【概要】  争いとなる金額は、数万から数十万円であることが多いため、裁判の場合には簡易裁判所が第一審となります(裁 判所法第33条により訴訟の目的が90万円以下は簡易裁判所が管轄する)が、トラブルの増加を反映して判決もここ 数年目立ってきており、以下に紹介します(いずれも判例集未搭載)。  民法上、賃借人は目的物を「原状に復してこれに付属せしめたる物を収去する」権利を有すると規定されており(民 法616条、598条)、賃借人の権利の側面から原状回復が定められていますが、解釈によって、賃借人が賃借物に物 を付属させた場合には、それを取り除いて、つまり原状に復して返還する義務(収去義務)があるとされています。ま た、賃貸借の目的物に係る修繕は原則貸主が行うこととされています(民法606条)。そして過去の判例等では、賃借 人は、通常の使用によらない損耗等についてのみ、修繕義務や原状回復義務があるとされているのです。  しかし、一般に使用されている賃貸借契約書においては、特約として賃借人に過大な修繕義務や原状回復義務を 課しているものがあり、退去の際、賃貸人がその条項を楯に補修等の費用を請求した結果、その範囲や費用負担、さ らには敷金の返還について、トラブルが発生しています。  以下に紹介する事例の主な争点は、1.退去後に賃貸人が行った修繕にかかる損耗が、賃借物の通常の使用によ り生ずる損耗を超えるものか否か、2.損耗が通常の使用によって生ずる程度を超えない場合であっても、特約により 賃借人が修繕義務や原状回復義務を負うか否かの2点です。  1.について、判決は、立証事実をもとに損耗が通常の使用による損耗か否かを判断していますが、「入居者が入れ 替わらなければ取り替える必要がない程度の状態である」(保土ヶ谷簡判)、「10年近く賃借していたことを考慮すると、 時間の経過にともなって生じた自然の損耗といえる」(東京簡判)などとして、賃借人が破損等をしたと自ら認めたもの 以外は、通常の使用によるものとするのが大半です。しかし、事例1の横浜地判においては、カーペット等に発生した カビについて、その程度・範囲、同建物内の他の住戸におけるカビの発生状況を参酌し、「通常の態様で使用したこと から当然に生じた結果とはできず、賃借人の管理、すなわちカビが発生した後の手入れにも問題があった」として、賃 借人の責任を2割程度認めている場合もあります。  1.については、居住用建物の賃貸借においては、賃貸物件の 通常の使用による損耗、汚損はその家賃によってカバーされるべきで、その修繕を賃借人の負担とすることは、賃借 人に対し、目的物の善管注意義務等の法律上、社会通念上当然に発生する義務とは趣を異にする新たな義務を負担 させるというべきであり、特約条項が形式上あるにしても、契約の際その趣旨の説明がなされ、賃借人がこれを承諾し たときでなければ、特約による修繕義務や原状回復義務を負うものではないとするのが大半です(伏見簡判、仙台簡 判)。 【事例1】 保土ヶ谷簡判(平成7年1月17日) 横浜地判(平成8年3月25日) (1)事案の概要  借主Xは、平成元年7月2日、Yとの間で横浜市内のマンション(新築物件)の賃貸借契約を締結した。契約期間は2 年間、賃料月額9万7000円、敷金19万4000円とし、Xは同日Yに敷金を交付した。平成3年7月2日の契約更新時に 賃料が1万円増額され、その結果敷金も2万円増額されたので、Xは同日Yに敷金を追加交付した。平成6年3月31日 賃貸借契約は合意解除され、同日XはマンションをYに明け渡した。  Yは、Xが通常の使用による損害以上に損害を与えたため、以下の補修工事を実施し、46万9474円を出損し、敷金を 充当したので、敷金は返還できないと主張したことから、Xが交付済みの敷金21万4000円の返還を求めて提訴した。 ●工事内容 イ 畳六畳の裏返し ロ 洋間カーペットの取り替えならびに洋間の壁・天井、食堂、台所、洗面所、トイレ、玄関の壁・天井の張り替え ハ 網入り熱線ガラス二面張り替え ニ トイレ備え付けタオル掛けの取り付け (2)判決の要旨  これに対し一審は、 1 畳は、入居者が替わらなければ取り替える必要がない程度の状態であったから、その程度の損 耗は 通常の使用によって生ずる損害と解すべきである。 2 洋間カーペット、洋間の壁・天井等は、カビによる染みがあったために取り替えたものであるが、本件建物が新築で あったために壁等に多量の水分が含有されていたことは経験則上認められ、また、居住者がことさらにカビを多発せし めるということは到底考えられないし、またXがそのような原因を作出したとは認められない。 3 網入りガラスは、熱膨張により破損しやすいところ、Xが破損に何らかの寄与をしたとは認められない。 4 トイレのタオル掛けの破損も、石膏ボードに取り付けられた場合、その材質上、取れ易いことは経験則上明らかであ る。 5 以上から、各損害はいずれも通常の使用により生ずる損害、損耗であり、Yが負担すべきとして、Xの請求を全面的 に認めた。 *なお、本事案については、Yが一審判決を不服として横浜地裁に控訴した。  控訴審においては、 1 洋間カーペット、洋間の壁、洗面所、トイレおよび玄関の天井および壁に発生したカビについて、相当の程度・範囲に 及んでいたこと、本件建物の修繕工事をした業者が同一建物内の他の建物を修繕したが、そこには本件建物のような 程度のカビは発生していなかったことから、本件建物が新築でカビが発生しやすい状態であったことを考慮しても、Xが 通常の態様で使用したことから当然に生じた結果ということはできず、Xの管理、すなわちカビが発生した後の手入れ にも問題があったといわざるを得ない。 2 カビの汚れについては、Xにも2割程度責任があり、「故意、過失により建物を損傷した有責当事者が損害賠償義務 を負う」旨の契約条項により、Xは本件カーペット等の修繕費15万5200円のうち、約3万円を負担すべきである。 3 以上から、原判決(保土ヶ谷簡裁)を変更し、Xが請求できるのは、敷金21万4000円から3万円を差し引いた18万 4000円とした。 【事例2】 伏見簡判(平成7年7月18日) (1)事案の概要  借主Xは、平成2年4月1日、Yとの間で建物(公庫融資を受けた賃貸住宅と思われる)について賃貸借契約を締結し た。契約期間は2年間、賃料月額6万6000円、敷金19万8000円とされ、Xは同日Yに敷金を支払った。なお、Xは、契 約以前の平成2年1月18日に設備協力金として12万3600円(消費税込み)を支払っていた。平成4年4月1日の契約 更新時に賃料が5000円増額されたが、敷金の追加支払いはなく、Xは更新料として12万円を同年6月1日に支払っ た。  Xは、平成6年1月23日に本件建物を退去してYに明け渡した。  明渡時にY側の立会人は、個々の箇所を点検することなく、全面的に改装すると申し渡したので、Xが具体的に修理 等の必要のあるものを指摘するよう要求したところ、後日Yから修理明細表が送られてきたが、内容は全面改装の明 細であった。XがYの通知した修繕等を行わなかったため、YはXの負担においてこの修繕等を代行した。  Xは、建物を明け渡したことによる敷金の返還を求めるとともに、支払い済みの設備協力金等は不当利得であるとし てその返還を求めて提訴した。一方、Yは賃貸借契約に基づく明渡時の原状回復の特約(契約時点における原状すな わちまっさらに近い状態に回復すべき義務)をXが履行しなかったことで、Yが代行した修繕費のうち、敷金によって精 算できなかった差額金の支払いを求めて反訴した。 (2)判決の要旨  これに対して裁判所は、 1 設備協力金等について、冷暖房機設置の負担金およびその更新料と認められ、住宅金融公庫融資関連法令の禁 ずる脱法的家賃ではなく、物品使用料であり、その額についても、暴利行為と認められないとして、Xの返還請求を斥 けた。 