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「命どう宝」ということ
山下 敬子
私たちわく星学校は4月12日から21日までの10日間沖縄に12名で旅しました。旅の前半13日から18日までは竹富町黒島の八重山海浜公園研究所でおせわになりました。そこではウミガメの飼育、保護をやっているのを見せてもらったり、シュノーケリングを教えてもらい、美しい珊瑚礁の海でウミガメ君とすごしたのでした。
そして旅の後半18日から21日までは沖縄本島に移動して読谷村、首里、糸満市とにいきました。
沖縄というと子どもたちのはじめの印象は珊瑚礁のきれいな海やめずらしい熱帯の植物や動物、三線の陽気な沖縄民謡など、戦争は遠くのできごとだったのですが、この後半の旅で感じたことは戦争は今も私たちのすぐそばでおこりつつあること、「命どう宝」ということを忘れてはいけないということを強く感じました。
読谷村が、太平洋戦争の沖縄戦で最初に地上戦があったところで村の半分が基地だということを、座喜味城の高台で知花昌一さんは話されました。
そして1945年4月1日にはあの海岸からアメリカ軍が上陸してきて10万発もの弾をうってきたということで、それはもう鉄の弾の雨のようだったといわれています。大群であるアメリカ軍にたいしてほんの少しの日本軍は助けてくれるどころか「お国のために命を捧げなさいよ」といい残して自分たちはさっさと先にいってしまい、残されたのは女、子ども年寄りだけで、命からがら墓や北の山の方に逃げたということだった。
沖縄には石灰岩で出来た「がま」と呼ばれる洞窟があり、みんな昼間はその穴に隠れて、夜になると家や畑に行って炊事をしたりして命からがら隠れていたそうです。
わたしたちもその「がま」の一つの「シムクガマ」と「「チビチリガマ」につれていってもらいました。がまの中は、暗くてじめじめしており、前の人についていくのがやっとで、気持ちが悪くて、蒸し暑かったです。
ここに1000人もの人が、何日も隠れていたなんてとおもうとどんなにつらかったことでしょう。
1分間懐中電灯をけしてみましたが「ぽとり、ぽとり」という水の滴の音だけが洞窟の奥からきこえてきて、みんな怖いのかなんにも言いません。この真っ暗な中で便のにおいにまじって、爆弾でけがをした人々のうみのにおい、うめき声や泣き声が聞こえてきたのでしょう。
そう思うとはじめは冗談で今夜はこの穴で「洞窟キャンプ」しようなどといっていた勇ましい発言はどこえやら早く外に出たくてたまりませんでした。
「チビチリガマ」の入り口にはとっても悲しい出来事があったことが記されていました。そしてその一人ひとりの名前と年齢が碑に刻まれ。金城実さんによって像がたてられていました。これはひどい人々によって一度めちゃくちゃに壊されましたが、今は「あめく しょうげん」さんという人が三線をひいている像の下にこんもりとまもられるようにして再現されています。この「あめく しょうげん」さんという人は当時は15歳だったために兵隊さんのお手伝いとして働いておったため、たまたま集団自決の場にいなかったので親兄弟と死に別れ、自分一人が生き残ったことを悔い、傷ついた心をかかえたまま、すさんだ人生を送っていましたが、ある時三線をひくことに生きがいをみつけてりっぱな三線ひきになったそうです。それでもこの事件のことはどうしても忘れることが出来ず、唄おうとしても涙でひかれないそうでした。
最初に行った「シムクガマ」では避難していた1000人あまりの人々がハワイ帰りの人に説得されてみんな死なずに出られたそうですが、こちらの「チビチリガマ」ではたくさんの尊い命が「集団自決」によって失われました。
なぜそのようなことになったのでしょうか。集団自決といっても、子どもは自分の意志で自殺したわけではなく親によって殺されたわけですから「集団強制死」というのがいいのかもしれないと知花さんが言われました。親が子どもののど頸を鎌やはさみなどで切って死なせたりしたそうです。そこまで聞いて私は涙がでてお話が聞けません。後に親になぜそのようなことをしてしまったのかと聞くと「戦争時の教えだよ」といったといいました。その時代は「お国のために最後まで戦えよ、生きて帰ってはいけない、天皇陛下の子どもとして命を捧げることが国民のつとめだと教育された時代だったからだ。」そうです。みんな間違った考えを正しいと思いこまされてきたのでした。
いくらそういう教育がなされていたとしても、じぶんから親が子を殺したというのはよっぽどの事だと思いました。
