4 、 仏 法 を 学 ぶ

 

 

          苦 集 滅 道 の 四 諦 

 

釈尊成道後二十一日間、菩提樹下で十方から集まった諸菩薩に対して華厳経を説きました。次いで波羅奈国の鹿野苑に行き、苦行を共にした五人の比丘に四諦・八正道を説いて教化し、最初の弟子としました。これが仏の初転法輪です。法華経化城喩品にも、この四諦や十二因縁の文が見られます。

 

苦 集 滅 道 の 四 諦 と 十 二 因 縁 の 法

 

是れ苦、是れ苦の集、是れ苦の滅、是れ苦滅の道なり。及び廣く十二因縁の法を説きたもう無明は行に縁たり。

行は識に縁たり。識は名色に縁たり。名色は六入に縁たり。六入は触に縁たり。触は受に縁たり。受は愛に縁たり。愛は取に縁たり。取は有に縁たり。有は生に縁たり。生は老死、憂悲、苦悩に縁たり。無明滅すれば則ち行滅す。行滅すれば則ち識滅す。識行滅すれば則ち名色滅す。名色滅すれば則ち六入滅す。六入滅すれば則ち触滅す。触滅すれば則ち受滅す。受滅すれば則ち愛滅す。愛滅すれば則ち取滅す。取滅すれば則ち有滅す。有滅すれば則ち生滅す。生滅すれば則ち老死、憂悲、苦悩滅す。

 

「是れ苦、是れ苦の集、是れ苦の滅、是苦滅の道なり。」は苦諦、集諦、滅諦、道諦の四つをいい「四諦の法門」(四つの真理)ともいいます。また十二因縁(無明、行、識、名色、六入、触、受、愛、取、有、生、老死)を説いています。

 

1、「苦諦」とは、人生の苦についての真理で、この世のあらゆる肉体的・精神的要素はすべてが苦であるという「一切皆苦」の真理です。そして基本的な苦として四つの苦を示しました。それが「生・老・病・死」の四苦です。

「四門遊出」でも触れましたが、「生苦」とは母の胎内より生まれ出ずる苦しみです。凡人には覚えがありませんが、仏典では苦であると説かれています。

「老苦」とは、老いていくことの苦しみです。

「病苦」とは、病にかかることの苦しみです。

「死苦」とは、死に行くこと、死への恐怖、死ぬことの苦しみです。これにさらに四苦

「愛別離苦」(愛する人、親しい人との生き別れや死別の悲しみ)、

「怨憎会苦」(恨みや憎しみのある相手と会う苦しみ)、

「求不得苦」(物欲、性欲、名誉、権力、富、肩書き、生命的欲求、異性への想い等々際限のない欲求が満たされない苦しみ)、

「五陰盛苦」(自分の意志に反して心身が思うにまかせない苦しみで、これまでの七苦を合わせ持つ苦しみ)が加わり、これらを総称して「四苦八苦」と言います。

なお五陰とは「色」(物質的な肉体)、「受」(感 覚・知覚・印象などを受け入れて感じる作用)、「想」(受け入れた感覚を思い出す作用)、「行」(思いを行動で表すこと)、「識」(認識し識別する作用)で、人間の五つの要素を表し五蘊ともいいます。

この「五陰盛苦」は異性との恋愛を思い浮かべてみると分かりやすいかも知れません。

 

五 陰 盛 苦

 

1、最初にある一人の異性と出会います。(色)

↓ 

2、次にその異性を見て「素敵な人だな」と感じます。(受)

↓ 

3、その異性の表情や声やしぐさなど感じたことを様々に思い出していきます。()

↓ 

4さらにもっと話したい、一緒にいたい、付き合いたいとアプロ−チします。()

↓ 

5やがて自分にとってなくてはならない存在となり強い恋愛感情を意識します。()

 

しかしたいていの人は苦しい片思いが続き、失恋して悲嘆して終ります。これは「求不得苦」「愛別離苦」「五陰盛苦」の三つの苦しみが同時に味わえる例と言えるでしょう。

またこの恋愛が成就したとしても、いつかは「愛別離苦」の時がやって来ます。いずれにしても「一切皆苦」の真理からは逃れられません。

三諦の中の空の一面を説く般若心経にも、「・・・・照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。・・・・」【・・・・五蘊は皆空であることを照見し、一切の苦厄を克服する。舎利子よ。存在は空に異ならず、空は存在に異ならず。受、想、行、識もまたかくの如し。・・・・】とこの五蘊のことが出てきます。

2、「集諦」とは、苦の原因についての真理であり、その原因は渇愛などの煩悩です。

 

3、「滅諦」とは、苦の原因を滅する真理であり、それは煩悩を断つことであり、それによって苦はすべて消滅するという境地です。

 

