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H19.7.13作成開始 H20.3.9更新
伊達氏の始祖・常陸入道念西
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源頼朝の奥州合戦 永正11年(1514年)成立とされる『奥州余目記録(おうしゅうあまるめきろく 余目旧記あまるめきゅうき)』には「伊達は関東伊佐より文治5年つちのとのとりに被下候(くだされそうろう)」とある。文治5年(1189年)源頼朝(みなもとのよりとも)は、藤原泰衡(ふじわらやすひら)追討のため奥州合戦(奥州征伐)を行った。鎌倉幕府の公式記録ともいえる『吾妻鏡(あづまかがみ 東鑑)』によると、この合戦に常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)の子息である常陸冠者為宗(ひたちのかじゃためむね)、同じく念西子息の次郎為重(じろうためしげ)、三郎資綱(さぶろうすけつな)、四郎為家(しろうためいえ)が従軍した。7月19日に鎌倉を出発した頼朝の御供の輩には、常陸次郎為重と同三郎資綱が名を連ねるが、念西自身と常陸冠者為宗、四郎為家の名は無く、常陸から加わったのではないかと推測される。8月7日、頼朝率いる鎌倉軍は、阿津賀志山(あつかしやま・福島県伊達郡国見町)の麓に到着した。翌8日から始まった戦闘で、念西の子息たちは奮闘。4人は潛かに甲冑を相具して伊達郡沢原のあたりに進み出ると、先登し(まっさきに攻め入り)矢石を放った。これに対して敵の佐藤庄司(さとうしょうじ 佐藤基治さとうもとはる)等も死を争って挑み戦う。為重、資綱、為家が負傷したものの長子為宗が殊に命を忘れて攻め戦い、兄弟は佐藤庄司など敵18人の首を取り、阿津賀志山の経ヶ岡にその首を梟したという。なお10月2日条には、囚人佐藤庄司が許されて所領へ戻ったという矛盾した記述もある。佐藤基治は、源義経(みなもとのよしつね)の忠臣である佐藤継信(さとうつぐのぶ)、忠信(ただのぶ)兄弟の父で、平泉の名門。その基治を破るという功をあげ、頼朝から伊達郡を賜った念西一族の一部の人たちが、後に伊達郡へと居を移した。伊達郡に下った者たちは以後、伊達を名乗るようになったと思われる。即ち、後に独眼竜政宗を生むことになる仙台藩伊達氏の始まりである。なお伊達氏について簡略に紹介する際、「念西が奥州合戦で功をたてて伊達郡を拝領した」といった記述を目にすることがあるが、奥州合戦で戦功をあげたのは念西ではなく4人の子息である。先に示した文治5年(1189年)8月8日の戦いについて『吾妻鏡』(参照:寛永版影印振り假名つき吾妻鏡)には、「常陸ノ入道念西ガ子息常陸ノ冠者為宗 同キ次郎為重 同キ三郎資経 同キ四郎為家等…」と記されており、ここでの「常陸ノ入道念西」の語は「常陸ノ冠者為宗」がどのような人物であるかを、つまり「念西ガ子息」であることを説明するために引用されているようである。また、後述する『寛政重修緒家譜(かんせいちょうしょうしょかふ)』の念西(同書では朝宗をもって念西とする)の所伝にも「泰衡征伐のとき、男爲宗等四人陸奥國において戦功あるにより伊達郡をたまう」とある。石那坂の戦いに参加したのは子息たちだけであって、念西は参加していなかったのであろう。奥州合戦自体に従軍したかどうかも不明である。あるいは鎌倉か自らの領地にあり、子息たちの留守を守っていたかのだろうか。ちなみに『吾妻鏡』に念西の生没年は記されていない。よって奥州合戦時の念西の年齢は不明であるが、既に奥州合戦の時点で一族の経営が長男の為宗によってなされていたと想像することはできないだろうか。 |
