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新潟合宿

山下 敬子

 京都に帰ってみると桜が2分咲き。雪だらけの新潟から汽車を乗り継いで12時間。列車の車窓に妙高高原や飛騨山脈の山々がくっきりと見えました。わく星学校の合宿にしては珍しくお天気に恵まれ、温かい新潟の人々の人情と温泉でほかほかになったこころと体で帰ってきました。新潟の皆さん本当にお世話になり、ありがとうございました。

3月22日(月)
 10:00の快速列車をかわきりに京都から青春18キップで普通列車を乗り継いで直江津へ。北陸線の中で弁当を食べて、糸魚川まで来ると、おりからの低気圧の接近で強風。「親不知、子不知」では荒れ狂う日本海の雪まじりの高波に、9時間の汽車旅に退屈し始めていた子ども達も驚きの声をあげていた。
 「直江津」に着くと、さっそく「四季の子ども村」の木原のおっちゃんがにこにことでむかえてくれました。真っ暗な田舎道を、ボヨンボヨンと子ども村の「ねこバス」は走りました。ところがちょっと峠道に入ったところですごい吹雪、バスにはワイパーがないので前が見えません。わたしたちの不安顔をよそに「さっき出がけに子どもがさわってて折れちゃって、、、。」とおっちゃんはきわめて平静沈着。時々降りて、フロントガラスをぞうきんでゴシゴシ。こさちゃんが「ヒャー、わく星号よりぼろですね。」とおもわず失礼なことをいってしまっている。それでもおっちゃんは「なれた道、うではたしか」とばかりに太っ腹なところが、さすが厳しい自然の中で腹へらしのギャングがきどもあいてに生きてきはったお人や!とへんなところで感心するけいこだった。
 「四季の子ども村」は1990年から、雪深い過疎の牧村で廃校となっていた高尾小学校に、木原さん夫婦と川坂さんの家族たち11人と、山村留学してきた子ども達とが大家族のように、楽しく生活しはじめたのがその始まりだったそうです。
 それから9年間、毎年街の子ども達を招いて山の暮らしを体験する合宿をするなどして、たくさんの人々とつながりながら、ここで共に生きる暮らしをしてこられた。
 今回ももうすでにその合宿がはじまっていて、台湾からの2人の旅行者も含めた16人ほどの子ども達が大勢でにぎやかにわたしたちを出迎えてくれた。木造の2階建て、なつかしい造りの校舎に案内される。わたしたちは2階建てベッドのある教室でねることになった。
 もうほかほかの夕食のゆげがあがっていて、やさしい睦美おばちゃんがおつゆを温めなおしてくれていた。いつもの初対面のはずかしさはおいといてわく星の子ども達も、まずは腹ごしらえ。ていねいに細かくきったいろんな具がはいった「ちらしずし」、子ども達のだいすきな「から揚げ」、栄養満点の野菜と豆腐の「おひたし」、温かいワカメの「おつゆ」、「ヨーグルトのフルーツゼリー」。どれもおばちゃんとここの子ども達がこころをこめてつくって待っていてくれたものだと思うとここの温かさが伝わりました。ちなみにここでは食事やおやつも、おみやげやクッキーやジャムにいたるまでおばちゃんとここの子ども達の手作りだったのです。
 食後は体育館でいっしょに遊ぼうと誘われたのでしたが、シャイなわく星の子ども達はなかなかとけ込めない様子。それでもさりげなくいろんな手でさそってくれ、天井から長くぶらさがった空中ブランコのようなので遊びました。まずとびついたのはひろむくん、ゆうきくん。体育館の演台に上がってビューンとこぎはじめる。一番高くスイングしたところで体育館の真ん中においたマットにピョーンととびおりる。これがまたスリル満点。ひろむ、たけしがまたすごーい。お母さんが見ていたら気を失ったかもしれん。それに続いてゆうきもかわいくピョン。ここの子に「あられちゃーん、もっとやってよ。」とはやされたのでゆうきくんはちょっと不機嫌。後で聴くとほんとに女の子だと思って勇気のある子だなと、がんばれコールだったんだって。誤解だよね。でも「あられちゃん」とはよくいったもんだとわく星側も感心したりして。(ゆうきゴメン。)わたしもやってみたのですがマットまでとどかず、ドシン。「おばちゃん、だいじょうぶ?」といわれながらも、ブランコをはなすあの瞬間の挑戦感に大満足感。子ども達は何回もやってどんどんスリリングにしていきます。「さすがわく星さる!」かとおもいきや、ここの山さるどもはもっとすごかった、「もう命知らずとしかいいようがない!」ほどワイルドに遊んでいる。見ると体育館の入り口に「鼻血がなんでぃ。」と大書してあるではないか。「遊びは子どものごはんです。」とも書いてある。
 いっぽう大人達は、あかあかともえるストーブのまわりで新潟の幻の地酒とやらをごちそうになりながらしみじみと、お互いのこの9年間の子どもたちとの歩みを語り合ったのでした。

