《 昭和天皇とマッカーサーと日米安全保障条約 》 |
■ 第二次世界大戦で敗戦の日本 昭和天皇の君臨 戦後のアメリカ従属への道■ 靖国神社の特殊性。国家を代表する立場を理解できていない閣僚の靖国神社への強硬な参拝。
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| 年 | 月 日 | 天皇・マッカーサー 天皇・リッジウェイ 会見 | 事 項 |
| 1894〜'95年(明治27〜28年) | '94/8月〜'95/2月 | 日清戦争 | |
| 1900年(明治33年) | 6月〜8月 | 義和団が北京に入城公使館地区封鎖、清朝が8カ国連合に宣戦布告、連合部隊が義和団を制圧する | |
| 1902年(明治35年) | 1月 | 日英同盟締結 | |
| 1904〜'05年(明治37〜38年) | '04/2月〜'05/9月 | 日露戦争 | |
| 1905年(明治38年) | 9月?日 | ポーツマス条約締結 | |
| 1910年(明治43年) | 8月29日 | 大日本帝国が韓国併合条約で朝鮮半島を領有する | |
| 1912年(大正 2年) | 1月 1日 | 孫文 中華民国建国 臨時大総統就任 | |
| 1912年(大正 2年) | 2月12日 | 清帝溥儀退位 | |
| 1912年(大正 2年) | 2月15日 | 袁世凱 中華民国2代目臨時大総統就任 | |
| 1912年(大正 2年) | 8月25日 | 孫文 国民党を創立 | |
| 1915年(大正 5年) | 1月 | 袁世凱は日本が中国に21か条の要求を行ったことを公表。しかし、受け入れざるを得なかった。 | |
| 1917年(大正 7年) | 11月 | ロシア革命 | |
| 1921年(大正10年) | 7月 | 陳独秀、毛沢東等中国共産党創立 | |
| 1922年(大正11年) | 2月 6日 | 1921/11/11からワシントンで第一次世界大戦の戦勝国5カ国による軍拡の負担をとめるためのワシントン軍縮会議開催。海軍については米・英・日・仏・伊国間の艦船の保有割合などが決められ、日本は米英国の60%の総排水量と決まった。 | |
| 1928年(昭和 3年) | 6月 4日 | 張作霖爆殺事件 | |
| 1929年(昭和 4年) | 10月24日 | ニューヨーク株式市場の株価大暴落。世界大恐慌ニ発展する。 | |
| 1930年(昭和 5年) | 4月22日 | ロンドン海軍軍縮条約締結 日本は補助艦船や大型巡洋艦が米国の70%の総トン数を受け入れ調印 | |
| 1931年(昭和 6年) | 9月18日 | 満州事変勃発。1931年9月18日夜、関東軍は参謀石原莞爾中佐らの謀略計画により柳条湖で満鉄線路を爆破し、中国軍のしわざと偽り、攻撃を開始した柳条湖事件を契機とした日本の中国東北侵略戦争で、1932年には満州国を樹立。 清朝の退位した溥儀を日本の傀儡政権の満州国の皇帝に据える | |
| 1933年(昭和 8年) | 3月27日 | 日本が国際連盟から脱退 | |
| 1935年(昭和10年) | 3月16日 | ドイツがヴェルサイユ条約を破棄 | |
| 1936年(昭和11年) | 1月15日 | ロンドン海軍軍縮会議から日本が脱退。1934年12月にワシントン海軍軍縮条約破棄を通告し、2年後1936年に失効。 | |
| 1936年(昭和11年) | 11月25日 | 日独防共協定締結 | |
| 1936年(昭和11年) | 12月 | 張学良による蒋介石を拉致した西安事件。 蒋介石は、内戦停止と国民党・共産党の共党体制で対日抗戦を行うことを受諾させられ、その後、両党とも抗日を表明 | |
| 1937年(昭和12年) | 7月 7日 | 盧溝橋事件起こる。日中の全面戦争に発展。 | |
| 1937年(昭和12年) | 8月21日 | 中ソ不可侵条約締結 | |
| 1938年(昭和13年) | 11月 3日 | 近衛が東亜新秩序建設の声明を出す | |
| 1939年(昭和14年) | 5月12日 | ノモンハン事件。日本が支配する満州国とモンゴル国の国境ノモンハンでの警備の武力衝突。これから、日本の関東軍がモンゴルを支援するソ連の領域に侵攻する戦争に発展する。日本は壊滅的被害を受け停戦。 | |
| 1939年(昭和14年) | 6月14日 | 日本軍が中国天津の英仏の租界を封鎖する | |
| 1939年(昭和14年) | 7月26日 | 米国が日米通商条約破棄宣言、1940/1/26執行 | |
| 1939年(昭和14年) | 8月23日 | 独ソ不可侵条約締結 | |
| 1939年(昭和14年) | 9月 1日 | ドイツ軍がポーランドに侵攻 | |
| 1940年(昭和15年) | 9月23日 | 日本軍が北部仏印進駐 | |
| 1940年(昭和15年) | 9月27日 | 日独伊三国同盟条約調印 | |
| 1940年(昭和15年) | 3月11日 | アメリカが武器貸与法を成立させる。蒋介石政府に軍需物資の提供など実施。 | |
| 1941年(昭和16年) | 1月 8日 | 東条英機陸相が戦陣訓を示達 | |
| 1941年(昭和16年) | 4月13日 | 日ソ中立条約調印(5年間有効) | |
| 1941年(昭和16年) | 6月 | ドイツが独ソ不可侵条約を破りソ連に侵攻する | |
| 1941年(昭和16年) | 7月21日 | 日本が仏印支那に対して日本軍が仏印内での軍事任務を行う便宜供与を要求し、仏印が已む無く受諾 | |
| 1941年(昭和16年) | 7月25日 | 米国が在米内の日本資産の凍結令を公布 | |
| 1941年(昭和16年) | 7月28日 | 日本軍が南部仏印進駐 | |
| 1941年(昭和16年) | 8月 1日 | 米国が対日石油の輸出を禁止 | |
| 1941年(昭和16年) | 8月 1日 | 米ソ経済協定調印。ソ連に対しても軍需物資の提供など実施。 | |
| 1941年(昭和16年) | 10月18日 | 近衛内閣から東條内閣へ | |
| 1941年(昭和16年) | 11月26日 | ハルノートを提示 | |
| 1941年(昭和16年) | 12月 8日 | 日本海軍がハワイのオアフ島の真珠湾の米軍の軍艦などを攻撃(現地時間12/7)及び日本軍がマレー半島に上陸 | |
| 1941年(昭和16年) | 12月11日 | 日独伊三国不講和協定調印 | |
| 1943年(昭和18年) | 9月 8日 | イタリア無条件降伏 | |
| 1943年(昭和18年) | 10月30日 | 汪兆銘の中華民国南京国民政府との日華同盟条約調印 | |
| 1943年(昭和18年) | 12月 1日 | アメリカ、イギリス、中華民国の首脳によるカイロ宣言 | |
| 1945年(昭和20年) | 2月 4〜11日 | ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンがヤルタで会談 | |
| 1945年(昭和20年) | 4月 | アメリカのルーズベルト大統領が死亡。副大統領のトルーマンが大統領になる | |
| 1945年(昭和20年) | 5月 7日 | ドイツ無条件降伏 | |
| 1945年(昭和20年) | 6月 6日 | 御前会議で本土決戦方針採択 | |
| 1945年(昭和20年) | 6月23日 | 沖縄戦終結 | |
| 1945年(昭和20年) | 7月 6〜9日頃 | サイパン島が全滅。 | |
| 1945年(昭和20年) | 7月12日 | 米・英・ソ連 ポツダムで首脳会談 | |
| 1945年(昭和20年) | 7月26日 | 連合国 ポツダム宣言発表 | |
| 1945年(昭和20年) | 7月29日 | 日本政府は、ポツダム宣言について価値あるものとは認めないとして、戦争の継続について言及。これをロイターは日本が拒否したとして報道した。 | |
| 1945年(昭和20年) | 8月 6日 | TD> | 広島に原爆が投下される |
| 1945年(昭和20年) | 8月 8日 | ソ連が対日戦争布告 | |
| 1945年(昭和20年) | 8月 9日 | 長崎に原爆が投下される | |
| 1945年(昭和20年) | 8月 9日 | ソ連軍の対日戦闘開始 | |
| 1945年(昭和20年) | 8月10日 | 帝国政府はスウェーデン及びスイス経由の電報で連合国に天皇体制の不変の確認の申し入れを送る | |
| 1945年(昭和20年) | 8月12日 | 皇族会議 皇族を参集して天皇のポツダム宣言受諾の聖断の意見を述べ大体賛成を得る。但し、朝香宮が国体護持が出来なければ戦争を継続するかを質問した。天皇は勿論だと答えたと記されている。 | |
| 1945年(昭和20年) | 8月14日 | 日本がポツダム宣言を受諾 | |
| 1945年(昭和20年) | 8月15日 | 終戦の詔勅ラジオ放送 マッカーサー元帥が連合国最高司令官に就任 | |
| 1945年(昭和20年) | 8月28日 | 連合国総司令部を横浜に設置。その後東京に移設。 | |
| 1945年(昭和20年) | 8月30日 | the General Headquarters of the Allied Powers (GHQ) の最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着 | |
| 1945年(昭和20年) | 9月 2日 | ミズリー号にて日本が降伏文章に調印 | |
| 1945年(昭和20年) | 9月25日 | 天皇がニューヨークタイムズ記者とUP通信社社長の記者会見を受ける。 【2002年7月26日朝日新聞の天皇会見の特集の記事によると、事前提出した質問とその回答。質問:「真珠湾攻撃にについて、宣戦の詔書は、東條大将が使ったように使う意図はあったのでしょうか。」 回答:「東條大将が使ったように使われることは意図していなかった。」 | |
| 1945年(昭和20年) | 9月27日 | 第1回天皇・マッカーサー 会見 奥村勝蔵通訳 | |
| 1945年(昭和20年) | 10月 3日 | 東久邇宮内閣が既に作成していた「戦争責任に関する応答問答」を11月5日に一部手直しして幣原内閣で閣議決定。 | |
| 1945年(昭和20年) | 10月 6日 | 合衆国の最高政策調整機関(SWNCC)は、天皇の処置について、戦犯として逮捕されるものとする。その時期は、その必要性を判断して行うとする。 天皇制について別案を起草することを提案。 その後、昭和天皇に関しての提案の種々の報告書が示されている | |
| 1945年(昭和20年) | 10月19?日 | SWNCC 天皇の戦犯検討を中止する方針を明らかにする。 | |
| 1945年(昭和20年) | 10月24日 | 国際連合発足 | |
| 1945年(昭和20年) | 12月15日 | GHQが国家と神道の分離令 | |
| 1945年(昭和20年) | *12月22日 | アチソン 天皇制と(寺崎)日記に記載。 | |
| 1946年(昭和21年) | 1月 1日 | 天皇の人間宣言 | |
| 1946年(昭和21年) | 1月19日 | 極東国際軍事裁判所条例制定 天皇も戦犯リスト入り (このときマッカーサーは天皇を法廷に出さないことを決めていた;ウィロビー少将の回顧録) | |
| 1946年(昭和21年) | 2月20日 | (寺崎英成がこの日に宮内省の御用掛になると、半藤一利氏が注釈説明している。) | |
| 1946年(昭和21年) | 2月26日 | ワシントンに11カ国からなる極東委員会が設置される。 | |
| 1946年(昭和21年) | 3月 6日 | GHQの憲法草案発表 この日付において、次の資料が存在する: (注)『フェラーズ准将が米内大将に対する話(昭和21年3月6日)』 フェラーズが「自分は天皇崇拝者ではない。したがって、15年先、20年先、日本に天皇制があろうがあるまいが、又天皇個人としてどうなって居られようが、関心はもたない。しかし、連合軍の占領にについて、天皇が最善の協力者であることを認めておる。現状において占領が継続する間は天皇制も引き続き存続すべきであると思う。所が困ったことには、連合国側の或る国においては、天皇でも戦犯者として処罰すべしとの主張非常に強く、特に「ソ」(ソ連)はその国策たる全世界の共産主義化の完遂を企図しておる。したがって、日本の天皇制と「MC」(マッカーサー)の存在とが大きな邪魔者になっている。 加えるに米においても、非アメリカ式思想が当局の相当上の方にも勢力を持つに至って、天皇を戦犯者として挙げるべきだととの主張が相当強い。 右に対する対象としては、天皇が何らの罪のないことを日本人側から立証してくれることが、最も好都合である。その為には近々開始される裁判において東條に全責任を負担せしめる様にすることだ。すなわち東條につぎのことを言わせてもらいたい。 「開戦前の御前会議において、たとえ陛下が対米戦争に反対せられても、自分は強引に戦争までもって行く腹を既に決めていた」と | |
| 1946年(昭和21年) | 3月18日 | 昭和天皇の独白録のための聞き取り 1回目 | |
| 1946年(昭和21年) | 3月20日 | 昭和天皇の独白録のための聞き取り 2回目 | |
| 1946年(昭和21年) | 3月22日 | 昭和天皇の独白録のための聞き取り 3回目 | |
| 1946年(昭和21年) | 4月 8日 | 昭和天皇の独白録のための聞き取り 4回目、5回目 | |
| 1946年(昭和21年) | *4月19日 | (寺崎)大臣と共に陛下の腹案を聞く 夜リスト作成 | |
| 1946年(昭和21年) | *4月20日 | (寺崎)リストを外務省に提出 大臣の意向を伝える | |
| 1946年(昭和21年) | 4月22日 | ソ連が東京裁判の起訴状の変更を要求 フェラーズに3度会う。 23日に吉田わからずという フェラーズに話してよしという 夜フェラーズに会う | |
| 1946年(昭和21年) | 5月 3日 | フェラーズに話す 陛下の了解済み。(東京裁判開廷) | |
| 1946年(昭和21年) | *5月31日 | 第2回天皇・マッカーサー 会見 寺崎英成通訳 | (寺崎)記録を作る |
| 1946年(昭和21年) | 6月 4日 | 極東委員会 天皇制廃止の問題を討議に付することを発表(衆議院の日本国憲法制定経過年表の資料) | |
| 1946年(昭和21年) | 6月 日 | 中国で、国民党軍と共産党軍との内戦が再開する | |
| 1946年(昭和21年) | *6月 6日 | (寺崎)会見録原稿を仕上げる | |
| 1946年(昭和21年) | 6月18日 | キーナン極東国際軍事裁判首席検事がワシントンで天皇の不訴追を言明(国立国会図書館資料 年表 詳細年表4) | |
| 1946年(昭和21年) | 6月26日 | 吉田首相が戦争放棄について、自衛のための戦争も交戦権も放棄したものであると言明 | |
| 1946年(昭和21年) | *8月20日 | (寺崎)侍従長と話す 三種の神器問題と記載あり | |
| 1946年(昭和21年) | *9月 9日 | 降下問題 侍従長と話す バンカーに会う話と記載あり | |
| 1946年(昭和21年) | *10月14日 | (寺崎)お言葉案を書き上げる 御前会議 | |
| 1946年(昭和21年) | 10月16日 | 第3回天皇・マッカーサー 会見 寺崎通訳 | |
| 1946年(昭和21年) | *10月18日 | (寺崎)会見録書く | |
| 1946年(昭和21年) | *10月22日 | (寺崎)会見録中野に渡す | |
| 1946年(昭和21年) | *10月26日 | (寺崎)会見録次官に渡す | |
| 1946年(昭和21年) | 11月 3日 | 日本国憲法公布 | |
| 1947年(昭和22年) | *3月21日 | (寺崎)バンカーと話しをする。1.元帥のプレインタビューの経緯。 2.元帥が早く日本を去っては朝鮮人にもやられる始末だが如何。 元帥は後々のことはよく考えている。 UNO国連に力が出来るか又は日本に再軍備をしてからかどちらか。〔責任ある人から再軍備云々は初めて聞く〕 3.元帥の大統領説について〔米大統領選に出馬の噂〕と記載あり | |
| 1947年(昭和22年) | 5月 6日 | 第4回天皇・マッカーサー 会見 奥村通訳 | |
| 1947年(昭和22年) | *9月19日 | 拝謁 沖縄の話 元帥に話すべしという 平和条約にいれず 日米間の条約にすべし | |
| 1947年(昭和22年) | 9月20日 | 寺崎からマッカーサーへのメモ 寺崎→シーボルト、シーボルト→ワシントンの国務長官宛に同封してマッカーサーに送る(ワシントンの公文書公開) (所謂、沖縄メッセージを指す) | |
| 1947年(昭和22年) | *10月3日 | (寺崎)シーボルトに会う 陸軍省の意見:沖縄はアメリカが自由にする 信託かリースかは決まっていない 国務省の意見:定まっていない | |
| 1947年(昭和22年) | 11月14日 | 第5回天皇・マッカーサー 会見 寺崎通訳 | |
| 1947年(昭和22年) | *12月31日 | 陛下マ元帥ご会見(注1) | (注1)寺崎の日記には、陛下「マ」元帥と御会見と記載あり |
| 1947年(昭和22年) | 12月31日 | 東京裁判でローガン弁護人の「天皇が平和を希望していることに対し、木戸幸一が何か進言したり、行動したことがあるのか」という尋問に、被告東條が「そういうことはない。日本国の臣民が陛下のご意思に反してあれこれすることはない。いわんや、文官においてをや」と発言。審理を中止し翌年に持越しされる。 このとき検察官のキーナンは自宅に松平や高松宮を呼び、暗に説得を仄めかせた。結果的に天皇は無罪で東條が罪を被ったのである。 | |
| 1948年(昭和23年) | 5月 6日 | 第6回天皇・マッカーサー 会見 GHQの通訳か? | |
| 1948年(昭和23年) | 11月12日 | 東京裁判で東条英機に死刑判決。12月23日に処刑。 | |
| 1949年(昭和24年) | 1月10日 | 第7回天皇・マッカーサー 会見 GHQの通訳か? | |
| 1949年(昭和24年) | 7月8日 | 第8回天皇・マッカーサー 会見 松井通訳 | |
| 1949年(昭和24年) | 8月 | ソ連が原爆実験 | |
| 1949年(昭和24年) | 10月 1日 | 中華人民共和国成立 | |
