雑文
『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』全 12 話の感想。ななが望んだ「運命の舞台」は去年やったのをそっくりそのままにくりかえすこと。ひかりの望んだのもやっぱりなにかを変えないでおくこと。華恋が望んだのは九人でだれも脱落せずに公演をやること。悲しい結末はハッピーエンドへと書きかえられた。ななやひかりがだれかを悲しませたくないという思いから選んだ「運命の舞台」を、華恋はもっとべつのかたちで選びなおした。ななとひかりはみんなを守る代わりに自分を犠牲にした人だったが、華恋によってふたりとも救われた……ということだろうか。役者オーディションだと思われたものが気がついたら脚本コンペになっていたという感じだが……
『はねバド!』第 11 話と第 12 話を観て。才能とはなにかを定義すること。
第 11 話より。「健太郎くんて自分自身の考えかたは努力思考なのに、他人に対しては意外とそうでもないのね.。なぎさちゃんのことはちゃんと努力思考で見守ってあげてるのにね。綾乃ちゃんのこともちゃんとみてあげなきゃだめよ。はじめてラケットを握ったその瞬間から上手な子なんていない。努力と才能を線引きすることなんてできないはずよ」。第 12 話より。「思いつきでできるプレイじゃない。羽咲はすでにあのプレイを身につけていた」。「わたしは綾乃の才能をできるかぎりのばしてやりたいと思った」。
第 11 話ではこれまでのストーリーで描いてきたことを否定するようなセリフがでてくる。努力も才能もない。しかし、第 12 話ではやっぱり努力と才能の対立論へともどっている。綾乃を特別な才能の持ち主だととらえることはまちがっていたのか? 倉石が「思いつきでできるプレイじゃない」と評価するものを綾乃は小学生のころに実践することで有千夏を驚かせている。そのプレイは有千夏から教わったものではない。努力して手にいれたものではない。美也子がいうところの「ラケットを握ったその瞬間から上手な子」に綾乃はあてはまっている。
どうしてバドミントンをやるのかと問えば、「バドミントンが好きだから」という答えが返ってくる。有千夏もなぎさもそう答えるが、綾乃にとってそれは答えにならない。綾乃はバドミントンを好きでやってきた人間ではない。そのことが選手を努力タイプと才能タイプにわけている。努力することは「好きだから」という理由で自分で選びとれる。才能を得ることは好きかどうかにかかわらず自分で選びとれるものではない。なぎさも健太郎も好きで努力をしてきたが、綾乃は好きで才能を得たわけではない。それを遺伝と呼んでいいのかどうかはわからない。有千夏が才能ある選手だったから、それを受け継いで綾乃も才能ある選手になったのか。わからない。ただ、綾乃に才能がなければ有千夏が綾乃のもとを去ることはなかった。仮にそれが遺伝であるなら、綾乃は受け継ぐべきでないものを受け継いだ。仮にそれが遺伝であるなら、有千夏にも選択の余地はなかったのかもしれない。綾乃と有千夏の関係は女性同士の場合にしか描けないものかもしれない。それは親と子のあいだで受け渡される。たがいに拒否権のないままその受け渡しはおこなわれた。この作品ではそれを才能と呼ぶ。
宗教論。塗りかわるトーテミスム像。
ふたつのトーテミスム像を提示できる。トーテミスムは二層で構成される。それは担当するものと担当されるものの一対一な関係である。担当されるものについては無生物や非知性体でありうる。つまり、人間以外でありうる。もうひとつのパターンとして、トーテミスムは三層以上で構成される。それはやっぱり担当するものと担当されるものの二者関係で描かれる。ただし、ひとつの構成要素が担当するものと担当されるものを兼任することがある。それは構成要素が知性的存在であることを条件とする。
前者にあてはまってるのが『弱虫ペダル』で、後者にあてはまってるのが『スタミュ』。箱学ではその内部にふたつの層がある。福富荒北東堂新開泉田真波が現世代の位置にくるとき、葦木場黒田真波泉田銅橋悠人が次世代になる。『スタミュ』のほうではチームごとにみっつの層ができる。星谷たちが現世代の位置にくるとき、鳳たちが前世代になり、鳳たちが現世代の位置にくるとき、遥斗たちがさらににひとつまえの前世代になる。論文「ジャニーズファンの思考」では”担降り”という用語がでてくる。この論文ではアイドルとアイドルファンの関係を親と子の関係に似せたものであると説明づけている。子が成長して巣立つときがきたならば、親は”担降り”をし、つぎの新しい子と出会い、親子の関係をもう一度べつの相手とつくりなおす。ここでトーテミスムは二層構成であることが前提になっている。アイドルとアイドルファンでつくられる二層の上に親と子の二層がかさなるものと考えられている。
”担当する”とはどういう行為なのだろうか。それの意味するものがたんなる模倣や類似であるなら、トーテミスムから一対一の関係を抽出するのもまちがってはいないようにみえる。だが、継承の意味あいをみてとるならこれは不自然な解釈だ。
