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 つれづれ記

2006年4月20日(木)
高松塚壁画の保存におもう

 高松塚の彩色壁画に黴が発生し、著しく原画を損傷し既に一瞥では原画の判別が困難な状態にある。周知のように、石室を解体して壁画を切取り樹脂で固めて保存することになった。ところがその後、壁画の保存作業にいくつかのミスがあったことが明らかになって来た。
 高松塚は昭和45年に関西大学の網干教授らの手によって発掘され、その後保存管理は文化庁に移管された。発見された当時、極彩色の壁画は日本中に古代史ブームを巻き起こし,明日香は発掘考古学のメッカ的な存在となった。
学生時代に古美研(古美術研究会)に籍をおき少なからず関心をもっていた私は心躍らせ、現地周辺をうろついたり画集を買い求めたりしたものだった。
 当時、奈良の考古学の指導的な役割をされていた故末永雅雄博士(関西大教授、橿原考古学博物館初代館長)は徹底的な壁画の保存を主張された。そのため古墳は直に密閉閉鎖され、一般人は勿論研究者さえも全体を見ることが出来なくなった。「末永は発見を独り占めにする」と非難を受けたりしたが博士の信念はかわらなかった.彼は兼ねてから、伝承や文化に頼りがちな考古学を発掘物という物証を基礎とした学問にするように努めていたし、発掘物が完全に保存可能な手段が確立するまで発掘すべきでない、と考えていた。千数百年を経た文化財は将来にわたる我が国民全体の財産であり、現在の研究者の興味で発掘してはならないと思っていた、そのために発掘が何100年遅くなろうとも一向にかまわないと、、。
 保管管理を文化庁に移管する件も、現地の研究者や民間の考古学愛好者からは反対意見が多かった。今まで発掘に携わってきた研究者の中には涙して反対するものもいたという。末永博士は「高松塚は地域や研究者のものでなく国民全体の財産だから、文化庁はその立場で立派に保存をやってくれるだろう」と説得して回った。高松塚は国宝となり石室は閉鎖され大規模な温調装置が設置され徹底した温湿度管理がされて永久保存の処置がとられた、と信じられていた。見学者は壁画館でレプリカを見るのみあったが文化財の永久保存のためと納得していた。
 今回の黴発生事故は末永博士の意思に遠く、我々の期待をも裏切ったものだった。不注意で壁画を2度も疵付けその場で補修したとか、防護服なしで石室内に入るなど黴発生の原因となるような行動があったという。しかもそれらの記録を公表せず頬被りをしていた。
 人間だからミスはある、では済まされない。ミスで壁画を消失せしめる恐れがあるなら、末永博士の言うように発掘調査などせずに後の世代の人々の手にゆだねるべきであったのかも知れない。
 当初、文化庁は黴は温暖化の影響?とかいっていた。文化庁の研究者が懸命の努力をされていることは疑いないと思うが、功名や立場の為に拙速になったことでないことを信じたい。強引と思える石室の解体と原画の切取保存も、自らのミスを焦ったためでなかったことを信じたい。
 
 

2005年9月16日(金)
安堵状

衆議院選挙が終わった。少し強引かなと思えたが小泉自民党の圧勝であった。公認非公認の騒動を見て、党の公認証とはいにしえの安堵状そのものだと思った。
安堵は自己の権力範囲(地盤)を時の権力者に認知してもらって、その地区支配の正当性を得る。古来、権力者は家臣に領地地盤を安堵する代わりに民を統べ、税を徴収し、忠誠を求めることで統治を行ってきた。
昔の守護職や戦国大名・封建大名も、現代の公党の公認候補や、少し乱暴な例えだが暴力団組織の地盤も、そこに住む民の意考とは関係なく自分の配下に地盤を割り振って安堵状をだす。統治に失敗すれば取りかえる。
 高い投票率になったが、お仕着せの政党の安堵状地盤割り選挙に投票することが、政治に参加出来る唯一の方法というのも寂しい。
とはいえ、主体的に活動するのも,毎日の生活に追われている一般市民には大層で面倒だ。やはり少しでもましと思える候補者への投票で我慢するしかないか。

2005年9月16日
方丈記のこと









 時は平安の末期、さすがの平家の力も衰えて京の都が荒廃していた時期。
今、NHKの大河ドラマ「義経}で放映されている丁度そのときのこと。役所勤め鴨長明は政権の右往左往に翻弄され、役人家業に嫌気がさして退職、組立式の小屋を作って洛北の里や、山科の里など移りながら気まま勝手な生活を始めた。
方1丈の小さな建て屋でトイレや洗面などは無い。当時は傍の小川で用足しができた。