| 1949年(昭和24年) | 11月26日 | 第9回天皇・マッカーサー 会見 松井通訳 | 講和問題 |
| 1949年(昭和24年) | 12月11日 | 蒋介石が台北で国民党の執務を始める | |
| 1950年(昭和25年) | 4月18日 | 第10回天皇・マッカーサー 会見 松井通訳 | |
| 1950年(昭和25年) | 6月25日 | 日本の降伏後、ソ連の朝鮮半島の侵攻により米ソで朝鮮半島を分割統治し、それぞれの政権が樹立していた。北朝鮮軍が北緯38度線を越えて南下侵攻に対して、国連軍による北朝鮮攻撃。朝鮮戦争勃発 | |
| 1951年(昭和26年) | 4月15日 | 第11回天皇・マッカーサー 会見 松井通訳 | マッカーサーが解任されアメリカに戻る前日 |
| 1951年(昭和26年) | 4月18日 | ダレスと吉田首相会談:英国の厳しい対日和平条約内容を知らされる | |
| 1951年(昭和26年) | 5月 1日 | 第1回天皇・リッジウェイ 会見 松井通訳 | |
| 1951年(昭和26年) | 8月27日 | 第2回天皇・リッジウェイ 会見 松井通訳 | |
| 1951年(昭和26年) | 9月 8日 | サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約調印 | |
| 1951年(昭和26年) | 9月18日 | 第3回天皇・リッジウェイ 会見 松井通訳 | |
| 1952年(昭和27年) | 2月28日 | 日米安全保障条約第3条に基づく行政協定を結ぶ | |
| 1952年(昭和27年) | 3月27日 | 第4回天皇・リッジウェイ 会見 松井通訳 | |
| 1952年(昭和27年) | 4月26日 | 第5、6回天皇・リッジウェイ 会見 松井通訳 | 講和条約発効 |
| 1952年(昭和27年) | 5月 2日 | ||
| 1952年(昭和27年) | 5月10日 | 第7回天皇・リッジウェイ 会見 松井通訳 | |
| 1953年(昭和28年) | 7月27日 | 朝鮮休戦協定調印 | |
| 1954年(昭和28年) | 6月 9日 | 自衛隊法公布 | |
| 1954年(昭和29年) | 12月 2日 | 米華相互防衛条約締結、その後1972年に米中国国交樹立後、必然的に効力を有さないことになるが、アメリカは台湾への武器の輸出を可能になるようにしている | |
| 1956年(昭和31年) | 12月18日 | 日本の国連加盟承認 | |
| 1960年(昭和35年) | 1月19日 | 岸首相が強硬に日米安全保障条約改定締結(10年間有効)及び日米地協定調印 | |
| 1965年(昭和40年) | 2月 7日 | アメリカによる北ベトナムへの攻撃開始 | |
| 1969年(昭和44年) | 11月21日 | ニクソン米合衆国大統領と佐藤日本国総理大臣との間の共同声明についての極秘の合意議事録(密約)が交わされる。概要内容:『極秘:米合衆国大統領 ・・・米国政府は、日本国政府と事前協議を行った上で、核兵器を沖縄に再び持ち込むこと、及び沖縄を通過する権利が認められることを必要とするであろう。
かかる事前協議においては、米国政府は好意的回答を期待するものである。 さらに、米国政府は、沖縄に現存する核兵器の貯蔵地、すなわち、嘉手納、那覇、辺野古並びにナイキ・ハーキュリーズ基地を、何時でも使用できる状態に維持しておき、重大な緊急事態が生じた時には活用できることを必要とする。 日本国総理大臣 日本国政府は、大統領が述べた前記の重大な緊急事態が生じた際における米国政府の必要を理解して、かかる事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの必要をみたすであろう。・・・』 (注意)【重要】しかし、筆者から見れば、日米安保条約に関わる安全保障の取極めで、独裁政治的に、核兵器の持込などの了解事項ほか何でも極秘に平然と決めることができ、法律でない非核三原則など意味無いことがわかった。極秘であれば公に出ることは無いから政府のやり放題である。 | |
| 1970年(昭和45年) | 6月23日 | 日米安全保障条約調印。以降自動継続(1年ごと) | |
| 1971年(昭和46年) | 10月25日 | 国連 中国の正式な政府を中華人民共和国とすることが可決 | |
| 1972年(昭和47年) | 5月15日 | 沖縄の施政権日本に返還 | |
| 1975年(昭和50年) | 4月 3日 | ベトナム戦争終結 | |
| 1978年(昭和53年) | 8月12日 | 日中平和友好条約締結 | |
| 1978年(昭和53年) | 11月27日 | 日米安全保障協議委員会で日米防衛協力のための指針を了承 2013年時点の日米防衛協力のための指針 | |
| 1990年(平成 2年) | 10月 3日 | 東西ドイツ統一 | |
| 1991年(平成 3年) | 4月24日 | 自衛隊の海外派遣が明確になっていないにも拘らず、自衛隊をペルシャ湾の機雷掃海作業のために派遣決定 | |
| 1996年(平成 8年) | 4月15日 | 日本国の自衛隊とアメリカ合衆国軍隊との間における後方支援、物品又は役務の相互の提供に関する日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定調印 | |
| 1999年(平成11年) | 8月18日 | 周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律制定 | |
| 2001年(平成13年) | 9月11日 | アメリカが同時多発テロ攻撃を受ける | |
| 2003年(平成15年) | 3月20日 | 米英などの有志連合国が、大量破壊兵器の所有その他を理由としてイラクへの攻撃を開始する | |
| 2003年(平成15年) | 6月13日 | 武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律制定 | |
| 2003年(平成15年) | 7月25日 | イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法制定。当時のイラクでの航空自衛隊の活動の中に、イラク特措法違反及び日本の刑法に抵触する命令を総理・防衛の閣僚が航空自衛隊に下した事実が存在する。 法治国家日本として、イラクに派遣された航空自衛隊及び小泉、安倍、麻生、福田元総理、額賀元防衛庁長官、久間、石破、高村、浜田元防衛大臣などの刑法に抵触する命令に対する処罰(殺人ほう助相当??の刑罰)が求められる | |
| 2009年(平成21年) | 12月22日 | 元総理の佐藤栄作氏の親族が日米両首脳の署名入り核持ち込みに関する極秘合意書を新聞記者を通じて公表した。 | |
| 2010年(平成22年) | 3月 9日 | 外務省の密約に関する有識者委員会が調査報告書を提出し密約としての合意事実の存在を確認した。今回対象の密約4項目: ”日米安保条約改訂時の核持ち込みに関する項目”、”朝鮮半島有事の際の戦闘行動に関する項目”、”沖縄返還時の有事の際の核持ち込みに関する項目”、”沖縄返還時の原状回復補償費の肩代わりに関する項目” | |
| 2011年(平成23年) | 3月11日 | 東日本大震災発生。東京電力福島第一原発事故発生。飛散した放射性物質を放置したままである。原子炉施設から放射性物質を含んだ汚染水が直接海洋へ流出していると共に、飛散した放射性物質が堆積したものが循環を通じて、降雨により流下し海に流出していると推測される。 | |
| 2011年(平成23年) | 12月14日 | オバマ大統領がイラク戦争終結宣言 |
| 【注】 * 印は、「寺崎御用掛日記」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー著)に記載の項目から示した日付と内容。寺崎の日記は1948年2月15日で終わっている。 マッカーサー及びリッジウェイと昭和天皇との会見の月日は、2002年8月5日の朝日新聞の記事による。 |
中国の清朝末期にイギリスと清との間でイギリスによる清へのアヘンの密貿易を清が阻止することに起因したアヘン戦争が起こる(1840-1842年)。 敗戦した清は南京条約を結ぶ(1842/8/29)ことになって、イギリスに上海など5港を開港、九龍半島南部などを割譲した。 その後、(1860)に英仏軍が北京に進撃し、清は北京条約を結び、イギリスには九龍半島を割譲など行った。 また、ロシアはウイグル自治区のイリ地方に進撃し一部の領土を獲得した(イリ占領1871、イリ条約1881)。
清と日本とは朝鮮問題で日清戦争(1894)となり、日本が勝利し、清は下関条約で遼東半島、台湾及び澎湖列島を割譲、賠償金を支払うことになった。 (1900)に義和団の乱が起こり、清がこの機を利用して義和団の排外運動を支持するが、北京の在中公館の要請を受けた8カ国連合が義和団を鎮圧し北京を占領。 戦後処理として北京議定書を結び(1901/9/7)、戦勝国は清朝に多額の賠償を請求するほか、清国内の駐兵や国土の分割的権益を獲得した。 しかし、日本は三国干渉を受け、遼東半島を清に返還。 ロシアがその後遼東半島を租借ロシア軍は中国東北部を占領、後に日本がロシアの勢力の南下を危ぶみ、日露の戦争へと向かうことになる。
中国での権益を守り第三国の介入を牽制するために、(1902)に日本は日英同盟締結ぶ。 (1904)に日本はロシアと国交を断絶し、日露戦争開戦に至る。 日本は日露戦争の勝利でポーツマス条約締結(1905)。
日露戦争に合わせて、朝鮮半島では日韓協約を結び朝鮮半島を日本の保護下におき、(1910)には大日本帝国が大韓帝国を併合した。 日露戦争後、日露間で4回の協約を結びつつ協調政策を進めたが、(1917)のロシア革命により協約関係は終焉する。 日本が支配する満州国とモンゴル国の国境ノモンハンでの警備の武力衝突から、日本の関東軍がソ連の領域に侵攻する戦争に発展し、日本が敗戦した(1939/5)。
(1911/5)に四川暴動が起き、(1911/10)に武昌で革命派が挙兵し湖北省独立を宣言。 これを機に新軍が各地で独立、革命派は南京で孫文を臨時大統領に選出、(1912/1)に孫文が共和制を宣言、中華民国の臨時政府が誕生。 しかし革命勢力は弱く、間もなく北洋軍閥の袁世凱が北京で臨時大統領と成り、(1912/2)に清朝の皇帝溥儀を退位させ清朝は終焉し、王朝体制は滅びた。 (1912/3)に袁世凱が臨時大統領に就任。 その後議院内閣制が採用されることになり、袁世凱は国民党の宋を暗殺、孫文らは亡命、袁世凱は帝政を復活させようとするが反対勢力の武装蜂起により断念を余儀なくされる。 (1916/6)に袁世凱が死亡後は軍閥間の争いに発展した。 この後、国民党勢力に対抗する勢力や共産党勢力との間の内乱が生じた。
この頃、 第一次世界大戦でドイツの敗戦により、中国内のドイツ権益を日本が引き継ぐことを日本が中国に要求する問題など起きる。 (1931/9)に満州の柳条湖での満鉄線路爆破事件に端を発して、日本の関東軍が中央政府の制御を外れて行動し満州へ侵攻(満州事変)。 このとき、朝鮮へ派兵されていた日本兵の部隊も中央政府の統制外で満州に進軍した。 傀儡政権の満州国を樹立(1932)。
中国国内では国民党勢力と共産勢力などとの内乱のため、日本の満州国を樹立することに対しては放任。 この満州事変に対しては、国際連盟がリットン調査団を派遣し日本軍の行動について調査をおこない、報告書を基に国連で日本がとった行動についての処理が討議され、その議決結果を不服として日本は(1933/3/27)に国際連盟を脱退した。
張学良が内戦を中止して蒋介石に国共の共闘を求める西安事件を起こし、日本が満州から更に軍事侵攻することに対処するための国民党と共産党が抗日に共闘する国共合作が成立することになった。 その後、盧溝橋での軍事衝突(1937)から日本と中国との全面的な日中戦争に発展。 アメリカには当時、戦争や内乱状態の国には軍需物資の輸出を禁じている中立法が存在していたが、この日中戦争において、ルーズベルト大統領はこの適用を除外して中国の国民政府を支援する。
日本軍は満州国から領土拡大を図ること及び日本軍に対抗する蒋介石の中華民国政府を諸外国が支援するルートを断つことを開始し、中国南部域の(1938)に広東を爆撃し、広東が陥落(1938/10)。 日本軍が海南島を占領(1939/2)。 (1939/6)に日本軍が中国天津の英仏の租界を封鎖する。 (1939/7)にアメリカは日米通商条約の破棄宣言を行った。 蒋介石政府を支援する武器等の供与は、仏領印度支那(仏印)及びビルマ(現在のミャンマー連邦)からの輸送ルートなどでも行われており、日本軍はこれの阻止に躍起になっていた。 日本は仏印及びビルマに圧力を掛け、日本軍が活動できるように交渉するが、交渉は纏まらなかった。 日本軍は強硬に仏印ルートの中国領土内の雲南鉄道を爆撃(1939/12)。 日本が北部仏印に進駐(1940/9)。 仏印は本国フランスがドイツに占領されたことにより、仏印に対する日本軍の軍事面の任務の便宜供与の要請を受諾せざるを得なくなった。 日独伊三国同盟を結ぶ(1940/9)。
中国では、国民党の蒋介石に対抗して国民党の汪精衛(汪兆銘)が(1940/3)に南京国民政府を樹立するが、蒋介石側からの脱落者が続かず支持が得られず日本に組し、日本は、日本の傀儡的な汪精衛政権を中国の正式な政権として認める(1940/11)。
イギリスはビルマから輸送を再開することを日本に通告。 日本軍がビルマ上空からビルマルートの輸送路を爆撃(1940/10)。 日本は(1941/4)にソ連と日ソ中立条約を結び北方からのソ連の進攻を抑制を図りつつ、日本は南部仏印に進駐(1941/7)。 アメリカは、日本が東亜の新秩序(大東亜共栄圏)建設と称して仏印侵攻や三国同盟締結したことを懸念して、日本に対して、中国における権益放棄、市場の機会均等や満州を日本が統括する以前の状態に戻すことなどを含め、領土保全、主権不可侵、インドシナからの撤兵、中国の政権はアメリカが認める蒋介石政権とし、日本に他の対立政権の支援を認めない、また、太平洋地域の平和の確立に関して一方的に第三国と協定することが平和維持に矛盾すると認めることなどを要求するが、日本は拒否した。 これを受けて日米間の関係が悪化してゆき、日本に対して制裁として米国内の日本の資産を凍結した(1941/7/25)。 (7/26)に英国が凍結。 (7/27)に蘭印が凍結。 アメリカは(1940/9)に既に鉄屑などについて対日輸出を禁止していたが、(1941/8/1)には対日石油の輸出を全面禁止した。 これらの経済制裁を受けて、日本は米国との外交交渉による解決の余地を残しつつ、南方方面への侵攻作戦(対米・英・蘭との戦争)の準備を始めた。
(1929/10/24)のニューヨーク株式市場の株価大暴落に端を発した世界恐慌による経済の混乱期に入る。 ヨーロッパにおいては、既に世界の各地に植民地を有している列国は、植民地間のグループの経済圏で排他的貿易により恐慌に対処する、いわゆるブロック経済政策により恐慌を乗り切るが、一方、第一次世界大戦の敗戦国であるドイツなどの敗戦国は多額の賠償費などを課せられ、経済の行き詰まりに対する活路として、講和条約ヴェルサイユ条約を破棄して(1935/3/16)軍備拡大、領土獲得に進んだ。 当時のソ連は計画経済を行っており、世界恐慌の影響を受けなかった。 アメリカはニューディール政策を実施した。
ヨーロッパではドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まる(1939/9)。 ソ連のスターリンはドイツと不可侵条約を締結(1939/8)し、戦争回避をはかった。 アメリカは武器貸与法を成立させてイギリスなどへの必要な支援を可能とする(1941/3)。 ドイツは不可侵条約を2年足らずで破りソ連への攻撃を開始(1941/6)。
日本では(1940/7/27)に宮中で大本営・政府連絡会議を開き、「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。 これは大日本帝国の対外政策の方向を概定するもので、武力行使の方向性と準備の基本が示されている。 その主な内容は概ね次の通り。
■支那事変の解決を促進する。 ■第三国による蒋介石への援助を断つ様手段を尽くして、重慶政権を屈服させる。 ■独伊との結束を強化し、対ソ連とは国交調整を行う。 ■米国に対しては儼然たる態度で日本の主張を通して施策を実行する。 自然的悪化は止むなしとするが、求めて摩擦を増やすことを避ける。 ■仏印に対しては蒋介石支援行為を遮断する。 必要な資源を獲得する。 状況に拠り武力の行使。 ■香港に対しては強力に敵性を排除する工作を推進する。 ■租界に対して敵性を排除する。 ■蘭印にたいしては暫く外交的に重要資源の確保に努める。 ■対南方については好機を捕捉し武力を行使する。 ■戦争対手は極力英国のみとするが、対米開戦が避けざる事態に至ることがあるので、この準備に遺憾なきを期す。 ■国内について、総動員法の発動。 戦時経済態勢の確立。 戦争資材の集積、船腹の拡充。
帝国日本は、ドイツがノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを相次いで征服する快進撃に目を見張り、ドイツとの同盟に慎重な日本内部の意見が同盟賛成派の主張に押されて日独伊の三国軍事同盟を結ぶ。 帝国日本は、アメリカに依存する鉄鋼・石油の供給が止まる中で、アメリカに最後の平和的な外交交渉を行う一方で戦争の準備を始めた。
帝国日本は、独ソ戦を好機に捉え、ソ連には介入せず、中国の作戦強化、対仏印・タイへの施策事項を実施、対英米作戦の準備を始めた。
近衛内閣時の御前会議で既にアメリカとの開戦を念頭に入れた方針を決定させていた。
《{(1941/7/2)の御前会議では、”南方要域に対する必要な外交交渉を続行しその他諸般の施策を促進する。 このため、対英米戦の準備を整え、「対仏印泰施策要綱」、「南方施策促進に関する件」に拠り、仏印及び泰に対する諸方策を完遂し南方進出の態勢を強化する。 本目的を達成するため、対英米戦を辞せず。” と決定。} 、{(1941/9/5)に天皇に議案を内奏し、翌日9月6日の御前会議では、”自存自衛を全うする為、対米(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途として戦争準備を完整する。 外交交渉によって10月上旬頃に至るも尚我が要求を貫徹し得る目途なき場合に於いては直ちに対米(英、蘭)開戦を決意する。 特に米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む。” と決定。}》