4、「道諦」とは、苦の原因を滅する方法についての真理であり、それは煩悩を断つための八つの正しい修業の道のことで「八正道」といいます。

●正見(正しい目でものごとを見る。偏見や固定観念を持たない。)

●正思惟(ものごとの道理を正しく考える)

●正語(お世辞や嘘、非難や悪口を言わない)

●正業(殺生、盗み、淫行、飲酒、詐欺等の悪事をせず、つねに正しい行いをする)

●正命(正しい生活を送る)

●正精進(悟りに向かってつねに正しい努力をする)

●正念(邪念を捨てて正見を行よう努力する)

●正定(精神を集中し、瞑想によって心を安定させる)

 

以上八つの修業によって人生の苦悩から離れ、悟りが得られると説いています。

 

四 諦 の 法 門

 

     苦諦【苦についての真理】 現実の世界はすべてが苦である(四苦八苦)

1、生(生まれることの苦しみ)

2、老(老いることの苦しみ)

3、病(病にかかることの苦しみ)

4、死(死ぬことの苦しみ)

5、愛別離苦(愛しい者との別れの苦しみ)

6、恨憎会苦(恨み憎しむ者と会う苦しみ

7、求不得苦(求めても手に入らない苦しみ)

8、五陰盛苦(心身がどうにもならない苦しみ)

○ 集諦【苦の原因についての真理】 苦の原因はすべて煩悩から生じている

 

○ 滅諦【苦の原因を滅する真理】 苦の原因を滅するには煩悩を断てばよい

 

     道諦【苦の原因を滅する方法についての真理(正八道)】

1、正見(正しい見解)

2、正思惟(正しい考え)

3、正語(正しい言葉)

4、正業(正しい行い)

5、正命(正しい生活)

6、正精進(正しい努力)

7、正念(正しい記憶)

8、正定(正しい注意)

ただし道諦(八正道)等は方便経の教えですから、正しい修業法ではありません。

 

 

          病 の 苦 し み 

 

「病の苦しみ」で思い出すのは、以前に少し触れたように、2年程前の盛夏の時期に、JRの山手線の車中で体験した出来事でした。

急に腰に痛みを覚え、その痛みが徐々に増してきて、つり革につかまっているのもしんどくなり、そのうちに吐き気まで催してきたのです。

突然の出来事で、いったい自分の体に何が起きたのか分からず、ただこのままでは車中で嘔吐し、倒れ込んでしまうであろうことは予想出来ました。何とか次の停車駅(新宿駅)まではと必死でこらえ、ようやく開いたドアからホ−ムに降りて、すぐ近くにあった売店の影に座り込み、それに気付いた通りがかりの人に、駅員を呼んでもらうようにお願いしました。

腰の激痛のために息をするのもしんどく、目を開けることも立つことも出来ず、しゃべることもやっとの青色吐息の状態になりました。結局このときは救急車を手配してもらい、新宿駅の山手線のホ−ムから、東京医科大学付属病院に搬送されて入院してしまいました。

検査の結果、病名は尿管結石というでした。時間と共に激痛は増し、痛み止めの薬が効いてくるまでの間は

「刃物で腰を刺されたら、こんな風に痛いのだろうな」と思いつつ、

「この痛みを何とかしてほしい、このままでは死んだ方が楽だ!」と正直思いました。

わずか数ミリの石のために、突然七転八倒の目にあったのですから、病の苦しみは突然やって来る場合があり、しかも耐えがたい痛みを伴うものであることを知らされました。

息も出来ないほどの激痛が数時間も続き、病の苦しみ(激痛)は、生きていること自体が地獄の苦しみになることを、わずか数時間ではありましたが身をもって体験しました。

それから2年後に再び尿管結石が起こり、

「あの苦しみを再び味わうのか」と覚悟を決めて、入院のための着替えまで用意して救急車に乗ったのですが、わずか一回の点滴で、それも点滴を始めて約20分後には痛みがおさまり、4時間で帰宅したことは先に書いたとおりです。

帰宅後は、この病院でもらった薬(痛み止めと利尿剤)と水分補給とで、その後は再度の痛みもなく、今に至っています。めったに病気にならない自分にとっては、この尿管結石がたいそうな病気(重病)に思えました。

しかし「夜回り先生」で紹介した愛ちゃんの場合のように、モルヒネを使わなくては痛みが収まらない病気にかかり、私の場合など及びもつかない激痛で、地獄の苦しみだったであろうことは想像できました。

日蓮大聖人はこうした病の因縁について、経文等を引用しながら次のようにお説きになっています。

 

病 の 起 る 六 つ の 因 縁 【太田入道殿御返事より】

 

