…はぁーっ…
凛とした空気に、私の白い吐息が溶けてゆく。
白い雪に黒い空。
雪…降らなかったな…
恨めしそうに、雲に覆われた空を見上げる。
もし…雪が降ってたら…
…降ってくれてたら…
ぶんぶん、と頭を振って、そんな考えを吹き飛ばす。
かすかに汗ばむ両手をしっかりと握りしめて、私はまた歩き出した。
今日は、聖なる夜。
クリスマスイブ。
〜 クリスマス・ソング 〜
…さくっ、さくっ、さくっ…
薄く積もった雪の絨毯に、私のブーツが跡をつける。
…さくっ、さくっ、さくっ…
誰もまだ通っていない、小さな道。私はそこを歩いていた。
今日は聖なる夜。神の祝福で満ちた夜。
…お願い…
私も祈りを捧げていた。
でもそれは神様のためじゃなく、私のために。
お願いします…!
今日一日商店街を歩き回って、それでも見つからなかった人の影。
でももし逢えたとしても、きっと私はしどろもどろになってしまっただろうけど。
でも逢えさえすれば、私は満足だった。
「偶然の出会い」なんて、そんなものを信じてた。
信号待ちの人ごみの中に、あなたの姿を探してた。
そこから何かが始まるかも、なんてちょっとだけ思ってた。
…こんなんじゃダメだよね。
街の中を歩きながら、そんなことを思ってた。
毎日遠くから見ているだけで、話しかけることさえできなくて…
それで一人で悩んで、苦しんで、「もうヤだ」って思った。
「告白しようかな」って思っても、やっぱり決心がつかなくて。
結局私は、この悩みから抜け出したいだけなんじゃないかって…
そんな私の勝手な都合で、あの人を巻き込んでいいのかなって…
こんな私じゃ、あの人には釣り合わないかなって…
そんなことを相談して、よーこに優しく笑われた。
「あなたも私とおんなじで、やっぱり考えすぎるんだね」って。
「なんか、損だよね」って、笑ってくれた。
だから勇気が出たのかな?
今日が特別だからかな?
空から何かが落ちてきて、私はもう一度足を止めた。
「…うわぁ…」
空から雪が降っていた。
とても弱い雪だったけど、でも間違いなく降っていた。
ほんとにかすかな、ホワイトクリスマス。
「…うんっ」
私は一人うなずいて、雪の中を歩き出した。
背中を押してくれたよーこの、笑い声が聞こえた気がした。
…すーっ、はぁーっ…
…すーっ、はぁーっ…
深呼吸一つ。それでも鼓動がおさまらなくて、流れるままにもう一つ。
「…よしっ」
小さく一つ気合いを入れて、電話ボックスの扉を開く。
…キィーッ……パタン。
そして出来上がる密室。私だけのささやかな世界。
車の音も遠くなって、どこか耳鳴りのするような空間。
今だ汗ばむ手のひらをスカートで拭って、私は自分の胸を押さえる。
…うわーっ、ばくばくいってる…
正直な自分の体に、ちょっとだけ勇気が枯れる。
……でも!
私は静かに目を閉じて、シナリオのおさらいを始めた。
…えっと、まずはあいさつをして…
『…はい、水瀬です』
『あ、夜分遅くすみません。美坂と申しますが…』
…ううん、ダメだ。これじゃお姉ちゃんと間違われるかもしれないから…
『夜分遅くすみません。美坂栞といいますが』
『ああ、栞ちゃんですね。祐一さんからお話は伺ってますよ』
『…えっ?本当ですかっ?』
『ええ。夕食のときには決まってあなたの話を楽しそうに…』
…ううん、違う。そんなことあるワケないもん…。
だから、とりあえず…
『…あの、祐一さんはいらっしゃいますでしょうか?』
『祐一さんですね。ちょっと待って下さいね』
『はっ、はいっ』
…それで、ちょっとの間音楽が流れて…
『はい、祐一です』
『あっ、祐一さんですか?』
『おお、栞か』
『えっ? 声でわかるんですか?』
『…いや…ま、まあな』
…だから違うって。
…そうよ。祐一さんは私からだって聞いてるはずなんだから…
それじゃ、気を取りなおして…
『…あの、今お邪魔じゃなかったですか?』
『今か?いや、ぜんぜん』
『そうですか…。それで、あの…少し時間、いいですか?』
『…え?いや、構わないけど…』
…それで祐一さんは、きっとだいたいの見当がついて…
『…祐一さん。私、ずっとあなたに言えなかったことがあるんです』
『……ああ』
『私…私、ずっとあなたのことが……好きでした』
『……栞』
『…付き合ってください、って言ってるわけじゃないんです。ただ…私の気持ちを知ってほしくて…』
『…………』
『ごめんなさい。単なる私のわがままですよね…。それじゃ、私――』
『――栞!』
『……えっ?』
『…俺も、お前に言えなかった言葉があるんだ…』
『祐一…さん?』
『…俺も…俺もお前のことが――』
きゃ―――――っ!!