対米交渉は進展せずに交渉期限の10月上旬を過ぎて、新秩序建設や御前会議での開戦が決定している状態で打開できずに近衛は辞職する。 その後に、この難局に軍部を抑えることが可能な人物であろうと総理に御下命されたのが戦争容認の主戦派である東條英機であった。 しかし、結局交渉は決裂し、東條なら一旦決定した御前会議の決議を翻してくれることを最高指導者会議のメンバーらは期待するが、東條は天皇の裁断を従順に実行したのである。
日本は思慮された戦術も無く、日本の石油の備蓄が枯渇する前にアメリカとの開戦に及んだ。 1940年代、日本は米英圏からの輸入に多くを依存しており、軍需生産を拡大するためには米英圏からの原材料の輸入が必須であったが、それらの国との摩擦が生じたことで物資の確保が困難となり、日本軍は米国と半年か1年間しか戦えないことを想定しており、戦争会議では希望的条件における見込みの作文に基づく主張によるものであって、米国との持久戦をどう戦うかの戦術検討は無かったのである。
ハワイ攻撃は日本の不手際からワシントンへの通告(実際は単なる交渉打ち切りの通告内容:”・・・帝国政府の希望は遂に失われたり。よって、・・・今後交渉を継続するも妥結に達するを得ずと認むる外なき旨を、合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり。”)の前に日本海軍がハワイを奇襲した(1941/12/8 日本時間:午前3時20分)。{(参考)コタバルへの攻撃部隊は、12/8 日本時間:御前1時30分東岸へ上陸とマレー沖から軍機電報で報じた。}
帝国日本の海軍力は太平洋方面ではアメリカと同等であったとしても、ワシントン海軍軍縮会議、ロンドン海軍軍縮会議で国力を基にして規定されているように、日本の海軍規模がアメリカより小さい。 ただ、この時は、大西洋に40%、太平洋に60%の割合の配分と見込んでいた。 しかし、当時、大国アメリカの農業・工業・産業、資源、経済力などは日本の数十倍以上も上回り、戦時中には軍備・武器装備の生産増大を図り (「細川日記」には1943年11月に中将が細川に対し、1943年の日・米英の戦力差約3倍以上では戦争継続がかなわない資料を示し、御上に状況を認識していただき国家の前途を誤らないように行動為されるように奉る旨を申し上げている。 「太平洋戦争への道」記載の資料では航空機は10倍以上の建造規模を有す。 1944年時点では日本の船舶などの消失による戦力減とアメリカやオーストラリアでの戦力増より更に戦力差が明白であった)、アメリカが本格的に太平洋に戦力を投入すると、圧倒的な軍事力を有するアメリカに圧倒されて、日本軍は太平洋でアメリカの攻撃に撃破される一方であった。 南太平洋の占領諸島の日本軍は補給路を断たれ、食料の供給も無く、武器らしい武器を有さずに、日本兵は戦陣訓で敵に投降することは恥ずべきことで死を持って天皇に尽くせと命じられており、占領諸島で日本人の玉砕に発展した。
日米開戦については、アメリカは太平洋の艦隊の一部を大西洋に回していたが、帝国日本がハワイを奇襲した(1941/12/7 ワシントン時間)までには太平洋に帰還させていなかった。 アメリカは日本の野村駐米大使と日本本国との電信の秘密暗号電の解読を行い前もって情報(マジック情報と呼ばれる)を探知し、日本が12月初旬の攻撃に向けて準備を行っていることなどを入手しており、この情報に基づいて(1941/11/27)にハワイなどに戦争警告の電報を送っていたが、マジック情報はハワイ方面の陸海軍には有効に活用されていなかったとされている。 この戦争警報の内容は(須藤眞志著「日米開戦と山本五十六」)によると、
「本電報をもって戦争警告とみなすべし。 太平洋における事態の安定を目ざした日米交渉は既に終わり、日本の侵略的行動がこの数日以内に予期される。 日本陸軍部隊の人員並びに装備と海軍機動部隊の編成から判断すれば、日本軍はフィリピン、タイ国、またはクラ地峡あるいはボルネオに対して水陸両用遠征作戦を行う意図を有するものの如し。 戦争計画第46号によって与えられたる任務を遂行するために、適切なる防衛展開行動を実施すべし。 地区当局並びに軍当局に右の情報を伝達すべし。 陸軍省も同様の警告を発令しつつあり。 海軍省は英国にも通報せり。 本土各地区、グアム、サモアは妨害行動に対する必要措置を取れり。」
と記述されている。
この日本軍のハワイ奇襲攻撃への米政府やハワイの軍司令官の間の軍事に関わる対応問題については戦後アメリカで種々の調査が行われ、相対立する主張もあるが、アメリカは日本に対して何等挑発しておらず、日本が奇襲による侵略攻撃を行い、遠距離であるハワイまで強力な戦力で巧みに攻撃したものであるが、ハワイの軍の司令官は過失ではなく、判断の錯誤があったとされた。 又、政府首脳に責任は無く、ハワイに十分な警告を送らなかった陸海軍省担当部の責任とされた。
このハワイ攻撃を受けてアメリカは、経済援助や武器供与の支援のみ戦争協力し、あくまで中立主義を通していた政策を世論の絶対的な開戦支持のもと覆し、軍備装備の大規模生産を押し進めて対日戦へ発進するのであった。 そして、予想以上に早く、帝国日本は対米開戦の失敗とアメリカの工業力の格段の生産能力を思い知らされることになる。
イタリアが無条件降伏(1943/9)。 アメリカ、イギリス、中華民国の首脳がカイロで会談を行い、同盟国の目的は、日本の侵略を阻止するもので自国の利得を要求せず、領土を拡張する意図を持たないとする決意を示す ”カイロ宣言” を調印(1943/12)。 この後、連合国の四首脳は戦勝後のドイツの占領統治問題、解放された国の問題、賠償問題、国連問題、アメリカがソ連に対日戦への参戦の確約を得ること及び日本への無条件降伏の勧告案などについて協議する ”ヤルタ会談” を行った(1945/2)。 このヤルタ会談で、ソ連は参戦の条件に日本の領土である千島列島の戦勝利得を要求し、協定を結んだ。 この後、ドイツが無条件降伏(1945/5)。
大日本帝国においては、アメリカとの太平洋戦争突入前(1941/9)に近衛首相から対米戦に対する海軍の見通しを聞かれ、日米戦争の回避を求めていた山本五十六連合艦隊司令長官が、「是非やれと言われれば、初め半年や1年は随分と暴れてご覧に入れる。 しかし、2年、3年となれば確信は持てません。・・・」と答えていたように、ミッドウェー海戦(1942年6月5〜7日)頃以降、日本はアメリカ軍に圧倒されて敗退し続ける。 日本軍はジリ貧で戦っていて、戦争が不利になると東條が失脚(1944/7)。 日本軍はフィリピン戦で破れる{(1944/10)レイテ沖海戦敗北。(1945/3)マニラ戦敗北}。 沖縄方面に向かう戦艦大和などの艦船が撃沈される(1945/4)。 (5/13)に近衛がソ連の軍事干渉と共産主義政府樹立の危険性を上奏したとされる。 昭和天皇は日独伊三国不講和協定を破って日本が単独講和を行えぬとし、更に天皇は、アメリカ軍に総力を結集して最後の抵抗を行ってそれなりの打撃を与えてから、天皇にとってよい条件での停戦協定を結ばせたいと希望したと見られる。 その後アメリカ軍は沖縄に上陸し、住民を巻き込んでの戦闘となって沖縄戦でも日本は敗北(1945/6)。 長谷川海軍大将が、国内の兵器廠や部隊を視察(1945/6/12)して、武器の不足や兵員の訓練不足を天皇に報告した。 この後、天皇は一撃和平を断念したと見られる。 その後日本の終戦工作が開始された。 この時期に東大教授南原ほか5人の教授は、アメリカとの直接交渉で皇室の維持のみを条件に無条件降伏を受け終戦後天皇が退位することを提案。 木戸内大臣は本土決戦で三種の神器が奪われるならば国体護持は出来なくなるとして、本土決戦せずに9月末までに戦争を終結するように7月末までにソ連の斡旋を要請することを(1945/6/18)の最高戦争指導会議で決定。 サイパンが全滅(1945/7)。
日本は日独伊の三国同盟を結んだが(1940/9)、アメリカや中国との関係でソ連の介入を抑制する目的で、日本はソ連と日ソ不可侵中立条約を締結した(1941/4)(条約は5年間有効、条約を継続しない場合は有効期間の終了する1年前に通告、通告が無い場合は自動継続)。 ドイツがソ連に侵攻したときには、日本はソ連への攻撃に対しては中立を維持させていた。 しかし、ソ連は(1945/4)に日本に中立条約を継続しないことを通告。 このとき、日本は、日ソ中立条約の残存有効期間の1年間はソ連との中立関係は維持されると楽観的に捉えていた。 日本は米英とソ連とを引き離すことを考えるが、駐露佐藤日本大使は米英ソの三巨頭がヤルタ会談を開催しようとしている折、極東のソ連の兵力増強もみられる情勢であり、中立といっても日本のかつての敵国で日本への準敵視が見られるソ連に仲裁を依頼することはもはや問題外と反対したが、これを無視して日本政府はソ連頼みに固執した。 一方、ソ連は、攻撃準備を日本に悟られないように、中立はまだ有効として日本を欺くのであった。 日本はソ連の陰謀に疑いを持たずに、天皇の護持を確保した条件でのアメリカとの和平交渉の斡旋をソ連に依頼するのであった。
ソ連はアメリカに日本が戦争終結を模索している情報をポツダムでの会談で伝えていたが、米ソは今すぐ日本が降伏されると思惑通りにならないので、米ソは共同で日本の降伏時期を7月中に行われないように引き伸ばす作戦を取る。 アメリカはソ連に日本への回答については意図がわからない旨を回答して延ばす様に求めた。 ソ連は、佐藤大使への回答書簡に、ソ連は日本からの仲介の斡旋依頼に対して、特命近衛特使を派遣する使命が不明であるから派遣を断り、ソ連政府は如何なる回答をなす事も不可能であると回答。 佐藤大使は、ヤルタ会談後の回答であるから米英に伝わっている可能性を政府に伝えたが、廟議で決定しているとして日本政府はソ連に和平の斡旋を継続するのであった。 アメリカでは原子爆弾の作成と爆破実験を計画。 その実験の成功の報がポツダム会談直前のトルーマン大統領に伝えられた。 アメリカは原爆実験の成功後から原爆の製造に要する日数を考慮した8月初旬の完成を目指していたので、アメリカは日本が(1945/8)以前に降伏してしまわないようにする必要があった。 ソ連も当初ドイツ戦が終了してから準備が3ヶ月必要で、参戦が早くとも(1945/8/15)になると見込み、それまでに日本が降伏してしまうことを懸念していた。 アメリカは天候条件を考慮して(8/10)までに日本に投下することを目論んだ。 アメリカは、ソ連の参戦前に原爆を投下することが作戦上必定と捉えていたと推測される。(「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」長谷川毅著を参考とした)
この頃日本では最高指導者会議を開催し、降伏の際の条件項目を議論していた。 連合国から日本の降伏を促し、日本向けに降伏条件を示すポツダム宣言を発表(1945/7/26)したことに対しては、日本はポツダム宣言を価値あるものと認めないとし、戦争の継続に言及。 これをロイター通信社が日本が拒否したと発表。 アメリカは日本に無条件降伏を要求。 日本は天皇護持を要求。 それに対し、アメリカは通告文章に天皇護持については含めずに、あくまでも無条件降伏を主張した。
元駐日米国大使のグルーや当時陸軍長官のスティムソンが天皇制を残す余地が含まれている旨を降伏条件に入れるべきであると主張したが、強硬派の国務長官バーンズやトルーマン大統領は、アメリカの世論は天皇に対する処罰を求めていること、日本軍のハワイへの卑怯な攻撃などに対して抱く嫌悪などや個人的な感情、新たな原爆という兵器の威力を実証する機会と捉えていたことなどが原因していると筆者は想像するが、無条件降伏表現とし、天皇についてはいかなる約束をしないことを決定していた。
(参考): 長谷川毅著「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」より引用)
7月24日付けのウォルターブラウン(1945年当時の国務長官 ジェームズ・F・バーンズのアシスタント)の日記に、
「バーンズは、ジャップのソ連を介しての和平工作について更に語った。 日本の中ソ大使は本国の政府に、もし戦争を継続すればドイツに起こったことが日本にも起こると警告した。 しかし、天皇は無条件降伏に何らかの修正がなされなければ日本は最後の一人になるまで戦うといった」(7/21)の東郷発佐藤宛の電報の暗号解読(Walter Brown Diary, Tuesday 24 July 1945 Folder 54 (1) Folder 602, Byrnes Papers. Magic Intercepts in Folder 571, Byrnes Papers.)
そうすれば、日本は拒否するであろうと予見した。 その後、想定どおりにことが運び日本が拒絶した。 アメリカは、日本の拒絶を戦争貫徹の証であり、原爆投下を正当化する根拠が得られたとした。
アメリカは、日本への原爆使用については、日本の本土での戦闘を回避し、戦争を早期に終結してアメリカ兵の犠牲を減らすためであったというのを公式表明としている。 この原爆使用に関して、後にウィロビー准将は、戦場にいる者からの視点として、更に戦闘の月日は要するが、原爆を使用しなくとも日本を降伏させることは出来たであろうと述べている。
アメリカは、原爆投下の標的都市を京都、広島、小倉、長崎、新潟の順番とすることを採用した。 しかし、ヘンリー・スティムソンは、京都は歴史的な遺産のみであり、軍需的な要素がないことより、若し京都を破壊した場合には、世界からの非難は必定。 更に、占領後、日本国民が占領国としてアメリカよりソ連を希望することに繋がることへの危険性を懸念したのである。 結局、標的として京都は原爆投下の直前に外されることになった。
アメリカは(1945/8/6)に広島に原爆を投下した。 ソ連はアメリカが原爆とは言及せずに新型爆弾の投入を予定していることなどを既に聞かされていたので、新型爆弾は原爆と推測される情報を探っていて、ソ連は参戦を当初の予定(1945/8/15)より急ぎ準備を早めた。 (8/8)にソ連は日本に宣戦布告した。 アメリカは(8/9)に小倉に原爆投下を予定していたが、天候の悪化により長崎に変更して投下した。 この凄まじい被害を受けても、まだ日本の最高指導者会議ではポツダム宣言を受諾せず、国民より天皇の護持に固執した。 (8/9)にソ連が満州国や樺太や北部千島列島から侵攻した。 日本は、(1945/8/9)のソ連参戦を受けて、(8/9)の夜から翌朝まで継続して最高指導者会議を開き、直ちにポツダム宣言を受諾するより道は無いとして受諾することを表明したが、条件として、「ポツダム宣言を受諾するも天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることを了解す・・・」という意味のものであった。 これをスイスやスウェーデンを通じて電報を米支、英ソに送った(「細川日記」より)。 この最高指導者会議が開かれていた最中に長崎の原爆投下の報が入った。 この時でさえも皇室の安泰が議論の中心であった。 重光はソ連が樺太、千島、北海道に侵攻する可能性があるとし、ソ連が日本を占領した場合に皇室維持に対して否定的であることを木戸に話し、天皇に拝謁した。 (8/9)夜から翌(8/10)午前2時20分まで御前会議を開き、天皇の統治大権の確認のみを条件としてポツダム宣言受諾を決定した。 この後閣議を経て、外相が、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含居らざることの了解の下に帝国政府は右宣言を受諾す。 帝国政府は右の了解に誤なく貴国政府がその旨明確なる意思を速やかに表明せられんことを切望す」と発電した。 (8/10)の朝に通信社が短波放送でポツダム宣言受諾を報じたとされる。 また、アメリカの通信社が日本からの降伏受諾の発信を傍受したことをアメリカ政府に確認したが、政府は正式な情報は届いていないと回答したとされる。 アメリカは日本からの降伏受諾の報を待っていたが回答が無いとして、(8/14)までアメリカは爆撃機による日本への集中爆撃を強めた。 結局(8/14)に再度15回目の御前会議が開催され、いわゆる”聖断”により、連合国が主張する天皇や政府の権力がアメリカに従属する条件を日本が受諾することを宣言した。 (8/15)に敗戦による天皇の終戦の詔勅の玉音放送を行った。 日本の軍部は天皇護持を求めることに支障が出ることを恐れ、アメリカやソ連との交戦を行わないように国内外の各部隊に命令したが、ソ連軍が攻撃を止めないため、日本兵は戸惑うことになり更に殺されることになった。 ソ連は、満州北部から進撃し日本人の一般入植者も殺戮し、千島列島北部から進撃し千島列島の日本兵や日本人の住人をも殺戮した。 ソ連兵による暴行、強姦なども行われたことが伝えられており、ソ連兵に捕らえられた日本人の捕虜は、終戦後に長期間日本への帰還措置がとられずに極寒のシベリアに抑留されて強制労働につかされ、また多くの命が失われた。 ソ連は、マッカーサーの指揮下には入らず、その後、ソ連が占領した領土についてはソ連軍の総司令官が決定する事項であると主張してソ連単独の占領統治を実行した。
マッカーサー元帥が停戦後の日本の厚木に降り立った(1945/8/30)。 連合国は最高司令官総司令部を神奈川から東京の米国大使館に移し、その後、(1945/10/2)に第一生命相互ビルに移設した。 マッカーサーは、日本の天皇大権の廃止、軍隊の武装解除、軍事機構を解体して非軍事化、戦争犯罪人を裁判で処罰、政治犯の釈放、民主化、民主憲法制定、農地解放、財閥解体、軍国主義者の公職追放、国家が神道の支援などを行うことを禁止する神道指令を発令、天皇の神格性を否定、また、皇室資産の凍結などを実行した。
( (注意) 終戦直前に皇室の不明の金塊や海外に振り替えられた預金があったとされる。 その資産の目録情報は消失したとされ、海外へ移送された全容は英米によっては解明されなかったようだ。 (1945/8)に昭和天皇の皇后名義で国際赤十字(ICRC)に巨額の寄付を行った記録がある。 この口座を英米が凍結したが、イギリスはこの資金の元は、日本領のイギリスの捕虜の救援のためにイギリスが過去に日本に送金した金をスイス銀行で換金処理したものであると主張。 (ジャーナリスト徳本栄一郎「1945日本占領 フリーメイスン機密文章が明かす対日戦略」) この著書には、皇室の資産などについての項目の記述がある。 )
