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・まぐまぐメルマガ 「現代ロシア政治経済の展望」(サハローフスキー氏)
より以下引用

ロシア在住者には余りに身近な「原体験」「小説」
「モスクワの四季」

小林淳宏 氏 時事通信 元モスクワ支局長 (ワシントン、パリなどの支局長歴任)の 遺作

「モスクワの四季」
書出しから、読者を一気に、日ロ関係史の画期の一つ、1967年、ソ連と日本の「定期航空路開設日」の
状況の描写で、当時のソ連に引き戻してくれる。

「1967(昭和42年)年4月20日午後4時25分(注:原本は漢数字)、
シェレメーチェボ空港にTU 114型機が到着した。白い胴体に青い色で「JAL」、
その横に「CCCP」という赤い字が並んでいる。
・・・
乗客はソ連から招待された各界代表の約80人(注:原本は漢数字)である。
・・・

みんなモスクワの冷え冷えした空気に首を縮めている。・・・・・・
ザ・ピーナッツ、石井好子、・・・。
やがて団長の昭和電工社長安西正夫と副団長の細川隆元が
タラップを降り、出迎えの民間航空省次官ブイコフや中川融中ソ大使と
握手を交わしている。・・・」

この優れた特派員が帰国後、時事通信 外信部長、取締役をへて、
子会社の社長のポストを断り、定年後の「趣味」でマスコミの話題を集めた。

しかし、このような「小説」を出版していたとは気が付かないでいた。
偶然、手にしたこの「モスクワの四季」は、よく言われる「一気呵成」で読了。

この優れたジャーナリストが描き出したソ連時代の政治や社会情勢は、

固有名詞と時系列の正確さにおいて、一体この本は、
小説なのかノンフィクションなのか、戸惑うほどであった。

特派員集団の不自由な生活や緊張、ブレジネフ時代の冷戦構造の中での
取材の難しさと同時に、四季折々のモスクワの楽しい風景描写、
人間模様を縦横に描いた力作。

フランス語の泰斗の面目躍如、若いロシア人の娘と中年の独身記者の
恋物語を縦糸に、周辺事情を横糸に織り成す人間劇もまた、
この小説に引き付けられた理由かもしれない。

特派員の妻が、ロシアの若いイケメンと不倫に落ちる筋書きも、
結びで、トルストイの「アンナ・カレーニナ」に重ねる手法も、初作品としては
驚くべき才能と脱帽した。

出版の労をとったのは、病気で倒れた同氏の奥さんとのこと。
読みにくい原稿を相当の時間をかけて「校正」したと言うから、
夫婦愛の結晶とも言える作品である。

「モスクワの四季」
(小林淳宏、1999年11月、鳥影社、1600円 +税)

因みに、AMAZON や 楽天、ヤフーなどでは、数百円で 在庫あり、のようである。

・「モスクワ日本大使館」(関 文行、1997年、光人社):

松岡洋右の再評価。国際連盟脱退演説の国民的誤解。スターリン、モロトフとのハードネゴ。社会主義の壮大な実験の失敗を予言。「全国民にうったう」(1933年)など、興味深い。

・「ベルリンの秋」(春江一也、1999年、集英社インターナショナル):

ソ連崩壊を内包した1980年代後半、西ドイツ・ブラント首相の東方政策がやがてベルリンの壁を崩壊させる。作者が「プラハの春」で見せた正確な知識とロマン構築ミックスの冴えが読むものをして、生き生きとした歴史の中に引き込んでいく。ソ連、東欧の事情通らしい現役外交官の次回作に期待が高まる。
作家によって照らし出されたドイツ統一の必然性は、隣国韓国と北朝鮮の今後を推測する上で、政治学者、歴史学者にも大いに参考になるのではないだろうか。

・「クレムリンの子供たち」(原題:「Кремлёвские дети」)(ワレンチーナ・クラスコーワ著、大田 正一 訳、2003年、成文社):

革命時代からソ連邦崩壊までの権力者たちの姿を、彼らの家族(妻、子供たち)と部下たちにストッポライトを当てることにより、いかにして社会主義の夢がスターリンの恐怖政治に変質し、やがて崩壊に至ったかを克明に浮かび上がらせる。具体的に政治に関わった人間たちの赤裸々な人間性、権力に対する媚と弱さを見せ付けられる。なお、作者名は複数の在ミンスク作家グループのプセブダニム(呼称)だそうである。

・「樺太・千島に夢をかける」(林 啓介、2001年、人物往来社)

江戸末期から明治初期にかけて、世界列強の極東進出を見据え、日本の将来を憂えたある壮士の伝記的物語。岡本韋庵の生涯は波乱万丈であった。幼名 文平、成名 監輔。徳島に生を受け明治37年11月9日没す。享年66歳。
樺太でアイヌや他の少数民族が生活していたその地に和人、ロシア人が進出してくる。お互い、経済的利害で共生。しかし、徐々にロシア人の経済支配が進行し、領土の既得権が発生しつつあった明治初期、政府に対し、樺太への経済拡大を進言。だが、中国大陸への列強進出に対抗する政策を優先せざるを得なかった黒田清隆、副島種臣らの樺太放棄論の趨勢に抗すべくも無かった。1875年、千島・樺太交換条約締結。
歴史に、「もしも」は無いと言われる。しかし、当時の明治政府が岡本らの進言を受け入れ、樺太開拓に本腰を入れていたならば現在の日ロ関係はどうなっていただろうか。いや、日露戦争や第二次世界大戦の帰趨はどうなっていただろうか。意外な結末になっていたかもしれない。
現在のサハリン・プロジェクトの重要さを見る時、南北樺太が日本統治下で開発がなされていたなら、1945年の樺太人口は何百万だったかも知れず、敗戦の形が違っていたのではないだろうか。最悪、ソ連により樺太は占領され、日本はドイツと同じ運命になっていたかも知れない。悲劇は想絶するものとなっていたかもしれない。歴史とは必然なのか神の悪戯の結果なのか。
なお、当時の外務卿副島がロシアに「樺太購入」を申し出たのに対し、「この地は罪人追放の地として必要である」との回答を得たとか。歴史の皮肉であろうか。1867年、アラスカを二束三文で手放したロシアがいま、サハリン・プロジェクトの「豊かさ」に感謝しているだろうことの不思議さ。