3月23日(火)
 昨日の吹雪とはうってかわった青い空と一面の銀世界。この東頸城郡高田あたりは有名な豪雪地帯。シベリアおろしの寒風が運んだ雪が、県境の山々にぶつかり野山や町や村むらを純白にうめつくす。最高6メートルもの雪が積もったこともあって、屋根だけが雪の上に出ていて、「この下に家ありオシッコするな。」との看板が立っていたというじょうだんともいえない話まであるらしい。
 村はとっても静かで、除雪作業のブルドーザーだけがウンウンと働いている。道の端の小川のところや樹の根っこのところは雪が溶けて、ぽっかり穴が空いている。そっとのぞくと、トンネルのようになった雪の空洞の中は、さらさらと小川が流れ、柔らかな日差しがその小さな土手にさしこんでいる。ふきのとう、せり、みどりのはこべ、やぶかんぞう、小さな魚や虫もいる。ああら、雪の下ではちゃんと川の水はぬるんでいて、春の訪れを告げている。わたしも春の訪れをよろこぶ同じ生き物の仲間に入れてもらえたようでうれしい。落ちないようにそりの上にねっころがって、さかさまからあなをのぞきこんでみと「ふきまんぶく」がお日様にむかってお手てをひろげている。ほっ、春だね。
 子ども達は朝食の後、ソリや長靴をかしてもらい、やっちゃんこと川坂さんの案内で雪遊びに行く。雪に埋まったスクールバスの屋根を見下ろし、運動場の土手のところで試し滑り。そこでは物足りなくて、さらに雪の下の棚田をまっすぐに横切って長い斜面のある谷までいく。みんなビュンビュン滑って楽しそう。じゅんちゃんやたけちゃんは別に新しいコースを作って長いシュプールをかいている。子ども村の「ともちゃん」、「ロンゲのじゅんちゃん」、「あんぱんまん」もうまいもんだ。こさちゃんはそりで行くより「受け身」の技で転がっていくのがすごい。おもわず「おみごと!」。くぼちゃんも楽しそう。ひろむくんのそりが滑ると犬のトトが一目散に追いかけていってころんだひろむの上にのしかかって、ぺろぺろとなめて離さない。「こら、のいてー、たすけてー。」とこまっているひろむくん。どこまでも犬に愛されるひろむであるか。その時突然「ウオー。」と吠える声、なにごとかとみるとトトが逃げている。これは、とうとうひろむが考えた苦肉の策で、なるほど犬には犬語で「やめろ!」っていわんとあかんかったんかと、あっけにとられて感心したりしたのでした。
 午後からはたけし、じゅん、こさちゃん、くぼちゃんはスキーをする。けいこはおばちゃんやめぐちゃん、きちくさん、ここの娘さんたちとおやつ作り。子ども村名物のくるみクッキーを習う。

クルミクッキーの作り方
@小麦粉300グラムとバター250グラムをまぜる。
Aつぶしたくるみ60〜80グラムと@をまぜる。
B塩少々をいれて、可愛いお団子状にまるめる。
C180度のオーブンでやきいろのつくまえにだす。
Dこなさとうをまぶす。
E半分を、ココアとざらめをまぜたのをまぶすようにすると、黒と白のおしゃれなクッキーになる。