……っと、アブないアブない…
だからそんなことあるワケないのに…
ちょっと暴走気味のシナリオにため息をついて、私は受話器を手に取った。
…えっと、テレカテレカ…
……あった。でも20ちょっとで…
…足りるに決まってるよね…
電話ボックスの中で一喜一憂を繰り返して、やっと私はテレカを差し込む。
ツ―――――ッ
耳の奥に聞こえる音。無機質な音が、私のこころを揺らす。
…これで…いいの?
今電話しちゃって、本当に……
…トクン、トクン…
この空間いっぱいに響き渡るような心臓の音。今にも破れちゃうんじゃないかってくらいに高鳴る。
うぇーっ、どうしよう…
泣きたくなるのを必死に堪え、私は一連の番号をプッシュした。
ピッ、パッ、ポッ……
…トゥルルルルルルルッ、トゥルルルルルルル…
『…はい、もしもしぃ?』
「…あ、もしもし?よーこ?」
『なんだ、栞?』
「うん。あのね…」
…ガチャン。
ピピ―――ッ、ピピ―――ッ!
吐き出されたテレカをつまみとり、私は大きく息を吐く。
「はあぁ…」
帰りたい…
…でも、今日を逃したらもう絶対…
来年の春には、祐一さん卒業しちゃうし…
「…ふえぇ…」
背中を冷たいガラスに預けて、目の前の現実(電話)から逃れるように私は外の景色を眺めた。
もう全然車は走ってない、静かな道路。
ガソリンスタンドの明かりだけが、晧々と闇を照らしてる。
『…好きだ、って言われて、イヤな気になる人なんていないんだから』
さっき聞いた、勇気付けてくれたよーこの言葉が、さっきから頭の中で繰り返されてる。
…そうだよね。私だって、誰かに好きだって言われたら…
やっぱりうれしいもんなぁ…
…でも、誰に言われたい?っていったら…
『…栞、好きだ』
…やっぱり祐一さんに言われたいし…
……結局どうどう巡りだし……
「…はぁ…」
こうやって悩むのがイヤだから決心したはずなのに。
それでも今度は、電話そのもので悩んでる。
ダメだなぁ、私…
うつろな目つきで、手にしたテレカの模様を眺める。
これは確か、お姉ちゃんからもらったもの。
携帯持ったからいらなくなった、って、それで…
……キィィ。
私はドアを押し開けて、冷たい外の空気を吸った。
張り詰めた風は肺を駆け抜けて、また空へと還っていく。
雪はまだ、降っていた。
『好きだ、って言われてね……』
……よし。
私は再び拳を握り締め、小さな戦場へと戻った。
…ピッ、パッ、ポッ、パッ…
うぅ、心臓がうるさい…
受話器を持つ手が震えてる…
うわ、ボタンを押す手も震えてる…
トゥルルルルルルルッ、トゥルルルルルルルッ!
ああっ、かかっちゃった!
えっと最初はまず…
『…はい、水瀬ですけど』
あ、出たっ!
「え、あ、えっと、夜分遅くすみません。美坂…いえ、美坂栞ともうしますがっ!」
『はいはい』
あれ?男の人の声…
「あの、祐一さんは…?」
『…オレだけど』
「えっ?あっ、あのっ、祐一さんっ!?」
『おう』
いぇ――っ!?
えっと、シナリオが、シナリオが…あうあう…
『どうした?何かあったのか?』
「いえ、えっと、その…」
とりあえず…とりあえずそう!場をなごませて…
「今…その、お邪魔じゃありませんでした?」
『いや、そんなことないぞ』
「あの何…してたんですか?
『今か?今はちょっとテレビ見てた』
「…勉強しなくていいんですか?」
…ああ、こんなこと言いたいんじゃないのにぃ!
