
| 私達は2000年4月に結婚しました。 私が37歳、妻が39歳、遅い結婚でした。 機械系エンジニアとして町工場に勤める私と、放射線技師として 医療に携わる妻とが知り合ったのは、インターネットが普及した おかげです。 チャット仲間が集まる食事会で、互いにハンドルネームで呼び合い 本名さえ知らないというのに、私は「この女性と結婚するだろう」と 根拠もなくそう思っていました。 長い年月を経て再開した幼馴染のような懐かしさを感じていました。 結果として結ばれたからいいようなものの、ヘタをすればストーカーです。 知り合う以前は、二人ともそれぞれ自立した生活を送っていて「この歳 まで独身で来たのだから、もう結婚はないだろう」と思っていました。 寂しさはありましたが、それはそれで気楽な人生もいいだろうと。 結婚が決まった時、私達には共通の思いがありました。 人生の半ばに差し掛かって共に生きる道を選んだからには、二人の 子供を後世に残したいと願いました。 一年が経過しても子供が出来ず、病院で検査した結果、私の精子が 極端に少ない事が判りました。 正常な成人男子の精子は、単位あたり6千万〜1億あるのに対して 私の場合は10万しかなく、体外顕微鏡受精を行うしか望みがないと 言い渡されました。 私は愕然としました。 「克服したと思っていたのに、やはり自分は普通の人間では無いのか」と。 私は障害者として、この世に生まれて来ました。 人の頭部は脊髄の両側や、中央から前方に向かってせり出し、抱え込むようにして 形成されていきます。 やがて正面で合わさり密着一体化して顔面が出来上がります。 この接合が未完成のまま生まれてくるケースがあり、多くは上あごに 症状が現れます。 「口唇口蓋裂症」と言い、その形態がウサギに似ていることから「兎口(みつくち)」 と蔑称で呼ばれる事もあります。 母は私を産んだことで、父やその親族から「鬼腹の嫁が、兎口を産んだ」と 蔑まれ、なじられ、責められた末に、数年後、精神に異常をきたすことに なります。 言語障害を伴っていたこともあり、子供の頃は随分と惨めな思いをしたものです。 希望と挫折を繰り返しながらも、私は自分の障害を克服したと思って 今日まで生きて来ました。 男性不妊が先天的なものかどうかは判りませんが、出生によって母を、今また結婚に よって妻を苦しめてしまったという思いに、押し潰されそうでした。 20代の私なら恐らく負けていたでしょう。 幸い40歳を目前にし、かなり打たれ強い人間になっていました。 何よりも支えになったのは、妻が私と歩くのを止めなかったことです。 私達の不可能への挑戦が始まりました。 出来るだけ自然に近い方が良いと判断しましたので、ダメモトで薬事療法から 始めることにしました。 クロミッド等のホルモン剤や、補中益気等の漢方、セレン、マグネシウム、 カルニチン、アルギニン、等のミネラルやアミノ酸。 高麗人参、マカ、等の健康食品。 手当たり次第に飲んでみました。 その結果、かなりの変動がありましたが、徐々に精子数が増え、1000万、2000万 というレベルにまで回復しました。 ここまで来ると、数回分を凍結保存して、人工授精にチャレンジすることが出来ます。 10回の人工授精を受けて、2回妊娠しましたが、一度目は途中で成長が止まり、 病院で流産となりました。 二度目は、さらに初期の段階で、病院へ行く間もなく科学流産でした。 谷底からやっと這い上がったら、今度はさらに深い海の底へ沈められたようなものです。 妊娠したと聞いたとき、私は両の手のひらを胸の前で上に向け、子供の重さを想像しました。 幾ばくかの重さを感じたような気がしました。 それが、はらはらと消えて無くなり、ずっしりとした悲しみだけが残りました。 「何故だ!世の中には極悪非道の鬼畜にさえ子供がいるではないか。 何よりも大切な筈のわが子を殺す親もいるではないか。 私達の元に生まれたならば、贅沢は出来なくても愛情に飢えることは無いと断言できる。 何故、顔を見ることも出来ないのか。 何故、名前を呼ぶことさえ出来ないのか。」 「偶然」などという理由では、納得するわけにはいきませんでした。 いろいろと調べるうちに、状況から考えて私達の場合、受精卵に染色体異常があった 可能性が非常に高いことが考えられました。 出生後まもなく消えていく命があることは知っていましたが、生まれる前に尽きる 寿命もあるのだと初めて知りました。 あの子たちは、あの子たちなりの一生を終えていったのだと思うと、ほんの少しだけ 救われたような気がしました。 科学流産は「流産」としてカウントされません。 「習慣流産」と呼べるのは、三度目の流産以降からです。 しかし、もうたくさんでした。 もう絶対に流産はしたくありませんでした。 何か良い方法はないのかと、さらに調べを進め、「着床前診断」に行き当たりました。 受精卵を選別する手法に、多くは否定的な意見であることも、障害者差別だとして 強い反対があることも考慮したうえで、決断をする時が来ました。 「続けるか?断念するか?」 私達の受精卵は、確かに私達を起源とする存在で、出生に至るか否かを問わないなら 私達の子供と呼ぶことが出来ます。 選別することは悲しい行為なのかも知れません。 しかし、ここで断念したら、ひとりの命も生まれては来ません。 「無」に帰するか、選別をしてでも一つの「生」に架けるか。 「生命の誕生」には、何ものにも代えがたい価値があると私は考えます。 仮に、着床前診断をすることが罪であるとしても、それを問われるのは私達であって 生まれた子供に罪などある筈がありません。 私達夫婦は、「あきらめない」という選択をしました。 そして神戸の「大谷産婦人科」を訪れ、これまでの経緯を話し診断の実施を依頼しました。 2004年1月 一回目の着床前診断を実施して頂き、「今度こそは」と願いながら 判定の日を待っていた矢先に、ある日突然、新聞やテレビの報道で一斉に取り沙汰され 大騒ぎとなりました。 一様に否定的な報道のされ方で、まるで犯罪者扱いのようでした。 当初から、いびつなものを感じていましたが、後で聞くと、色々と裏事情があったようです。 その後、着床前診断を望む患者で、この技術を支援する会を作ろうという呼びかけがあり、 私達は参加いたしました。 2004年7月「着床前診断を推進する会」(略称PGD会)が発足し、現在に至ります。 このホームページに掲載している内容は、すべて私の個人的な考えであって、 PGD会とは無関係です。 |
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