 他の子ども達はストーブのまわりでねこの「マタゴリス」と「シシゴラス」とまざって「まんが」でごろごろ。夕食の献立はミートローフと自家製ベーコンのスープ、キャベツと大根サラダ、スパゲッティ、手作りパン。子どもたちの好きなものばっかり。夕食の席はくじびきできめます。ごちそうはまたたく間になくなり、皿洗いはジャンケンできめる。くじびきできまったテーブルグループの代表がジャンケンする。負けた代表のグループ全員が全部の皿を洗うことになっている。わく星のひろむくんはジャンケンが強いのか2回とも代表で、勝ちぬいてみんなからありがたがられる。子ども村の「あんぱんまん」は2回代表になったが2回とも負けてしまった。でもだれもせめたりしない。また、ここの子はてきぱきとよく働く、その中に混ざってきみちゃんもせっせとさらを洗っていた。
 ここはおとなも子どももみんな親切でやさしい人たちだった。
 ほかほかと燃える薪ストーブの火をながめていると、体がここの自然にとけ合って、見えなかった存在がゆっくり見えてくるようなきがしました。

3月24日(水)
 朝起きてみると、雪の表面が凍っていてきらきら光っている。これを放射冷却現象というらしい。昨日の晴天による熱が地表に吸い込まれて、雪の表面がガチガチに凍るそうだ。こんな日は、スキーなら谷そこまでどこまでも滑って行くという。おおこわい。
 子ども村のみんなとお別れして、高田の駅までやっちゃんにおくってもらう。城下町高田まで降りてくるとさくらのつぼみがふくらんでいた。新潟のおばあちゃんがいっていた春になるとやってきて、三味線をひいて昔語りをする盲目の「高田のごぜさん」というのはここの旅芸人やったのかとなつかしい。またゆっくり、ここにこさせてねとまだ白い黒姫山や妙高山に約束する。ここからバスで新潟市まではしった。
 新潟市でバスを降りると、今度もやさしそうなおっちゃんが出迎えてくれた。私たちが新潟に来たもうひとつの目的は、去年熊本の水俣に行ってから、次は新潟水俣病の発生した阿賀野川をさかのぼって川と人々の暮らしを見てみようということだった。それで出発前に「阿賀に生きる」という新潟水俣病の患者さんたちの暮らしをとった映画をみてちょっとだけ勉強してきた。その映画にでてくる「青年旗野くん」がこのおっちゃんだった。旗野秀人さん、ここの患者さんたちを30年にわたって支えてきた人だ。今は高校生の息子さんがいるお父さんになっている旗野のおっちゃんは、この日はバンで私たちを阿賀野川ツアーに案内してくれた。はじめに大きな封筒をみんなにひとつひとつくれた。なかには今津町のパンフレットやら「阿賀に生きる」の感想文集、「阿賀に生きる」のCDなんかがはいっていてちゃんと前から準備してくれていたんだなあとうれしくなる。封筒には株式会社旗野住研と書いてあるから、おっちゃんはこの会社のえらいさんなのだ、私たちのために仕事を休んでもらっていいのかなあちょっと心配になる。みんなちゃんと勉強してや。
 新潟港の河口から飛行場の横をとおって横雲橋をわたる。河原は広くて水田もある、このあたりは水俣病が発生する以前は砂利を採取して売ったり、川船で漁をしたりして人々は自然とそったくらしをしていたそうだ。人々は川のある風景の中に溶け込み、川は人々の命の営みを運びながら流れていた。そこをとつぜんおそった近代化の高波は、またたくまに人の体もこころも容赦なく傷つけていった。