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伊達は関東伊佐より文治五年つちのとのとりに被下候 『奥州余目記録』 / [『仙台市史』資料編1古代中世 別冊より]
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常陸入道念西 さて、常陸入道念西とはどのような人物か。念西には先にあげた4兄弟のほかに大進局(だいしんのつぼね)と呼ばれる娘がおり、実はこの大進局が頼朝の寵愛を受け、頼朝との間に男子をもうけていた。常陸冠者為宗たちが奥州合戦に従軍するより以前、『吾妻鏡』文治2年(1186年)2月26日の条には、頼朝の子である二品若公(にほんのわかぎみ 後の貞暁じょうぎょう)の誕生記事があり、その母が常陸介藤時長(ひたちのすけとうときなが)女であると記されている。常陸介藤時長女とは常陸介という官職を持つ藤原時長(ふじわらのときなが)の娘というほどの意味。また奥州合戦後の建久2年(1191年)正月23日の条によると、大進局は伊達常陸入道念西息女、つまり念西の娘であるという。整理すると次のとおり。
・文治2年(1186年)常陸介藤時長の女・大進局が、頼朝の子・若公(貞暁)を生む ・文治5年(1189年)常陸入道念西の子息・常陸冠者為宗兄弟が奥州合戦で戦功 ・建久2年(1191年)伊達常陸入道念西の息女は、女房大進局
『吾妻鏡』のこれらの記述をそのまま読めば、常陸介藤時長(藤原時長)と常陸入道念西(伊達常陸入道念西)は同一人物で、時長が剃髪・入道して念西となり、奥州合戦を経て「伊達」を名乗ったと解釈できる。常陸介という官職や常陸入道という名から、念西(時長)が常陸に深い係わりを持っていたことは確実である。なお、念西(時長)の長子とみられる常陸冠者為宗は、一族の伊達郡拝領後の『吾妻鏡』に伊佐為宗の名で登場する。このことから、初期伊達氏の同族に伊佐氏の存在を知ることができる。後述の『寛政重修緒家譜(かんせいちょうしょうしょかふ)』は伊達郡進出以前の伊達氏が常陸国伊佐庄中村を領して伊佐あるいは中村を称していたとしている。それが事実なら為宗は惣領として伊佐を名乗ったこ可能性があり、その場合、念西(時長)の常陸における本領も伊佐庄であったと考えてよいだろう。ただし、実際には伊佐の地は荘園(伊佐庄)ではなく、郡(伊佐郡)であったたとの説が有力である【『常陸国伊佐郡の成り立ち』参照】。また、先に『吾妻鏡』から念西(時長)の奥州合戦時における年齢を知ることはできないとしたが、大進局や貞暁との関連からある程度までは推測可能である。単純に1世代を20年(20歳で子をもうけた)とすれば、貞暁が生まれた文治2年(1186年)に祖父の念西(時長)は40歳前後。奥州合戦のあった文治5年(1189年)には40代中ごろか。しかしこれはあくまで推測である。
【吾妻鏡をもとに作成した初期の伊佐・伊達氏系図】
常陸入道念西(常陸介藤時長)──┬─常陸冠者為宗(伊佐為宗) │ │ ├─三郎資綱 │ │ └─大進局 ├───貞暁 源頼朝
さらにもうひとつ、『吾妻鏡』建久3年4月11日条には「若公、七歳、御母常陸入道姉」とある。『桑折町史』1原始・古代・中世・近世(1)は「常陸入道姉は娘の誤である」としているが、果たして単純に誤としてよいものか。建久2年(1191年)正月23日の条における伊達常陸入道念西の娘は女房大進局であるとの記述の方が誤であるとは考えられないのであろうか。確かに「娘」と「姉」は字形が近いし、「常陸介」が出家して「常陸入道」になったという説は理にかなっている。やはり「姉」は「娘」の誤記か。可能性は薄いかもしれないが、以下に、大進局が常陸入道の姉だと仮定した場合の相関図もあげておく。