宗教論。つづき。結論になってない結論。
アイドルとはトーテムである。そう説明することができる。わたしたちファンが”担当する”ということは、アイドルをトーテム視するということだといえる。ただ、トーテムってなに? といわれるとそれ以上にこまかいことはいえない。トーテムはトーテムだとしかいえない。アイドルをトーテム視するってことは自分と相手で擬似親子関係をつくることなの? っていわれるとそれは少しちがう。だが、まるきり見当はずれということもない。とにかく、アイドルはトーテムなのだとだけいえる。
『 Free! -Dive to the Future- 』第 10 話を観て考えこむ。
いわゆる多重志向性。遙がアルベルトに負けたと知った凛は、遙がこのさきも泳ぎつづけることができないかもしれない可能性を思い浮かべている。凛は遙のことを想像する。真琴は遙のことを想像する凛のことを想像する。第 10 話は真琴がひとつの決意をするエピソードになった。「世界をめざす競泳選手のサポートにつきたい」という。どちらかといえばいまさら感がある。それはとっくに済んだはなしだと思っていた。大学生編は最初からそこを始点にしていたのではなかったのだろうか。真琴は自分が選手をやる道からはずれてサポート役の道を選んだ。遙や凛が選手である道を選んだのと対照的に。教え子の倉本岬と夏目薫のふたりの対決をきっかけに、真琴はライバル関係の系譜としてさまざまな人物の顔と名前を思い浮かべる。それは真琴自身がそのポジションにはいないことをはっきりさせる。遙のライバルは凛であって真琴ではない。うーん……ってちょっと考えこんでしまうのは、わたしは真琴に選手でいてほしかったって思っているからなんだろう。いままでずっと真琴は遙のチームメイトであって大会とかにもいっしょに出場していて、マネージャーやコーチのようなサポートキャラではなかった。あくまで選手のはずだった。二期最終話で真琴は「自分は競泳の世界にはむいてないと思ったんだ。勝負の世界はおれにはむいてない」といった。大学生になって真琴が現役選手ではなくなるとわかったとき、残念な気持ちがあった。ただ、三期第 10 話であらためてそれが提示されると、(あ、やっぱり)というような、奇のてらいのない落としどころだとも受けとめられた。真琴は遙のライバルじゃない。そんなことは知ってたしわかっていることだった。第 10 話で描かれたのは真琴にとって自分が遙のライバルでないということがなにを意味するのかということ。ついでにいえば、三期第 1 話以降でなぜ総集編的な内容をやったのか、過去作で描いているはずのものをもう一度描いたのか、その答えが示されたともいえる。遙と郁弥の関係をもう一度描いたのも、宗介復帰の可能性がほのめかされているのも、真琴視点でみるとすべてがひとつにつながる。ライバルたちがライバルでありつづけられるようにという願いが真琴にその道を選ばせた。真琴は遙のふところにうまくはいりこめるけど、真琴がなりたいのは遙個人のためのトレーナーじゃない。むしろ、遙以外の選手のため。約束が破られてしまった郁弥や故障で断念せざるをえなくなった宗介のような、ライバルとしての関係が途切れてしまいかけた選手たちのことを真琴は思い浮かべている。それは凛が思い浮かべたものと似ている。二期第 9 話で遙が挫折しかけたこと。それによって遙と凛の関係は途切れるかもしれなかったこと。真琴と凛はことなる立場からおなじものをみている。凛は自分と自分のライバルとの関係がつづくことを、真琴は自分ではないライバルたちの関係がつづくことを想像している。
歌詞考察。まだやるのか。(個人的な)原点回帰で『ツキウタ。』シリーズ。
「ツキノウタ。」や「 DearDreamer, 」は夢なんだなという気づき。
『ツキウタ。』における歌詞のジャンル区分は比較的明確なわけられかたをする。『ツキウタ。』原作およびアニメの楽曲は、ソロ曲は乙女、デュエット曲はボーイズラブ、ユニット曲は夢に分類できる(例外はある)。テレビアニメ全 13 話でいうと、第 1 話から第 12 話までの使用曲はすべて乙女かボーイズラブだが、最終話の曲だけが夢になる。二次元アイドルにおけるユニット曲ってふつう一番最初にリリースするものな気がするけど、『ツキウタ。』では最後にきてる。
『ツキアニ』にくらべると『プロアニ』はもっと明確かもしれない。第 1 話から第 12 話までは作曲家がどんな経緯でその曲をつくることになったかがストーリー化されている。歌詞にとりこまれるのは基本的に作曲家にとって自分の周囲にいる人々(=ユニットメンバー=作中の登場人物)のことになるが、最終話のユニット越境曲はライブの観客(=作外の人物)へむけたものになる。
脈絡なく『おそ松さん』について語る。