○止観の第八に云く「病の起る因縁を明すに六有り、一には四大順ならざる故に病む(気候不順)・二には飲食節ならざる故に病む(暴飲暴食)・三には坐禅調わざる故に病む(不規則な生活)・四には鬼便りを得る(ウィルス等の伝染病)・五には魔の所為(三障四魔)・六には業の起るが故に病む(業病)」

○妙法蓮華経の第七に云「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば病即ち消滅して不老不死ならん」云々

○止観に云く「法華能く治す復称して妙と為す」云々

○妙楽云く「治し難きを治す所以に妙と称す」云々

○御病を勘うるに六病を出でず、其の中の五病はしばらく之を置く、第六の業病最も治し難し、はた又業病に軽き有り重き有りて多少定まらず、就中・法華誹謗の業病最第一なり(中略)但し釈尊一仏の妙経の良薬に限って之を治す、法華経に云く上の如し、大涅槃経に法華経を指して云く「若し是の正法を毀謗するも能く自ら改悔し還りて正法に帰すること有れば乃至此の正法を除いて更に救護すること無し是の故に正法に還帰すべし」云々

○大涅槃経に云く「世に三人の其の病治し難き有り一には大乗を謗ず・二には五逆罪三には一闡提是くの如き三病は・世の中の極重なり」云々

 

業病により現世を終える人々は数多くおります。

私のすぐ上の兄は、50歳で肺癌にかかっていることが判明してから、半年後には亡くなりました。

抗ガン剤など薬物治療や放射線治療を、治癒することを信じて、医者の言うがままに行いました。亡くなる二週間前には、私たち見舞客を病院の玄関先まで歩いて見送った程、体力が有ったにもかかわらず、あっけなく亡くなってしまいました。

もしかしたら、癌による痛みを緩和するなどの対応で、あとは癌と共存しながら終末医療を受けていた方が、もっと長生きできたかもしれないと思っています。また生前の兄は、法華経や日蓮大聖人の書物を読んでいて、「日蓮(大聖人)はすごい人だ」と密かに尊敬していたそうです。(このことは通夜の席で兄嫁から初めて聞かされました。)

『定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す』

『正法を除いて更に救護すること無し是の故に正法に還帰すべし』

『此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり』と、如来秘密神通之力の妙法(御本尊)を受持し、「信」を選択していれば、心穏やかに闘病生活をおくり、さらに癌の治癒を含めて、延命できた可能性が大きかったと思っています。

法華経普賢菩薩品

『若し自ら病有らば人の救護すること無く、設い良薬を服するとも而も復増劇せん』と法華経誹謗(不信)の果報を説いています。

国立の大学院まで出た兄はどちらかというと学研肌でしたが、最後まで妙法(御本尊)に“信”を持つことはありませんでした。

『佛の成就したまえる所は、第一稀有難解の法なり。唯佛と佛とのみ、乃し諸法の實相を究尽したまえり』(法華経方便品第二)

『此の法華経、最も難信難解なり』(法華経法師品)

『舎利弗、尚此の經に於ては、信を以て入ることを得たり、況んや余の声聞も、佛語を信ずるが故に、此の經に随順す、己が智分に非ず』(法華経譬喩品第三)

と経文にあるように、釈尊の弟子の中でも智慧第一とされていた舎利弗でさえ、自らの智慧によってではなく、仏の正しい教えを信じることによって、はじめて悟りを得ることがてきたと説かれています。

日蓮大聖人は、

 

仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ(四信五品抄)

 

と仰せられています。

すなわち末法においては、三学のうちの戒(防非止悪の教え)・定(心の散乱を防ぐ法)の二法を制止して、ただ慧(煩悩を断じて迷妄の心を破す智慧)を得るための修業にかぎるとされています。そしてこの智慧を得ることは非常に困難であるために、「信」をもって慧の修業に代えるという「以信代慧」の法門を示されました。

さらに大聖人は、末法の衆生が成仏を得るための具体的な方法として、

 

信の一字を以て妙覚の種子と定めたり。今日蓮の類(たぐい)南無妙法蓮華経と信受領納する故に無上宝聚不求自得の大宝珠を得るなり。信は智慧の種なり、不信は堕獄の因なり(御義口伝)

 

と、信の一字を成仏の種子とし、南無妙法蓮華経を信受するところに、求めずして無上の宝(即身成仏)を得ることができると教示されています。

すなわち、「以信代慧」とは、どのような凡夫であっても三大秘法の御本尊を信じ行ずることによって、成仏の境界に至ることを教えられたものなのです。

正法を“信じる”ことが最も肝要であり、正法“不信”こそが謗法であり、堕地獄の因縁なのだということを、釈尊も大聖人も繰り返し繰り返しお説きになっているのです。私の兄の場合も、この“不信”の代償はあまりにも大きかったと、残念でなりませんでした。

 

 

          愛 別 離 苦 

 

