| ■渋川氏(しぶかわし) |
足利将軍家の支族で下馬衆と呼ばれ、蕨城を築きこれに拠ったとされるが不明な点が多い。当時の当主は渋川某で、永禄10年(1567年)上総国三舟山の合戦で戦死したとされています。渋川氏の夫人は蕨城の堀に身を投げたとも、本拠地の渋川(群馬県)の榛名湖に入水したとも伝えられます。榛名湖に入水した夫人は龍神となり、榛名神社に雨乞いに行くと雨が降るという伝説が生まれました。それを「龍體院(りゅうたいいん)伝説」と言い、昭和初期まで雨乞い行事が行われていました。渋川公夫妻は宝樹院に祀られており、蕨城址公園(蕨城をここに比定することには疑問が多い)には蕨城址碑が建っています。【画像は宝樹院にある石碑の榛名湖に入水したなどの口碑が刻まれている部分】 |
| ■高橋新五郎(たかはししんごろう) |
武蔵国足立郡塚越村(現蕨市)の機業家高橋家の出で代々襲名。高橋家初代の新五郎は、文化8年(1811年)ごろから糸商人として青梅や足利に足を運んでいるうちに機業を企図しました。二代目新五郎は、文政8年(1825年)父の遺志を継ぎ青梅、足利の機台をもとに、新機台=高機(たかばた)を発明して青縞の製織に着手しました。天保8年(1837年)には、高機102台、藍甕(あいがめ)300余の染物工場を持つほどになり事業を拡大。その没後、一族や弟子たちによって「機祖神」として祀られました。三代目新五郎は、青縞を改良し東屋唐桟を発明、イギリスから渡来の綿糸の混織を企図しましたが業半ばにして没したため、四代目新五郎がこれを受け継ぎ、「木綿双子(ふたこ)織」を発明しました。これが、わが国最初の「塚越双子縞」といわれるもので、「埼玉双子」「東京双子」と呼ばれるようになりました。初代新五郎から六代にわたるあいだ、機業の中心地であっただけでなく、高橋家は代々発明に終始した一家でした。【画像は高橋新五郎遺跡にある「機神社の由来」碑】 |
| ■岡田十内(おかだじゅうない) |
岡田十内叙吉(のぶよし)(1794年〜1871年)は剣術家で、戸田市大字下戸田に漢法医静安の長子として生まれました。幼い頃から剣術を好み、江戸に出て柳剛流(りゅうこうりゅう)の祖岡田総右衛門奇良の高弟今井右善について修行しました。免許皆伝を得て、江戸で藤堂和泉守の剣術師範となり、邸内道場で諸藩士を指導ししました。また、戸田の邸内にも道場をもうけ、近郷子弟の育成につとめ門弟が数千人におよびました。門弟中に彰義隊に加わったものが多く(伴門五郎など)、謹慎遁世のため名を柳風斎と改めました。三學院に葬られています。戒名は剣豪に相応しく「劔心無動信士」。明治4辛未12月廿8日没。【画像は三學院にある岡田家の墓】 |
| ■伴門五郎(ばんもんごろう) |
伴門五郎貞懿(さだよし)(1839年〜1868年)は、蕨宿の名主岡田平左衛門の三男に生まれました。叔父の伴経三郎貞栄の跡をつぎ、柳剛流剣術家岡田十内に入門しました。幕府に仕えて徒士隊に入り、文久3年(1863年)将軍家茂の上洛、慶応元年(1865年)長州征伐に従軍し、翌年陸軍調役になりました。彰義隊の結成当初からこれに加わり、のちに彰義隊頭取に就任しました。30歳のとき上野戦争で戦死しました。三學院に「伴門五郎の碑」が建っています。墓は谷中の全生庵にあります。【画像は三學院にある「伴門五郎之碑」】 |
| ■石川直中(いしかわただなかカ)石川直中先生のご子孫の方から自分たちは「なおなか」と呼び習わしているとご指摘がありました。 |
石川直中(1836年〜1890年)は、明治初期の教育功労者で、徳川譜代の儒家の家に生まれました。20歳のとき幕府学問所世話心得となり、以後進んで奥向教授を命ぜられ、将軍家茂に講義しました。明治3年(1870年)、足立郡下戸田村および蕨宿に私立学校を開設し漢学をを教授、現在の蕨市立北小学校の前身と言われています。明治4年、浦和郷学校(現在の浦和市立高砂小学校の前身)の開設に尽力し同校教授となり、同5年には蕨郷学校を開設し、同校教授(校長)を兼務しました。同8年病により職を辞し東京の私立学校で教授(皇・漢・英・洋算の四科)しましたが、同11年ふたたび蕨町民の招きにより蕨町夜学校教師となり、同15年には顕神学校長(現在の蕨北小)に再任しました。【画像は三學院にある石川直中之墓】 |
| ■河鍋暁斎(かわなべきょうさい) |
河鍋暁斎(1831年〜1889年)は、下総国古河に生まれました。7歳で歌川国芳の門に入り、その後狩野派の前村洞和や狩野洞白に学びました。狂斎と号し浮世絵・戯画・額絵などを描いていましたが、狂画をとがめられて暁斎と改めました。その活動は晩年にまで及び、数多くの作品を残しています。南町に曽孫で眼科医の河鍋楠美氏が自宅を改造して財団法人・河鍋暁斎記念美術館が建てられており、暁斎や関係者の作品・資料などを展示しています。誕生の地古河には「河鍋曉斎誕生之地」の碑が建っています。墓は台東区谷中4丁目の瑞輪寺にあります。【画像は(財)河鍋暁斎記念美術館】 |
| ■岡田健次郎(おかだけんじろう) |
| 岡田健次郎(1858年〜1940年)は、蕨宿の種油商住吉屋平左衛門の長男として生まれました。幼くして石川直中(蕨郷学校長)に学び、東都に出て島田重礼に漢学を学びました。明治39年(1906年)蕨町長に就任し、以後昭和15年死去するまで30余年間同町長として、地方自治の発展に尽くしました。荒川の改修・蕨駅の開設(明治26年)・耕地整理の施行・蕨地区織物整理研究所の創立などに参画し、各種功労により従六位勲六等瑞宝章を授与されました。和樂備神社境内に等身大の銅像が建てられましたが、道路拡幅の際、子孫の家に移転されました。 |
| ■金子吉衛(かねこきちえい) |
金子吉衛(1904年〜1990年)は前蕨市長、蕨市出身で東京帝国大経済学部卒業後、東京市に奉職。のち渋沢栄一が創立した東京都立養育院院長を勤め、それがきっかけで渋沢栄一の研究を始めました。市長就任(昭和42年〜50年)後、市長執務の傍ら文化活動を展開。著書に「渋沢栄一(共著)」や「蕨の空襲と戦時下の記録」「わがまち蕨の戦後十五年史」などがあります。郷土史研究家として知られ、書籍、絵画など集めた資料は200点以上に及び、夫人が蕨市立歴史民俗資料館と同図書館に寄贈し、平成10年には公開されました。86歳で亡くなった後、蕨市名誉市民となっています。【画像は蕨市役所の公式サイトから承認を得たうえで転載】 |