセイバーが、
「そういうことだ、『セイバー』。……戦闘行動さえ取らなければ、貴公はシロウと凛に手を出さない。まずはその証明を貰おう」
「…………」
無言のまま地を蹴った『セイバー』の身体が、真横へと数メートル移動する。それだけの距離を一瞬で跳んだというのに、まるで紙飛行機が宙を舞うような軽やかな動きだった。
対してセイバーはゆっくりとした歩みで、『セイバー』が先刻まで直立していた場所へと進む。開かれたのは、先へと進む通路への直線だった。これで仮に『セイバー』が俺と遠坂を襲っても、より俺達に近いセイバーが割って入れるということなのだろう。
「行くわよ、士郎」
「ああ」
遠坂と二人、通路へと駆け出す。『セイバー』は既に、俺達のことなど意識の端からも排除しているようだった。その濁った黒瞳は、ただセイバーの姿のみを捉えていた。
走り、全ての雑念を振り払ったとそう思えた頃。
遠く背後から、鋼の軋む音が聞こえた気がした。