|
|
H19.12.7作成開始 H20.12.23更新
伊佐氏と常陸大掾氏
常陸大掾氏 一般的に伊達氏の出自については藤原北家魚名流と説明されることが多く、他ならぬ伊達氏自身も『寛永緒家系図伝』や『寛政重修緒家譜』でそう主張している。ただし藤原氏以外を唱える説もあり、そのひとつが伊佐氏を常陸大掾氏の末とするものである。常陸大掾氏(ひたちだいじょうし)は、桓武平氏平国香(たいらのくにか)の流れをくむ一族。天慶の乱で平将門(たいらのまさかど)を滅ぼした平貞盛(たいらのさだもり)の弟・繁盛(たいらのしげもり)の子孫が代々常陸大掾を世襲し、やがて職名をもって家名とした。大掾氏は更に枝分かれし、常陸国内に吉田・豊田・行方・鹿島・真壁・東条・下妻・小栗などの有力氏族を生んでいる。『系図纂要』には次のような記事があり、ここでは常陸大掾氏の維幹の子である為賢に注して、三守、伊佐、下妻、真壁などの祖であるとしている。
【常陸大掾氏】『系図纂要』をもとに作成
平高望─国香┬貞盛 │ │ 鎮守府將軍 │ 母貞純親王女 母越前守大中臣岡良女 常陸大掾 陸奥守 從五下 │ 常陸大掾 從五下 父卒後継大掾居多氣地故號 │ 長元二年三ノ六卒 多氣平大夫 │
├爲賢 三守伊佐下妻 │ 從五下 眞壁等祖也 │ └國幹 那珂太郎 住常陸那珂郡
三守(みもり)とは、筑波郡三守郷(現在の茨城県つくば市三守)のことであろう。『将門記』に三守営所(みもりのえいしょ)の語が登場し、常陸大掾系図には平維幹が水漏(守)大夫と呼ばれたことが見えるという(『下妻市史上原始古代・中世』)。また、下妻(しもつま)は新治郡下妻郷(現在の茨城県下妻市)、真壁(まかべ)は真壁郡真壁郷(現在の桜川市真壁町)のこと。いずれも常陸国内で、伊佐郡と隣接あるいはごく近い場所にある。
新編常陸国誌における大掾氏と伊佐氏 『新編常陸国誌』の「下舘城」(しもだてじょう)の項には、「伊佐氏ハ常陸大掾平維幹ノ二男爲賢ニ出ヅ、爲賢ノ子爲宗、新治郡伊佐庄ノ地頭タリ、伊佐二郎ト称ス、其子爲弘、爲弘ノ子爲重、其子行政、行政ノ子爲行、爲行三世孫行朝〔一本系圖〕」とある。
【新編常陸国誌「下舘城」条をもとに作成した伊佐氏系図】
常陸大掾平維幹┬? 新治郡 │ 伊佐庄地頭 └爲賢───爲宗────爲弘─爲重─行政─爲行…行朝 維幹二男 伊佐二郎 爲行三世孫
真偽は不明だが、伊佐氏を常陸大掾氏の流れとし、その始祖に爲宗、為宗の孫に爲重、さらにその末に行朝を置く系図が存在していたようである。爲宗は『吾妻鏡』にみえる常陸入道念西の子で奥州合戦に従軍し戦功をあげた伊佐為宗(常陸冠者為宗)、爲重は同じく常陸次郎為重のことであろうか。『吾妻鏡』は為宗と為重を兄弟としているので、ここでいう為宗が伊佐為宗(常陸冠者為宗)、爲重が常陸次郎為重のことを指すとすれば、『新編常陸国誌』の「下舘城」掲載の系図には混乱があるといえよう。行朝は南北朝時代に活躍した宮内大輔行朝のことか。同系図によれば、伊達氏嫡流であるはずの行朝は伊佐氏の末ということになる。実際に行朝は南北朝期、常陸国伊佐郡にあった伊佐城に拠り、北畠親房などとともに北朝方と戦ったといわれており、伊佐郡との関わりは深い。はたして行朝は、伊佐氏から出て伊達氏嫡流を継いだのであろうか。ちなみに『新編常陸国誌』は「伊佐」の項で、「近世所書ノ常陸大掾系圖ニ多氣大夫維幹ノ二男爲賢ヲ伊佐氏ノ祖トスルハ附會ノ説ナリ」とも記している。下舘城の条は「補」として書かれており、中山信名のものではないと思われる。一方、伊佐氏の祖を常陸大掾氏とする説を「附會ノ説」とする伊佐の条は「補」の前段に書かれた「割注」で、この「割注」が誰によって執筆されたのか管理人にはよくわからない。また「附會ノ説」であるとする根拠は示されていない。
平維幹と平為賢
…続く
伊達氏と伊佐氏考 >常陸介・藤原実宗 >伊達氏の始祖・常陸入道念西 >伊達氏における始祖の認識 >新治国と常陸国新治郡 >常陸国伊佐郡の成り立ち >伊佐氏と常陸大掾氏 >下野国中村 >伊佐氏と北条氏 >幻の四代将軍・貞暁 >伊佐を称した人々 奥州伊達郡に残る伊達氏の足跡 >高子岡舘跡 >下万正寺遺跡/伊達朝宗の墓/桑折寺山門 >観音寺 >阿津賀志山防塁/念西夫人の墓 常陸国伊佐郡に残る伊達氏の記憶 >藤原高房供養塔 >施無畏山延命院観音寺 >木造観世音菩薩立像 >伊達行朝廟 >伊佐城跡 >螺鈿硯箱/絹本著色八景の図 >伊達左近中将吉村公筆軸一対/吉村公筆和歌 附 >本サイトについて・最初にお読みください >トリビアの伊佐氏&伊達氏 >伊佐・伊達氏年表 >伊佐・伊達氏事典 >参考図書
copyright © 2007-2011 venusandmars, All rights reserved.
|
|