また、極東国際軍事裁判での戦争犯罪人の裁判について、マッカーサーは、極東委員会の昭和天皇への訴追要求を拒絶し、訴追を行わないように工作を行ったと見られる。 天皇の戦争責任については、(1945/10/22)の海軍三省調整委員会(SWNCC)会議では、マッカーサーに対して天皇の戦争責任に関する証拠を収集するよう求めている。 それについてマッカーサーは、天皇が政治決断した明白な証拠は無かったと報告している。
(1946/2)憲法改正のマッカーサー3原則を提示する。 マッカーサーは極東委員会が発足すれば憲法改正問題が取り上げられることは必至であると考え、極東委員会が機能する前に、天皇問題も含めて憲法改正による民主化を自らの権限で済ませてしまう思惑があったのであろう。 委員会の発足の日程は定まっていたため、憲法立案に掛けられる時間は限られていた。
マッカーサー元帥は戦後の日本軍の解体を命じ、軍隊の保有を認めないとしていたが、日本が独立した後に中立国として軍隊を保有するのがよいであろうと考えていた節がある。 しかし、朝鮮戦争、共産主義の中国や社会主義のソ連などの影響への懸念、ワシントンの強力な反共思想の政策が影響した可能性があるのかわからないが、当初の考えを改めている。
マッカーサー元帥は連合国の占領軍の最高司令官の立場であったが、その占領政策を策定する権力の範囲については明確に定まっていなかったようであり、しばらくしてから、ソ連の強い主張でソ連も含めた戦勝国が関与する極東委員会で定めることが後から確定した(12/27 英・米・ソの外相会議でのモスクワ協定)。 11カ国からなる極東委員会発足(1946/2/26)。 マッカーサーはそれまでの間、独自の政策を実現させてきていたのであろうと筆者は推測する。 憲法問題、天皇問題、反共主義の政策など。
ルーズベルト大統領の死後(1945/4)にトルーマンが大統領に就任していたが、トルーマンとマッカーサーとは、考え方、占領政策などの姿勢が幾分相容れない様子が見られ、互いに競り合う関係であったようだ。 しかし、中国やソ連の共産・社会主義思想の勢力との対抗意識は両者同じであり、日本国民が影響されることを懸念していた。 この共産的思想を含む平等主義を追求する勢力及び日本の民主化により天皇を排除する勢力に対しては、昭和天皇が一番危惧していたことで、戦時中も、天皇の権威が失墜して皇室が解体されることになる、あるいは、万世一系の天皇、神の末裔の証である三種の神器が破壊されるようなことになる場合には、アメリカと徹底抗戦することもやむをえないと考えていたのである。 これに関しては次の内容でもわかる。
( (1945/8/12)の午後、天皇は皇族会議を開く。 天皇は決断の理解を皇族に要請する。 朝香宮が国体の護持が出来なければ戦争を継続するかと問うと、天皇はもちろんであると答えざるを得なかった。)(昭和天皇独白録) また、木戸は本土決戦で三種の神器が奪われるならば国体護持は出来なくなるとして、本土決戦せずに9月末までに戦争を終結するように7月末までにソ連の斡旋を要請することを(6/18)の最高戦争指導会議で決定。
日本は連合国の占領統治下に置かれたが、連合国は日本の占領統治においては連合国最高司令官の命令を日本の代表者を通じて実行する間接統治方式をとった。 戦勝国は日本が戦争を起こさないことが見極められ、社会的な安定が築いていける土台が確定できたと判断できたときに、連合国は日本における占領統治を終了することになる。 いつになるかは確定していないが、日本の主権を回復して独立が認める時は、必然的に占領政策の解除と占領軍は漸次撤収されることになる。
筆者は、このことを天皇の立場から捉えて考えると次のように推察する。 まず、連合国の占領が終了して連合国の占領軍が撤収すると、日本は軍隊を保有しない状況であるから、日本の国外のみならず国内の種々の勢力の動きが起きるであろう。 戦後の混乱状態はすぐに改善しない予想の中で、貧困層や戦争時に弾圧された者及び帰還兵、戦争で親族を無残に殺された遺族ら、更に新たな秩序を模索する勢力などは日本の特権階級や天皇への強い反発感情が、行動としてこれらに向けられる恐れがある。 日本社会の中で、戦前、戦後、すべての国民が天皇の無謀な判断を受け入れていたわけではない。 あるいは、世界情勢、諸外国のなかで共和制への移行などの影響を受けて同化され、今後皇室・天皇制を受け入れない観念を持つものの中から、日本にも民主化がもたらされ、皇室・天皇に対する排斥運動の大きな勢力が芽生えるであろうことが十分予見され得る。 このため天皇が恐怖を抱き、アメリカに敗戦した直後であるにも拘らず、アメリカが考える日本を太平洋諸島へ共産・社会主義的勢力の影響が波及しないようにするため防共の前線と捉え、且つ、アメリカ本土を守るための太平洋の西部の防衛前線拠点とするために日本を利用すること、その手立てを日本が、主体的に隷属して協力を申し出たことが伺える。 天皇はソ連が日本に駐留することになると、ソ連は天皇について何らかの悪影響を及ぼすと考えて、アングロサクソン族のアメリカが単独駐留を継続することを求めたのである(これについては、下記のマッカーサー元帥と昭和天皇の会見の項目に記載した)。
天皇は、講和条約とは別に二国間の協定とすることを提案し、アメリカ軍が日本に駐留して自由に活動が出来る便宜を図れるように、内容について両国からの専門家が協議して作成することになるとした。 これが、旧日米安全保障条約や日米行政協定に結実した。 その後、新日米安全保障条約や日米地位協定に移行したが、表に出ないところはすべて別の取極めなどとして秘密にされた可能性が伺われる。
このような機密扱いについては、政府の勝手な判断で機密にできる。 まるで北朝鮮や中国並みである。 国家安全保障に関わる極秘事項と指定するだけですべて拒絶できるし、国民の人権など無いに等しくなる。 このような国家権力の行使が可能になってしまうと、国民の人権の扱いや憲法など政府解釈ひとつでどうにでも出来る国家日本となってしまい、民主主義といっても政府の思惑ひとつで戦争への加担も容易にできてしまう仕組みが生まれることになる。 例えば、自衛隊が海外でアメリカ軍と一緒に銃撃戦の実戦をやっていても事実は公表されないし、自衛隊が犯罪をやろうが公表されず隠蔽できてしまう。 本当に恐ろしいことだが大日本帝国時代に後退するかのような平和主義を唱える勢力が支配する国、日本が見えてくる。
話を戦後の旧日米安全保障に戻そう。 吉田総理は当初、アメリカへの軍事基地の用地を貸すことをよしと思わなかったように筆者は見る。 この頃天皇は、アメリカに基地を提供して軍を駐留させることを画策していたようだ。 1947年9月13日に、帰国するアイケル・バーガー中将に、芦田外相が決裁した日本本土に米軍への基地の提供と日本が警察力を増強する案を手渡していた。(外務省では、鈴木九萬終戦連絡横浜事務局長を通じての事務局長の「極秘且つ個人的私見」との説明がなされている。)
そのほか、天皇は吉田総理や白洲の態度を良いように思っていなかった断片が、寺崎日記でうかがうことが出来る(*1947年4月7日拝謁 吉田の悪口を仰せらる *1947年4月9日侍従長 陛下は吉田と白洲のラインに疑念を持たるるなりという)。 又、天皇は所謂、「沖縄メッセージ」という米軍による無期限的な占領継続を希望する申し出を寺崎を通じ、シーボルトに託してメモをワシントンのマッカーサーに送っている。 その後、吉田総理は、講和条約時に関わる内容などについて資料を持って昭和天皇に上奏していると推測される。 この後、吉田総理は基地について天皇の考えを受け入れたように筆者には感じられる。
1950年6月23日付けで、「日本の戦後の安全保障の概念に関する覚書」と題する極秘扱いされていたマッカーサーメモが存在する。(Top secret [TOKYO,] 23 June 1950. Memorandum on Concept Governing Security in POST-WAR JAPAN)(現在は極秘解除の公開ドキュメント) そこで彼は、次のような考え方を示している。 (筆者の意訳)
(以下筆者の意訳による文章 的確な訳でない)
・国土防衛の概念として、地上、空域、海域に予め定められた地点のみに集中的に求める概念は、現代の戦争の加速した兵器の種類と威力によって時代遅れである。 よって、全土が潜在的用地として考えなければならない。 防衛の変化の要求にこたえられるように、戦略的、戦術的な配備計画の完全な自由が保証されねばならない。
・日本の問題に対しては特別な注釈が必要で、手法として:日本の全土は潜在的な基地とみなすべき。 防衛計画策定上、拘束されない自由が現地の指揮官を通じて米国に与えられねばならない。 そのような戦略的な配置が取れるために、外部の脅威に対して、及び戦闘時に軍隊が必要とされる情勢に適応できるように、軍のための基地として特別な地点の強調を避け、現代の防衛の要求に応える現実的な留保が為されなければならない。 そうすると、戦争による合法的獲得物の基地という嫌われる意味合いを避けることができうる。 日本人の国民感情への心理的逆効果を生じないようにする配慮が必要であり、戦闘や脅威が差し迫っている時以外は、治安部隊の配置の大きな変容は米国の軍司令官と日本の首相間での最初の協議なしには為されないとする。・・・(略)
(参考)現在も、日本全国に米軍基地が残された状態になっている。
日米地位協定第2条に基づく 在日米軍施設、区域(平成22年1月1日時点 日本全国)
J.F.ダレスは日本に再軍備、憲法改正などを要求する。 この後、朝鮮戦争が開始されたこともあり、アメリカの圧力に押されて吉田総理は警察予備隊令(1950/8)を発令し、その後部隊の組織化・訓練が進んでいく。 旧日米安全保障条約には、”講和条約は日本が集団的安全保障の取極めを結ぶ権利を有することを承認していること、また、国連憲章はすべての国が個別、集団的自衛の権利を有することを承認していること、この権利として、日本が暫定的 【(注意)沖縄メッセージでは、米軍基地と駐留は期間が限定されていない、無期限】 にアメリカが日本国内、周辺に軍隊を維持することを希望する”という趣旨の文章が明記されている。 更に、 ”これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望するとし、米軍は極東の有事に対応できること、米軍による日本の内乱及び騒乱を鎮圧を含めて日本国の安全に寄与するために使用することができること”などを表現し、仮に日本国内での米軍の軍事行動をとる場合でも内政干渉にあたらない正当性を主張しているのです。 尚、日本の再軍備と憲法改正、軍の総指揮は米国の最高指揮官に委ねることを謳うことなど要求するが、条約から除外することになった。
1951年9月にサンフランシスコで講和会議が開かれ、同時に日米安全保障条約を締結したのであるが、その際に、マッカーサーと天皇の会談の覚書、その他取極めなども一緒に取り交わされていたであろうと筆者は憶測する。 例によって、表に出ない取極めというものである。
日米安全保障条約は、戦勝国との講和条約締結後に日米の二国間で締約されたのであるが、この調印に際しては、アメリカは昭和天皇の全権委任状を日本国に求め、吉田総理が種々の取極めに調印する任を担ったが、吉田総理は自らが調印すること避けて代理人をサンフランシスコに送ることを望んだと伝えられている。 しかし、結局は自らが赴くことになったのであった。 この日米間の取極めは、アメリカ軍基地が固定化する日米安全保障の基礎を築いてしまったのである。
吉田総理は、アメリカに基地を無償でリースする案を快く思っていなかったが、サンフランシスコに赴く前に書類を携えて天皇に数回上奏していたが、何が話されていたかについては不明である。
吉田内閣後の鳩山内閣は、憲法改正を行って自衛力の増強を進めること及び周辺国との自主外交を進めようとしていて、在日米軍基地の撤去に向けて道筋をつけようとしていたようだ。 鳩山政権の重光葵外相は日米安保条約の改定を提案し、日本の軍備増強による在日米軍基地の撤廃あるいは条件付き目的による駐留のみ容認する試案について、また、アメリカ側と防衛分担金の削減交渉を行うことで調整していたのである。 しかし、重光外相が望んだ当初の試案は訪米交渉からは取り下げられたのであった。 これは恐らく、重光氏が望んだ試案はアメリカが考える日本や極東への政策が損なわれ、在日米軍の完全撤去に繋がると米国が危惧したのみならず、昭和天皇も在日米軍基地の撤廃を拒絶したであろうと筆者は憶測する。重光が渡米する前に天皇に内奏した際の昭和30年(1955年)8月20日の重光の日記に、「陛下より日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり、又、自分の知人に何れも懇篤な伝言を命ぜられる。」と記されている(続重光葵手記 中央公論社 日記)。しかし、分担金削減交渉は妥結したが、日本の防衛予算の増額を約束させられる結果となった。
1977年(昭和52年)8月23日に那須御用邸に於いて昭和天皇と宮内記者との会見が行われた。 幾つか為された質問のひとつとして、戦後のマッカーサー司令官との会見についての質問に対して次のように述べられている。
「マッカーサー司令官と当時、内容は外にもらさないと約束しました。 男子の一言でもあり、世界に信頼を失うことにもなるので言えません。」(朝日新聞 1977/8/24より) という趣旨の発言であった。
しかし、昭和天皇ひとりの”男子の一言の約束”で済まされる問題ではないのです。 天皇の護身と引き換えに象徴天皇に納まった後も権力を行使して策謀した政策内容によって、その後の日本国民の利益を損ね、国民の人権を蹂躙する特権をアメリカに与えることになったのであるから責任を詫びることが必要であったと、筆者は人間天皇としての人柄に尊敬の念を抱くことは出来ない。
旧日米安全保障条約は、その後改定されるが、基本は何も変わらず、新たな表現が表面に出るものがあっても、旧の安全保障条約に意図する要の内容は別途の交換文章として引き続き効力を有する形が推測できうる。
この日米安全保障条約は1960年(岸内閣時)に更新の調印が必要となる条件であった。 岸総理は当時、自動更新となる改定新安保条約の調印に際し、国民が条約調印に反対するのをある種の族を動員して強硬に押し切ったようだ(1960/1)。 その後1970年に日米安保条約が更新年を迎えて調印され、これ以降1年ごとに自動更新されており、現在も条約は自動継続している。
岸総理は猛烈なタカ派で改憲主張論者であり、自衛隊の戦備拡大を主張し、日米安保の改定及び積極的な米国協力の立場をとり、日本の核保有まで唱える政治家であった。 その点では、現在において、日本の核保有を唱える政治家や積極的に自衛隊をアメリカが関わる戦争に加担させる術策を企てる危険極まりない政治家の先人といえるかもしれない。
現在の日本の政治は、筆者から見ると、民主主義の観点からは、180度正反対の官僚政治の独裁化であることは間違いない。 官僚は国民の福祉向上のために働くのではなく、今も続く密約と米国支配の中で、官僚は自分たちの権益のために狡猾に働く官僚であり、政府を自由に操っているのである。
終戦直後の占領期には天皇や政権は連合国に従属することを受け入れた。 しかし、講和条約で日本の主権が形式的にも回復されれば、政府間の密約などという国民への反逆は民主主義の政治にあってはならないのです。 政府が好き勝手に振舞うことは、政府の独裁政治化そのものであるのです。 昔はアメリカに完全に従属する日本であった。 しかし、主権が条約上で回復したなら、このような裏での工作・隠蔽は、国民への反逆と評価することができる。 現在なら、本当の民主主義の原理のもと、すべて国民的議論で決定されねばならないのです。 国の安全保障ついても例外ではありません。 法律・制度を巧妙に策定し、絶対的な国家権力を行使できる優位性を有する権限を用いて国民を抑圧することが、政府、官僚などに与えられた特権と履き違えている似非政府高官たちは、自責の念に駆られることは無いらしい。
かつて、佐藤元総理の密使として沖縄返還時に核兵器の持込に関して、日本政府がアメリカの要請を受け入れることの内容を記した密約調印を画策した張本人である若泉氏は、自分の取った行動が国民を裏切るものであり、その事の重大さに自責の念に駆られ、事実を後世に残す必要性を覚えて記録を残した。 彼は、その責任を感じて最期は自害する覚悟までしたのです。 そこには人間性というものが存在するのです。 一方、無神経、人間性を欠く現在の政府・官僚たちとは大違いだ。
今では現実問題として、アメリカ軍が日本国民の基本的人権を堂々と侵害でき、日本国民が人権侵害されても、主権在民の国家?? であるはずの日本は、日本国民の人権の擁護さえやらない。 日本政府はアメリカ従属の奴隷状態といっても過言ではない。 2013年現在も、実際的に主権がすべて回復していないことは明らかです。 この責任は、自己の保身のみを目論んで、新たな日本国憲法が制定された後においても吉田総理にアメリカとの取引と協定を命じた昭和天皇にあると見ることが出来るであろう。 筆者には昭和天皇は実にしたたかに現実世界を生き抜いたように受け取れる。
その後生じる種々のこのアメリカの特権意識は、日本の防衛・外務官僚などに浸透し、その後の日本への関与が更に強化されていくのです。 日本はアメリカからの種々の圧力を受ける。 日本の軍事予算の増加、軍事装備の強化及びアメリカの軍事装備の購入要請、自衛隊の規模の拡大、アメリカの軍事活動への協力は、日本国内にとどまらずに、日本国外にまで範囲を広げることを要求する。 日本国憲法を改正して戦争放棄を撤去し、同盟国として軍事も共同で行うことまで要求する。
日本は、アメリカの要求にこたえる根拠として、軍事協力のための種々の法律や自衛隊の法律を制定し体制を整える。 この法律の謳い文句には、日本の憲法の制限範囲においてとか、非核三原則を遵守してとかという文言が挿入されている。 しかし、この縛りは無残に既に破られてしまっているのです。(2010年3月の密約調査結果を受けて政府は密約の事実、核兵器の持込の事実を認めた。 しかし、同時に岡田外務大臣は、米軍が日本へ核兵器を持ち込むことに関連し、有事の際の核兵器持ち込みを容認する馬鹿げた発言を行った。 )
そのうち、強い日本を取り戻す!!。 大東亜新秩序建設、そして世界の警察として”米国の子分だ”と称して、積極的平和論を掲げてその演出を実行に移すことになるのであろう・・・。
国の憲法、法律、ルールが、それら本来の意図した規律の内容が、成文の語句が改められていないのに、かってに、時の政府によってなし崩し的に無力化されてしまうならば、最早民主的な政府でなくなった立派な証である。 国民が黙って従っていては、国民自身の人間としての人格を自らが葬り去ってしまっていることになるので、国民が民主的な国を希求するのであれば、必要なら、国民は政権の暴走行為を阻止しなければならないのです。 それが、民主主義の基本であると筆者は考える。