結局、第 2 期最終話でなにがどうなったのか。六つ子たちはいつもどおりだったのだと思う。ギャグアニメとしての『おそ松さん』は回復された。直前の「桜」でそれが一度消失しかけたのを撤回するかたちで。ただ、おそ松だけはいつもどおりじゃなかった。おそ松は六つ子のリーダーという地位から降りた。でも、六つ子全体でいうとやっぱりいつもどおり。おそ松の変化は六つ子の存在そのものを変えなかった。リーダーおそ松という要素は六つ子のアイデンティティではなかった。じゃあ、なにが六つ子のアイデンティティなのか、なにを失えば六つ子は六つ子じゃなくなるのか、っていうと、それはまあよくわからない。「十四松の概念」みたいなはなしになる。とにかく、おそ松は変化した。それは F6 のほうのおそ松ことさわやかジャスティスがリーダーでありつづけたことと対比される。もしかしたら、リーダーではなくなったことでおそ松はアイデンティティを失ったのかもしれない。もうおそ松はおそ松じゃないのかもしれない。裏と表と、ホンモノとニセモノと、役を演じる顔と素の顔と、そういうものの区別をうやむやにしたまま最終話はおわった。さわやかジャスティスは裏も表もないというある種の理想をひきうけた。なぜなら、アイドルだから。通常松のほうのおそ松はホンモノの自分とニセモノの自分の狭間で揺れる混迷に落ちこんだ。なぜなら、現実の人間だから。
アイドルはファンに夢をみせるのが仕事(そうなのか?)。嘘をついてほしくないと思う。そのくせ、理想像を守りとおしてほしい、夢をみせてほしいとも思う。じゃあ、理想像を守るためにつく嘘はどうなのか。許せるのか許せないのか。そういうまわりこみをした結果。嘘をつかないまま夢をみせられるという夢をみている。
ゲーム『喧嘩番長 乙女』、吉良ルートのメモ。あるいは、友情ルートでは清々しいエンディングをむかえることができるのに、恋愛ルートがなあ……というわだかまりの残滓。
恋愛ルートと友情ルートの相違点。恋愛ルートだと希を守るために麟太郎が父親を殴るというシーンがあってから吉良兄弟は和解する。友情ルートでは和解したあとに麟太郎が父親を殴るシーンがくる。
吉良ルートのシナリオはひなこ、吉良麟太郎、吉良希の三人が中心的人物となって進行する。第一作目の友情ルートの主人公はまちがいなく麟太郎で、これは麟太郎の成長物語だといえる。しかし、恋愛ルートおよび続編の『完全無欠のマイハニー』までを含めるとどうだろうという違和感が。以下、ひなこのセリフ。「幸せになってね」→「ふたりで幸せになってください」→「僕が先輩を幸せにします」。鈴風時代→第一作目の恋愛ルート→続編の順番で変化していく。むしろ、これはひなこの成長物語だったのではないか。恋愛ルートにかぎると、ひなこが成長するかわりに麟太郎は成長するキャラじゃなくなる。
歌詞考察。まだやる。 8P (エイトピース)のユニットソングシリーズ、全十二曲について(試聴ができるページの URL → http://www.fwinc.co.jp/8p/?page_id=538 )。
十二の楽曲を四種類に分類する。よっつのジャンルにふりわける。
再分類する。歌詞にでてくる単語をひろう。
ここまでのまとめ。「僕」が主体的なかたちで歌詞にでてくる曲はボーイズラブ的な雰囲気を帯びる。「僕」が客体的だと乙女っぽくなる。前者はあらかじめ完成された物語を前提にするが、後者はその場で即席につくられた物語、あるいは、まだ構築の途上にある物語であるような印象の差がうまれる。「僕」という文字がない場合、その人物のプロフィールは不詳となり、これは人外キャラのまなざしなのではないかといったような深読みさせる傾向をもつ。「僕」が主体的なかたちででてくる場合、歌詞は双方向的なやりとりがおこなわれる描写をするものになりえるが、そうでない場合……特に「僕」が一個もでてこない場合、メッセージは一方的なものになる。
再々分類。例の用語をつかって。
performer と character が別人であるということはフィクションであるということで、その歌詞はジャンル別にいえばボーイズラブか乙女になる。ボーズラブと乙女のちがいは自己投影が促されるかどうかによる(べつにどっちでもいいとは思う。自己投影してもしなくても)。 performer と character が同一人物のとき、夢という第三のジャンルの可能性がやってくる。夢的なメッセージは乙女的人外メッセージとおなじくらい一方的で、二者間に壁のつくられている気配がどこかにあって、自由な自己投影をさせない。
たいていの歌詞はそういうつくりをしているし、たいていの物語はそれを狙いにしている。物語の登場人物がする体験は読者にとって自分とおきかえることのできるものである。つまり、自己投影や感情移入が可能で、普遍性がある。ボーイズラブや乙女ジャンルには普遍性がもたされるが、夢ジャンルにだけはそれがない。それはだれにでもある体験だとはいえない。
このユニットソングシリーズは三曲ずつ収録で Vol.1 〜 Vol.4 までの CD が発売されている。四枚の CD のなかで Vol.4 の収録曲だけが夢的な構造をもっている。この曲を歌っている人たちは声優という職業につくものであるということが、受け手がおぼえておくべき前提となる。 Vol.4 の楽曲にかぎって、歌い手はキャラクターを演じるのではなく、歌い手は歌い手のままで歌詞中に登場する。これは歌詞を分析すればわかるというものではない。歌詞に特徴づけがなされていることはわかる(四曲あるデュエットソングのうち、 Vol.4 収録曲の歌詞だけ異質につくられている。ほかのすべてのデュエットソングは登場人物の数がふたりだが、これだけ三人になっている)。だが、それが根拠になるとはいえない。この曲が夢的構造をしているということを判断するための根拠は、歌詞を読むだけではみつからなくて、完全に文脈に頼るものになっている。
