もう一人の私が、泣いている。




「螢」





 涙はもう、枯れたと思っていた。
 思いはもう、果てたと思っていた。
 姿見に映し出された少女を見る。
 ストールを羽織って、
 私に、微笑みかけている。
 朝の光が行き過ぎて、羽根の舞うような暖かさが小さな部屋に満ちていた。
 きっと今夜は、昨日の夜より寒くはない。
 最初の夜よりは、もっとずっと。

 少女は微笑んでいる。




3rd‐『鏡の中の私』





 ねえ、知ってますか?
 ええ。びっくり箱の意味、です。
 あれは、開けてみて何が入っているかに驚くものじゃなくて、
 開けるまでに、意味があるんですよ。
 何が入ってるのかな? って、開けようと思う。
 好奇心って、すごいですよね。
 ……え? 私、ですか?
 私は……対好奇心では、連戦連敗中です。




 私にとって最初の偶然は、その日がよく晴れていたことでした。
 もし猛吹雪の一日だったら、私はずっと家にいて、次の日に何事もなかったように出かけていたはずだから。

 でも、その日はよく晴れていました。
 それこそ、何事も起こっていないかのように。

 誘われた、のかもしれません。
 用事なんてなくても、私は外に出て、同じ道を辿っていたかもしれない。そんな一日でした。



 二番目の偶然は、私がそれを思い出したこと。
 私の目の前に、降ってわいたように現れた小さな箱を。

 だから、私は、死ぬ勇気がなかったんじゃなくて、
 自分を哀れんでいたのでもなくて、
 ただ、好奇心が少し強かっただけなんです。



 そして、私にとって最期の偶然。

「……あ」

「どうしたんですか? こんなところで?」

 あとは、必然。





 それから、鏡の前に立つことが多くなりました。
 鏡の向こうの少女は、私に向かって微笑んでいます。
 私が、想像もしなかった微笑。
 私がきっと、知らない笑顔を。




 あの人に会うことが多くなりました。
 …いえ、あの人に会いに行くことが、多くなりました。
 私の中でずっと行き場をなくしていた好奇心たちは、ここぞとばかりに騒ぎ立てて、
 その対象を、私の中へと移していきました。

 私は何をしたいのか。
 私はどうしたいのか。
 私は、どうなりたいのか。

 ただ、うなづいてほしい。
 それだけのことに気づけずに。



 その日の朝は、雪が少しちらついていました。
 慣れている人間だけにわかる、寒くなるだろうな、という予感。それが自分にも残っていたということに少し驚きながら、私はベッドを抜け出します。
 優しさがつめ込まれた半身は私を止めるけど、
 泥にまみれたもう半分が私を急き立てるから。

 だから、そんな半分はきっと足の方だろうと思っていたのに、
 鏡を見ると、なんだか違う気がしました。

 泥にまみれているのは、きっと前半分。
 こんな笑顔を向けることが出来るのは、きっと。



 そんな思いを深いところに留めて、私は鏡を離れる。
 今日は寒いよ、ともう一度声。
 私は微笑だけ――鏡の向こうから向けられていた、きっとあの微笑を――返して、静かにドアを閉めた。





「よお、栞」

 あなたが笑うたび、

「…どうして、毎日学校に姿を見せるんだ?」

 私の心の中に何かが積もってゆく。

「…そうだな。約束だ」

 塵と、

「…2月1日って、まだ2週間もあるじゃないか」

 羽根と、

「でも、今ここで、そんなありがちな場面を見てみたい」

 自分の重みで飛べない鳥に、

「栞のことが――」

 積もってゆく――





 次の日の朝もいつもと同じ時間に目覚めて、私はちょっと驚いた。
 ゆっくりとベットの上で上体を起こして、カーテンを開けて外を見る。
 いいお天気だった。
 もう、そんな必要もないのに。

 もう……



 気づいてしまったから。
 抱きついてはいけない。
 お父さんとも、お母さんとも……お姉ちゃんとも同じ。
 抱きついたら、私の泥で汚れてしまう。

「……そうでしょ?」

 ストールをまとって、いつもと同じ格好で、

「……ねえ…」

 鏡の向こうに立つ少女が、

「…どうして…?」

 いつもの笑顔を曇らせて、

「……笑ってよ…」

 泣いていた。





 私を知らないあなたの前でなら、
 私も知らない、
 まだ見たことのない私に


 気づいてしまったから。
 私の不純な好奇心は、矢のように、
 私の胸を刺した。





 悔し涙をぬぐう、そんな時間はまだ残されていた。
 少しだけ赤い目の汚い顔は、昨日までと同じように笑ってた。

 一度間違えた道を戻る、そんな時間までも私に残ってくれているのなら、
 今日はこんなに晴れているから、
 私の顔で、私の声で、私の言葉で、
 何よりも伝えたい思いを、隠さずに言える気がして。

 涙で色づいた泥を
 もう一度、セミのような、でも、
 誰も知らない私で



 私は、確かめられますか?


 あなたは、うなづいてくれますか?








 私の身勝手なびっくり箱の話を、

 あなたが、笑い飛ばしてくれたら。




<つづく>



戻る