【吾妻鏡をもとに作成した初期の伊佐・伊達氏系図[大進局が常陸入道姉とした場合]】
源頼朝 ├──────────貞暁 ┌─大進局 常陸介藤時長─┤ └─常陸入道(念西?)─┬─常陸冠者為宗(伊佐為宗) │ │ ├─三郎資綱 │
寛永緒家系図伝と寛政重修緒家譜 ところで『吾妻鏡』以外の史料は、念西についてどのように記しているのだろうか。徳川幕府は、諸大名家や旗本にその始祖から歴代の経歴を記した家譜を提出させ、寛永20年(1643年)に『寛永緒家系図伝(かんえいしょかけいずでん)』を完成させた。また『寛永緒家系図伝』の続編として、文化9年(1812年)に『寛政重修緒家譜(かんせいちょうしょうしょかふ)』を編纂している。この『寛永緒家系図伝』と『寛政重修緒家譜』は大名・旗本の系譜を知るための基本資料である。しかし、緒大名・旗本の中には、江戸時代以前に祖先の記録を失っていたところもあり、また家系を少しでも良く見せるための粉飾・仮冒もみられるなど、提出された資料の精粗の差は大きいという。『寛永緒家系図伝』では、吾妻鏡に見る為宗など4人の子息は登場しない。そして、文治中に初めて奥州に下向した人物を朝宗であるとし、その子宗村を念西としている。一方『寛政重修緒家譜』では、戦功により伊達郡を賜り伊達を名乗った人物を念西=朝宗であるとする。また為宗など4人の子息を載せるものの、「東鏡(吾妻鏡)では為重と作り」と説明を加えたうえで(常陸)次郎に宗村をあてる。更には朝宗ー宗村(為重)ー義広の初期3代について混乱があることを認め、「按ずるに朝宗が呼名法名および義廣が卒の年月を混ず」と記している。どうやら伊達氏は、奥州合戦から約450年を経た『寛永緒家系図伝』の編纂時点で、始祖の事跡について特定するに足る確実な史料を失っていたらしい。
【寛永緒家系図伝における初期の伊達氏系図】
山陰(やまかげ)────中正(なかまさ)────安親(やすちか)───┐ 中納言 從四位上 左京大夫 正三位 参議 │ 攝津守 │ │ ┌───────────────────────────────────┘ │ └爲盛(ためもり)────定任(さだとう)────実宗(さねむね)───┐ 從四位下 越前守 從四位上 筑前守 從四位下 常陸介 │ 肥前守 伊賀守 能登守 肥後守 │ 大和守 │ │ ┌───────────────────────────────────┘ │ └季孝(すえたか)────家周(いえちか)────光隆(みつたか)───┐ 皇后宮少進 大舎人 待賢門院非藏人 │ │ ┌───────────────────────────────────┘ │ └朝宗(ともむね)─────────宗村(むねむら)──────────┐ 高松院非藏人 中村常陸入道 法名念西。 │ 文治年中はじめて奥州に下向し、 滿勝寺と号す。 │ 伊達の郡に居住す。 康元元年十月二日に卒す。 │ │ ┌───────────────────────────────────┘ │ └義廣(よしひろ)─────────政依(まさより) 粟野次郎 蔵人大輔 法名覺仏。 藏人太郎 法名願西。東昌寺と号す。 觀音堂を建立す。 初めて東昌寺・光明寺・滿勝寺・觀音寺 覺仏身長の觀音尊像三十三躰造立 ・光福寺の五ヶ寺をさたむ。 し、出家して隠居す。 東福寺正覺庵佛智禪師を請じて東昌寺の 開山とす。正安三年七月九日、佛智七十 六歳にしてセン化。 同年同月同日、同酉の刻に政依卒す。
【寛政重修諸家譜における初期の伊達氏系図】