歌詞考察。あとがき。これが推論モデルか……ってつぶやいてる。
歌詞考察。演習編。いくつか具体的な例をあげてみる。
まず、『スタミュ』から。ミュージカルの歌っていうのはセリフにおきかわるものなので、歌手が作詞家に歌詞を渡されて歌うものとは別種のものだと考えられる。その上で、『スタミュ』につかわれる楽曲は二種類にわけられる。 person と performer と character が同一人物の曲とそうではない曲。「星のストライド」は前者で、「 Caribbean Groove 」とか「沈黙のディアローグ」は後者。つぎ、『ツキウタ。』。ひとくちに卯月新といってもアイドルバージョンの卯月新と兎王国かどこかにいる別バージョンの卯月新がいる。それらを同一人物と考えていいのかどうかはここでは追求しない。つぎ、『ツキプロ。』。『ツキウタ。』とちがって person にあてはまる人物はユニットの一員であり、作中人物として登場する。 SOARA は三層が同一人物で一致するとみることのできる楽曲をつくるが、 SolidS などのほかのユニットはそうではないかもしれない。最後に、『涼宮ハルヒの憂鬱』。ミュージカル的な曲との対比的に、こちらはライブ的な曲となっている。つまり、歌手がつくられた歌詞を渡されて歌う曲。
具体例をあげてみた結果。 person と performer と character 、みっつの項目がすべて同一人物で一致するとはどういうことだろうか? 三層に三層がかさなって入れ子構造が示される。構造化することで関係性が増える。たとえば、 character としての星谷悠太と performer としての星谷悠太のあいだには統語的関係にあるパターンと範列的関係にあるパターンのふたつがある。
歌詞考察。演習編つづき。
入れ子構造にはならない。入れ子構造になるとするなら、 performer と character のあいだにふたつの関係性がなければならない。この場合にそれをみつけることはできない。キャラソンや主題歌や挿入歌ではないからできることなのかもしれない。演者が演者であるかぎり演じるものと演じられるものによって分割される。しかし、作品の受け手はふつうそんなふうに分割されない。受け手はなにも演じない。受け手がありのままであるように、送り手もまたありのままであるような様式がつくりだされた。
歌詞考察。畠中祐の 2nd Single 『真夏 BEAT 』がやばい。
夢小説ならぬ夢歌詞。いや、夢歌詞であること自体は珍しくないのだけど、いくつか前提がある。
この楽曲で歌われる歌詞の特徴的なところ。演じるという行為の上には「個人 (person) - 演者 (performer) - 登場人物あるいは役柄 (character) 」というみっつの層が存在する。『真夏 BEAT 』収録楽曲の歌詞はみっつの層が同一人物で一致するつくりになっている。いや、この点だけならやっぱり大騒ぎするほどのことじゃない。それは 1st Single 『 STAND UP 』の時点で達せられていたことだから。
『 STAND UP 』収録の「エール 〜旅立ちの歌〜」というタイトル。この曲の歌詞は大学時代の友人とのあいだにあったできごとをもとにして書かれているらしい。作詞をアーティスト本人がやっているわけではない。よって、「個人 (person) 」にもそれがあてはまるとみなすのは微妙にちがうかもしれないが、作詞家との協力のもとで書かれたというようにインタビューなどで語られているので、当面では一致すると考えることにする。歌詞上にあらわれる「僕」とはだれかというと畠中祐本人なのだという答えになる。「僕」という登場人物はこのエピソードの体験者として実在し、それはこの楽曲の歌い手と同一人物であり、「君」という登場人物も実在する。
1st Single が制作されたときの背景はそのように語られている。これは実話なのだと。ところが、 2nd Single になると正反対の発言がされていたりする。「こんな経験まったくない」。
ひとつの前提をおく。ふたつの Single は対の関係になっている。作中の登場人物のみで完結する(つまり、ボーイズラブ的な)構造。または、作品外の人間を作中人物とむすびつける(つまり、夢的な)構造。前者が『 STAND UP 』で、後者が『真夏 BEAT 』。
