生きていることに対する、単純な罪悪感。
「螢」
白く覆われた街を見ていた。
薄くかかった雲と降り注ぐ粉雪に乱反射された太陽の光が、窓ガラスに屈折して私に届く。
太陽はもう西に傾いて、光にはかすかに赤が差していた。
なんで夜は来るんだろう。
もう、明日なんていらないのに。
「もうすぐ、栞の誕生日ね」
花瓶に飾られた赤い花が、朝日の中でみずみずしく咲き誇っている。
「誕生日、お家で迎えられるといいわね」
お母さんは、ベッドの中の私を見つめて笑った。
私は、窓のそばに立つお母さんを少し越えて、遮られた空の一点を見つめて笑い返した。
1st‐『POWDER SNOW』
次の日も、私が目覚める前にお母さんは病室にいた。
「…アイスクリーム、買ってきたのよ」
軽く冷凍庫の方に視線を傾けて、少しいたずらっぽく笑いかける。
窓際に置かれた花瓶の花は、昨日と少し違っていた。
私の知らないうちに、新しい花が咲いている。
「…じゃあ、おやつの時間にでも食べようかな」
お母さんはうなずく。
私は訊かない。
何かを暗示するのを怖れているのは、私じゃなくて、私に対してでもなくて。
「そうだ。バースデーケーキ、今年もやっぱりアイスクリームのケーキにする?」
私には何もできない。
「……うん。それがいいな」
曖昧な言葉で、ほんの少し喜ばせてあげることしか。
でもそれも、私が掘った深い深い穴の底から跳びあがるだけで。
焼けた石に水を打つより、なお、はかない。
『……内科にお越しの、ユムラ マサヒコ様。ユムラ マサヒコ様。三番窓口までお越し下さい……』
すっかり覚えてしまった病院の中を、人の姿を眺めながら少しだけ歩く。
私は点滴を打ちながらでもないし、松葉杖もついてはいないし、
外来でやってきた、ちょっと風邪をこじらせただけの患者に、見えないこともないのに。
三ケタの電光掲示板が点滅している精算所。後ろの方の席に、私はそっと腰を下ろした。
『……小児科にお越しの、サカイ ユウ様。サカイ ユウ様。三番窓口まで……』
……兄妹、かな。
赤いカバンを背負った女の子の手を、中学生くらいの男の子が引いて…
「ねーねー」
「ん?」
「おかあさん、もうかえってきてるかな?」
女の子の言葉に、男の子はちらっと時計を見て、
「そーだなー。もうご飯作ってるんじゃないか?」
「やった♪」
「…ほぉら、慌てるなって」
手を引っ張って走り出そうとする女の子を、男の子は苦笑いを浮かべながら引きとめる。
「ねーねー」
「…ん?」
「あしたから、がっこう行けるかなぁ?」
「……んー…」
「……ねぇ」
少し言葉に詰まる男の子に、女の子は立ち止まって手をぶらぶらと揺する。
「…今晩おとなしくしてたら…」
「するする!」
ぶんぶんと音が聞こえてきそうなほど力いっぱい、女の子が首を振る。男の子はその様子をじっと見つめて、
しあわせそうに、
「…じゃ、大丈夫じゃないか」
「やったぁ!」
「ほら! おとなしくするって言ったろ!」
再び走り出そうとする女の子を、男の子はあきれたように引っ張り返す。
ぐんっ、と一度つんのめるようになった女の子は、照れ笑いを浮かべながら振りかえって、
「……えへへぇ…」
「……ったく…」
無機質なアナウンスが、次々と人の波を消化していく。
席に座る人、席を立つ人…
異質な私はその流れには組み込まれずに、ただひとり、強く組んだ指先を見つめる。
「……ねえ、お姉ちゃん…」
真っ白い爪の先を見つめたまま、
「……あしたは、がっこう行けるかなぁ…?」
真っ赤になるまで握りしめた爪の跡を見つめたまま。
『……そうね…』
『……なら……きっと…』
……ねえ、お姉ちゃん…
聞こえないよ…
『……内科にお越しの、タカノ ヨウイチ様。タカノ ヨウイチ様…』
……聞こえないよ…
「……栞、具合は…どうだ?」
「…うん。平気」
「……そうか…」
会社帰りに少し遠回りをして、毎日寄ってくれるお父さん。
仕事人間だと聞いていた、そんな面影はもうどこにもなくて。
私は、どうしようもなく胸をかきむしりたくなる。
心が痛くなる。
お金のことも。
『命はお金に替えられないのよ』
でも、後に残る人にはお金がいるもの。
他人(ヒト)と自分の現在(イマ)を奪ってまで、未来に生きたいとは思わない。
「……先生がね、一度…お家に帰ってもいいって」
つながらない視線。それでもわかる赤い瞳。
わかってる。
これは最後の晩餐。もう病院には二度と戻らない。
だって私は、これから死にゆくのだから。
私は、何て言えばいいのだろう?
涙かれるまで泣きたいのも、
大声で叫びたいのも。
私の方じゃないかもしれないのに。