 水俣病の原因となった有機水銀というのはプラスチックをやわらかくする工程で出てきたものだそうだ。とっても便利なものの影で恐ろしい失敗がおこったのだ。だれでもが便利で快適な生活を望んできた、けれどその代償として、目に見えないところで、他の人間や生き物や自然に、おおきな犠牲をしいてきたんだということを忘れてはいけない。安田町の「阿賀のお地蔵さん」におまいりする。このお地蔵さんの台座は熊本の不知火から送られてきた石でできていて、お地蔵さん本体は阿賀野川の石でできている。水俣のふじつぼのついた「たこつぼ」に花が生けてある。「海の民の想い」と「川の民の想い」が重なるようにと、旗野さんの発案でここに人々の想いがお地蔵さんとなってかなったということだ。30年前にこの地で、「水俣病」という人間がつくりだした恐ろしい「公害病」に人々が苦しんだことと、人と人のきずなをたちきるそれによる「差別」でさらに苦しんだこと、そんな不幸が二度と起こらないようにしずかにお地蔵さんは祈り、語り継いでくれる事だろう。その丸いお顔は春のやわらかい日差しにあっためられてほんのり微笑んでいるように見えたのです。 私たちも「共に生きる」ということをお地蔵様のまえでまた改めて決心させられたひとときでした。
 その後キリン山のふもと、阿賀野川と常浪川の合流点、今津町のきつねの嫁入り屋敷という公営の会館で昼食に「嫁入りそば」や「嫁入りうどん」を食べた。このあたりで5月3日にやるきつねの嫁入り行列というイベントのビデオも見せてもらいました。この今津町あたりでは、昔から山に狐火が登っていくという言い伝えがあって、本当に見た人もいるということです。5月3日には公募で選ばれた花嫁、花婿を中心にお巡りさんから赤ちゃんまですべて町中の人がきつねの扮装をして、嫁入り行列をするそうです。まるでハロウイーンみたいですね。私も新潟には人間にだまされたとんまな「長四郎きつね」や「きつねのばけ玉」をとってきた小僧さんの話などたくさんのきつねのお話があると聞いたことがありますが、さすが民話のふるさと新潟らしい楽しいイベントだなあ。「私も花嫁に応募できるやろか。」、「あつかましいよ。」と一笑されてしまったが、せめて行列のはしっこにでも参加させてもらいたいなあ。
 いよいよ鹿瀬の旧昭和電工鹿瀬工場跡へ。今は社名も変わり別のものを作っているらしく、人影もないし煙突の煙もない。あたりの土手は生産工程ででる廃棄物でつくったという小山がずっとあることからも一時の大増産がうかがえる。「昭和電工」という企業が殿様として君臨し、ここが企業城下町として栄えたということは「水俣市」と同じことだった。ここに立って、広大な工場跡を見下ろしながら「水俣病」だとうつる、遺伝するなどと誤解にもとづいて差別され、認定されないと「ニセ患者」といわれて差別され、町ではお上にたてつくいやなやつといわれるといった二重、三重の苦しみを受け、人のきずなをずたずたに切り裂かれるなかで、闘い生きてきた人々がいるんだということをおもう。それなのにここ新潟の人々は信仰心のあつい、おだやかな人がおおいのは土地柄なのだろうか。祖母が「京都のおふろやさんは新潟の人が多いのや、雪国「新潟」の人は辛抱強い。お風呂やさんはえらい仕事やからほかの土地のものではつとまらん。」と言っていたのを思い出す。
 1964年の新潟地震の時には川底に沈んでいたヘドロがかくはん攪拌されて、たくさんの魚が阿賀野川に浮いたそうだ。何も知らされなかった村人達がこれを食べてしまい被害にあったのはいうまでもない。
 これからもそんなことがないとはいえない。また「補償金」を巡る人間関係のもつれものこっているという。新潟水俣病もまだ決して「解決」したとはいえないこれからの問題をのこしている。
 福島県との県境近く鹿瀬町のダムから「草倉銅山」の跡を遠く望む。銅山で人知れずなくなった下層労働者がいっぱいいたとのこと、その人達は道ばたに埋められたことをきく。ひょっとして狐火はその人達の骨の燃える火?近代日本の繁栄のかげにたくさんの犠牲者があったことを豊かな時代に育った私たちは知る由もなかった。旗野さんのお話は生きた教科書となったと思う。子ども達にはまだあんまりわかってなかったかもしれないが、でもきっといつかここに来たことが何だったのか考えてくれる日が来ることだろう。