 「方丈記」はこんな生活の中で書き上げられた。権力を巡り貴族や武士や皇室などが駆引し争っている中で、街々に横たわる餓死者や加茂川を埋め尽くす死体、都の腐敗荒廃などなど、方丈記はなまなましく綴る。大河ドラマに登場するような武士と貴族と院だけの世界ではない。
 世捨て人になりきれず、西行のように坊主にもならず、現世を見据えた。方丈記はだから面白い。徒然草のような気取ったところは微塵も無い。
早期退職、アウトドアーの気ままな生活願望など、鴨長明を我が身に置き換えいろいろ思いをはせる。
京都下賀茂神社の南西の一隅に河合神社というのがあって、鴨長明はここの禰宜の息子。境内にその小屋が再現公開されている。敷石に檜材の4本柱と中柱をたて、根太と臍組みし、梁とは相欠きで交差している。窓は跳ね上げ式。保存のため上屋で覆っている。我が工房でもミニチュアーの再現モデルでも造ってみようかなとおもっている。

 

2005年5月30日(月)
平和ボケ?

平和ボケ?
 憲法改正論議が盛んです。焦点はやはり 第9条と前文の戦争放棄と平和主義。
第2次大戦(太平洋戦争、15年戦争など)が日本の降伏で終わり、戦勝統治国のアメリカが獰猛果敢?な日本人の牙を抜くべく指導、当時の日本国民も戦争コリゴリで平和主義大歓迎、「戦争しない国家とはなんと素晴らしい」とすんなりと決まった憲法のよう。
 ところが、国が貧困のうちは隣人も同情して大目にみてくれたが、国体が巨大化すると他国との利権も複雑化し、権威も自己主張も必要となる。国際的な貢献も同盟国アメリカへの相応の分担も必要となり、米国からは金だけでなく「BOOTS ON THE GROUND」とか要求され軍事力も貸出しする羽目になった。
 現在の焦点は自己防衛の正当性、自分を守ることは正当防衛でそのために武力保持も戦争も許されるという論義。要するに外国が攻めてきたり、国の権益を侵したらどうするのか?、、と。自国の防衛も考えないのは「平和ボケ」で無責任だという。 
 正当防衛論はそれなりに説得力を持つ。しかし、あのヒットラー侵略でさえ第一次大戦の膨大な賠償金に耐えかねたドイツの「正当なる防衛」が発端。日本も「生命線を守るために」に中国へアジアへ侵攻し国民を駈りたてて世界中と戦争する羽目になった。アメリカは「自国の自由と民主主義を守るために」ベトナムを攻めイラクへ侵攻した。この「ために」というのが段々拡大解釈される。膨大化した軍事産業資本や資源の利権、為政者の思惑などが複雑に絡み複雑化して国民世論を巻き込んでゆく。
 世界各国は「自己防衛のため」にと軍事力の増強に努めているのに、わが国は武力を行使できないと定められた「平和ボケ」国家で「平和ボケ」国民だという。しかし考えてみると我が国は自分では戦争はしないと云いながらも武力の必要性は認めてきた。武力信奉国アメリカとの同盟はいざの時にアメリカさんに武力で助けてもらおうという魂胆だ。用心棒に頼りながら、私は非暴力主義というようなもの。憲法9条に云う戦争放棄、兵力不保持という理念は実質的には放棄されてしまっている。実際、憲法の範囲内(?)で徐々に実力をつけて世界でも有数の防衛力(軍事力)を持つ国になっている。
 日本の過去や現状を見ると、大手を振って「正当防衛だから武力行使は正当だ」と云い切ってしまうのは恐ろしい。かって侵略された被害国から見ればもっともっと恐ろしいだろう。強力な戦争行使力を持つことの正当性は、結局は旗を振っている人が周囲から信頼されているかどうかに掛かっている。日本政府はまだ武器を担いで歩き回るほど隣人各国から信頼されるまでには至っていない。
 武力を持つのは当然だと開き直り、憲法に堂々と歌い上げるには早すぎる。誠心誠意平和を希求し世界平和への貢献をしてゆけば味方も協調者も増え、そのうちに米国でなくかって被害国であったアジア各国から「国連軍へ是非軍隊を派遣して」と要望が来るに違いない。そんな期待を持つのは「平和ボケ」の故と云われそうだが、9条を改憲し「平和ボケ」を卒業するはその時でも遅くはないように思う。