「僕」が畠中祐なのはわかった。でも、「君」ってだれだ?…… 2nd Single の収録曲三曲の歌詞を読みとく。三曲はひとまとまりにつながっている。テーマは「夏の一日」で、三曲あわせて朝から晩までを構成しているとのこと。一曲目で楽しい時間をすごし、二曲目で楽しい時間がおわってしまうさみしさを述懐し、三曲目でその楽しさが本物か偽物かわからない時間をすごす。楽しさの肯定肯定ときて、最後に楽しさの否定ないし疑問が呈される。二曲目まではなにごともないように順調に進行するが、三曲目で転換がなされる。なぜこの命題は全肯定されないのか。なぜ最後にひっくり返されるのか。そこをつきつめると「僕」と「君」の関係が浮かびあがってこないだろうか。「僕」にとっての楽しい時間が「君」にとっても楽しいものだとはかぎらない。「君」にとって楽しい時間が「僕」にとって楽しいかどうかわからない。一曲目と二曲目には「僕」と「君」は視点を共有できるという想定がある。共有できないなんて疑わせるものはなにもない。しかし、三曲目でそれは出現する。共有できたという確証をもつことが「僕」にはできない。
「こんな経験まったくない」だって? ああ、そうかもね、ない人もいるかもね……
もうひとつの前提をおく。この Single はキャラクターソングとして発表されたものではない。声優の歌う曲には二種類がある。大抵の声優はキャラソンしか歌わないが、アーティストデビューしてる声優はキャラソンとソロ名義の曲の二種類を歌う機会がある。声優の仕事っていろいろ。そして、人によって、ジャンルによって、楽しみかたもいろいろ。声優の発する声をキャラクターのものとしてきく人もいれば、声優その人の声として楽しむ人もいる。ただ、どんなジャンルだとしても、どんな作品形態だとしても(キャラソンとソロ名義楽曲だけでなく、ストレートプレイの作品、シチュエーション CD 、 BLCD 、ラジオ番組中やトークイベント中に「こういうセリフをいってください」というフリにこたえる場合など、なんでも)、声優が声をつかってなにかしらやってみせるときには台本が用意されている。たとえ、アドリブでセリフをいってみるとしても、そこで発されるのは頭のなかで書かれた台本上のセリフであり、そこに表現されるのは架空の人格だとふつうは受けとられる。特に、乙女ジャンルや夢ジャンルによくある甘い言葉をささやいてみるという趣向でやるとき、客をよろこばせようという意識があればあるほど、声優の人格と役柄としての人格に一致をみることはできないことが察せられてしまう……気がする。演技は演技でしかない。結局、つくりごとで、嘘なのかな、とか、無理してくれてるのかな、とか。そのことに興ざめを感じてしまうことがある……気がする。キャラクターの声としての声優の仕事を楽しんでいるときにはほとんど意識しないことが、声優本人の名前での仕事ではひっかかるものになってしまう。具体的な作品名と具体的なキャラクター名をもって架空の人格が演じられるときには気にしないが、それが由来不明の架空の人格であるとき、ぐっと不安感が増す。いわゆるファンサービスをするときにだけ即興でつくりあげられる人格というものがあって、声優やアイドルのような職種の人たちはそういう役柄をひきうけて演じている。
だから、この感情こそが『真夏 BEAT 』の歌詞群にこめられているもの。ほんとうに楽しいかこれ? と疑う目線をもってしまうこと。自分はお仕着せに相手をつきあわせているだけなのだろうか。それとも、つきあわされてきたのが自分か。よくわからなくなるときがある。なにかを我慢していないか、気づかないふりをしていないか。もしかしたら、自分は心底からそれを楽しめていないかも。心底から推しを推せるかどうか迷いを感じてしまう。だって、相手は現実を生きる人間なんだし。望みどおりにならなくて夢が壊されたっていうなら、現実の人間相手に夢みるほうがまちがってるだけだし。ここにあらわされているのはアイドルとか声優とか推しを追っかけてる人の視点。追っかけを自認する人間にとってこの歌詞に描かれているものは実体験であり、我こそは「個人 (person) 」であり「登場人物あるいは役柄 (character) 」であり、「 演者 (performer) 」をとりかえればそれでみっつの層は同一人物で一致する。
そういうわけで、逆ってことになる。「君」のほうが畠中祐になる、畠中祐を推している人間にとっては。でも、もし、やはり「僕」のほうが畠中祐で成立するとしたら……? もし、わたしがあなたを疑いの目でみていて、あなたもわたしを疑いの目でみているとするなら、「僕」と「君」は視点を共有できるということだ……
夢。現実にはありえないからこそいだく願望。夢はわたしたちファンの専売特許じゃない。わたしたちが推しに夢をみるように、推しもファンに対して夢をみている(……という夢をみている)。
以下、参考文献。
映画『聲の形』、観た。西宮か石田のどちらかがいなければなにも問題はなかった。いじめは起きなかったし、みんな仲良くやれてた。さて、いないほうがいいのは(=自殺すべきなのは)どちらか? 答えはどちらでもない。ふたりとも生きるべき。そういいたいんだろう制作者は。意図を読みとることはできる。でも、全然だめ。西宮がいない場合と石田がいない場合、そのふたつの If ストーリーが等価で交換可能なものだと制作者は考えているらしい。交換可能じゃないから。根本的なところで認識をまちがえているから大失敗してる作品。
