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H19.7.31作成開始 H21.8.27更新
施無畏山延命院観音寺
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観音寺は、伊佐氏の館があったとされる伊佐城跡(茨城県指定文化財・史跡)に残る寺院で、写真の本堂は筑西市指定文化財・建造物。筑西市中舘(ちくせいしなかだて)にあることから、地元では親しみを込めて中舘観音寺(なかだてかんのんじ)と呼ばれている。しかし、これはあくまで通称で、正式な名称は施無畏山延命院観音寺(せむいざんえんめいいんかんのんじ)である。寺伝によるとその歴史は、用明天皇(ようめいてんのう)の時代(585〜587年)、梁(りょう)からの帰化人である法輪独守居士(ほうりんどくしゅこじ)が、この地に仏像を安置したことが始まりだという(『国県市指定 下館の文化財』)。日本の仏教は6世紀半ばに百済を経て伝わり、聖徳太子(敏達3年〜推古30年 574年〜622年)の奨励により広まったものである。下館市(現筑西市)の郷土史家・堀込喜八郎氏は『下館の文化財の誤りをつく』の中で「独守居士についての文献はなく詳らかではない」としたうえで、法隆寺建立(7世紀前半)より早く開かれたとする寺伝に疑問を呈している。どうやら法輪独守居士が実在したのか、実在したとして用明天皇の時代の人物なのかを確認することは困難なようである。なお、観音寺の西の畑の中に「独守居士之墓」と刻まれた五輪塔が現存しているが、見た目にも新しく、塔自体が建てられたのは後世のことだと思われる。堀込氏はこの五輪塔について前述書の中で、江戸時代の造塔と推定している。 |
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『下館市史』によれば、観音寺の由緒を記す寺伝として『観音寺縁起』一巻が存在するという。『観音寺縁起』は活字化されてはいないようなので、以下に『下館市史』から、観音寺の歴史に関する記述を紹介する。ただし『下館市史』は通史のみで史料編は無く、どの部分が『観音寺縁起』からの引用か明らかにしない。
・独守居士が悪疫退散を祈願して湧出させた清泉の霊験が、孝徳天皇(在位645年〜654年)の御感に達し、「延命」の称を賜った。 ・延喜元年(901年)山陰中納言藤原高房が藤原時平(ふじわらのときひら)の讒言のため伊佐荘に流刑され、観音寺に帰依し守本尊と崇めた。 ・文治4年(1188年)に山陰中納言の子孫である朝宗(ともむね)が伊達氏の始祖となり、ここを居城とした。 ・承元2年(1208年)、朝宗が本堂を造営し、祖先高房の守本尊と累代主将の霊をまつった。 |
独守居士之墓[管理人撮影] |
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・建武3年(1336年)伊達行朝(だてゆきとも)の代に、比叡山より実相坊心海(じっそうぼうしんかい)を請して中興開基の祖とし堂塔を完備した。 ・行朝はまた南北朝争乱の頃、この城に拠って護良親王(もりながしんのう)や北畠親房(きたばたけちかふさ )を助けて南朝に味方し戦った。観音寺境内には伊達行朝の供養塔があり、「延命院」とは行朝の院号である。
ここには山陰中納言藤原高房卿と一続きに書かれているがが、高房卿とは藤原北家魚名流の藤原高房(ふじわらのたかふさ)、山陰中納言は高房の子・藤原山陰(ふじわらのやまかげ)のことであり、一人の人物ではない。【伊佐郡における高房の伝説については『藤原高房供養塔』参照】。 『観音寺縁起』から抜粋したのであろうか、大正13年発刊の『真壁郡郷土史』は観音寺について、「延喜元年(901年)山陰中納言藤原高房卿 時平の讒により、常陸國伊佐庄に流刑せらるるや、當寺に帰依し守本尊と崇めたり、承元二年戌辰年(1208年)朝宗を以って開祖となす、其の後應永五年(応永5年 1398年)三月實相坊心海法印開山すと伝ふ」とある。 天台宗茨城教区宗務所は、平成3年から5年にかけて教区内の寺院に残る史料や伝承を調査し、平成6年、その成果を『天台宗茨城教区寺史』としてまとめ発刊した。以下は同書掲載の観音寺の由来より、独守居士以降を要約したもの。
・大同元年(806年)、筑波山の徳一(とくいつ)が自ら不動・毘沙門天の像を刻み、本檀の左右に安置。 ・文治5年(1189年)、源頼朝の奥州征伐(奥州合戦)の時、領主伊達朝宗が武運を祈り霊験があったとして封地の内200畝を燈明料として寄進。これ以後観音寺は伊達家の菩提寺として尊崇される。 ・建武3年(1336年)、伊達行朝は、法華三昧を厳修して23間の本堂、仁王門、経蔵、鐘楼、五重塔並びに学頭観音寺を新営して、叡山から実相坊心海を請して中興開山とする。 ・二祖は、行朝の外孫潮海。 ・奥州に移ってからも伊達家の観音寺への尊崇は絶えることなく、政宗(宝治3年 1249年)や成宗が伽藍の修復などを行う。 また以前に観音寺を訪ねた際、『観音寺の簡単な歴史』というA4コピー用紙1枚の解説文をいただくことができた。それによると独守居士により仏像が安置されて以降について、以下のようなことが記されている(一部省略・年号は管理人が追加)。
・承元2年(1208年)、伊達朝宗(だてともむね)が本堂(観音堂)を造営する。 ・建武3年・延元元年(1336年)、伊達行朝(だてゆきとも)が本堂・仁王門・経蔵等を新しく造営し、比叡山から実相坊心海(じっそうぼうしんかい)を招いた。 ・正平18年・貞治3年(1363年)、観世音菩薩が修理される。 ・正保2年(1645年)、二度の大火で本堂等を消失する。本堂・仁王門が再建される。 ・享保元年(1716年)、観世音菩薩を修理 ・元文元年(1736年)、仙台藩主伊達吉村(だてよしむら)より参勤交代の時に、螺鈿の硯箱と狩野探幽筆の八景の図(水墨画)を寄進される。 ・宝暦4年(1754年)、本堂が修理される。
続く…
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