 

2005年5月9日(月)
他人事?
 ふと思う。JR西日本の福知山線事故後に続々報道されるJR社員の不祥事のこと。宴会、ボーリング大会、ゴルフ会などなど。大惨事を横目に行楽行事に参加していた社員は責められている。現場には車両の整備や設備の係、被害者対応の係、報道担当、調査担当などが大勢出向いてキチッとした対応はしているはずで門外漢は口出しすべきでないと彼らは思っていたのではないか。全体で喪に服するという発想などはもとより無い。

 社会の組織では他の組織に対する干渉(?)をひどく嫌う傾向にある。もとより自分の組織も完全ではないので、他人のことを言う暇があったら自分のことをもっとやれという論理である。このことが自分は自分,他人は他人という風潮を助長する。狭い自己組織外は全て他人事なのである。組織内の論理だけが思考を占有して外部の思いは届かない。

 サラリーマン経験の長い私にとっても他人事とは思えない。私もそんな立場であればひょっとしたらやはり直属の親睦行事へ参加していたのではないか?。自由業になった今から考えると、組織が意識を支配する力のなんと恐ろしいことかと思う

 昨年、災害ボランテイア活動に行った。奈良から4時間をかけて舞鶴へ。さらに街から少し入った谷あいで村が破壊され住民が途方にくれていた。我々ボランテアの小さな助けを本当に喜んでくれた。ところがそこから10分も離れていない舞鶴の中心街では、パチンコ店は繁盛し、車は混雑している、飲み歩いている若者も多くいた。ボランテア仲間の中にははるばる横浜から夜行バスを乗り継いできた人もいたのに、何故近くの人たちがボランテアに駆けつけることが出来ないのか?
 さらに、世界では餓えて命が絶たれている子供が大勢いる、一方飽食で太りすぎて食べ物を捨ている我々がいる。 身勝手な自衛論理で戦争を起こす国々がある。国家という最強の組織力は個人の意思を超越してしまう。

 人間は目前の出来事なら自分と同化させて献身すること出来る。咄嗟に自らの危険をかえりみずホームから飛び込んで人を助けることも行う。災害が自分の家族や親戚に及ぶと自分ごとと感じ懸命に助けるが、一歩離れると他人事となり御身が大事となってしまう。

 自己同化の範囲こそが世の中のモラルの指標ではないかと思う。その意味では今わが国のモラルはきわめて低下している。効率主義や利益優先、自己優先などさまざまな(近代化?)要因がそれを助長していると思える。
 しかし、他人事はいつかは自分ごとになってしまうことを忘れないでほしい。

  
2005年4月16日(土)
反日運動
 韓国、中国で反日デモが起こった。国旗を焼き、投石し、指を切るなど余りにも激しい表現なので日本国民は少なからずショックを受けた。
 韓国は日本は過去の侵略行為の心から反省と謝罪が必要といい、中国は反日デモ騒動の責任はすべて日本にあり、日本は過去の歴史を誠意を持って反省すべしという。
 どんな理由があろうとも他国の国旗を焼いたり、資産を破壊することは正当化されるものではない。中国はかって「過去の日本指導部が犯した侵略的行為と日本人民とは別だ」と言っていた。韓国も「過去は過去として前向きに友好関係を築こう」と言っていたのに、何故また今なのか
 大多数の国民にとっては交流も深まり、友好的に来たのに何故こんなに嫌われるのかまったく判らないと思っている。
  領土問題、教科書問題、靖国参拝問題、安保理常任委問題など先鋭化している問題は多くあり、たまたま重なって大問題になったという見方もあり、「あちらの国内事情」つまり国内の不満を反らすために外に目を向けさせているという見方もある。
 それぞれ理由があるのだが、もっと奥深いところで流れているのは我国が彼の国々へ行った過去の行為への反省と謝罪の誠意が相手に十分に伝わっていないことにあるのではないか。政治のレベルでは何度も謝罪を表明し賠償にも応じて来たが、被害者側の思いと加害者側の意識の隔りは大きいのが常である。理屈の次元と感情の次元とは違う。

