KanonSS/栞ダーク/バッドエンドver/
 これは酷い話です。非難や中傷も遠慮せずお寄せ下さい。







 何も知らない。




「螢」





 私は忘れ去るべきで、
 私は、忘れられるべきだった。
 あなたの声も、笑顔も、
 髪を撫でてくれる感触も、
 もしかしたら、雪の冷たさや、
 止まらない噴水の音色も。

 それでも、
 出会わなければよかった、と
 そう思えないのは、
 そう、思いたくないのは、
 きっと――



4th‐『すみれいろ』





 最後の夜、私が玄関の扉を開けると、お母さんはリビングのドアにもたれるように立っていた。
 少し言葉をなくして、靴も脱がずに、私はそのまま立ちすくむ。
 明るい廊下に、扉の閉まる少し鈍い音が響く。
「……おかえり」
 それが合図だったかのように、お母さんは少し笑った。
「……ただいま」
 私は、目を少し細めた。
 口元は、寒さのせいかかすかに震えて、ぎこちなく次の言葉をしぼりだそうとする。
「…寒かったでしょ。何か飲む?」
 でもその前に、お母さんはそう言ってドアを開けた。
「どうしたの?」
「あ……うん」
 それに促されるように私は慌てて靴を脱いで、見なれた背中を追うようにリビングに入った。



「ミルクでいい?」
「……うん」
「ちょっと待ってね。今あっためるから」
 そう言いながらもお母さんは手早くカップにミルクを注ぎ、レンジに入れる。
 そして思い出したかのようにもう一つカップを用意すると、同じようにミルクを注いでレンジに並べ、スイッチを入れた。
 静かな部屋に、かすかにうなるような音が響き渡る。
「……どうしたの? そんなとこに立ってないで。ほら」
「あ……うん」
 ドアのところにぼけっと突っ立っていた私は、その言葉に我に返ったように、リビングを抜けてキッチンへ歩く。
「はい」
 小さく引かれた食卓の椅子。私はお母さんのななめ前で立ち止まり、何か言おうと口を――


 ……チーン!


「あ、ちょっと待ってて」
 一旦私に背を向けて、お母さんはレンジの中を覗きこむ。ほどなく戻ってくるその両手には、湯気の立つカップが二つ握られていた。
「はい」
 私の椅子の前に、温かそうなカップが一つ、置かれる。
 もう一つのカップはその向かいの席に置かれて、お母さんはその前に――


「……お母さん」


 腰を下ろす、その前に、私は言葉を見つけた。
「なあに?」
 テーブルに手をついて、振り返るような格好で私を見る。
 湯気の先が、陽炎がかったように揺れていた。
 俯いていた顔を上げる。

「…好きな人が、できたの」

 まっすぐに私を見ている。
 少し驚いたような顔。
 でもその後、かすかに下を向いて、
 もう一度私を、今度は笑って見つめる。

「……よかったわね」

「………うん」

 私は、目を閉じた。

「……うん……」

 熱い。
 握りしめた手のひらが、火照って熱い。
 まぶたも。

「……あ…」

 不意に、抱きしめられたのがわかった。
 背中に回した両手に、ぐっと力がこめられる。
「……よかったね…」
 もう一度。
「……でも…」
「…うん」
「…でもね……」
「……うん」
 ただ、その声が……
「……ふられちゃった…」
 震えていて…
「……そう…」
「…うん……」
 揺れていて…
「…そっか……」
「…う…ん」
 追い越せなかった身長さえも…
「…かなしいね」
「……あは…は…」
 今は、うれしく思えて…
「………」
「……うん」
 私は……
「かなしいね……」

 …わたし、は……


「……うっ、ううっ……」


 ぽんぽんと、背中に添えられた手のひらが優しく動く。
 少し汚れたお母さんのエプロンは、日向とお花の匂いがして、
 そこに私の涙が染み込んでいくことが、すごく申し訳なく思えた。

「……初恋だったのね…」
「……う…ん」
「……そっか…」
「…ぐ…すっ……」
「…素敵な人だった?」
「…うん…」
「…優しい人、だった?」
「……うん…」
「…本当に…」
「ぐすっ……ひっく…」
「本当に……好きだったのね…」
「………うん…!」

 私の細い体が、もう一度包まれる。
 きつくだきしめられた胸の中は、ぼやけていた記憶の中とそれでも重なって、

「……ねえ、栞…」

 私の名前を呼ぶ声は、
 いつも、夢の中で聞いていた――

「…その気持ち…忘れないでね…」

『……栞』

 笑顔が、揺れて、重なって……

『…栞のことが、好きだから』

 笑ってた――



「うっ、う……っ、うわああぁぁぁぁぁんっ!!」



 抱きしめたお母さんの体は細くて、
 私たちの間に流れていたものたちが、
 ゆっくりと、
 ゆっくりと
 溶けて――



 リビング中に響いていた私の泣き声は、きっと誰かを傷つけていた。
 それでも、私は



「うっ、うう…うわぁあぁ……!」



 お母さんの胸につかまって、泣き続けた。
 時が壊れるくらい、ずっと、泣き続けていた。

























 ねえ、祐一さん。

 私はあなたと出会ったとき、

 もう一人、大事な人に出会ったのかもしれません。

 私がずっと傷つけていた、

 ずるくて、

 臆病で、

 弱虫で、

 それでもずっと、私に微笑みかけてくれていた、

 私がずっと知りたかった、

 そんな、とてもとても大事な人に。





 あなたの、あなたとの思い出は、

 きっと私を苦しめる。

 重ねた手のひらの温もりと、

 二人きりの夜の静けさと、

 それに、あなたを苦しめてしまったことでさえも。



 ……それでも…

 …ねえ、それでも……





 ……ねえ、祐一さん。

 私は、あなたを、まっすぐに愛せていた?

 もし、赦されるなら、

 できることなら、

『……栞』

 もう一度、聞かせて……




( epilogueへ )





 prologue:『さくらんぼ』(螢「ハリガネ」より)
   1st:『POWDER SNOW』(浜崎あゆみ「A Song for ××」より)
   2nd:『ポロメリア』(Cocco「ポロメリア」より)
   3rd:『鏡の中の私』(mawari「ひまわり」より)
   4th:『すみれいろ』(螢「わにがらヘビ」より)
 epilogue:『コスモス』(スピッツ「日なたの窓に憧れて」より)

 この栞につながる話を考えるきっかけを与えてくれた某社会人サマ(^^; に厚く御礼を。
 そして、今まで「詐欺師」の話を一度でも読んでいただいた方々に、心からの感謝を。


詐欺師



戻る