山陰───────────中正─────────安親─────────┐ 民部卿 中納言 藏人頭 左京大夫 参議 藏人頭 │ 從三位 越前守高房が男 攝津守 從四位上 正三位 │ │ ┌───────────────────────────────────┘ │ └爲盛────────────定任───────────────────┐ 式部少輔 越前守 式部少輔 筑前守 肥前守 伊賀守 │ 藏人 從四位下 大和守 從四位上 │ │ ┌───────────────────────────────────┘ │ └実宗─────────────────────────────────┐ 常陸介 能登守 肥後守 侍從 從四位下 │ 常陸国真壁郡伊佐庄中村に住す。 │ これより伊佐と稱し、あるいは中村をもって稱號とす。 │ │ ┌───────────────────────────────────┘ │ └季孝─────────────────────────────────┐ 藏人 皇后宮少進、下野守 侍從 │ 從四位下 父に継て中村に住す。 │ │ ┌───────────────────────────────────┘ │ └家周──────────────────光隆─────────────┐ 大舎人 從五位下 □若丸 待賢門院非藏人 │ 或大舎人頭助宗(すけむね)に作る。 從五位下 │ │ ┌───────────────────────────────────┘ │ └朝宗 高松院非藏人 從五位下 入道號念西 ──────────────┐ 或院判宮代遠江守とし、或東宮帯刀常陸介に作る。 │ 母は六條判官(源)爲義が女。 │ 文治五年八月頼朝将軍(藤原)泰衡征伐のとき、 │ 男爲宗等四人陸奥國において戦功あるにより伊達郡をたまう。 │ このとし各封に就て、高子岡(たかこがおか)に城を築てこれに住す。 │ 先に伊佐あるいは中村を稱すといえども、これより伊達にあらたむ。 │ 某年十月二日卒す。年七十一。淨光念西滿勝寺と號す。 │ 陸奥國伊達郡桑折(こおり)の滿勝寺村に葬る。室は結城氏の女。 │ │ ┌───────────────────────────────────┘ │ ├爲宗(ためむね)常陸冠者 皇后宮大進 或大舎人頭 伊佐を稱す。 │ 文治五年八月八日(藤原)泰衡の兵と戦い、 │ 佐藤庄司および宗徒の兵十八人の首を得て、 │ 阿津賀志山の経岡(きょうがおか)に梟す。 │ ├宗村 次郎 從五位下 東鑑爲重(ためしげ)に作り、──────────┐ │ 今の呈譜或安藝守に作り、殖野を稱すという。母は結城氏の女。 │ │ 文治五年泰衡征伐のとき、兄爲宗とともに戦功あり。某年卒す。 │ │ 綱村がとき念山道正持國院と追號す。 │ │ 寛永系図に、中村常陸入道法名念西滿勝寺に作り、 │ │ 康元元年十月二日卒という。 │ │ 按ずるに朝宗が呼名法名および義廣が卒の年月を混ず。 │ │ よりて今の呈譜にしたがう。 │ │ │ ├資綱(すけつな)常陸三郎 藏人 │ │ 常陸国中村の庄を領す。 │ │ 文治五年八月泰衡征伐のとき、伊達郡石那坂において敵とたたかい、 │ │ 創をこうむり高名をあらわす。 │ │ │ ├爲家(ためいえ)常陸四郎 左衛門蔵人 東鑑右衛門に作る。 │ │ 文治五年八月兄資綱とともに石那坂において戦功あり、創をこうむる。│ │ 建暦二年六月七日鎌倉にありて侍所に宿直せるとき、 │ │ 荻生右馬允某と爭論し刃傷に及ぶにより、佐渡國に配流せられ、 │ │ のちめしかえさる。 │ │ │ ├爲行(ためゆき)出雲守 │ │ │ ├實綱(さねつな)六郎 │ │ 伊達郡伊達崎村に住するがゆえに伊達崎と稱し、のち田手と稱す。 │ │ │ ├延厳(えんげん)権少僧都 │ │ │ ├朝基(とももと)八郎 建長五年十月二十三日鎌倉御所小侍番帳に入。 │ │ │ ├爲保(ためやす)藏人大夫 寺本を稱す。 │ │ │ └女子 頼朝将軍の妾となり大進の局と稱す。 │ 故ありて京師にうつり、建久二年正月二十三日、伊勢國をたまい、 │ のち尼となり、大進尼と號し、伊達郡山戸田村に隠居す。 │ │ ┌───────────────────────────────────┘ │ ├時綱(ときつな)與一 修理亮 │ └義廣 粟野次郎 蔵人大輔 今の呈譜蔵人大夫 從五位下 入道號覺佛 或伊達判官代 伊達郡桑折の郷粟野大舘にうつり住し、のち出家して覺佛とあらため、 康元元年九月二十三日卒す。年七十二。観音寺と號す。 綱村が時本明と追號す。