『はねバド!』より。立花健太郎というキャラクター。
女子バドミントン部に所属する男性コーチ。多数の女性キャラクターのなかにひとりだけ男性がいる(一応、男子部員もほかにふたりいる)。黒一点といえばいいか。紅一点の性別逆転版。
第 2 話で立花はいう。「おれもタッパのあるほうだからわかる」「背が高い分体重があるから足腰鍛えないとシャトルは拾えない。おまえがいままで勝ってきたのはそういう努力をやってきたからだ」。第 7 話では「羽咲と芹ヶ谷は両極にいる。芹ヶ谷のような選手がどういう努力をしてきたか、おれもそっち側だったからよくわかる」という。このあたりで「才能」や「努力」というワードが見逃せなくなってきた。第 2 話での対決にいたる流れからして、綾乃は才能型でなぎさは努力型にわりふられている。立花が自身との類似性をみいだす相手としてなぎさと芹ヶ谷薫子がいる。立花も努力型にわりふられた選手のひとりだと推論できる。
才能と努力。スポーツものとしては定番的テーマ。最初、この物語は綾乃となぎさのふたりを主人公にしているようにみえた。才能型と努力型でひとりずつ。タイプのことなる選手がどうやって試合を勝ちあがっていくか、そういうストーリーを描くもののようにみえた。ちがう感じがしてきた。この作品で才能と努力はどちらが勝つか、競うべきものとして描かれていない。物語の中心にいるのは綾乃という才能型の選手であること。中心が中心であることをはっきりさせるために、その周辺に努力型の登場人物が配置されている。綾乃をこの物語の中心とするなら、立花は中心からもっとも遠い位置にいる人物だといえる。綾乃に対して立花は才能と努力の軸で対立し、男女の軸で対立し、生徒と指導者の軸で対立する。立花は基本的にはコーチという立場をとるが、場面によっては元選手の立場もとる。物語上の位置的に、綾乃とペアになる関係にある人物がいるとするならそれはなぎさではなく立花。一番端と一番端のもっとも遠い距離に綾乃と立花はいて、そのふたりの中間の位置になぎさがいる。綾乃となぎさは現役選手同士の立場で連帯できるが才能と努力の壁で対立する。なぎさと立花は努力型同士のために連帯できるが選手とコーチの立場の差で対立する。
映画『おおかみこどもの雨と雪』をみれば『サマーウォーズ』でなにをやりたかったのかわかるし、『バケモノの子』をみれば『おおかみこども』の花がどういう立ち位置にいる人物だったのかわかる。
映画『バケモノの子』観て。グレッグ・イーガンの小説のことを連想している。『ひとりっ子』収録の短編のこと。ヘレンにはふたりの親がいる。「ひとりっ子」に登場する人物と、「オラクル」に登場する人物。ヘレンからみて「ひとりっ子」の主人公は血のつながった親。「オラクル」の主人公はヘレンがこの世に誕生するために不可欠なものとかかわりがある、血はつながっていないが恩人のような存在。
映画『バケモノの子』感想、つづき。
人間とバケモノの対立。「一郎彦、きみはおれとおなじだよ。バケモノに育てられたバケモノの子だ」。バケモノとはなんだろうか。バケモノの子であるとはどういうことか。九太(蓮)は人間界と渋天街をいったりきたりする。みたままにいえばひとりの人間がふたつの場所を移動するということだが。抽象的に考えて、ひとりの人間の内面にふたつのアイデンティティがそなわる、と解釈できる。九太(蓮)にはふたりの父親がいる。九太という名前の子の親として熊徹がいて、蓮という名の子の親として人間界にもうひとりの親がいる。一郎彦が我を失って人間界をさまよっていたことと、ラストシーンで楓が渋天街におよばれしたことは対比になっているのかもしれない。一郎彦が人間界へきてもそこにはなにもないが、楓が渋天街へくるとそこには九太(蓮)という友人がいる。一郎彦は人間の親に捨てられバケモノの親とのつながりも見失った。楓にも人間の親はいないが、親がいない者同士として連帯できる友人がいる。九太(蓮)も楓も人間界における親子のつながりを一度失っているが、それの埋めあわせになるものを渋天街で手にいれる。一郎彦はそれを手にいれることができなかった。九太が一郎彦に「バケモノに育てられたバケモノの子だ」と語りかけることには、一郎彦にも埋めあわせるものを手にいれることはできるはずだという希望がこめられている。
映画『バケモノの子』観た。目についたところを書きだす。
『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』より。まひるという対抗馬。
本命馬はひかりなわけじゃないですか、どう考えても。常道的にはそうだとわかっているからこそひっくり返してほしかった。露崎まひるは、『少女革命ウテナ』の篠原若葉であり『ユリ熊嵐』の泉乃純花であり『けいおん!』の真鍋和であり『 Free! 』の橘真琴だった。主人公・華恋を中心としてそれをとりまくふたりのキャラクター、ひかりとまひる。ひかりは主人公と劇的で運命的な再会をはたすが、まひるはどうも地味。ひかりは今後も物語上で重要な役割をはたしそうだが、まひるは蚊帳のそとにおかれかかっている。華恋とひかりだけが主役で、まひるは脇役。そういう描きかたを否定してほしかったのだが。