日本は非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)を打ち出し、日本国はこの原則を守る国とした基本政策を公言してきた。 佐藤総理が国会で表明したものであるが、原爆被爆国日本はこれを基本原則として核兵器廃絶に向けてあらゆる機会で訴えていくことが国会で決議された。 当時の時代背景の中で核兵器に対する強いメッセージやアジアの平和に関する努力などに対して評価されたかどうかはわからないが、総理退任後に、その当時に他に受賞該当者が見つからなかったかどうかも筆者の知るところではないが、日本人の外交官や関係者によるロビー活動が功を奏したのか、ノーベル財団が彼を平和賞の受賞者として決定したのであった。 しかし、佐藤総理は、あらゆる国からの核兵器を廃絶する崇高な訴えとは裏腹に、日本国民に対する裏切り行為を働いていたのです。 そのとき既に、日本の非核三原則は有名無実となっていたのです。
日本はNPT(核拡散防止条約)を批准し、日本はNPTで核兵器を保有できない非核兵器国である。 よって、核兵器を保有できない日本であるが、アメリカに基地を提供し、軍事同盟として共同的に行動することで日本に核兵器が存在する状態を可能とし、日本は核拡散防止条約に狡猾に挑戦しているのです。 日米の悪徳官僚達は如何に悪賢いかを、国民は感心させられます。
その後、種々のアメリカ軍への協力を目的とした法案などが策定されたが、この類に非核三原則を基本理念に掲げているものはすべて、嘘八百と言ってもよく、すべて国民だましの条約・法律であるといっても過言ではない結論が導かれることになる。
もちろん、筆者が占領側のアメリカ軍関係の高官であって、占領国のその後の管理について効率的な占領管理を画策する立場であると仮定すると、占領国のトップをアメリカの政策・軍事作戦に従順に協力する者を据え、間接統治とし、独立性を認め国民を安心させ、同盟国という名の下に主体的に能動的に協力させる方式をとり、軍隊を強化させ、アメリカのために協力して一緒に戦争も辞さない体制を確立させるであろう。 これが、狡猾な奴隷式管理である。 しかし、筆者は、残念ながら対極にある従属側の日本人であるので、絶対的に反対するのです。
戦後60年以上経過しており、東西ベルリンの壁も崩壊し、ソ連も崩壊している現在において、21世紀においてもアメリカは強い圧力をかけて種々の分野で日本を単独支配する関係を巧妙に継続させているのです。 更に、一般的に政治に無関心な日本国民からアメリカを敵対視されないように狡猾に、巧妙に、アメリカの軍事体制に組み込まれた日本軍(自衛隊)の人的兵力規模の拡大や武器装備の配備を増加することを求めてきているのです。 アメリカの言いなりに、日本の一般国民の人的・物的なアメリカ軍への協力体制については、既に法制化されている。 その日のために。 これこそ、真に日本の危機です。 日本人が無関心でいる間に、突然振って沸いたように日本が戦争の当事国になっていたということが起こってしまう、まさにその危機にあるのです。
参考として、沖縄の施政権が日本に返還される前の時期に非核三原則に関する国会決議で政府が、核兵器の非核三原則の遵守とすべての核兵器国に核軍縮、非核化地帯構想のために努力する決議を採択している内容を次に示す。 今やこれは、役に立たない騙しの単なる気休めの暗示となっている。
筆者は、2013年現在の日本政府の種々の政策に見る変貌振りには恐ろしさを感じるのである。
(参考) 外務省の軍縮・不拡散のサイトより 非核三原則に関する国会決議(1971年(昭和46年)11月24日〜)
(通称)周辺事態法、(通称)日米物品役務相互提供協定、(通称)武力攻撃事態対処法 、日米防衛協力のための指針
日本が締約している外務省の「核兵器の不拡散条約」の説明サイトを参照
日本は核不拡散条約を締約しているのに、アメリカの核兵器の傘で守られているという表現を好んで用いている。 それであれば、自ら核不拡散条約締約を解消すれば筋が通る。 インドやパキスタンが核兵器を保有している現実は許すことはできないが、少なくとも日本より筋は通っている。 日本は論理矛盾を来たしている。
筆者は、アメリカの核兵器が日本の領土・領海内に貯蔵されていると疑う。 現在も日本全国、島々までアメリカ軍の基地が存在しているから場所には不自由しない。 これまでの、日本政府・官僚の嘘と秘匿及び条約や周辺情勢などを考慮すれば容易に推測できうることであるが、まぁ、有無を別にしても、核不拡散条約に加盟しているのであれば、核兵器による抑止力という観念を抱くのでなく、核兵器保有国に対して核兵器の廃絶に向けた真摯な協議を実施してもらうことを訴え、核兵器廃絶に向けた国際的な協調に主導的に取り組むことが明白に求められるのである。 21世紀はもう、核兵器による抑止力を妄信するだけで安心していられる時代ではないことを深く認識しなければなりません。 世界の国々は早く、バカから脱出しなくてはならない。 少なくとも、やり放題の独裁的な政権が牛耳る日本は、核兵器保有国と実質同じ精神異常の病んだ状態であるから危険なのだ。
日本と同盟関係にある核保有国のアメリカが北朝鮮に圧力を掛ける中で、ロシア、中国も核兵器を保有しており、間に挟まれた小国の北朝鮮の方が周辺国に対して脅威を抱くであろうことは必至。 そして、北朝鮮が、どこの国とも組しないとするなら、そして、中国に協力を要請しても、北朝鮮のためにアメリカとの直接戦争を望まなくて拒絶されるであろう状況下、独裁国家で武器輸出国ということは別にして、自衛の安全保障の観点での北朝鮮の核兵器保有は、起こるべくして起きた状況と思えるのです。 核兵器国のむちゃくちゃな論理のみ承認される国連の秩序にも問題があることは明白である。
単純に考えれば、北朝鮮は核兵器を所有し、日本は狡猾にアメリカの核兵器を利用し、アメリカと一緒に北朝鮮を脅している構図になっていると筆者は見る。 この現状の打開に向けて、日本自身の改革も必要であろう。
原発事故とその後の日本政府や国民の考え方より判断すると、日本の将来を望める状況ではないが、・・・
尚、日本は軍事面の安全保障ばかり強調するが、日本は2011年3月11日の福島第一原発事故以来、東電と政府の無責任さと怠慢のために、放射性物質の処理が全く為されていないと言っても過言でなく、被害地・被害者・避難者対策及び徹底的な放射性物質の放出・流出阻止などに全力で集中的に金を投じて当たっておらず、何等改善されずに放置されたままであり、このまま間違いなく日本は破滅に向かう道を辿っていると言えるでしょう。
また、飛散・拡散して周辺区域に堆積している放射性物質や汚染物質による国民の被爆からの防護のために、除染により原発事故前の放射能計測値程度までの状況への原状回復作業がほとんど実施されず、原因者の責任として糾弾されないで放置されてしまっている現実が存在しており、東電と政府の許しがたい、この無責任さは犯罪に当たるといえるでしょう。
日本が第2次世界大戦で連合国に無条件降伏した後、昭和天皇は連合国の最高司令官と会見している。
マッカーサー元帥とは11回、リッジウェイとは7回とされている。(児島襄氏「日本占領」、朝日新聞2002年8月5日など)
しかし、「寺崎御用掛日記」には更にもう1日陛下とマッカーサーとの会見という表記が見られるため、筆者から見れば、会見という表現は12回??となると思う。 内容が不明であるため、意味ある会見かどうかは不明。(表-1による)
会見の通訳は、外交官の奥村勝蔵がマッカーサーとの第1回、第4回を担当。 外交官の松井明がマッカーサーとの第8回〜第11回及びリッジウエィとのすべてを担当。 昭和天皇の御用掛であり顧問でもあった寺崎英成が第3回、第4回を担当。 マッカーサーとの第6回、第7回は担当者不明。
児島襄著「日本占領」によると、奥村氏の文章を閲読できた記録内容として、日本の安全保障について元帥は日本が完全に軍備を持たないことが最大の安全保障であり、日本が生きる唯一の道であるという持論を展開する。 だが、国連にはソ連とアングロサクソンの米英と相克があるという。 ここで、天皇は「日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアチブを執ることを要する。」と元帥の支援に期待を表明した。 これに対し元帥は、「米国の根本概念は、日本の安全保障を確保することである。 この点については十分ご安心ありたい」と述べ、その少し先で記述は途切れていると書かれている。
前記の新聞記事には、松井氏が奥村氏のメモを全部転記し、記録を残さないように指示されていたが、記録を残すことを決意して隠したと書かれている。 また、奥村氏は第4回の会見内容についてAP通信の記者に内容を漏らしたとしてマッカーサーに罷免させられた。
前記の新聞記事には、第10回 元帥は、共産党が法律に違反したらどしどし取り締まり、宣伝に対して、保守的世論は宣伝を持って応える努力が必要だという見解を示したとある。
これらの会見記録は、外務省も宮内庁も公開しない。 但し、マッカーサーとの第1回会見録については外務省が公開したとして、2002年10月17日の朝日新聞にそのことを載せていたが、天皇の戦争責任をめぐり発言は無かったとのこと。
天皇との会見が幾度も継続されていたが、その途中で新たな日本国憲法が制定され、天皇は単なる象徴的存在になっていた。 この日本国憲法が制定される際に、日本国民が議論する前に、マッカーサーから憲法原案に天皇制を排除せずに象徴として残存させる内容の条件を規定されていたのであり、また、極東国際軍事裁判での天皇の戦争責任の訴追は行われないことが決定していた。 新たな民主政府が樹立していた段階で、連合国の最高司令官は総理とも会見するが、天皇大権が剥奪されたはずの天皇との会見によって、講和条約、旧日米安全保障条約、その他取極めなどの基本事項が話されたと筆者は憶測する。 この時点では天皇の政治上の権威は継続していたことになる。
1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発する。 1951年4月には大統領によってマッカーサーは解任され、アメリカに戻る。 その後の占領政策、条約などの交渉はダレス氏に委ねられることになる。 そして講和後も全基地方式で米軍が駐留する日米安保条約の交渉が進められたのである。
リッジウェイとの会談内容について、豊下楢彦著「昭和天皇・マッカーサー会見」によると、第1回は朝鮮戦争問題に終始した。 第2回はリッジウェイが言及した第3次世界大戦の可能性に対する危惧を表明。 国が独立したからには防衛を考えることは当然の責務である。 問題はいつ、どのように実行するかということを表明されている。 第3回は講和条約締結を喜び、安保条約締約も日本の防衛上慶賀すべきことであると発言されている。 第4回は朝鮮戦争にソ連が介入する兆候や米軍が原爆兵器を使用する考えがあるのかについて問うておられる。 第5回は日米安保条約に基づき米軍が条約に規定された防護義務を担当される訳でありますと発言されている。
大日本帝国憲法(明治憲法)は1890年(明治22年)11月に施行された欽定憲法である。 第二次世界大戦直後まで効力を有した。 しかし、第二次世界大戦後、新たな民主的な日本国憲法に全面的に改定され、GHQの承認後、日本の国会において議論、承認の手続きを経て1946年5月3日に発布され、平成25年現在に至る。
この大日本帝国憲法は天皇を次のように定めていた。
・第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス。 ・第2条皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承。 ・第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス。 ・第4条天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ。 ・・・(中略)・・・ ・第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス。・・・(中略)・・・ ・第55条国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス。(以下略)
昭和天皇の戦前における在位の時代には、日本の臣民は、神の末裔に崇められた万世一系の天皇の命に背くことが出来ない状況におかれていた。 現人神であって誰も裁けない絶対的な権威が存在したのです。 もし背くなら、不敬罪で処罰されたのです。 この件に関しては日本は北朝鮮などの独裁国家と同じであったと言ってもよいでしょう。
政治面では、国務大臣が最高権力者の天皇を輔弼し、憲法の定めに基づきその責任を負うのであるが、軍事面では、国務大臣ではなく、軍の参謀総長や軍令部総長が天皇に代わって軍を統帥する。 しかし、軍の最高権力者は天皇であるが責任は無い。 それで、戦争の責任者は実際のところ曖昧になっているのである。
日本の太平洋戦争の敗戦、その戦争責任を裁く極東国際軍事法廷が開かれ、天皇が訴追されることへの備えとして側近による種々の対策が画策されていた。 それらを列挙する。
開戦の詔勅については、総理大臣の開戦の決定に対して天皇としての承認は、国家元首の立憲君主として政府で決定したものは覆さないとし、形式的な承認であるとする。 また、天皇は戦争には反対で、最後まで平和的な交渉による解決を望んでいたとする。 日本海軍が日本の軍部と外交部の手はずの悪さが原因して、日本から中米日本大使館への電信の暗号解読と通告内容のタイプ作成が予定より2時間も遅れて、アメリカのワシントンに宣戦布告(但し、実際は交渉打ち切りを意味する内容の文面)を伝える前にハワイを攻撃し、攻撃を開始して1時間後に既にワシントンは攻撃を受けたことを知りながら日本の宣戦布告通知書を受けとった。 このハワイ奇襲による卑怯ものの日本というレッテルを貼られ、中立であったアメリカの世論は一気に日本攻撃と日本が敗戦した後に天皇の厳罰を求める方向に傾くのであるが、この日本時間12月8日のハワイ攻撃の具体的な詳細については前もって昭和天皇に知らされておらず、攻撃の報告が攻撃完後更に時間が経過してから伝えられたという。
ニューヨーク・タイムズのクルックホーンが昭和天皇に謁見したとき、昭和天皇は、「宣戦の詔勅を東條大将が使用した如くに使用する意図は無かった」と質問に対して答えている。 戦争犯罪に関して、裁判で天皇が訴追されないように宮内省の側近たちは戦争責任が無いことを示すように理由書を作成していた。 側近らによって纏められた天皇独白録は、事情聴取のために基礎資料として準備のために整理された意味合いのものである。
1945年10月3日に東久邇宮内閣が既に作成していた「戦争責任に関する応答問答」を11月5日に一部手直しして幣原内閣で閣議決定。 昭和天皇はあくまで日米交渉円満妥結方を政府にご命令あらせられ、最後の段階に至るまでこれをご断念あらせられざりこと。 昭和天皇の開戦の裁断は憲法上棄却あそばされざりしもの。 真珠湾攻撃に関しては、初期作戦の大綱につきては聞き及ばれたるも、実施細目に関しては報告を受け居られざりしこと。・・・
また、昭和天皇の出家引退による幕引きと筆者には思われるが、1945年1月 高松宮が内密に天皇が敗戦後に退位・出家し上皇となり、仁和寺あるいは大覚寺に入り英霊を供養なさるのも一法であり、あるいは近衛の別邸に移られるのも一法と考えておられ、密かに京都の近衛に会いに行き、近衛の別邸の様子を確認し、天皇や皇族の将来について懸念されていたことが知られている。
また、1945年12月22日に天皇御用掛がアティソンに会って天皇制について話した模様。 次のような内容が書かれている。( アティソン 天皇制、食物、内閣・吉田・・・「寺崎御用掛日記」より)。 但し、詳細な記載なし。
木戸は、A級戦犯に糾弾されることを危惧して、天皇に絶対に自ら退位しないように忠告している。
極東軍事裁判が開始されている頃に天皇の退位についての東大総長南原繁の談話などもあり、報道で退位の話を取り上げるようになった。
芦田と田島は天皇は退位しないことを1946年9月27日に話している。 GHQの政治顧問であるシーボルトと会い、この件を話し、シーボルトはマッカーサーと会って話している。 マッカーサーは天皇に退位の考えをおこさないようにしなければならない趣旨のことを発言しているようだ。 アメリカの国務・陸軍・海軍三省調整委員会(The State-War-Navy Coordinating Committee)では種々の検討がなされており、裕仁昭和天皇の処分に関する案のひとつとして、天皇が退位する場合の訴追案などの報告書もまとめられていたようだ。
当時の宮内次官関屋貞三郎の日記によると、1946年2月3日フェラーズが米国大使館でアメリカでの知り合いである河井、一色と会って食事をする。 その際に一色が天皇が裁かれたり、天皇制が廃止された場合の大変さを話したとされる。
フェラーズ准将が米内大将に話したとされる(1946年3月6日)その内容は、次のようなものである。 フェラーズが「自分は天皇崇拝者ではない。 したがって、15年先、20年先、日本に天皇制があろうがあるまいが、又天皇個人としてどうなって居られようが、関心はもたない。 しかし、連合軍の占領にについて、天皇が最善の協力者であることを認めておる。現状において占領が継続する間は天皇制も引き続き存続すべきであると思う。 所が困ったことには、連合国側の或る国においては、天皇でも戦犯者として処罰すべしとの主張非常に強く、特にソ連はその国策たる全世界の共産主義化の完遂を企図している。 したがって、日本の天皇制とマッカーサーの存在とが大きな邪魔ものになっている。 加えるに米においても、非アメリカ式思想が当局の相当上の方にも勢力を持つに至って、天皇を戦犯者として挙げるべきだととの主張が相当強い。 右に対する対象としては、天皇が何らの罪のないことを日本人側から立証してくれることが、最も好都合である。 その為には近々開始される裁判において東條に全責任を負担せしめる様にすることだ。 すなわち東條につぎのことを言わせてもらいたい。 「開戦前の御前会議において、たとえ陛下が対米戦争に反対せられても、自分は強引に戦争までもって行く腹を既に決めていた」と 。