私の祖母などの話では、非国民といわれるから表面上はそのようにふるまっても、心の中や、家のうちでは仏壇に息子が生きてかえってきてくれるように祈ったものだといっていましたから、ここれだけの人がお互いに自決するのは、かなり極限のできごとだと思えます。
それは沖縄の人はいかに自分たちが大和国に忠実か証明するためにも、強く皇国思想をたたきこまれていたということでした。そう聞いてさらに切なくなって、ほんとうに悲しい話だと思いました。
まだ洞窟の奥に飯ごうや古いガラス瓶なども見えました。ここで自決した人のものだったかもしれません。殺した子どもに「ごめんね、ごめんね」といいながら死んでいったお母さんもいたでしょう。子どもたちはどんなにか明るい空をみたかったことでしょう。平和な世の中に生まれ変わってきたかったでしょう。
戦争は、人間が人間でなくなること、かわいそうやこわいといった感情がなくなって、それはとって恐ろしいことです。私は心から「命こそ宝」平和こそ命だと思ったのでした。
私たちの平和学習のガイドをしてくださった知花さんは反戦地主といわれている人々の一人で、人殺しの戦争のために使うなら自分の先祖からの土地はアメリカ軍や日本の国に貸さないと契約書に署名しませんでした。それに太田知事も同じ考えだったので代理人としての署名もしませんでした。そのことで大騒ぎになりました。
最近のニュースによると、憲法で個人の財産はたとえ国家であろうともかってに取り上げることはできないとあるのに、公共の利益ためには個人の財産を提供しなければならないこともあるという法律を作ろうとしている動きがでているそうです。太平洋戦争の時私の実家は爆弾が落ちたときほかの軍事工場などに延焼のおそれがあるからというのでむりやり家ごとつぶされ、家がなくなったそうです。そのときの悔しさは今でも母は忘れないといいます。
また読谷村の人々はこの村である国体であの悲しい思い出のある日の丸をあげたり、君が代を歌いたくないと主張しました。それは沖縄の人々や日本軍の侵略によりで肉親の尊い命を失ったアジアの人々みんなの思いでもありました。けれどもそれはなかなか、わかってもらえず、ひどいいやがらせさえされたそうです。
いろいろな苦労の末、今では基地の真ん中に読谷の役場をたてることも出来ましたし、またゼロ戦の格納庫は読谷名物の「紅いも」などを貯蔵する倉庫に平和利用されています。
帰路につく子どもたちが「沖縄の人は、みんなやさしかったなあ」といいました。戦争であじわった怒り、悲しみを乗り越えてきた人のやさしさは子どもたちの心にしみ通り、一生の思い出となり、宝となるとおもい、沖縄にきてよかったなあと思いました。
はじめわく星学校の子どもたちは戦争なんて遠い国のできごとというような感覚で沖縄を訪れたのでした。ましてやここが戦後57年もたった現在も危険にさらされていることなど知る由もありません。
ところが沖縄では基地のフェンスのすぐ向こうに戦闘機が見え、それが頭の上を飛んでいきますから沖縄は基地の中にあるということが実感できました。私たちのすむ本土では見えないから沖縄にある戦争が自分たちのものでもあることにほとんどの人が気付いていません。しかしこの問題は日本人みんなが考えていかないといけないことだと言うことが私はわかってきました。
なぜ沖縄のひとがこんなに困っているのに基地をなくせないのでしょう。安保を破棄すれば基地はなくなります。戦争の準備につかうエネルギーを紛争を起こさないようにするエネルギーに変えられないのでしょうか。
喧嘩を暴力でおさめようとしてもまた新たな恨みをうむだけで、いっこうに解決しないことは子どもでも知っています。それよりもどうやったら喧嘩にならないかをくふうすることにの方が、ずっとシンプルで効果的であることは子どもたちでも知っています。
戦争を起こすのも、戦争を止めるのも人間です。歴史を読むといままでにたくさんの戦争の悲劇があったけど、反対にそれをくい止めた人間がたくさんいたことも学べます。これからは子どもたちはそんな学問をしてください。
暴力をふるう人は、自分が正しいことをいっているのに、相手は言ってもわからない奴だから、なにが正しいのかを教えてやるという信念のもとに暴力をふるってきます。戦争は最大の暴力です。紛争がおきているからそれをおさめるなどというのは口実で本当は、お金儲けをしたかったり、自分の強さや押しつけの正しさを主張するのが目的なのです。
私たちはそのことを見抜いていく賢さを身につけ、自分の周りの人に「命どう宝」だよ、二度と戦争を許してはいけないよと、どうどうと言えるようになりたいと思いました。
沖縄にいって学んだ一番大切なことはこのことだと思います。
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