『弱虫ペダル』第 57 巻感想。表紙は悠人。
いつもの宗教論。つづき。
論文「ジャニーズファンの思考」はタイトルからわかるとおりにアイドルをあつかったものだった。この日記で「トーテミスム」にからめて語ってきたのはアイドルを題材にした作品ではなく、『 Free! 』や『弱虫ペダル』のようなスポーツを題材にした作品だった。アイドルを題材にした作品である『スタミュ』について考えていたとき、思い浮かべていたのは「贈与体系」ではなく「三相一体」という語句だった。
論文「ジャニーズファンの思考」には以下のような記述がある。”「担当制」の基本にあるのは、「母子の愛情」であると筆者は考える。ファンと「担当」の融即は、まさに母と子の親密な関係に類似するものである”。それを読んだときには(いまどき母性かよ……)という残念な気持ちにしかならなかった。女性にとりあえず子育ての役割を負わせることが安易すぎて反感しかおぼえなかった。でも、いまは考えなおす気になっている。親と子の関係が三相一体の一側面であることはたしか。
二次元アイドルコンテンツにふれて知ったこと。アイドルを題材にした作品からは声優の存在が切り離せない。『スタミュ』しかり、『ツキウタ』や『ツキプロ』しかり。そこに登場するキャラクターがおおまかに年長組、年中組、年少組のような三階層にわけられるように、声優もまたみっつくらいのグループにわけられる。かつて主役をはっていた世代、現在主役をはっている世代、今後主役をはるであろう世代。それぞれの世代はそれぞれのことなる役割を負う。年長者から年少者へのまなざし、経験者から新参者へのまなざし、それはおおむね親から子へのまなざしと似たようなものにみえる。
いつもの宗教論。いつもおなじはなしをしている。
これまで何度もしてきたのは、漫画『弱虫ペダル』にからめて「トーテミスム(別称 : 担当制度)」について論じること。この漫画には総北と箱学というふたつのチームが登場する。総北と箱学はそれぞれにことなるやりかたで”継承”や”伝統”のようなものを体現している。では、ふたつのチームをくらべてどこがどうことなるのか。いえるのは、箱学にはゼッケン番号という媒介があり、総北にはそれがないこと。箱学は福富から葦木場へ、荒北から黒田へ、東堂から真波へ……というように名指しで前世代から次世代へと受け継がれていくが、総北はそうじゃない。箱学は総員六人しかいないが、総北は人数に関係なく自転車競技部全体でひとまとまりという感じがする。総北の部員であるというだけでその対象に含まれる。古賀や杉元とかも金城世代が守ってきたものを受け継ぐことができる。
いつもおなじはなしをしているが、最近『贈与論』をもちだすようになった。
箱学のモデルになっているのが「トーテミスム」で、総北のモデルになっているのが「贈与体系」。トーテミスムと贈与体系ってなにがちがうんだろう。総北と箱学のやりかたの区別がつかないということは、宗教学上の概念であるそのふたつの区別がついてないということだと自覚する。『弱虫ペダル』を読んでいるとちょっとよくわからなくなる。ふたつのチームの差として一番具体的にあげられるのはゼッケン番号だといえる。反対にいうと、ゼッケン番号以外になにがあるのかわからない。総北も箱学も、世代交代や先輩と後輩の関係を描いていることに変わりはないから。担当する者と担当される者の関係はつねに担当される者の存在が先行すると考えられた。担当される者のほうが年上で先輩にあたる。贈与者と受贈者の関係においてもおなじく、贈られる者よりも贈る者のほうが年上で先輩。このように説明づけてみるとやはり区別がつかない。
原義に立ちもどってみれば、区別はそれほどむずかしくないかもしれない。トーテミスムを構成するものは人間とはかぎらない。動植物だったリ無生物だったりする。贈与体系を構成するのは基本的に人間のみである。トーテムがトーテムでありえるのはそれをトーテム視する人間がいるから。トーテム自身がみずからをトーテムであると主張することは必要とされない。それは一方的におこなわれる。だが、贈与行為が一方的におこなわれることはない。贈る者と贈られる者のあいだに了解がなければ贈与行為は成立しない。トーテミスムと贈与体系を区別させるわかりやすい項目をひとつあげられる。担当する者と担当される者の関係が一旦成立してから、担当する者を担当される役割へ、担当される者を担当する役割へ、両者をうつしかえることは理論上可能である。相互に担当しあうことは(人間同士であれば)不可能じゃない。しかし、贈与体系ではそうはいかない。なぜなら、贈与体系上には「お返し」という第三の役割が存在するから。一度目に贈与することと一度贈与されたあとに贈与し返すことはおなじ行為ではない。つまり、不可対称性が認められる。