戦犯を裁く極東軍事裁判が1946年5月3日から開廷したが、この時点でマッカーサーは天皇を訴追するつもりではなく、裁判での主席検事のキーナンはマッカーサーの指示の下、裁判前から天皇の訴追免除を決定していたのであるが、「天皇家の密使たち」高橋紘・鈴木邦彦著によると、被告の東条英機に対してローガン弁護人が、「天皇が平和を希望していることに対し、木戸幸一が何か進言したり、行動したことがあるのか」という尋問に、被告東条英機は、「そんなことは全くあり得ないことです。 日本国の臣民が、陛下の御意志に反してあれこれすることなどあり得ません。 まして高官においておや、であります。」と答えて、キーナン検事は裁判を休廷せざるを得なくなって、翌年の1月6日に再開させざるを余儀なくされた。 そして、このとき検察官のキーナンは自宅に松平や高松宮を呼び、暗に説得を仄めかせた。 東京裁判当時の宮内省内記部長であった松平康昌は東京裁判の真っ最中に東條の発言を改めるように説得する役割を担った。 その後の説得で、東條は渋々承諾し、その後再開された裁判で東條が罪を被る証言を行ったのであった。
1946年6月4日に極東委員会が天皇制存続に関して討議する(国立国会図書館詳細年表より)。 1946年6月18日にキーナン主席検事がワシントンで天皇の戦争犯罪人として訴追しないと発言する(前記年表より)。
マッカーサーの当時の見方についての発言:
寺崎は日米開戦当時、在米日本大使館の一等書記官であった。 開戦直前まで対米交渉に当たっていて、夫人のグエンは「太陽にかける橋」の著者である。 フェラーズはグエンの遠縁にあたる。 寺崎御用掛日記によると、1946年3月20日寺崎とフェラーズの食事の席で寺崎の天皇への処遇について尋ねたことへの返答として、「マッカーサーは自分の友達であり、天皇を戦犯とする考えに対しては元帥は反対の意見を表明し、天皇をして戦犯と指名せられんか日本は混乱に陥り、占領軍の数は多量に増強せらるるを要すべしとワシントンに報告したることあるを自分は承知す」と伝えている。 尚、作家の半藤一利氏の注釈によると、マッカーサーが1946年(昭和21年)1月25日にワシントンに当てた電報をさすものであり、調査結果として、天皇の戦争犯罪の明白な証拠はないと報告し、もし仮に、天皇を裁いた場合の米軍の占領統治の人数が莫大になるであろうことを伝えたものである。 しかし、この時点でワシントンがどのように判断し、既に処遇を決定していたのかどうかは記されていない。
イタリアは連合国に敗戦したが、連合国のうち、イギリスとアメリカが軍事作戦を担った。 戦時中の占領行政管理においてはイギリスとアメリカが排他的占領管理方式を獲得した。 イタリアは第二次世界大戦時には王制国家であったが、戦後に国民投票により国民は王制を廃止することを選択した。
ドイツの場合は1918年の革命で王制から共和国になっていた。 ドイツは第二次大戦の敗戦で、ドイツが獲得した占領地を返還し、ドイツ領土とされた領土(第一次世界大戦後に締結されたヴェルサイユ条約で規定された領土区域か??筆者は理解できていない)は連合国のアメリカ、イギリス、フランス、ソ連により分割統治が実施され、ソ連管理領域に含まれる首都ベルリンの中もこの4カ国に分割統治されることになった(1949年5月)。 自由主義国の占領統治区域は西ドイツとなり、ソ連管理区域は、社会主義の東ドイツとなり、この分断状態は1990年10月3日のドイツ統一まで続く。
ドイツと同盟を結んでいた東欧諸国については、ソ連の進駐後の政権は共産主義思想の勢力が中心となるように、他の勢力が徐々に中枢部から排除されていき、ソ連の政治・経済圏に組み込まれることになる。 それ以外の東欧国も共産党体制の社会主義に取り込まれ、チェコスロバキアのように”プラハの春”で自ら改革を模索することに対しては、ソ連は他国への影響を懸念して、国の主権に軍事介入して制圧し(1968)、ソ連の政治的影響力を持続させることになった。 その後ソ連の崩壊で解放されるが、更に(1993/1)に、チェコとスロバキアに平和的に分離独立する。
中国については、清朝の最後の皇帝溥儀が中華民国を建国した孫文や袁世凱によって退位させられ、共和制になった。 この溥儀は、その後、日本が中国に侵攻して(満州事変)、満州国を建国して溥儀を皇帝に据え、日本の傀儡国家となったが、1945年の日本の降伏で退位し、拘束された。 日本の敗戦後、大陸では国民党と共産党の内戦が起こる。 共産党勢力が勝利し、1949年10月に中華人民共和国を樹立。 台湾は日本から開放され大陸に復帰するが、大陸出身の外省人と日本統治以前からの台湾の住人である本省人との間で抗争が起こる。 蒋介石は1949年に台湾に移り、その後台湾では大陸からの人間が政権の中枢を占めるようになる。 中華民国は、国連において中国を代表する政府としての議席をもっていたが、周恩来時に国連において「中華人民共和国を中国を代表とする案」が採択された。
フランスの場合は、フランス王国は1789年のフランス革命で王制が倒れ、その後ナポレオンが帝政の皇帝となるが、失脚後に王政復古、その後共和制、帝政、共和制・・・と移行して現在は共和国である。
戦後の日本については、ソ連がアメリカは日本の排他的管理を行っていると非難したが、戦時中に行われた ”カイロ宣言” では領土の戦勝取得を欲せずと決議したが、その後の ”ヤルタ会談” においてアメリカ、イギリスが、ソ連に対してドイツ戦が終了した後にソ連に日本との参戦を打診した際に、このときソ連が参戦の対価として掲げた戦勝獲得条件のひとつである内容項目として、過去にソ連が日本との戦闘で失った領土の返還の他に日本の千島列島が引き渡されることが決められたが、実際の戦争の進行時及び戦後、アメリカが千島列島の獲得を拒絶しなかったこと及びソ連は日本の抵抗をほとんど受けずに極めて最小の戦闘で戦勝の獲得物を得られたことなどから反抗せず、実質アメリカの排他的管理が実現した。 このときイギリスは、日本については連合国としての占領統治のみ関与するという態度を示していた。 また、アメリカは、他の戦勝国に戦後に太平洋戦争の数々の諸島を信託統治する権利及びアメリカの軍事活動の権利をも認めさせ、その後、ここがアメリカの水爆実験場に使われることになった。
日本においては、大日本帝国が戦争を始めた張本人である天皇を占領時に象徴天皇としてアメリカによって強制的に憲法に規定され、この件は国民自身による取捨選択の自由度を与えられず、日本の国会は絶対的に承認させられたのであった。 連合国による日本の占領統治が長期間に及ぶ場合には、ソ連や中国などの主張が政策に影響を与えることに繋がるため、アメリカは比較的短期間で連合国による日本の占領統治を終了させ、戦勝国との講和条約の締結に拠り日本の独立を成し遂げることにした。 そして、アメリカは日米の2国間のみの安全保障条約を締結させ、講和条約後の日本における実質的な占領政策を継続させてきているといってもよい。
日本の第二次世界大戦は、攻撃をされていないにも拘わらず、自存自衛という標語を掲げた”侵略戦争”に過ぎなかった。 戦略は単なる急襲作戦であり、開戦当初の打撃を与えて決戦する能力しか有していなかった。 長期戦の可能性を想定すると、戦力負けすることが想定されているにも拘らず、その対策の手立てを講じることが不可能であることは明らかであったが、単に対処については作文で説明するのみであって解決策は有耶無耶にされた。 また、輸送船、油槽船の損耗情況の見通しを少なく見込み、新船建造規模に見合う程度に数値を見込むことによって、単に計画が成立するようなつじつま合わせであったと思える。 この物資補給計画の杜撰さから、戦地及び日本本土への輸送が滞ることは当初から明らかであったが、戦死することが一種の目的のように、戦死するまで戦えという戒めの精神力頼みの戦闘を兵士に迫ったのであった。 昭和天皇は、政府と軍部の統帥部や部下が一丸となることを望んでいたとしているが、政府や部下が、明確に3,4年先の戦闘は不可能であると認めていることに対して、重要となる天皇の最終的な聖断を下すに際して、徹底的に疑問を質すことを天皇は怠っているのであった。 また、日本の戦争は、ドイツが負けていないことを前提条件とした戦争であり、三国同盟はアメリカを牽制するために機能すると予測したが、日本はドイツとの同盟を受け入れてソ連への攻撃を行う訳でもなく、日本が中国や仏印に進駐することによって、中立主義のアメリカを戦争準備へと誘引したのである。
国民は天皇に逆らえないのであるから、天皇が国民を守らないで誰が国民の無駄死にを止めることができるのか。 国家元首の立憲君主なら、憲法の規定は別として国家元首として正しい日本の舵取りが必要であったが、総合的に判断してその機能が働いておらず、諸事情を鑑みて不適切であったことは否めない。
昭和天皇は戦後に、記者から広島や長崎への原爆投下についての感想を尋ねられて、戦争であるから仕方が無いという趣旨の返答をされている。
天皇は側近の忠告に従い行動するのであるが、終戦間際には、政府、統帥部、天皇は、日本のためというのではなく、”三種の神器の安泰”や”天皇制の護持”について懸念してこれが聖断の判断であった。 広島に原爆が投下されて惨害が国民に及んだにも拘らず、統帥部や天皇は天皇の存続のために戦闘を継続させていたのであった。 アメリカは、日本が無条件降伏を受諾しないので更なる無差別爆撃を重ね、この結果更に多くの被害者が出ることになった。 統帥部、天皇は、ソ連が攻撃してこないことを一方的に楽観的な期待を抱いていたが、8月9日に長崎に原爆が投下された同日にソ連が対日攻撃を開始した事態に接して、楽観的な想定が覆されたことによって初めてポツダム宣言の無条件降伏を受諾したのであった。
しかし、昭和天皇は、敗戦後は、アメリカ軍との交渉で天皇制を残存させることを巧妙に、したたかに成し遂げたのであった。 それは、無期限の日本の米軍従属体制の足がかりを築いたことになる。 これらの一連の経過こそが元首としての責任に当たると筆者は考える。
愚かな指導者たちによって開始された無謀で戦略的勝算無き対米戦争であった。 資源が乏しく、産業力がまだ伴わなかった状態での日本の自存自衛ということに対して、戦わずともジリ貧になるのなら、戦って負けても同じだという論拠で戦争を開始して、結局敗戦に至り、日本国民を無駄死に追いやったのである。
(1940/9/6)の御前会議の前日の5日に、天皇が陸海の両総長を呼び近衛陪席の下で天皇の疑問に答えることになった。 その席で天皇が、「日米で事起こらば陸軍はどれくらいの期間に片付ける確信があるか」と杉山に問うと、杉山が南洋方面だけは3ヶ月で片付けるつもりであると答え、それに対して天皇は、「汝は支那事変勃発当時の陸相であるが、当時「事変は1ヶ月位で片付く」と申したことを記憶している。然るに4ヵ年の永きに亘って未だに片付かぬではないか」 と質問し、支那は奥地が開けていて予定通り作戦で着ませんでしたと杉山が答えると、更に天皇は「支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか、如何なる確信があって3ヶ月と申すか」と声高に質問されたのに対して、杉山は低頭して奉答し得なかった((参考)「近衛手記」にもとづく。「杉山メモ」の記述内容は表現が異なり、また5ヶ月と書かれている) 。 このやりとりは有名であるが、天皇が不安・不信を感じられていたことを受けて統帥部が再考することは無く、一応は平和的な外交交渉の形は作るが、天皇の覇権は軍部には及ばなかった所に問題があったことも明らかである。
大日本帝国では、天皇が国家の元首として統治するのであるが、一般政務は国務大臣が輔弼しその責を担い、天皇は政務に関わる責任がないとする。 また、軍事面では、総理に統帥権は無く、陸海軍の参謀総長、軍令部総長がそれぞれ権力を有し、天皇の軍の統帥を代理して輔弼し天皇に責務がないとする。 即ち、戦争の場合、国家の責任者が不在で曖昧であり、失策が生じた場合には、下士官のみが国民に対してではなく、天皇に対して責めを負わされることになる。 この悪しき戦争の最高指導体制による楽観的な無責任さが、日中戦争、インドシナ半島への南方攻略及び必然的に発生する対米戦争の開戦へと向かわせ、当初の攻撃計画しか持たない日本は結局撃破され続けるようになる。 補給船が断たれる様になって占領地の兵士は応援部隊が来ない中で、死ぬまで戦わされたのであった。 一方国内の最高戦争指導部は、日本の敗戦が確実視される状態に至っても、終戦の交渉は、最後は天皇護持が無ければ総国民玉砕してまでも戦うことを議論するなどの馬鹿げた発想をしだすのである。 結局は最悪の無条件降伏を受諾し敗戦を迎える。 敗戦後は連合国による占領統治が講和条約締約まで行われた。
サンフランシスコでの戦勝国の大多数の国との講和条約締結後、日本の主権が認められたとされて表面的には主権国家となるが、連合国によって裁かれた裁判での戦争責任の訴追を免除された昭和天皇は、講和条約締結後のアメリカとの2国間の占領統治政策に全面的に自発的に協力し、日本全土に亘るアメリカの軍事政策を自由に行うことを承認したのであった。 その後の日本は、この政策が基本的に有効であり、そのため、日本国民の人権重視より対米従属を優先させ、アメリカの言いなりに動く政府・官僚に支配されるる国家・日本を形成させることになった。
連合国として昭和天皇の戦争犯罪に関して訴追免除が与えられたが、日本人として、ここで、昭和天皇の敗戦に関わる責任について考えることにする。
既述したが、昭和天皇は明治天皇以来の欽定憲法で定められた国家元首であって、帝国憲法では政治や軍事に関して責任を負わないとされているが、天皇は最終的な裁可を判断する立場にあって、立憲君主なら立憲君主として国政・軍事に真剣に正しい判断で裁可を与えることがなければ立憲君主として命名されている意味が無い。 かつて、絶対的な権力を有する軍部が天皇を神として有無を言わせずに崇めて従うことを国民に強制したことに対して、少なくとも国民は処罰を恐れて従わざるを得ず、そのような強制力を行使する立場の天皇が、国民各自の生命を粗末に扱うことに対して、戦時統制下にあっても立憲君主として冷静な総合的判断が必要であったのです。 これに関して、必要な総合的な判断が為されなかったことについて考えてみる。
日清戦争及び日露戦争で日本は幸運にも勝利した。 これに気をよくして、ロシアに対峙しながら帝国日本の中央政府の統制や天皇の裁断を得ずに関東軍が満州を占領し、更に日本軍の朝鮮派遣軍も中央政府の統制外で満州に合流する。 これらは言ってみれば謀反以外の何物でもないが、帝国日本政府及び昭和天皇は、兎に角関東軍が勝利したために、統制の秩序についての面子を損なわないように、関東軍の行為を後追いで承認したのである。
その後の日中戦争で帝国日本は更に占領地の拡大に軍を進める。 帝国日本は日中戦争に確たる目的も無く戦争を行っていたのである。 このとき、近衛内閣は東亜新秩序の建設を掲げるが、これは東南アジアに帝国日本の覇権を拡大させる以外の何ものでもない。 東南アジア諸国も日本の戦争で輸入に頼っている物資が得られなくなり困窮することが明らかであるが、何等対処せずに、帝国日本も物資がないので東南アジアの諸国から”略奪することが戦争の大儀”であったことは明白である。 帝国日本が中国に対して拡大させた戦争状況が、アメリカとの輸出・輸入に頼るアメリカの対日姿勢を悪化させ、アメリカは、日本がアメリカの提案を受け入れないことに対する更なる制裁として在米の日本資産凍結や屑鉄・石油の輸出禁止などの経済制裁を課した。 米国による鉄その他鉱物類、石油類、その他原材料などの禁輸及び米国以外の西洋列国が管理する領地からの資源の入手が困難になることで、日本の産業・経済が直ぐに困窮状態に陥ったのである。
帝国日本は、インドシナに侵攻するとアメリカとの太平洋戦争が回避不可能になることを覚悟していた。 しかし、この南方域侵攻については、主役となる海軍が対米戦への勝算が見込めないと戦争の回避を希望する一方、中国から北方方面の対ソ連戦のみを守備範囲に捉えていた陸軍は中国からの撤兵を考えない。 そして、陸・海軍の統帥部が一致して戦争を回避する決断を行えば戦争は回避できたのであったが、陸軍の手前、海軍のみが自ら戦争回避を持ち出すことを憚り、結局戦争指導部は本意で無い戦争開始を決断し、それを昭和天皇が裁可してしまう愚かなことをやる。 帝国日本では、御前会議で決定されてしまうと自動的に天皇が裁可されたことになり、大権を有する天皇が異議を挟まない限り、抑制することができない体制であった。 そして、南方域侵攻の開戦は、単純に言ってしまえば、帝国日本の石油の備蓄量と蘭印占領による石油の獲得量によって戦争が継続できる間に、対米戦をやってしまうという決定を行ったに過ぎなかった。
アメリカが帝国日本に対して外圧を掛ける要求内容を帝国日本は到底受諾できないとしているが、帝国日本の条件を容認願うように外交交渉は継続するとしていた。 (1941/9/6)の御前会議で近衛内閣が交渉期限までに打開できない場合には、対米(英、蘭)開戦を決するとされていたので、交渉期限までに打開できずに決定されてしまい、近衛内閣は総辞職した。 その後、この方針に沿って東條内閣が引き継いだ。 しかし、日米の外交交渉の期限について譲歩することになり、(1941/11/1)の連絡会議で結論を出すことになっていて日米交渉の期限を(12/1)午前零時までと決定し、(1941/11/5)の御前会議では(9/6)の御前会議の再検討との題目で為され、日米交渉その他経緯を説明するも軍備の準備や戦況見込みは何も変わらずに原案が可決され、(12/1)までに日米交渉が妥結しなければ米英蘭に対して開戦することが確定した。 尚、(11/3)に統帥部が天皇に作戦計画を上奏し、天皇の下問があり、海軍の日付けを尋ねられたことに対して、永野軍令部総長が8日を予定していることを答えている(杉山メモ)が、(11/26)の大本営会議において、外相が開戦日がわからないと外交交渉が出来ないとして永野に執拗に開戦の日を教えるように迫ったために永野が開戦日の情報が漏洩しないようにしていた予定日を已む無く教えることになったようだ。 杉山メモには情報が漏れないようにかどうか不明であるが、記録として「○日だ。」という表現の記述になっている。
(1945/12/1)の御前会議で南方攻略作戦の開戦の聖断が下った。 その直後、杉山、永野両総長が参内、上奏して侵攻作戦開始日の日時については更に慎重を期し、翌(12/2)に再び上奏して8日と決定された。 この日大本営が連合艦隊、南方軍、南海支隊、支那派遣軍に対して侵攻開始命令を発令する。 開戦日を示達し8日午前零時をもって作戦発動が可能となった。(杉山メモ)
日本が物理的に戦争を可能とするための以下に記す条件についても合わせて見てみる必要があろう。 それらを総合して最後に再度記すことにする。