2 原状回復については、動産の賃貸借と同様、建物の賃貸借においても、賃貸物件の賃貸中の自然の劣化・損耗は その賃料によってカバーされるべきであり、賃借人が、明渡しに際して賠償義務とは別個に「まっさらに近い状態」に 回復すべき義務を負うとすることは伝統的な賃貸借からは導かれず、義務ありとするためには、その必要があり、かつ、 暴利的でないなど、客観的理由の存在が必要で、特に賃借人がこの義務について認識し、義務負担の意思表示をし たことが必要である。本件契約締結の際に当該義務の説明がなされたと認められる証拠はなく、重要事項説明書等 によれば、賃借人の故意過失による損傷を復元する規定であるとの説明であったと認められるとして、Yの主張を斥け、 X支払い済みの敷金全額の返還を命じた。 【事例3】 東京簡判(平成7年8月8日) (1)事案の概要  借主Xは、昭和60年3月16日Yとの間で都内の賃貸住宅について賃貸借契約を締結した。賃料月額16万7000円、 敷金33万4000円であった。Xは、平成7年12月1日に本件建物を退去してYに明け渡した。Yは、その後原状回復費用 としてビニールクロス張り替え費用等55万5600円を支出し、本件契約の「明け渡しの後の室内建具、襖、壁紙等の破 損、汚れは一切賃借人の負担において原状に回復する」との条項により、敷金を充当したとして一切返還しなかった。  このためXは、入居期間中に破損した襖張り替え費用1万3000円を差し引いた32万1000円の返還を求めて提訴し た。 (2)判決の要旨  これに対して、裁判所は、 1 建物賃貸借契約に原状回復条項があるからといって、賃借人は建物賃借当時の状態に回復すべき義務はない。 賃貸人は、賃借人が通常の状態で使用した場合に時間の経過に伴って生じる自然損耗等は賃料として回収している から、原状回復条項は、賃借人の故意・過失、通常でない使用をしたために発生した場合の損害の回復について規 定したものと解すべきである。 2 部屋の枠回り額縁のペンキ剥がれ、壁についた冷蔵庫の排気跡や家具の跡、畳の擦れた跡、網戸の小さい穴につ いては、10年近いXの賃借期間から自然損耗であり、飲み物を絨毯にこぼした跡、部屋の家具の跡等については、賃 借人が故意、過失または通常でない使用したための棄損とは認められない。 3 以上から、Xの請求を全面的に認めた。 【事例4】 東京簡判(平成8年3月18日) (1)事案の概要  借主Xは、平成3年8月30日、Yとの間で東京都内のアパートの賃貸借契約を締結した。契約期間は2年間、賃料月 額15万円、敷金30万円とし、Xはその前日Yに敷金を交付した。平成5年8月30日の契約更新時に賃料が5000円増 額され、その結果敷金も1万円増額されたのでXは同日Yに敷金を追加交付した。平成7年8月31日賃貸借契約は解 除され、同日XはアパートをYに明け渡した。  Yは、賃貸借契約書の「賃借人は明け渡しの際、自己の費用負担にお いて専門業者相当の清掃クリーニングを行う」旨の特約に基づき、クリーニングを含む補修工事等を実施し、27万6280 円を支出したとして、敷金との差し引き3万3720円を返還した。このため、Xが交付済みの敷金残額の返還を求めて提 訴した。 (2)判決の要旨  これに対して裁判所は、 1 建物が時の経過によって古び、減価していくのはさけられず、賃貸人は減価の進行する期間、それを他に賃貸して 賃料収入を得るので、賃貸借終了後、その建物を賃貸借開始時の状態に復帰させることまで要求するのは、当事者 の公平を失する。 2 本件特約は、賃借人の故意、過失に基づく毀損や通常でない使用方法による劣化等についてのみ、その回復を義 務づけたものと解するのが相当である。 3 本件について、Xの故意、過失による毀損や通常でない使用による劣化等を認める証拠がない。 4 以上から、Xの請求を全面的に認めた。 【事例5】 仙台簡判(平成8年11月28日) (1)事案の概要  借主Xは、Yとの間で平成2年2月28日アパートの賃貸借契約(期間、賃料は不明)を締結し、敷金19万8000円を支 払った。  