トーテミスムにおいて、担当される者が先行するという考えはまちがっている。トーテミスムのうちに構成要素を先輩後輩のような序列的な関係に位置づける機能は本来存在しない。
いつかの夏アニメとアイドル論。
あれは『ツキウタ。 THE ANIMATION 』を観ていたころのことだからちょうど二年前。あのころうんうん唸って考えて、考えてもわからなかったことについて。スポーツものとアイドルものはおなじなのか。競争する、勝負するというスポーツっぽい要素がアイドル作品にとりいれられる手法はなんのためにやるものなのか。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観ていると、考えるまでもなく頭でなく心でそれがわかった気がする。わたしがアイドルをまなざすときにわいてくるのはこの感情だ。肯定感と否定感が同時にわいてくる。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の決闘シーンにあらわされる勝者と敗者の対立。勝つ者は望んだとおりに勝ち、負ける者はそう望まなかったにもかかわらず負ける。華恋はひかりのために戦い、ひかりを守ったが、純那は敗退することになる。友達を助けたいという華恋の動機、友達を助けようとする華恋の行動、アイドルの卵たちがアイドルデビューをめざすこと。それらのすべては正しい。肯定できる。推せる。その一方で、正しくない、肯定できない、推すことのできないなにかがその背後に隠されている気配がある。キリンはいう。「ふつうのよろこび、女の子の楽しみ、すべてを焼き尽くしはるかなきらめきをめざす。それが舞台少女。その覚悟があなたに?」。ひかりを助けるために飛びこんでいった華恋の動機と行動の明白さに対して、ひかりが華恋をオーディションから排除したがるだけのなにかは暗示的な方法で提示されるにとどまる。
舞台感想。 2.5 次元ダンスライブ『「S.Q.S(スケアステージ)」 Episode 1「はじまりのとき -Thanks for the chance to see you-」』、観た。ニコニコ生放送でやってたやつ。
リスタート宣言。アニメでやっていた 2017 年の年末ライブと 2018 年以降に開始された CD のリリースがつながっちゃうということなのかな……? 作中でやっていたことと現実の商品発売の仲立ちをする。まさに 2.5 次元、ということになるのか。アニメの作中時間をリアルタイムで進行させていたことの意義がここに読みとれる感じ。
ツキウタ。エア舞台「 ORIGIN 」パンフレットのこと。
新と葵のページを読んで。兎王国に印象が似ているかなあと思う。兎王国の新は啓示というものに疑いがなく逆らおうともしないけど、葵は多少思うところがあるんじゃないかというところ。オリジンの新は「世界」に対してかかわることに積極的だが、葵は「世界」とのかかわりになんらかの理由で抵抗感をもっている。新はどの時空でも無邪気で素直な性格だが、葵からすると新のその素直さはときに順応しがたいものになる。
『弱虫ペダル』第 56 巻感想。表紙は葦木場と手嶋。
「8P」新曲試聴動画・デュエット曲【2018年7月下旬より順次配信】
このデュエットソングがおもしろい。
これらの曲。ゴフマンの上演理論的にいえば、キャラクターがふたりだからパフォーマーもふたりなのだと考えられるが、そうではなくて、キャラクターはひとりなのだとも考えられる。あるいは、キャラクターがふたりであるならば、そのふたりの関係はどうなのか。カップルなのだともそうではないとも考えられる。ふたりの登場人物が想いをよせる相手はたがいかもしれないしそうではないかもしれない。
デュエットソングといえば『ツキウタ。』のやつもおもしろいし、『 Free! 』のだっておもしろい。
「 8P 」のこれらの曲と『ツキウタ。』のデュエソンシリーズに共通していえるのは、一見すると乙女向けにもみえるが、みかたによってはボーイズラブですよね……? ともいえるようなつくりをしているところ。歌詞上にあらわれる「ぼく」の性別は歌い手(男性)と一致するものとする。そこまではいいとして、「きみ」の性別はどっちなのか。聞き手と一致するのか。それとも、キャラクターとして設定されているのか。そのあたりがさだかではないところ。
『 Free! 』のキャラソンシリーズで興味深いのはすべての組みあわせでデュエソンがでなかったところ。遙と真琴、渚と怜、遙と凛、怜と凛では発売されても、凛と宗介の組みあわせはなかった。なんで? 理由は「きみ」のような代名詞のつかいかたにあるのではないか。遙がデュエットするとき、相手は真琴の場合と凛の場合がある。怜にも渚の場合と凛の場合がある。だが、宗介がデュエットする可能性のある相手は凛しかいない。宗介が「きみ」とか「おまえ」とかいう言葉をつかうとき、その相手はおのずと特定される。宗介のキャラソンはソロのみが発売されている。内容的には宗介のソロと宗介と凛のデュエットがおなじ意味をもつから、宗介&凛デュエソンは発売されなかったのだと推測している。
人類はテレビアニメ『 Free! 』が放送される三度目の夏を経験します。