 わが国は経済発展にかまけて、隣国との「不幸な出来事」は早く忘れようという方向に進んで来た様に思える。 被害者側が「過去のことはもうすんだことで忘れましょう」と言うのはいいが、加害者側がそれを言うのは開き直りになる。
 未来志向といって過去を無神経に置き去りにしてきたのではないか。基礎教育でも、マスコミやジャーナリズムも過去の侵略行為にはあまり触れたがらない。政治家の言動は相変わらず無神経、無責任である。この様な中で国民の中に反省と謝罪の誠意など生まれないし相手にも伝わらない。
 やはり、大切なことは過去の歴史をもう一度正しく見直し経験を大切にして、隣国との新たな価値観を作り上げ、言うべきことは臆せず言うことである。隣国同士の相互信頼はこれからの我国に不可欠のものである。
 幸いネット時代である。韓国は世界トップクラスのネット化率であり、中国は一億数千万のネット人口を持つ。こんなに開放された手段がある中で、誠意が伝わらないのは伝える努力を怠っているか、本当は誠意が無いのかどちらかである。 
2005年4月4日(月)
ほりえもんさんのこと
 会社というものが誰のモノかという論議が盛んになった。ほりえもんさんが日本放送を「支配」しようと過半の株式を手に入れた。これで日本放送は少なくても資本的に半分はほりえもんさんのモノとなった。明確な事実であるのになお誰のモノかという論議が出ている。
 会社は 従業員のもの、経営者のもの、いやリスナーのもの、挙句はスポンサーのものなど珍説が飛び出す。
 ほりえもんさん精神的には皆様のモノと。精神的ということは実効力はないので、結局は実効は私のものなのですよということだが、このときは珍しく婉曲話法を使った。
 プロ野球の球団はオーナーが変わっても、ホークスファンにとってはいつでも我等がホークスであって自分たちのものと思っている。何も矛盾は感じていない。今までのオーナーが投げ出したらもっと賢明なオーナーに買って欲しいと思うだけである
 今の経営者、社員、関係者が 「われわれが育ててきた会社」と考えるのは当然のことであるが、だから新オーナーが気にいらないといって焦土作戦とかで会社をスポイルする事は許されることではない。自分たちが居なけなれば会社などどうなっても良いとはまさに僭越では?
 「金が権力という価値観?」の人が放送局のオーナーになることは駄目だという。電波が公共的で認可制である事が理由らしい。オーナーの人柄と放送の公共性の問題とは少し次元が違う。現在の各放送局のオーナーが全て公正無私な人だとは思えない。放送が認可制であるのは電波範囲に限りがあり交通整理が必要なためであって誰かの好き嫌いで管制されるものではない。合法で公序良俗に適合していればいいので、質的な適否は最終的にリスナーが決めるものだ。
 氾濫するコマーシャルの合間にちょっと中身をはさむような放送がそんなに公共性があるとも思えないし、どの局も同じような内容で喋りまくっている薄っぺらなタレントが公共性のシンボルとも思えない。
  放送局がコマーシャル収入のみ頼っているため、どこも同じような番組になってしまう。リスナーにしてみればはなはだつまらない。放送という商いの仕組みを変えないとなんともならない。 ニュース専門、お笑い専門、朗読専門などの放送局があってもいい。
 ラジオ、TVは音や絵を電波に乗せて発信する側と多数の受信機を持つ受手がいるシステムであり、インターネットは繋がってさえいれば信号にのせて相互受発信できるシステムである。これらはシステムであって決して受像機や放送局そのものではない。
 インターネットの回路がスーパーブロードバンド化して津々浦々に張り巡らされ、全戸に普及したら接続者は等しく無限のチャンネルを持つことになり、ほりえもんさんの言うように全てがインターネットに収斂するかもしれない。
 これはどちらのコンテンツが優れているとか公共性があるかといった問題ではなく、単に物理的で科学的な伝達手段の問題である。豊富なコンテンツや製作ノウハウを持つ現在のTV局やラジオ局が、それこそITと根本的に結合させて新たな商い方法を見つけて、あっと驚く編成ができないものかなと思う。
 私はラジオ放送を聞いている時間の方が圧倒的に多い。ラジオ放送はTVと違って移動性も高くながら作業が出来て動きを妨げない。発想が自由に広がり心地よい。TVやインターネットと違ったクリエーティブな媒体である可能性は高い。 ほりえもんさんが日本放送をあっと驚く放送にできれば面白い。
 日本放送の皆さんも、オーナーを超えるような熱情と発想、行動力でで日本の放送を面白くしてはいかが?そうすれば、将来皆さんがTV局やインターネット企業を支配できるかも知れない。