朱の王国と神武大和侵攻
住吉大社の埴使
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朱の王国と神武(崇神)の大和侵攻
別稿 住吉大社からの埴使(はに使い)
◎ 河俣神社

河俣神社 背後に見えるのが畝傍山
冬のある日、穏やかな日差しに誘われて、自転車で少し遠出をする気になった。
蘇我川上流にある、以前から気になっていた河俣神社を訪れた。
蘇我川の右岸に沿って、細長い境内が続き、その奥に白壁の土塀に囲まれた社殿がある。その土塀の正面には頑丈な鍵の懸かった扉があり、内には小さいが、立派な社殿が建っているようであった。
かなり、由緒の有りそうな神社である。

写真を撮ろうとしていると、初老の老人が箒を持って現れた。
お話を伺うと、この神社の氏子総代をされている方で、毎日、境内の掃除をしているとのこと。
頑丈な扉がある訳を尋ねると「この扉の鍵は私が預かっている。年2回、大阪の住吉大社から、お使いの方が畝傍山の埴土を採りに来られるので、その時だけ、扉を開けて、中にお通しする。」、中で装束に着替えられるそうである。
「今は、車で来られるが、昔は、馬で山越えして来られた。毎年2月と11月に、日は決まっていないが、事前に電話連絡がある。」とのこと。
昔は境内は広くて、「雲梯(うなて)の森」と呼ばれた鬱蒼とした森であったらしい。
今は、河川改修のため大きく削られて、社殿も東に移動し、以前の面影は無くなったそうである。
住吉大社の神職であった真弓常忠氏の本によれば、昔は、清流であった蘇我川で、潔斎して旅装を祭服にあらためたそうで、この川を「装束川」、社を「装束の宮」と呼んだらしい。
この元「雲梯神社」は「伊勢」、「住吉」、「紀伊」、「大倭」と並ぶ大社であって、「高市座鴨事代主神社(たけちにいますかもことしろぬしじんじゃ)」だったそうである。

河俣神社で 「事代主」に許しを願う「埴使」 (真弓常忠著 「天香山と畝火山」より)
ここで、「埴使」は「事代主」に「大和の国の畝傍山の埴土を採ることの許しを請う」祝詞を奏上する。
◎ 畝傍山口神社
畝傍山口神社
その後、一行は畝傍山の麓にある「畝傍山口神社」に向かう。
この神社は、「住吉大社」と同じ祭神である「神功皇后」「豊受姫尊」「表筒男尊」を祭る。
昭和15年まで畝傍山頂にあったが、「橿原神宮」を見下ろすのは、けしからぬと言うことで、現在地に遷宮した。
この元山頂にあった神社の社殿が「河俣神社」の社殿として使われているそうである。
道理で河俣神社の社殿が立派なわけである。
「武内宿禰」の子孫と伝えられる「大谷氏」が歴代宮司を務める。
この神社は元々、山腹にあって「大山祇(おおやまつみ)」を祭る神社であったそうだが、途中から「住吉三神」を祭るようになり、山頂に移ったそうである。
「大谷宮司」に迎えられた一行は、神社で祭礼を行った後、山頂へ向かう。
山頂の一角で「埴土」の採取をおこなうが、大谷宮司によれば、「これは不思議な土で、小さな団塊になっている」そうである。一説にはコガネムシ科の昆虫の糞とも言われているそうである。
なぜ、古事記・日本書紀に出てくる「天香山」の埴土でないのか伺うと、住吉大社に伝わる秘蔵書「住吉大社神代記」によれば、日本書紀と同じ「天香山」の埴土だったとある。
それなら、いつから「畝傍山」に替ったのか、あるいは、始めから「畝傍山」だったのか、全く分からないそうである。
しかし、それより、この畝傍山の「埴土」が近年少なくなっており、この古くからの行事が続けられるか、心配だと言われる。
千年以上途切れることなく、大和の片隅で密かに続けられて来た行事であり、河俣神社の総代さんの言うように、
「誇りをもって、後世まで守り続けていきたい」ものである。
畝傍山口神社のなぞ
最後に疑問を呈して置きたいことは、大和の中枢の大和三山一つである畝傍山の「山口神社」になぜ「住吉の神」が祀られているのかである。
三山の一つ耳成山にも中腹に「山口神社」があり、そこには古くからの山の神である「大山祇」が祀られている。
畝傍山も大谷宮司さんの説明では、元々、神社は中腹にあって、「大山祇」を祀っていたそうであるが、途中から現在の「住吉の神」を山頂で祀るように変わったそうである。
しかも、主神は「神功皇后」であり、神社には、「神功皇后絵巻」が残されているとのことである。
大和の中枢の畝傍山において、なぜ「神功皇后」が祀られ、住吉大社の「埴使い」行事が千年以上に亘り続いているのか、その歴史的な意味は何か、大きな謎である。
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