 吊り橋をわたって山間の道をしばらく走ると植林されたまま手つかずの杉林、もうだれも耕すこともない荒れた棚田、おそらくかいこん開墾されるときはたいへんな重労働だったことだろう。そこも患者さんたちの土地だそうだ。患者さんの長谷川さんのおじいちゃん宅へ寄せてもらう。ご高齢で大勢で行くとびっくりなさるので旗野さんとこさちゃんだけでこんにちは。私たちはその辺を散歩して待つ。山間の道に家がポツンと3軒だけ。あちこちに川と共に生きてきた人々の暮らしの痕跡がみえる。きみちゃんとひろむくんが「つくしんぼ」をとってくれる。たけしくんは川辺までおりて水面をじーとみてなにやら魚の気配でもうかがっているんだろうか。じゅんちゃんとゆうきくんは錆びた「じざい鍵」をどっかでひらってきて、「キャプテンクック」とかいって遊んでいる。「おっちゃんたちまた、ビールとかごちそうになったはるかもしれんし、ちょっと見てきて」とたのむ。とひろむくんとゆうきくんが様子を見に行く。あんのじょう。心やさしいじいちゃんたちは子ども達にもいっぱいおやつをくれたようだ。「おぎょうぎようしてたら、こんなにくれはった」とにこにこ顔のひろむ、ゆうき。ちゃんと「ありがとうございます。」と礼儀正しくやったそうで、こさちゃんは「わく星サル軍団も、やるときはやるんや。」と感心していた。帰りに排水口をみてから、さあ、一路めざす「咲花温泉」へ!「柳水園」は木造の由緒ある旅館で玄関を入ったところから硫黄泉のにおいがプーンとする。落ち着いたきれいな女将さんと素朴そうなおばちゃん達がむかえにでてくれる。
 それぞれの部屋に案内されて、広間で子ども達の大好物のカレーライスやくだもののデザート、サイダーをいただく。大人は一日中運転と案内をして下さった旗野さんに感謝して、いろいろ考えさせられた一日だったことを思いながらビールでかんぱい。
 旗野さんはこの地で今も、年を取った患者さんの手となり足となり、「水俣者が、、、」といわれる患者さんと村人をとりもつむつかしい役をはたしてこられただけあって、できたお人だ。今回もつい甘えすぎの私たちを相手にほんとによくやってくださった。旗野さんのように人さまの役にたつことがこんなに幸せそうな人といると、こちらも素直に自分はこういう楽しい時を持つことができてなんて幸せなんだろうと感謝できる。単なるいい人だけでは言い尽くせない、この不思議な旗野さんの魅力は患者さんと共に生きてこられたなかで自然と身につけてこられたものなのだろうか。私は京都を出るときすごくつかれていて、「自分ばっかり苦労して、」と泣き言をいっていた自分が恥ずかしくなった。
 旗野さんは私たちにも「越の寒梅」をごちそうしてくださり、「こどもはお酒の席にはちょっと」という堅いわたしに「いいじゃないかみんなおいでよ。いっしょに飲もうよ。」と子ども達にはジュースをくださる。みんなにかこまれてほんとにしあわせそうにお酒を飲まれる旗野さんといると、わたしもお父さんに守られた温かい家族の輪のなかにいれてもらったようでうれしさがこみ上げてきた。
 わたしと恵ちゃんは背中を流しっこしたり、湯船でシンクロをしたりして3回も温泉で温まり、男の子たちも温泉にはいってさっぱりしたのかついに着替えをしている。こさちゃん、くぼちゃんは温泉と「越の寒梅」で赤い顔でほっこりしている。温かい新潟の人々にふれあって温泉でぬくもって、身も心も春になった旅でした。

3月27日(土)
 今日「四季の子ども村」から、村の銘水「牧村弘法の清水」と棚田で栽培した有機米で作ったという「ぶなの露」が届けられました。これを下げて花見にいきませんか。新潟のみなさんとの出会いにかんぱい。ほんとうにありがとうございました。

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