平成16年8月28日
空は生憎の曇り空。自宅庭のベンチに腰掛け煙草を一服していると長男坊が家から出て来ました。自転車に跨り走り出したものの重そうです。昨夜タイヤの空気が抜けていることを確認していたので、呼びとめて空気を入れます。「ちょっと走りに行こうか」と誘ってみると「行く行く」と目が輝いています。その声を聞きつけた次男坊が「ぼくも行く」と騒いでいます。「お母さんは御留守番で、男3人で行こう」と、御近所ツーリングに出かけることにしました。
私と次男は、妻の愛機 SAIMOTO Culotte 号、
長男は愛機 BRIDGESTONE SHINKANSEN 号 に搭乗し、自宅を出発します。
まずは子供達に地元の歴史の一端を学んでもらおうということで、ついでに?羽村〜狭山湖・軽便鉄道の資料があれば・・・・・・ということで、羽村市郷土博物館に向かいます。道中、息子達には自転車は左側通行・交差点一旦停止・ブレーキは前後をバランス良く等など、模範的?な実技指導をしながら安全運転で進みます。
方形屋根(三角屋根)が特徴的な羽村市郷土博物館に到着しました。

受付で入館票にサインして、書棚の文献に目を走らせます。青梅鉄道の関係資料はありましたが、お目当ての軽便鉄道に関する資料はありませんでした(おっとっと・・・ついでの用事だったんだっけ)。
展示室に入り、多摩川の歴史を語って聞かせます・・・・・・が、展示物のボタン操作が楽しいようで・・・・・・お〜い、お父さんの話を聞きなさい。
「これがな、大昔の茶碗や鍋なんだよ」「これがな、大昔のお家なんだよ」「これがな、昔の水道なんだよ」「これがな、昔の偉いおじさんの手紙なんだよ」等など力説?していると、水を注すように「ねえパパ、このボタン押していい?」と次男坊・・・・・・そうそう、遊びながら学ぶことが大切なんだよ・・・・・・(笑)。

復元された江戸時代の羽村堰・一之水門
案内板によると
『この水門は、寛政3年(1791)に書かれた「上水記」やそのほかの資料を参考につくりました。明治時代に改修されるまでは、このような木造の水門から水を取り入れていました。当時はケヤキで造られていましたが、現在では手に入りにくいためにヒノキを使用しています。』
とのこと。

再現された現在の羽村堰・第一水門
案内板によると
『第一水門は、明治33年(1900)にそれまでの木製の水門から造り替えられ、大正13年(1924)に増設されて現在の形になりました。ここでは、明治33年に造られた水門の一部を再現しました。』
とのこと。
郷土博物館を後にし、多摩川沿いのサイクリングロードを進みます。歩行者・自転車専用の堰下橋を渡ります。遠方には先程展示されていた水門の現物が見えてまいりました。

堰下橋にて 遠方に羽村堰・玉川上水取水口

羽村堰 水門の門扉は木製で、大水時は撤去されるらしいです
Culotte 号 と SHINKANSEN 号 の2台の自転車は、小雨の降り出した中、軽快に玉川上水沿いを流してゆきます。玉川上水の対岸には古風な水門が見えてまいりました。羽村〜狭山湖・軽便鉄道軌道敷跡の地下には東京都水道局の導水本管が埋設されており、多摩川と多摩湖を結んでいます。水門奥の緑に包まれた丘が軽便鉄道の駅跡地です。

多摩川と多摩湖を結ぶ水門

玉川上水沿いの遊歩道は、気持ちの良い歩行者自転車専用ダートです。落ち葉が秋の訪れを告げています。

先程の軽便鉄道とは関係ありませんが、昭和初期にはこの橋の上を福生駅〜多摩川河川敷を結ぶ砂利運搬専用鉄道が走っていました。
案内板によると
『加美上水橋の歴史
昭和二年二月、大正天皇の陵墓造営に必要な多摩川石を運搬するため、福生駅から多摩川の羽村境に至る1.8qの砂利運搬専用線が布設され、通称ガードと呼ばれる鉄橋がここ玉川上水にその姿を写すこととなった。
このガードを日に二回電気機関車が四,五輌の貨車を引いて通り、また地域の人々は枕木を渡り利用していた。
昭和34年12月 砂利運搬停止
昭和36年3月 線路・架線撤去
昭和37年7月 福生町へ売却
その後、鉄板製の歩道橋に改良
平成3年3月 新東京百景にふさわしく欄干等を改良し加美上水橋と命名』
とのこと。

旧鉄道軌道敷跡は現在サイクリングロードの一部となっています。
小雨も徐々に強くなってまいりました。子供達が風邪をひくといけないので、家路を急ぐことにします。ふと、3歳になる次男坊が嬉しそうな顔をして「パパ、きょうは連れてきてくれてありがとうね」とか言っています。時々、子供というものは、幼顔に似合わぬことを言って、親をドキリとさせるものです・・・・・・。