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飾らず自分らしくいきてほしい

山下 敬子

 子どもの「個性」的な生き方について話し会う機会が、奈良フリースペース「SAKIWAI」のメンタルフレンド養成講座でありました。
 その会場でであった人々はそれぞれ教育・福祉の現場で働いている人たちや、退職後さらに経験を活かしてその分野で活躍したい人、教育学部の学生さん達などだった。
 ブレーンストーミング(テーマにしたがってそれぞれのイメージするところ、言葉をだしあう参加型学習のやりかた)をしたところ、ほとんどの人が個性的な生き方とは、「ありのままの自分・飾らない自分・自分らしく」生きていくこと、ということだった。
 またそれができる社会があってほしいというのが共通の願いだということだった。
 わたしもまさに多くの人が思う通り、「金メッキをしなくても、鉄は鉄のまま輝いて生きる」ことが「個性的な生き方」だとおもう。
 しかし今私たち大人は子ども達にそのような社会を用意してきただろうか。
 子どもにやみくもに集団や現実への適応を迫り、その結果として孤立させてしまう、世間を騒がす事件がおこるたびに、少年法改正や、「奉仕」の義務化、財界主導の「教育基本法の改正」などが叫ばれている。
 それらの理由としては、「少年犯罪」や「こころ問題」「学校問題」の増加があげられている。
 それらを専門家という人が分析し、それがすべてにあてはまるかのごとく吹聴される。
 そのたびに「不登校」「家庭内暴力」「ひきこもり」が問題視され、そうなれば事件をおこすかの様な錯覚さえおこしかねない。多くの親が不安になり、学校に行っていない子ども達はさらに息ぐるしくなる。
 しかしその後にまた実際は本人以外に責任は無かったということになり、本人の特殊なこころの問題ということにすりかえられる。
 「こころの問題」として現れてきたその背後には、必ずそれぞれの状況の問題がひそんでいるはずだ。
 人の視線が気になって外界にむかえない、「自分」がすきになれない自己否定観に苦しむ若者たちの中には「いじめ」や「集団内での排斥」を受けてそれが深い傷となっている人が多い。「こころ」を閉ざすだけの十分な理由が周りにあったということだ。
 実際の生活、現実のありようを横に置いて、こころだけ浮いてあるかのような扱いは、問題が社会の中から生まれてきたものであることにむかわず、状況を無視したまま、それを個人的な問題にすりかえていくことにならないか。
 「不登校」にしても「選ぶ自由が保障されない教育制度」や「同じであること」が強要される教育のありかたは問われることなく、個人の「心の問題」としてすりかえられ、「スクールカウンセラー」や、「こころのノート」などのこころのケアなるものを設置することがあたかも解決策かのように報じられているが、問題がさらに複雑化していくのではないだろうか。学校は何もかわらないままなのに「戻す」ことを目標にして個人的に「こころ、こころ」とせまられると、今現在の学校に行けない子どものありようは否定され、ただ適応をせまられることにならないだろうか。
 「ひきこもり」などにおいては、もっと疎外が大きいと思う。
 「ひきこもりはぜいたく病だ」といった感想をもっている人もいるそうだが、出ていけない個人を問題だとして、それを非難するまわりには問題がないといえるだろうか。「生産的」でないものはすべてよしとしないその発想こそが「ひきこもり」へと追い込んだのではないか。
 「不登校」の子が、逆に「感性豊かな子」「独創的なセンスのある子」「エジソンみたい」などとステレオタイプなみかたをされてかえって困ってしまうことがあるが、それもそのたぐいだ。「普通の子ども」が不登校になってはどうしていけないのだろうか。
 子どもが一番願っていることは何?「今のままのおまえでいいんだよ」といって受けとめられること、「飾らずに自分らしくいきていける」社会であることではないか。
 「家庭内暴力」や「ひきこもり」においても専門家に解決をゆだねてしまう前に、親が子どもの状況を否定的に見るのではなく、「苦しんでいる当の子ども」の本当の訴えをきき、「親の本気や、信じているよという姿勢」を子どもに示していくといった、親にしか出来ない受け止め方や対応もあるだろう。専門職という立場にあると、親が子にするような無条件の受容がむずかしくなる、「ありのまま」が認めにくくなり、よくしようという役割意識がともなうものだ。専門家という人々を頼りにしたばっかりに、さらに問題を複雑にしてしまうこともある。
 もちろん家族にとっては本当に辛いものだし時には危険を伴うこともあり、適切な援助も時に必要だろうが、医者やカウンセラーにかかりさえすればよくなるという思いこみこそ誰もが注意しなければならないところではないか。
 20世紀は「専門性を強化し、より多くのサービスを提供し、資格を増やし近代組織を整備すること」に走ってきた。しかし結果として「専門性の強化は人々の素人化を意味し、サービスの増加は依存心を強め、資格の増加は無資格者の無能視と排除をうながす」ことになってしまった。何かに頼ることで自分の本来の問題解決能力を低下させることになってしまう。問題解決するための近代的方法が、さらに問題を深くしてしまう矛盾。このことに気づきはじめて21世紀をむかえる私たちは今後どのような方向をめざすのか。
 10年間、この矛盾をかかえたところで現実の問題をどう解決していくかとわく星学校も頭をなやませつつやってきたわけだ。
 このような場でのスタッフの役割について悩んだこともあった。
 子ども達が自由の使い方がわからずただだらしなくすごしていることにも悩んだ。
 世間がフリースクール=不登校の学校という「専門」性をおしつけるなかで、「わく星学校は不登校の学校ではありません」などと肩肘を張っていた時期もあった。幼いときからくじけずに育つにこしたことはないが、現実はそうでもない。「いやし」の場があればそこからまた元気に飛び立つこともできる。今「いやし」がいる人はここをいやしの場にしたらいい。そして元気になった人は「自分で考え、自分で行動する」ことのできる自立した人間をめざして、自分の道を求めて欲しいと思っている。
 自主性とは?自治とは?まだまだこれからも悩みつづけることだろう。
 そしてこうやってわく星学校自体も、「自立」していく場としての成長をとげていくことだろう。
 一方この10年で日本では「教育の自由と権利」をとりまく状況が良くなったとも思えないが、とにかく今までの皆さんの協力のおかげでわく星学校は10年目をむかえた。21世紀にはいってもまだ少しは「フリースクールわく星」がお役ごめんというわけでもなさそうに思う。
 ここを巣立った若者達も現実社会へのデビューをはじめた。
 彼らをみて、マジで何か好きなことやろうとして燃えてるいる若者たに共通するあの前向きな明るさはやはり、自発的な行動こそがその人を根底から変えていくエネルギー源なんだと感じている。
 そしておとなにできることはありのままの子どもの姿を受けとめる努力と、不条理な現実があればそれを変えることができる「勇気」を子ども達の前にしめすことではないだろうか。

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