2 、 臨 死 体 験 、 前 世 療 法 

 

 

   仏 教 と 他 宗 教 

 

世の中には、キリスト教、イスラム教をはじめ、様々な宗教が存在(氾濫)していますが、三世に渡る因果(原因と結果の密接な相関関係)を説いている宗教は仏教以外には見当たりません。また新興宗教の中にはこの因果の理法を説いているものもありますが、仏教からその義を盗み、本尊もいい加減なもので、営利目的である事は明らかです。(なお以下の他宗教の概要については、小室直樹著の『日本人のための宗教原論』/徳間書房を参考にさせていただきました。)

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、天地を創造した全知全能遍在の人格的唯一絶対の人格神を実在する「神」とし、ユダヤ教のヤハウェが収束してキリスト教に伝え、それはまたイスラム教のアッラ−ともなりました。

そしてキリスト教はその神をイエス=キリストとして崇拝し、それをただ信じるだけで救われると説いています。

またユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、神が啓示したまえる啓典(最高啓典)を持つ啓典宗教です。ですからこれらの啓典(ユダヤ教の『ト−ラ−』、キリスト教の『福音書』(聖書)、イスラム教の『コ−ラン』)に書かれていることが神の絶対の教えになります。

つまりこれらの宗教の根底にあるものは、人格を持った「神」が存在し、その神が全てを創造したとされていることです。

ところが仏教でいう「仏」とは、この「神」とは根本的な違いがあります。それは、絶対的なものは久遠の昔から大宇宙に存在する真理や法則といった「法」であり、その法を覚知した(悟った)人が「仏陀」(悟りを開いた人)とよばれ「仏」と言われるのです。

つまり久遠の昔から存在するのは「神」ではなく「法」であり、その「法」を悟った人が「仏」となったのです。ですから「法前仏後」となるわけです。したがって、仏とはインドで誕生した釈尊だけでなく、それ以前にも存在していたことが経典に説かれています。

ただし「仏」となる人は、久遠の昔から何世にもわたる厳しい修業や徳を積み重ねてきて法を悟った人なのだと説かれています。

それに対してキリスト教などの説く「神」は、はじめに神が実在していて、後から他の全ての実在するものを創造したのであり、それは人間などの命あるものや「法」までもを含むとされています。ですから「神前法後」となります。

違いを要約すると、仏教は、「法」が聖人・賢人(仏)が悟ろうが悟るまいが厳然として存在していると説いているのに対して、キリスト教などは、「神」が「法」を含めた大宇宙の全ての天地を創造したと説いている事です。 

両者のもう一つの大きな違いは、仏教は、業因業果・因果応報、すなわち三世に渡る因果の理法(因果関係)を徹底して説いている因果説に対して、特にキリスト教は、原因に関係なく結果があると説いている事です。結果は全て神が一方的に決めていて、全ては必ずそのとおりの結果になるという予定説です。

言い方を変えると、そうなった原因は神の意志によるものであり、それが結果であるというものです。

例えばある児童がいじめにあったとします。その原因を究明すると、仏教ではその児童がいじめにあう何らかの原因(その前にいじめた側の児童の悪口を言っていたとか、教師自身がからかっていたとか)があったからだとされます。それに対してキリスト教では、全知全能遍在の人格的唯一絶対の人格神である「神」がそうなるように決めたからだという、神の意志が原因となります。

例えばある人間が不治の病で死んだとします。その原因を究明すると、仏教では過去世においてその人間が行った悪業により、悪因がその人の命(第八識=アラヤ識))に刻み込まれ、それが今世の定業となって不治の病を引き起こした事にあるとなります。それに対してキリスト教では、全知全能遍在の人格的唯一絶対の人格神である「神」がそうなるように決めたからだという、神の意志が原因となります。また神は何故、何のためにそう決めたのかは神のみぞ知るところであり、その下部である人間の知らしむべきことではないのです。

両者には「法前仏後」VS「神前法後」、「因果説」VS「予定説」という教義の根本的な違いがあります。