小坂 勝弥
先日、大文字の送り火を見た。今年もさして色気のある話ではなかったが…、まあ、それはそれでいい。付近にはやはり多くの人々がたむろし、皆めいめいのやり方で送り火を見上げていた。ふと思えば、この場所だけでもこれだけの人が見上げている、この火を見上げる人の数は一体どれほどになるのだろう。万かあるいは十万か、とにかく私個人の認識の域をゆうに超えることは間違いない。大衆の視線の先には大文字があった。
学ぶということは 自分自身を低めることだ
教えるということは ただ希望を語ることだ
愛するということは 互いに見つめあうことではなく
共に同じところを見つめることだ
わく星学校において私が思うことは、自分がどれほどの希望を持ち得ているかということである。その希望の深さと、そしてその希望がどれだけ多くの人と共に見つめ得るものであるかということ。具体的には、わく星の子どもたちに対して自分が如何ほどの希望を語り、それが子どもたちにとってどれほど魅力的になり得て、どれほどストレートに子どもたちに、と同時に自分の胸に、響いているだろうかということである。
些末なことであるが、わく星の子どもたちは現状において、人の話を聞くことが大変苦手である。もう少し短気な言い方をすれば、話し手に対して失礼極まりないことを平気ですることができる人々である。私個人については、そのような現状を知っているので、とりあえず彼・彼女らに私に対する礼儀を期待することはほとんどないが、そうでない人が、心をこめて子どもたちに話しかけている場に接して、彼・彼女らのあまりの残忍さに心を痛めることは珍しくない。ま、しかし、事実は事実としてそこから始めるしかないことは、これまた動かし難い事実である。そのことに喚起される彼・彼女らに対する希望を如何に語るかが私に課せられた次なる"学び"における課題である。私はもっともっと低くならねばなるまい。自分自身が学ぶことと、自分自身が希望を語ることとはほぼ同じところに展開する。これはたいへんありがたいことである。
さて、そんな私が子どもたちとも一緒にぜひ考えてみたいと思っているのは"責任"についてである。責任ってなんだろうということ。どうすることが責任を持つということなのか、責任をとるということなのか、ということなど、改めて考えてみると実は難しい問題でもある。
身近なところからいえば、例えば自分の出したものをちゃんと片付けるであるとか、自分の言い出したことを中途半端に投げ出さないであるとか、そんなことも含まれるであろう。これらのことはわく星の日常の中でもK子さんがことあるごとに口を酸っぱくして言っておられる。
もっと広い視野で見てみると、一地域住人であることの責任、一社会人であることの責任、日本人であることの責任、一地球人であることの責任、といったものにもなってくるかもしれない。
とにかく総じて言えば、責任とは人との関係を持つことによって生じてくるものであるように思う。その関係を大切にすることは、どこかで自分自身をも大切にすることであり、そこに付きまとうものが責任であるように思う。概して些細なことの積み重ねによって、どれだけ世の中がえげつなくなっていることか。裏返せば、小さな責任をコツコツ積み重ねることで、この世はどれだけ住みやすくなる可能性をもっていることか。
わく星の子どもたちは、人との関係の持ち方において、何かしらの傷を持った子が多い。そのことは彼・彼女ら自身が自分たちを大切にできずにいることの裏返しでもあろうかと思う。その意味でも責任というテーマはぜひトライしてみたいものである。自分自信を大切にすることが、人との関係を大切にすることであり、そのひとつひとつが責任という形で現われてくるんだということをなんとなく一緒に分かりたいと思うから。そして最終的には自分たちを大事にして欲しいのである。もちろん、私も自分を大事にしたい。
さて、その手がかりとして少し面白い本を見つけたので紹介したい。レイフ・クリスチャンセンとディック・ステンベリによる「わたしのせいじゃない−せきにんについて−」(岩崎書店)という本である。口絵にもあるように、前方に泣いている男の子と後方にクラスメイトらしきメンバーたち、というシンプルな構図の中で、後方にいる一人一人の証言が淡々と続けられる。その内容はおよそ、自分は全体の一部でしかない、ほんの少ししかかかわっていないから自分のせいじゃない…というものである。最近、問題にされているいじめの現場においても、このような景色は珍しくないであろう。全員の証言が終わった後、大きな文字で"わたしのせいじゃない?"と疑問が投げかけられる。そしてそれに続いて、本の後半にはいくつかの写真が並べられている。それらの写真は前半の絵のかわいらしさとはうって変わってショッキングなものばかりである。戦場で虐待される捕虜の少年、核爆発のきのこ雲、飢餓に泣く幼い子ども…。一見、世界のかなたで起きている悲惨な出来事ばかりであるようだが、作者は前半に描いた情景から、それらのことが、直接的に手を下していない私たち一人一人とも決して無関係ではないことを、いや、私たちはそれらに対して何かしらの責任をすら負うべきであるということを訴えている。
仮に自分がほんの小さなことしか為さなかったとしても、それらが集まったときには、単なるたし算の答をはるかに越えてものごとが展開することがあることについて、自覚的であれという訴えであると私には読める。また、自分がここにいるということが、自分の認識を遥かに超えて多くの人々とのつながりをすでにもってしまっていることについて、やはり自覚的であれという訴えであるように私には読める。
この本に強く魅かれるのは、たいへんやさしい表現の中でそれらのことが述べられていることにある。これなら肩肘はらずに子どもたちとも一緒に読めそうである。この試みがどのように発展していくかは続編の中でまた触れたいと思う。一体どうなることやら…。ああ、今日は、久しぶりに夏休みの宿題の読書感想文をかかされたような気分だ。