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H19.7.13作成開始 H20.7.21更新
常陸国伊佐郡の成り立ち
細分化する新治郡 新皇を称して坂東の独立を図った平将門(たいらのまさかど)は、天慶3年(940年)、下野押領使(しもつけおうりょうし)の藤原秀郷(ふじわらのひでさと 俵藤太)と平国香(たいらのくにか)の子・平貞盛(たいらのさだもり)の2人によって討たれた。将門の乱後、国香の子孫である常陸平氏は常陸国で着実に地盤を固め、常陸大掾氏や小栗氏、下妻氏、真壁氏などといった一族を生んだ。また、藤原秀郷は将門追討の功によって従四位下、下野守に任じられ、やがて武蔵守や鎮守府将軍をも兼任した。その子孫は秀郷流として関東に大きく勢力を張り、下野国の小山氏や下総国の結城氏などの一族を生む。これらの多くは常陸国新治郡周辺にあり、やがて伊佐氏とともに鎌倉幕府の公式記録の意味合いを持つ『吾妻鏡(あずまかがみ)』にも登場することになる。
【常陸平氏】『茨城県史中世編』より一部省略
高望王┬国香┬貞盛 │ │ │ │ │ ├良持─将門 │ ├広幹…下妻氏 │ │
│ │ │ │ └良正 │ └長幹…真壁氏 │ ├清幹┬盛幹┬幹清─広幹…吉田氏 │ │ │ │ │ └家幹─資幹…大掾氏 │ │ │ ├忠幹…行方氏 │ │ │ ├成幹…鹿島氏 │ │ │ └女(佐竹昌義母) │ ├政幹…豊田氏 │ └重家─重義─重成…小栗氏
【秀郷流藤原氏】 小山 秀郷─千常─文修─兼光─頼行─行尊─行政─政光─朝政┬長朝…小山氏 │ └朝光…結城氏
さて新治郡の周辺では、常陸国内の広範囲に支配領域を広げた常陸平氏、清和源氏の流れをくむ佐竹氏、下野や下総の秀郷流藤原氏などの勢力が台頭し、互いにその地位を固めようとつとめた。12世紀末になると、これら各勢力のせめぎあいの中でそれぞれの支配領域の分布が固まる。新治郡もまた解体が進み、律令時代の郡域は再編されることになる。 |
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常陸国伊佐郡 古代の新治郡内には「伊佐郷(伊讃郷)」という郷が存在した。古い時期の新治郡中の郷を確認できる史料に『和名類聚』があり、延喜〜延長年間(901〜931年)における郷名として「伊讃」がみえる(『関城町史』史料編3中世関係史料)。「伊佐郷(伊讃郷)」の実在は、平成16年〜19年にかけて行われた栗島遺跡発掘調査で同郷の名が記された木管が出土していることから、疑いようの無い事実である(『茨城県教育財団文化財調査報告第268集 栗島遺跡』)。この栗島遺跡出土の木管は8世紀前葉〜9世紀中葉のものと考えられており、伊佐の地名を示す最古の文字史料であろう。おそらくは伊佐郷が、後の伊佐郡の中核をなす郷であったものと想像される。 さて、新治郡から最初に分出したのは、小栗保(おぐりのほ ほぼ茨城県筑西市の旧協和町域にあたる)であった。寛治・康和のころ(1087年〜1104年)に伊勢神宮領として成立しており、この時期は常陸平氏本宗から小栗氏が分流した時期でもある。小栗保は保元年間(1156年〜1159 |
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年)小栗御厨となる。新治郡は小栗御厨を分出した後、西郡(茨城県筑西市の旧下館市域、旧関城町域を含む領域)、中郡(茨城県桜川市の旧岩瀬町にあたる領域)、東郡(茨城県笠間市と西茨城郡の一部を含む領域)に分かれた。小栗御厨は伊佐郡のある西郡の東隣に位置していたから、その成立時期には伊佐郡との境界もほぼ定まっていたと思われる。西郡はさらに、北条と南条に分割された(『里の中の中世』網野善彦)。『弘安2年(1279年)大田文』には西郡北条に註して伊佐とあり、常陸国新治郡から分れた西郡の北部を伊佐と称したことがわかる(『関城町史』史料編3中世関係史料)。ただし「伊佐」というのは俗称であり、公式な名称は新治西郡北条であったらしい。同史料によると、西郡北条(伊佐郡)は以東と以西に二分されていた。『建武4年(カ)相馬胤家代妙蓮申状案』(前掲書)にも「常州伊佐郡西方者」とあり、伊佐郡は東と西でそれぞれ別の支配体制のもとにあった可能性に留意すべきであろう。
伊佐庄と伊佐郡 江戸幕府が編纂し文化9年(1812年)に完成した大名・旗本の系譜集『寛政重修諸家譜』の伊達家譜は、仙台藩4代藩主伊達綱村による系図編纂事業の成果である『伊達出自正統世次考』をもとにつくられ、以降伊達家譜の標準となった(現時点で管理人は『伊達出自正統世次考』の内容について未確認)。『寛政重修諸家譜』の影響は大きく同書の表現が一般化したため、以降に書かれた史料のほとんどは伊達郡進出以前の伊達氏について、「伊佐庄中村」を領し「伊佐」あるいは「中村」を称したとしているようである。「伊佐庄」の「庄」は荘園を意味する「荘」と同義であろう。ただし、伊達氏文書以外の確実な史料に現れる名称は「伊佐郡」あるいは「西郡北条」であり、伊佐の地が荘園であった事実は確認できない。『下館市史』もまた、「伊佐荘は荘園ではなく荘名は土俗の私称であるともいわれている」と記述している。 ちなみに、伊佐郡内に「中村郷」あるいは「中村」という地名があったかどうかについては確認ができなかったので、その事を付け加えておく。伊佐城跡のある筑西市中舘は江戸時代には中舘と呼ばれていた。しかし、その昔このあたりを中村と呼んでいたという伝承が残っていたようである。明治22年の村制施行の際、旧中舘村及びその周辺を中古(中世の意味か)、中村と称していたので、新村名を中村としたという(『下館市史』)。もともと「ナカ」あるいは「ナカムラ」と呼ばれていた地域に後世になって館が設けられたため、中舘と呼ぶようになったとも想像できる。ただし、中世以前に「中舘」を「中村」と呼んでいたという確実な史料がない以上、その伝承自体が伊達家譜の影響を受けた結果「中村」の名称が引き寄せられたのではないか、という疑問は残る。
続く… 。 |
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