当初の帝国日本の石油量の見込みでは、戦争前に石油の備蓄を拡大させていたので、戦争を継続させても軍・民間の需要量をまかなえるとしたが、実際は、戦闘による軍・民間の船舶の消滅数が当初予測数と比較して1年目で1.5倍、2年目で4倍、3年目で5倍も大きくなり(「太平洋戦争への道開戦外交史7日米開戦」三 国策再検討の盲点 海軍の勝算の問題の項掲載数値をもとに算出)、あるいは(五味川著「御前会議」55 掲載数値では)、第一次世界大戦の実態より推測した1年で80〜100万トンの船舶損耗予測に対し、連絡会議での新造船可能予測は年間40〜80万トンとし((注)年間平均60万トンの建造補充については、過去の戦例での600万トンの船腹の10%の戦時損失率をもとに60万トンの補充(杉山メモより)を見込んでいたものである。 よって、80〜100万トンの損失を想定する場合には、60万トンでは不足していることになると筆者は考える。)、3年目生産実施は160万トンに急増できたが、同書には米国戦略爆撃調査団の資料による日本船舶の損失数をもとにして、3年間で約386万トンの損耗超過となる数値が示されているように、開戦後4年目には運搬船が無く、石油の確保や物資の補給はほとんどできていなかった。 更に、日米の産業力の差は著しく、日本が開戦と共に増産するが、例えばアメリカの航空機の増産量はその日本の10倍も大きかったのである(前掲書 海軍の勝算の問題の掲載数値をもとに算出)。 戦争指導部の会議では戦争の国策遂行に関して詳細な検討が為されておらず、作文のみによる説明に終始して開戦に及んだようであるが、失敗は明らかである。 総合力で捉えれば、戦前からアメリカとの取引を行って事情通であった商社や工場関係者などからすれば、鉱物資源量と工場規模・設備の当時の状況から、日本の戦況が不利に陥るであろうことは明らかであったろう。
これとは別に、”現情勢下に於いて帝国海軍の執るべき態度”(1941/6/5)の”物資に関する情況判断(四)燃料”の項に、戦争中の油槽船の減耗に関して、1年目、2年目は外地よりの輸送量が少なく死活問題とはならないが、3年目は大量に輸送を要するを以って相当問題なりと言及している。 また、”重要戦用資材”の項目において、特殊戦用資材の国内産出及び貯蔵額は到底予定の生産拡充及び国防計画を充足し得ず。 帝国自存の見地に於いて武力的把握をも断行せざるべからず(杉山メモをもとにした内容)。
つまり、戦争指導部と昭和天皇の先の見通しが甘いにも拘らず容易にことを進めようとした愚かさ、国民を扇動した責任は免れない。
(11/26)に天皇が広く重臣を会して意見を聞くことは如何かと木戸に話し、木戸が東條に伝えると、東條は責任がない者が意見を言うのは意味を有さないと反対であったが考えますと返答し、結局は(11/29)に政府と重臣(かつての総理などのポスト経験者及び枢密議長)との懇談会が開催されることになり、天皇の同席を得て重臣が意見を述べた。 このとき岡田と若槻が、造船力に限りがあって物資輸送が窮屈になるため3年後の生産は考えられない意見を述べ、また、若槻が大東亜共栄圏の確立の理想にとらわれて国力を行使することは危険であるからお考え願わ無ければなりませんと・・と話を続けようとしている折、東條が、若槻に了解してもらうためには3,4時間は要ると口を挟み、このため若槻は陳述を断念したのであった。 昭和天皇はすべての出席者の意見を述べさせた後、懸念について何等発言せずに入御なされた。 そして、船舶や航空機の生産、損耗や物資の輸送実態が計画通り実現しない場合についての対策など一切検討為されずに、作文による希望論に終始した結論のまま戦争開始に向かうのであった。 昭和天皇は自らが政府・重臣などが一致して作戦を行う必要性を強く希望していたにも拘らず、全部無視してしまったのです。
昭和天皇は「独白録」(終戦直後昭和21年3月〜4月に極東国際軍事裁判に備えて側近5人が聴取して整理した内容の記録)の中で、天皇は立憲君主として政府と統帥部の一致して決定した意見は、天皇として拒否はできずに認めなければならないとのことを表明されている。 次の例である。
開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。 若し已が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専織君主と何等異る所はないとする趣旨を表明されていることになっている。 また、陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時に於てすら無条件降伏に対し「クーデター」様のもの {(注)終戦の玉音放送を阻止しようとした兵士の事件やその他兵士の事件など} が起った位だから、若し開戦の閣議決定に対し私が「ベトー」を行ったとしたらば、一体どうなったであらうか。・・・(中略)・・・私が若し開戦の決定に対して「ベト一」したとしよう。 国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとして結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になつたであらうと思ふ。
しかし、ここで仮定として、開戦の決定に天皇が裁可しなかったとしよう。 その場合、当初から開戦に消極的であった海軍は総合的に判断して天皇の戦争反対の決断に従うであろう。 当時の陸軍相兼総理であった東條英機は天皇に従順であった性格からして、当時の陸軍参謀総長を説得するであろうと推測できる。 仮に陸軍の一部の部隊が参謀総長に反するとしても、援軍の輸送が無くなれば、関東軍による占領地拡大はある程度収まることになったであろうと考える。
昭和天皇が恐れたのは、もし陸軍が天皇の命に明らかに背くことに至れば、帝国日本を統帥する天皇大権の明らかな失墜を国民に暴露してしまうことになることではないだろうか、と筆者は考える。 その結果、昭和天皇は満州への軍の独断の侵略行為を後追いで承認し、インドシナへの軍の侵略行為の決定を裁可し、アメリカへの攻撃の決定を裁可した。
日米戦以前における内閣の組閣に関しては次のような経緯があった。 昭和天皇は日独の同盟を敬遠していたので、当時、海軍の反対派であった米内を内閣総理大臣に任命したが、陸相には畑氏に待命を授け米内を援けることにした。 しかし、畑陸相は軍部の策謀に協力して辞任することとなり、皇族の閑院宮参謀総長が畑陸相辞職勧告に捺印したとされている。 陸軍が次の陸相を選任することを拒否することによって、結局内閣が組閣できなくなり内閣総辞職に追い込まれ、日独同盟推進派の近衛文麿が次の内閣総理大臣に就任することになって天皇の意図する方向から進路がそれることになった。
先の戦争、中国・インドシナ・南方戦線においての戦没者は約310万人、そのうちの軍人軍属などの戦没者230万人で換算した餓死者(栄養失調による死)・病死者数は140万人以上推測され(「餓死の実態」よりの数値)、また、荷役のために1941年に動員された馬の頭数は約39万頭という数値があり、1945年までの補給頭数は不明であるがこれを考慮すると更に上回る馬の犠牲があった。
昭和天皇は自らが開戦を拒否したと仮定したら、これよりも悲惨な内戦が生じていたであろうと回想しているが、このような無駄死に以上の悲惨さは回避できたであろうと筆者は思う。 筆者には到底信じられないことである。 ここでも単純には昭和天皇に従順でない勢力の実態が明らかになって、天皇の絶対的権威が失墜するだけであったと考える。
そのときに必要なのは、天皇の拒否権云々ではなく、御前会議前の奏上及び御前会議において、上奏内容について、軍部の思慮不足に疑問に感じていたなら、再検討や研究の追加要求を徹底させることではなかっただろうか。 戦争という国民の命を考えるとき、最早、閣議による開戦の決定に対しては天皇の手続き上、天皇の裁決において拒否権が無いとする、手続き面のことを、無謀な戦争に突き進ませて無意味な人為的な惨害を蒙った言い逃れの理由にすることはできないと言及したい。
1945年8月9日に長崎への米軍による原爆投下が実行された数日後に連合国に降伏するのであるが、その際にも、日本は、「ポツダム宣言を受諾するも天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることを了解す・・・」と第三国を経由して連合国に電信文を送っているように、8月14日にそれを受諾するまで、あくまで国体護持を固執し、その受諾を拒否し続けたのであった。
本来、天皇は国民の人命救済を考えなければならない立場であるが、国民の人命を重んじるのであれば、自らの護持に固執するのではなく、戦況その他諸状況から判断して日本が米国に対戦不可能な状況に陥っていた実態は明らかになっており、ほぼ確定的に敗戦の事実が拒否できないと理解できたこの時点で早急に連合国からの通告の受諾を表明し、連合国と停戦に向けた手続きを進めるべきであった。
大日本帝国憲法施行の下、敗戦までの昭和天皇は絶対的な権威を有しており、国民は厳格に天皇に従順でなければならないと命令され、天皇を尊敬しない言動を発すること、あるいはそのように受け取られる等だけで、国民は有無を言わされずに処罰されたのであった。 誰も逆らえない、政府閣僚や軍部でさえも逆らえない地位にあったのである。 国民は強制的に天皇を神として崇めるように洗脳され、天皇から見れば、国民は天皇のために命を捧げるべき単なる ”物” のような存在と扱われていたのであろう。 即ち、歴史的な特権階級としての天皇に驕り以上の精神構造の何かが構築されていることは否定できないであろう。
天皇が8月まで敗戦の受諾を拒み続けることをしなければ、米軍による日本への原爆の投下が可能でなく、原爆による惨害が回避されたのみならず、ソ連による極東地域での日本との対戦への参加ができずに、北方四島の択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島がソ連に占領されることが回避されたであろう。 この結果、大多数の日本兵士がソ連に捕虜にされてシベリアに抑留され、過酷な労役で死亡することが発生しないことになる。 また、8月の敗戦間際の無駄死になど回避できたのである。
これらを回避できなかったのは、全て天皇の日本国民の命の救済に対する配慮が欠けた結果によるものであり、国民の人命救済の観点より見て天皇の責任が問われることになると筆者は考える。
日本が敗戦を迎えるに及んで、昭和天皇を取り巻く人物たちは、国民よりも天皇護持を掲げた終戦工作を行ったのである。 広島に原爆が投下された報を受けても、昭和天皇は国民についての心配より、取り巻きが国体護持に固執してポツダム宣言を受諾しないとする決定に口出ししない。 ソ連が参戦した事実を知って、この時にやっと終戦のポツダム宣言を受諾することを決断し、終戦を迎えることになった。
その後、日本は連合国の占領下に置かれ、マッカーサー元帥は真っ先に戦争犯罪者の選出と裁判を実施すること及び日本軍の解体と新たな憲法の制定を命じ、憲法での天皇の位置づけを”天皇大権を剥奪して象徴とする”指示を与えて極東委員会が機能する前に草案の骨格及び原案内容を策定させ、日本の国会で審議させ成立させた。 日本政府は、”象徴天皇制”及び”戦争放棄”・”国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する”との内容の成分憲法を1946年11月3日に公布した。
終戦直後においては、憲法改正前の元首の昭和天皇とアメリカが占領統治の政策などについて協議していたことは理解できる。 しかし、既に新たな日本国憲法が機能した時点からは、この時点で昭和天皇は国政に携わらないことになっているのであるから、連合国の占領国のひとつであるアメリカは、日本国政府と協議すべきである。 しかし、これを両者が無視をしているのである。 そして、昭和天皇は、もし連合国の占領統治が終焉するときが来れば、日本国の天皇に反対する勢力によって天皇制や皇族の存続が危ぶまれる事態が起きることを懸念していたと推測される中で、アメリカからイギリスやソ連が天皇について厳しい評価をしている情報が日本に与えられていたので、天皇自身を日本国民から守ってもらって天皇の存続を確立させるために昭和天皇が選択した方法は、アングロサクソン族のアメリカに無期限に日本全国に基地を設けて駐留を自主的に願い出ることであったという結論が導かれる。 そして、この巧妙なカラクリは講和条約とは別の日米2国間の協定とし、国連の集団的自衛権に基づくアメリカが日本が要請する駐留を受諾する形式をとった。 そして、この集団的自衛権の下、アメリカ軍が日本国内で軍事活動を行っても内政干渉には当たらないという根拠作りを行い正当化したのであった。 (旧日米安全保障条約 参照)
天皇の全権の委任状を持って日米安全保障条約に調印したのは吉田総理であるが、この後、行政協定に詳細を定めたのは官僚である。 そして、日本の無期限のアメリカへの隷属化が開始されるようになったのです。 これらの大元の責任は昭和天皇であることはまず間違いないでしょう。
吉田総理の後の総理として就任した鳩山総理は、”終戦直後のアメリカと昭和天皇のしたたかさ”の所で記したように、憲法改正を行って自衛力の増強を進めること及び周辺国との自主外交を進めようとしていて、在日米軍基地の撤去に向けて道筋をつけようとし、重光葵外相は日米安保条約の改定を提案し、日本の軍備増強による在日米軍基地の撤廃あるいは条件付き目的による駐留のみ容認する試案について調整していたのであるが、上奏の後に重光外相が望んだ当初の試案は訪米交渉からは取り下げられたのであった。 これは恐らく、重光氏が望んだ試案は、在日米軍の完全撤去に繋がるとの米国の危惧や昭和天皇による在日米軍基地の撤廃の拒絶という昭和天皇の剥奪された大権の越権行為が存在していたことはほぼ間違いないであろうと筆者は憶測する。
(2015年1月追記)
戦後70年が経過した2015年に於いても、アメリカ軍の日本における活動によって、日本人の基本的人権が侵害・無視され、日本の司法権がその人権侵害に対して何等関与できず、最高裁は既にアメリカ政府の意向によって左右される存在であり、日本政府は日本国民の民意に基づかず、アメリカ政府の意向に準じた政策を立案するのである。 ここには、国民主権の姿は見られない。
2015年現在、日本の真の独立は未だに確立しておらず、民主主義政治は似非民主主義政治である。 日本国民全てが、実質的には巧妙に仕組まれたアメリカの占領政策下の隷属状態と言っても過言で無い。 これの元凶は、敗戦直後に昭和天皇が自らの護身と引き換えに互いの利益のために、昭和天皇とアメリカ軍の関係者が狡猾に画策した取引を行い、日本はアメリカが望む限り半永久的な隷属関係を守り、日本全域における占領者であるアメリカ軍による自由な基地の構築及び自由な軍事活動・訓練などが実施できる権利を定めた取極めを結んだと推測されるところにある。
アメリカ軍は、占領政策が継続する限り、天皇制の継続を希望するのであるから、日本国民が天皇に対して万歳と言って天皇を認めている間は、アメリカ軍の日本における軍事活動が保証されていることを意味するのであると容易に推察されよう。
2014、2015年の安倍総理は明らかに犯罪者であるが、日本の警察権をコントロール下に置き、昭和天皇が戦争責任の訴追を免れたと同じ構図が、アメリカに協力する安倍総理にも同様に働いているので訴追逃れが罷り通っているのである。
日本の政財界の面々は、この国家権力による訴追免除などそっちのけで、経済界は金儲けに徹し、政界は政治献金を支援してくれる企業の利益のための政策を制定することに徹しているのである。 また、関係する外務・防衛官僚は、アメリカの支配体制を解消する努力をするわけでもなく、戦争と武器関連、その他これに携わることに拠り得られる恩恵に溺れて、犯罪者を擁護する方向に共謀するのである。 彼らが日本を牛耳り、国民は愚か者であることを否定せずに、彼らが目論む金儲けの風潮に乗せられ、また、彼らは、政治家に都合よい政治がやり易くなるので、国民が政治から離れてアミューズメントなどに興じることを歓迎する。 これが日本の現状である。
司法がアメリカに協力する自民党の政治家に対して機能していない現状、憲法無視を実行できる政治の現状から判断して、この事実は明らかに安倍独裁政治が実行されているのである。 日本は安倍総理によって種々の暴挙が実行されているが、意図的に現在の高尚な日本国憲法を無効にする暴挙であり、警察はこの件には関与できないようであるから、誰も止められない。 そして、日本国民の人格が否定された状態が正に進行中である。 このまま放置すると、必然的に向かう未来は、アメリカの利益のために日本が貢献すること・・・アメリカの要求どおりにアメリカの戦争に協力してアメリカの戦争経費や兵士の戦死者を削減させる目的で、アメリカ兵の身代わりとなって戦場で貢献することである。 これが、今後の日本の合言葉となり、これに反対行動を起こす者は、自民党の憲法改正草案の内容に記述されている ”公益及び公の秩序”に反する者として政府からレッテルを貼られて圧力が加えられることになるであろう。
今や独裁政治家そのものである安倍総理の姿は、かつてのナチスのヒトラー総統の独裁を想起させる。 政治家ヒトラーは民主主義政治で選出された首相であるが、その後独裁政権を掌握して対外的な強行策を実施、及びユダヤ人の大量虐殺を実行した。 一方安倍独裁総理は、アメリカ軍の飛行場建設のために、沖縄の住民の民意を無視し、住民への強圧的な”いじめ”を実行して ”嗜虐的”な快感を楽しんでいるようだ。
この現在進行中の原因についても、昭和天皇が画策した日米安保条約及び取極めに原因があるのであり、これについても昭和天皇の責任に帰することが言及できるであろう。 (ここまで 2015年1月追記)
日本軍の第二次世界大戦における戦争時の基本方針のひとつに、陸軍の戦陣訓があり、捕虜になることは恥じであると戒めている。
陸軍の戦陣訓から ”第八 名を惜しむ ”
「・・・恥(はじ)を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門(かもん)の面目(めんぼく)を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)して其の期待に答ふべし。生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名(おめい)を残すこと勿(なか)れ。」
日本軍の補給計画は、中国やインドシナの陸上では、ほとんど馬によるものであった。 人間の食料計画がままならぬ状態であったときに、大量の馬への給餌及び馬の扱いに不慣れな兵士が戦闘に携わりながら馬の世話を行うことはぞんざいにならざるを得ず、馬の損失が必然的に増加する。
南方作戦のための兵站部隊の数は少なく、開戦時の南方参謀兵站主任は、南方作戦の兵站の基本方針を示し、”・・・現地ニ於イテ創意自製自活シ得ルモノハ原則トシテ之ニ據ルヲ旨トセリ”と、戦争しながら、食料を現地で作るあるいは調達するなど、自活しろという戦争を強いているのであった。 すなわち、戦争を継続するためには、現地の住民の物資を奪っても止むを得なくなるのです。 外地での物資の調達は極力自製自活を基本方針として命じられていたので、食料入手が困難になると、兵士は栄養不足による栄養失調やこれに付随した病気に罹患、南洋特有のマラリヤなどに罹患して死に至り、戦闘行為で死ぬのではなく、国の安易で無謀な戦争計画によって兵士を飢餓での無駄死にさせたのである。