ちなみに『寛政重修緒家譜』における朝宗の記事をみると、『吾妻鏡』だけでは知ることのできない伊佐・伊達氏と源氏の関係が記されている。同家譜によると念西朝宗の母は、六条判官(ほうがん)為義が女だという。六条判官為義とは源氏の嫡流・源為義(みなもとのためよし)のこと。検非違使として六条堀川に住んだことから六条判官と呼ばれた人物で、源頼朝の祖父にあたる。ただし『寛政重修緒家譜』以外にこのような内容を示す記事は見つからないという。朝宗の母が本当に源為義の娘であったかどうかは不明と言わざるをえないようだ。
【寛政重修緒家譜をもとに作成した源氏と伊佐・伊達氏関係図】
常陸介、 藤原実宗───藤原家周───藤原光隆 伊佐、中村 │ 念西 ├───藤原朝宗───大進局 │ 伊達 │ ┌─女 子 ├───貞暁 源為義──┤ │
尊卑分脈にみる念西 『寛永緒家系図伝』『寛政重修諸家譜』はともに、伊達氏の祖を藤原北家山陰流に求める。山陰(やまかげ)とは、右大臣藤原不比等(ふじわらのふひと)の次男・藤原房前(ふじわらのふささき)から始まる藤原北家(ふじわらほっけ)に属する人物。南北朝から室町初期に完成した姓氏家系に関する基本史料に『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』があり、同書は藤原房前―魚名(うおな)―鷲鳥(わしとり)―藤嗣(ふじつぐ)―高房(たかふさ)―山陰と続く系譜を示す。山陰以降は以下のとおりである。
【尊卑分脈における藤原朝宗(藤原北家山陰流)】
藤原山蔭 從三 民部卿 中納言 │ 中正 従四上 左京大夫 攝津守 │ 安親 正三位 参議 │ 為盛 從四下 越前守 │ 定任 從四上 筑前肥前守 伊賀大和 │ 實宗 從四下 常陸介 能登肥後守 │ 季孝 皇后宮少進 │ 家周 大夫 大舎人助 │ 光孝 従五下 待賢門院非藏人 │ 朝宗 高松門院非藏人
これにより、藤原北家山陰流に藤原朝宗という人物がいたことは確認できる。しかし同書は朝宗に高松院非蔵人の注を載せるだけで、伊達氏祖との記述はない。系図自体も朝宗で終わり、それ以降を載せない。伊佐為宗や伊達宗村といった人たちは登場せず、朝宗と伊佐・伊達氏の関係を知ることはできないのである。ちなみに『尊卑分脈』は、頼朝子息である貞暁の註に「母伊達蔵人藤頼宗女」と記している。江戸時代に編纂された『系図纂要』にもまた同様の註が見え、これによって貞暁の母(大進局)が伊達氏の女であることが確認できる。ただし既に見た『吾妻鏡』によると、貞暁の母である大進局の父は常陸入道念西であり藤原時長である。念西は時長以外に頼宗の名も持っていたのだろうか。「頼宗」と「朝宗」は字形が似通っており、「頼宗」を「朝宗」の誤写とする説もある。
【尊卑分脈における貞暁と藤原頼宗】
源頼朝──┬─頼家───────────┬─一萬丸 │ │ ├─實朝 ├─公暁 │ │ ├─忠久 ├─榮實 │ │ ├─忠季 ├─禅暁 │ │ │ 法印 └─女子 仁├─貞暁 若宮別當 │ 母伊達蔵人藤原頼宗女 │ ├─能寛 │ ├─能直 │ ├─女子 │ └─女子
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