XYは、平成6年3月31日に合意解約し、Xは同日、本件部屋を退去した。  退去後、X立ち会いのもとAが本件部屋の点検をし、Aが修繕を要すると判断した箇所および見積額を記載した「退去 者立合点検見積書」を作成したうえで、Xにサインを求めたが、Xは腑に落ちなかったため、一旦は拒否した。しかし、A から立ち会いについての確認の意味でのサインを要請され、Xはサインしたが、その場で金銭は支払わなかった。  Yは、以下の補修工事を実施し、33万6810円を出損したため、賃貸借契約書の原状回復義務および修繕特約に基 づき、Xに対して修繕費等から敷金を控除した残金の支払いを求めて提訴した。 ●工事内容 イ 畳修理 ロ ふすま張り替え ハ 壁修繕 ニ 天井修繕 ホ 床修繕 ヘ クリーニング工事 ト その他修繕 チ 玄関鍵交換 リ 消費税  これに対してXは、上記修繕費等のうち、ヘからチおよびその消費税については、その支払い義務を認めたが、その 他については、賃借物の通常の使用による損耗であるから、義務はないと主張した。 (2)判決の要旨  これに対して裁判所は、 1 Aの証言は、修繕を要すると判断した損傷箇所の内容等についての具体的明確な説明がなく、Aが部屋自体がそれ ほど汚いという記憶もなかったということから、イからホの箇所に通常の使用により生ずる程度を超える損耗等があっ たとは認められない。 2 居住用の賃貸借においては、賃貸物件の通常の使用による損耗、汚損は賃料によってカバーされるべきものと解す べきで、その修繕を賃借人の負担とすることは、賃借人に対して新たな義務を負担させるものというべきであり、特に、 賃借人がこの義務について認識し、義務負担の意思表示をしたことが必要である。しかし、本件契約締結にあたって この新たな義務設定条項の説明がなされ、Xが承諾したと認める証拠はないため、修繕特約によって、新たな義務を 負担するとの部分はXの意思を欠き無効である。 3 修繕特約は、通常賃貸人の修繕義務を免除したにとどまり、さらに特別の事情が存在する場合を除き、賃借人に修 繕義務を負わせるものではないと解すべきところ、本件において、特別の事情の存在を認めるに足りる証拠はない。 4 以上から、Yの請求のうち上記イからホの修繕費については、理由がないとして斥けるとともに、Xが敷金と支払い義 務を認めるヘ〜チの修繕費および消費税を対等額で相殺することを認めた。 【まとめ】  賃借人の修繕義務に関する地裁の判例(名古屋地判平成2年10月19日)では、一定範囲の小修繕を賃借人の負 担で行う旨の特約は、賃貸人の修繕義務の免除を定めたものであって、積極的に借主に修繕義務を課したものと解 するには特別の事情を要するとし、建物の毀損、汚損等の損害賠償義務を定めた特約は、賃貸借契約の性質上、そ の損害には賃借物の通常の使用によって生じる損耗汚損は含まれないとしています。今回紹介した5事例においても、 修繕等に関する特約については、同様の考え方をとっています。  また、それぞれの事例における建物の損耗については、賃借人が自らの故意、過失による損耗と認めたもの以外は 通常の使用による自然損耗として、賃借人の主張をほぼ全面的に認めているが、横浜地判の事例のように、いったん カビが発生した後の室内の手入れについては、賃借人が一定の責任を負うとしているものもあります。  これらは、いずれも賃貸人にとって厳しい判決ですが、賃貸住宅をとりまく状況や取引の実態等を勘案すると、すべ てのケースに判旨をそのままあてはめて当事者間の調整・解決を行うことは困難な場合も想定され、トラブルの防止 にはつながらないと思われます。その意味で原状回復の問題について、より現実的な対応策の検討が期待されま す。 (財)不動産適正取引推進機構 調査研究部調査課長 村上秀樹 (『RETIO.1997.6 No.37』より一部転載)