日本は、西洋人に対する戦争では比較的ジュネーブ条約に拠り戦争捕虜の扱いについては表だっては厄介な問題に発展させることは少ないと思われる。 しかし、日本は、中国戦については、あくまでも事変の延長ということにして、戦争捕虜としての扱いをとる必要性を否定しているのである。 以下の尋問調書で明らかである。
東京裁判に提出された武藤章(支那事変発生当時、参謀本部第1部第3課長) の尋問調書(1946 年4 月16 日付)「極東国際軍事裁判速記記録第1巻」より、ハイダー氏の尋問対して武藤章被告が答えている内容のポイントを次に示す。
→ 1938 年に中国の戦争は公に”事変”として知られていますので、”中国人の捕えられたる者は俘虜として取扱われないということが決定しました。”・・・捕虜収容所はありませんでした。彼らは捕虜とはみなされず、・・・一度彼らが武器を捨て降伏すれば普通の市民として扱われ、中国軍に引き渡されると感じました。・・・彼らを北中国仮政府に引き渡す・・・その政府は蒋介石に反対・・・日本政府に好意あるもの・・
つまり、陸軍は、戦争という名称を使わない支那事変では捕虜としない方針を採用。
しかし、中国でも捕虜収容施設や捕虜の取り扱いを取り決めていた例がある。北支那方面軍の「北支那方面軍俘虜取扱ニ關スル規程」〔1941/11/20〕の例はある。 しかし、筆者はこの実施状況について把握できていない。
藤原彰著「餓死した英霊たち」に”氷見大佐「対支那軍戦闘法ノ研究」陸軍歩兵学校1933年”から引用して、中国戦の中国兵捕虜について、ジュネーブ協定の捕虜として取り扱うことを否定している内容を書いている。
「捕虜ハ他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之レヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セズ、特別ノ場合ノ外之ヲ現地又ハ地方ニ移シ釈放シテ可ナリ。 支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ特ニ兵員ハ浮浪者多ク其ノ存在ヲ確認セラレアルモノ少ナキヲ以ッテ假ニ之ヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題ナシトナルコト無シ」
つまり、中国において、捕虜を地方に移して自由に逃げて良いといって放つことができるとしている。 しかし、再度戦線に復帰できてしまうことを許すわけでもないのであるから、捕虜の取り扱いを現地の指揮官任せにすると、中国人捕虜を殺戮することを罪とは日本軍は認定しないのであるから、自ずと手っ取り早く殺戮してしまうことになるであろうと推測できる。
日本兵には捕虜になるなと訓示していること、及び日本兵自身の食糧事情が悪いことより、仮に中国兵を捕虜としたと仮定して、仮に捕虜集所を設けて収容して捕虜に食事を与える場合でも、日本兵より良い食事や同じ程度の食事を与えることは無いと思われる現地の情況であったから、捕虜たちを殺戮したも同然になったであろう。
日中戦争時に中国での中国兵の捕虜についての資料が整理されていない現状から想像できることは、日本軍は、本来捕虜として人道的に対応すべきことを行わず、中国捕虜を殺戮てきたのであろう。 日本軍は中国兵を捕虜にする必要を認めていなかった。 仮に存在していたとしても、中国での捕虜収容所は非公式であって、赤十字との関連かどうか不明だが、極わずかに収容された程度と見られる。 日本の赤十字関係については軍の関与が大きく支配し、中国兵の負傷者などの救済は見捨てられていたようだ。 また、戦いながら現地での物資調達を余儀なくされているために、一般住民からの略奪など横行したことが伺え、日本兵による暴行、強姦、殺戮などが常習的に行われていたことも伺える。
日中戦争の大儀が明確でなく戦地に送られた兵士たちは、兵站の十分な策が為されておらず、当初から十分な物資の補給の実施が不可能な状態が続き、物資の略奪のための戦争以外の何物でもなかった。 陸軍は対ソ戦を想定して、そのための物資を満州に搬入していたが、南方戦は海軍が担うものであると対立意識をもち、戦後まで満州に軍需物資が残された状態となったのである。
日本人の第二次世界大戦時の戦没者は、310万人、そのうち海外での戦没者240万人、軍人・軍属・準軍属合わせた戦没者は約230万人が公表されている。(厚生労働省遺骨収集事業の説明資料(H25/8/13)並びに藤原彰著「餓死した英霊たち」* の記載資料の引用「引き上げと援護30年の歩み1967」より)。 また、シベリア抑留死亡者数は53,000人(厚生労働省推計)(平成22年版厚生労働白書)。 (下記参考比較* 参照)
この大戦時の餓死病死者を記録した資料はほとんどない。 「餓死した英霊たち」に太平洋諸島での値の比率より推測・換算した病死・栄養失調による死者の数値として140万人程度を見積もっている。 (参考比較 「餓死した英霊たち」* :この資料ではシベリア抑留での死者はすべて、栄養失調・極寒による衰弱死・病死などとして約21,000人が見積もられている。)
極東委員会とGHQについて
終戦直後は連合国最高司令官のマッカーサー元帥及び米国が日本を占領統治していた。 占領政策の取り扱い方が明確でなかったために、当初はマッカーサーが主体的に関与していたと推測される。 しかし、ソ連の強い主張により、1945(昭和20)年12月のモスクワ外相会議で、日本占領管理機構としてワシントンに極東委員会が設置され、また、東京には対日理事会が設置されることとなった。
「・・・極東委員会は日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関となり、GHQもその決定に従うことになった。 とくに憲法改正問題に関して米国政府は、極東委員会の合意なくしてGHQに対する指令を発することができなくなった。 翌年1月17日、来日中の極東委員会調査団(来日中は、前身である極東諮問委員会として活動した)はGHQ民政局との会談の席で、憲法問題についての質問を行ったが、民政局側は憲法改正についての検討は行っていないと応じた。 同月29日、マッカーサーは同調査団に対し、憲法改正については日本側に示唆を与えたものの、モスクワ宣言によりこの問題は自分の手を離れたと述べた。」
{国会図書館 日本国憲法の誕生 資料と解説 ”3-4 極東委員会の設置とGHQの会談” の中の Incoming Message to CINCAFPAC [MacArthur] from Washington (War), nr WCL 32355 [Communiqué of Moscow Conference, December 27, 1945 }より引用
(参考)連合国最高司令官総司令部の組織図(1946年及び1947年)を参照。
参考図書・資料
「国立国会図書館のWEBから 憲法条文 大日本帝国憲法」;「国立国会図書館の日本国憲法の誕生 資料と解説3-4 極東委員会の設置とGHQの会談 Incoming Message to CINCAFPAC [MacArthur] from Washington (War), nr WCL 32355 [[Communiqué of Moscow Conference, December 27, 1945]」 ; 「日米同盟半世紀 安保と密約」外岡英俊、本田優、三浦俊章著 朝日新聞社 ; 「安保条約の論理」豊下楢彦著 柏書房 ; 「安保条約の成立」豊下楢彦著 岩波書店 ; 「最新安保情報」浅井基文編、藤井治夫編 社会批評社 ; 「アメリカ東アジア軍事戦略と日米安保体制」島川雅史著 社会評論社 ; 「日米安保を考え直す」我部正明著 講談社 ; 「日米安保とは何か」草野厚著 PHP研究所 ; 「真珠湾 日米開戦の真相とルーズベルトの責任」G.モーゲンスターン著 錦正社 ; 「駐米大使 野村吉三郎のの無念」尾塩尚著 日本経済新聞社 ; 「戦争と有事法制」小池正行著 講談社 ; 「変貌する自衛隊と日米同盟 - 9条2項の抹消で「軍事国家」は完成する」梅田正己著 高文研 ; 「他策ナカリシヲ 信ゼムト欲ス」若泉敬著 文芸春秋 ; 「沖縄返還とは何だったのか」我部正明著 日本放送協会 ; 「日米同盟とは何か」世界平和研究所 中央公論社 ; 「日米同盟崩壊」飯柴智亮著 集英社 ; 「知識ゼロからの太平洋戦争入門」半藤一利著 幻冬舎 ; 「日米開戦の悲劇」福井雄三著 PHP研究所 ; 「満州事変から日中戦争へ」加藤陽子著 岩波書店 ; 「中国の歴史」山本英史著 河出書房新社 ;「清朝と近代世界19世紀」吉澤誠一郎 岩波書店 ; 「戦争責任と追悼」朝日新聞取材班 朝日新聞社 ; 「天皇の戦争責任」井上清著 岩波書店 ; 「天皇の戦争責任」加藤典洋、橋爪大三郎、武田青嗣著 径書房 ; 「東条英機と天皇の時代 下」保阪正康著 伝統と現代社 ; 「木戸幸一日記 上下」木戸幸一著 東京大学出版会 ; 「靖国問題」高橋哲也著 筑摩書房 ;「靖国神社」大江志乃夫著 岩波書店 ; 「天皇と戦争責任」児島襄著 文藝春秋 ; 「昭和天皇・マッカーサー会見」豊下楢彦著 岩波書店 ; 「回想十年」吉田茂著 毎日ワンズ; 「岸信介証言録」岸信介著 毎日新聞社 ; 「アメリカに潰された政治家達」孫崎亨著 小学館 ; 「マッカーサー元帥と昭和天皇」榊原夏著 集英社 ; 「昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記」寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー著 文藝春秋 ; 「日本占領1.2.3」児島襄著 文藝春秋 ; 「昭和史 戦後編」半藤一利著 平凡社 ; 「1945日本占領」徳本栄一郎著 新庁舎 ; 「象徴天皇」高橋紘著 岩波書店 ; 「天皇家の密使達」高橋紘、鈴木邦彦著 現代史出版会 ; 「GHQ知られざる情報戦 新版ウィロビー回顧録」C.A.ウィロビー著 山川出版社 ; 「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」鳥居民著 草思社 ; 「そして官僚は生き残った」保坂正康 毎日新聞社 ; 「ある侍従の回想記」岡部長章著 朝日ソノラマ ; 「岡田啓介回顧録」岡田貞寛著 中央公論社 ; 「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」長谷川毅著 中央公論新社 ; 「太平洋戦争への道 開戦外交史2、5、6、7及び資料編 1962,1963年版」日本国際政治学界太平洋戦争原因研究部編 朝日新聞社 ; 「高松宮日記第8巻」高松宮著 中央公論社 ; 「細川日記」細川護貞著 中央公論社 ; 「ホワイトハウス日記1945-1950」イーブンA.エアーズ、ロバートH.ファレル著 平凡社 ; 「終戦の侍従長 海軍大将藤田尚徳」外崎克久著 清水弘文堂 ; 「韓国併合」海野福寿 岩波書店 ; 「天皇メッセージ シーボルト起草のコピー」 沖縄県公文書館より ; 「Foreign Relations,1950,Volume VI Japan [Memorandum by the Supreme Commander for the AIlied Powers (MacArthur)] 」 ; 「1977年8月24日、2002年7月26日、2002年8月5日及び2002年10月17日の朝日新聞」 ; 外務省の軍縮・不拡散のWEBサイトより 「非核三原則に関する国会決議(1971年(昭和46年)11月24日〜1982年(昭和57年)5月28日)」 ; 外務省のWEBサイトより「日米地位協定」、「日米安全保障条約」、「日米防衛協力のための指針」、「武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律」、「日本国の自衛隊とアメリカ合衆国軍隊との間における後方支援、物品又は役務の相互の提供に関する日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定」、「周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律」 ; 「日本国憲法制定経過年表」国会図書館資料 ; 「御前会議」大江志乃夫著 中公新書 ; 「御前会議」五味川純平著 文藝春秋 ; 「「文藝春秋」にみる昭和史 第二巻から 「かくて天皇は無罪になった」田中隆吉著 文藝春秋編纂 ; 「日米開戦の悲劇 ジョセフ・グルーと軍国日本」福井雄三著 PHP研究所 ; 「餓死した英霊たち」藤原彰著 青木書店 ; 「極東国際軍事裁判速記録第1巻」雄松堂書店 ; 「平和への努力」近衛文麿著 日本電報通信社 ; 「杉山メモ 上・下」大本営政府連絡会議/参謀本部編 原書房 ; 「陸軍先陣訓」陸軍省編 陸軍省 ; 厚生労働白書 平成22年版 ;
イラク戦争に関わる航空自衛隊のイラク派遣、日本の刑法に抵触する政府の命令の問題
イラクに派遣された航空自衛隊員は殺人幇助の犯罪者、及び小泉、安倍、福田、麻生元総理、額賀元防衛庁長官、久間、石破、高村、浜田元防衛大臣、防衛省の担当官僚、外務その他関係者などすべて、その犯罪に関与した者は犯罪者である。 これは、名古屋高裁(民事訴訟時)における裁判において、航空自衛隊や政府が、法律違反、憲法違反の行為を行ったことを明言し、自衛隊員による有志連合国の戦闘員(当時、戦場で殺人行為を実施)を戦場に輸送しており、航空自衛隊員が有志連合国の戦闘員の行動と一体的に行動している旨を言及しており (自衛隊のイラク派兵差止等請求控訴事件:名古屋高裁(民事)判決 2008年4月17日、確定 2008年5月2日)、即ち、自衛隊員と関係者が直接的に殺人幇助の関与であることが既に証明されているのである。 政府がこのときの証拠資料を隠蔽しようが、あるいは特定秘密事項に指定して証拠の開示を拒否しようとも、裁判所によって既に証明された事実である。 よって、これに対しては日本の刑法に基づいて犯罪者として罰する手続きが開始されなければならない。 もし、これが損ねられた場合には、日本の法の支配は瓦解して存在していないことになる。 果たして状況はどうなっているのだろうか?
彼ら犯罪者を罰する職務に携わる警察・検察は、政府のコントロール下に置かれて骨抜き状態であり、また、最高裁は戦後からアメリカとの隷属関係に縛られたアメリカ寄りの評定を下す旧態依然とした裁判所の体質が存続しており、三権分立の独立した権限の行使を行うことが出来る司法ではなく、機能不全を起こしており、アメリカが関わる日本国民への人権蹂躙の行政訴訟の事案に対しては、最高裁は日本国民の立場に立っていないから、日本人が提起する裁判など無意味である。
更に、日本政府の犯罪者たちが独立国家日本、主権国家日本を放棄してアメリカ軍の占領政策を未だに継続させているように振る舞い、アメリカ従属主義に基づき、アメリカの占領政策によって日本国民の基本的人権を蹂躙している状態を継続させ、改善する努力さえ行わず、日本国民がこれに反対する行動を起こすと、弾圧してアメリカのご機嫌をとるバカを演じるのである。
日本政府は国の安全保障に関しては、今度は、日本国民が反対行動を起こさないようにするため治安維持の関連法を強化したのである。 また、政府は、民主主義政治・法治国家の法の支配を完全に無視した態度をとり、国会の関与を経ずに、ちょうど北朝鮮や中国の採っているような独裁的な手法を用いて、まるで昭和天皇が護身と引き換えに日本がアメリカの自由になる奴隷へと変身させる約束をしたことを暴露していると言及できるとおりの行動をとって、アメリカへの隷属の忠誠心を示して機嫌をとっているのが2014年の安倍総理である。
このことは、2014年の日米防衛協力の指針で決定しようとしている内容に明らかなとおり、将来、日本の自衛隊がアメリカ大統領の命令でアメリカの戦闘に参加する道を開くことを、2014年の安倍総理、防衛・外務省の官僚が策謀したのである。
2014年の安倍総理を筆頭に犯罪者の集団で構成される政府が、民主的な議論と国民総体の民意を無視して独裁的に暴挙を働き、次々に発する憲法違反の軍事関連政策を決定し、その犯罪者たちを幇助する自民党議員らも共謀して、日本の民主主義政治を崩壊させた。 また、日本の正義の司法制度を失墜させてしまったのである。 日本国民は、このことを認識・理解し、対処しなければならないのです。
これを解決するためには、新日本国憲法の制定、国会法の改革、選挙制度の改革などが必須となる。 日本国憲法の改正草案(検討中の案) 、 国会の改革 国会法の改正(検討中の案) 、 国民電子投票法のイメージ(検討中の案)を参照。
「自衛隊不要」の内容に書かれた、日本国憲法の戦争放棄(戦力を保持せず・武力の行使は放棄する)と個別的自衛権及び(限定的を含む)集団的自衛権についての関連内容を参照。
日米安保条約 : 日本政府・官僚はアメリカの言いなり。日本国民の基本的人権は無視される。アメリカでは市民の権利によって阻止される飛行訓練やオスプレイの訓練なども、日本ではやり放題。日本はアメリカの奴隷。日本全国にある米軍基地、米空軍は日本の空域を最優先使用。オスプレイが日本全国を自由に飛び、又、米軍兵士の犯罪は現行犯でなければ治外法権。そのうち、日本国憲法を改悪して、戦争放棄を取り除き、日本はアメリカの戦争の子分として戦線に加わる日が来る。その結果、防衛費増大、経済悪化、国債の信用力低下、歳入の増加より国債の利払い費の増加が上回ることによる更なる負債の増加、国会議員の利権や官僚体制は温存され、そのため、国民の社会保障費の大幅削減、国民生活の荒廃、日本沈没への道筋は見えている。
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| Japanese democracy collapsed (English) | The Islands of Japan (2012) (English) |
| The matter of the Acts of Security for Aggressive Pacifism 2015 (English) |
| マイナンバー制度と戸籍の関係:数字で本人が特定可能なことより、戸籍筆頭者の概念が不要。本人を中心にして親、兄弟姉妹、婚姻・離婚、伴侶の姓・名、子供の姓・名、続柄が整理され得る |
| 日米地位協定第2条に基づく 在日米軍施設、区域(平成22年1月1日時点 日本全国) | 2011年3月東日本大震災 大津波 ID 番号活用 災害復興避難計画 原発の安全見直し |