『…ま、たまにはな』
「…そうですね。クリスマスイブですもんね」
あー、大丈夫かな…キブン悪くしてないかな…
「…私も今日、意味なく一人でブラブラしてて…」
『…ふ〜ん』
「…おかげでちょっとカゼひいたかもしれません」
『…何やってんだよ、まったく』
ちょっと響いた笑い声。
たったそれだけなのに、心の奥が落ち着いていく感じがする。
…今なら…言えるかも…
「……あの、祐一さん」
『ん?』
「…今ちょっと…時間ありますか?」
『ああ。テレビ見てたくらいだからな』
そうですね、と一つ苦笑をもらして、私は目を閉じる。
「……祐一さん」
「私、祐一さんのことが、きっと……好きです」
一瞬だけ、時が止まった。
私の周りの小さな世界と、声でつながった祐一さんの世界。
ほんのわずかの、だけど永遠の一瞬。
あれだけうるさかった心臓の鼓動は、もう、聞こえない。
「…だからって、付き合ってください、って言ってるわけじゃないんです」
「すごく身勝手に聞こえると思うんですけど、ただ私の気持ちを知ってほしくて…」
「……迷惑だったとは、思うんですけど…」
『迷惑だなんて……』
祐一さんの声が、聞こえた。
ちょっと困ったような、それでも優しい声。
私は急に怖くなった。
その声をそれ以上聞くことが、何故だかとても怖くなってしまった。
「…ごめんなさい。とんだクリスマスプレゼントになっちゃいましたね」
私の声が震えてる。
震える声が笑ってる。
怖がりな私を、笑ってる。
でも、私は…
わたし、は…
「…ごめんなさい。いきなりこんな電話して」
『…いや、いいんだ』
祐一さんは、優しかった。
とてもとても、優しかった。
でもそれ以上の言葉は、最後の最後まで、出ることはなかった。
「…それじゃ…おやすみなさい…」
『…ああ、おやすみ…』
……ガチャッ。
とたんに私は静寂に包まれた。
さっきまで私を包んでくれていた暖かい声は、もうどこからも聞こえない。
私はそれに耐えきれなくて、そして…
『…はい、もしもしぃ?』
「……あ、よーこ?」
『あ、栞』
「……言っちゃった」
『…それで、なんだって?』
「………返事聞かずに切っちゃった」
『ばかぁ!』
「ひぇ〜っ、そんなコト言ったって…」
『アンタねぇ、それじゃ相手の方だってすっきりしないまんまじゃない!』
「…それはそうかもしれないけど…」
『言うだけ言って切るなんて、なんか失礼だよ、それ』
「……う〜ん」
『アンタだってそれでいいの?』
「…………」
『はっきりしない言葉で終わらせて、それでいいの?』
「…よく…ない…」
『……はぁ…』
「…………」
『…まあ、もう一度電話しろとまでは言わないけど…』
「…うん」
『…とにかくもう一度、今度ははっきり聞いたほうがいいと思うよ』
「…うん」
『相手のためにも…栞のためにもね』
「……うん」
トゥルルルルルルルッ、トゥルルルルル…
『…はい、水瀬です』
「…あ、栞…です」
結局私は、その後の電話であらためてフラれた。
そのあともう一度よーこに電話したら逆に謝られちゃったけど、私は感謝してる。
私もさっきより、すっきりできた気がするから。
でもやっぱり、もうちょっと、引きずっちゃいそうだけど。
…それに…
『…でも、ありがとう』
『なんか、うまく言えないけど…うれしいよ』
…祐一さんは、そう言ってくれた。
私に優しく、そう言ってくれた。
だから私は、この人を好きになってよかったと思った。
この人を好きでよかったと思った。
ただそれだけで、今は…
雪はさっきよりも強くなっていた。
私の視界を埋め尽くす綿毛のような雪が、風に吹かれることもなく積もってゆく。
…さくっ、さくっ…
まだやわらかい雪の上を、私はゆっくりと歩いた。
振り返れば足跡は、降りつづける雪に少しずつ消されていく。
私はそれをじっと見つめて、そしてまた歩き出した。
…ねえ、祐一さん。
あなたの私への思い出も、あんな風に消えていくんでしょうか?
私のあなたへの思いも、あんな風に消えていくんでしょうか?
それはやっぱり悲しいけど、やっぱりそんなものなんでしょうか?
それが生きていくってことなんでしょうか?
…なんて、ちょっと大袈裟ですよね。
…でも…
あなたはとても優しかったです。
だから私はうれしかったんです。
とても、とても…
本当に、うれしかったんです。
この気持ちはきっと、消えることはないと思うんです。
あなたを好きなことが、私の幸せだったこと。
この街に降り積もる、雪の景色に重なって…
私のどこかに、ずっと残ると思うんです。
許してくださいね。
それくらい、いいですよね。
だって祐一さん、優しいから。
冷たくフってくれないくらい、優しいから。
だから、私は…
……わたし…は…
静かに降りしきる雪は、私にも積もっていく。
頬で溶ける雪はそのまま、冷たい涙となって。
Fin.