最近ですが「愛別離苦」(愛しい者との別れの苦しみ)の故に、自ら命を絶ってしまった事件を耳にしました。それは2005年4月25日にJR福知山線で起きた兵庫県尼崎市での脱線事故で、乗客ら

107名の人命が失われた大惨事に関連するものでした。

事故の原因はJR西日本が、営利優先で過密ダイヤを組み、スピ−ド超過を制御する等の安全設備類の予算は低く押さえ、乗務員に対しては罰則をもって運行時間を厳守させる経営体質の中で、起きるべくして起きた大惨事でした。その事故から1年半ほど経過した2006年10月に、一人の女性がビルから投身自殺をしました。それはこの事故で恋人を殺され、後に残された女性が起したものでした。

遺書には恋人を奪われた絶望感と、その恋人を奪ったJR西日本に対する怒りが記してありました。

この女性の心情は、生きていること自体が地獄の苦しみではなかったかと、察するに余りありました。来世で二人は再び結ばれて、今度は共に白髪まで添い遂げてほしいと願わずにはいられません。

日蓮大聖人は、

 

○人の身には左右のかたあり、このかたに二つの神おはします一をば同名・二をば同生と申す、此の二つの神は梵天・帝釈・日月の人をまほらせんがために母の腹の内に入りしよりこのかた一生をわるまで影のごとく眼のごとく・つき随いて候が・・・・・(四条金吾殿女房御返事)

○人には必ず二つの天・影のごとくにそいて候、所謂一をば同生天と云い二をば同名天と申す左右の肩にそひて人を守護すれば、失なき者をば天もあやまつ事なし・況や善人におひてをや、されば妙楽大師のたまはく「必ず心の固きに仮(よ)りて神の守り則ち強し」等云々、人の心かたければ神のまほり必ずつよしとこと候へ、・・・・其の時は弥弥(いよいよ)十羅刹女の御まほりも・つよかるべしと・おぼすべし(己御前御消息)

 

とありますが、この人の左右の肩に添う同名天・同生天の二神(具生天)につていは、経文にも説かれており、世間で聞く守護神・守護霊・背後霊等に当たるものと思われます。

この二神(守護神)は、「梵天・帝釈・日月が遣わし、また十羅刹女がお守りする」とあり、これらは法華経で説かれているとおり、法華経(正法)を保つ者を守護する諸天善神です。

法華経において、

 

諸 天 善 神 の 守 護 の 誓 い

 

  ○諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す(法華経安楽行品第十四)

○若し人惡、刀杖及び瓦石を加えんと欲せば、則ち変化の人を遣して、之が為に衛護となさん(法華経法師品第十)

○世尊の勅(みことのり)の如く当に具(つぶさ)に奉行すべし(法華経嘱累品)

 

と説かれ、法華経によって成仏することができた諸天善神(大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王・天照大神・八幡大菩薩・十羅刹女等の善神)が、法華経の行者を守護することを誓っています。ですから、「失なき者」「善人」、つまり正法(御本尊)を保ち、

「人の心かたければ(信心が強ければ)」、「神のまほり必ずつよし」となるのです。大聖人は、

 

○一乗妙法蓮華経は諸仏正覚の極理、諸天善神の威食なり

○当に知るべし、日月天の四天下をめぐり給ふは仏法の力なり。(中略)劣なる経を食しましまして尚四天下をめぐり給ふ。何に況んや、法華経の醍醐の甘味を嘗(な)めさせ給はんをや(四条金吾金吾釈迦仏供養事)

 

と述べられているように、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える題目は、諸天善神の法味(威光勢力を増す食べ物)となり、その勢力は倍増すると御教示されています。

そして当然の事ながら、諸天善神が遣わす、いわば家臣である同名天・同生天の二神(具生天・守護神)の力も増すというわけです。

なお大御本尊の当体は、法華経の会座である霊鷲山の儀式をそのままうつされたものであり、

「霊山の一会儼然(げんぜん)として未だ散らず」といって、法華経霊鷲山の会座が今なお厳然として無くならず常住していることを、事の上に著わされた大御本尊です。

したがってこの大御本尊を拝むことは、霊鷲山の儀式の再現となり、この会座で誓いを立てた諸天善神が、大御本尊を信じる者を守護することは自明になります。

大聖人は『立正安国論』で、

 

立 正 安 国 論 よ り

 

○世皆正(正法)に背き人悉く悪(邪法)に帰す、故に善神(諸天善神)は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る

○多く仏教に迷えり、傍(邪法)を好んで正(正法)を忘る善神怒りを為さざらんや円(正法)を捨てて偏(邪法)を好む悪鬼便りを得ざらんや

○須(すべから)く凶(邪法)を捨てて善(正法)に帰し源を塞ぎ根を截(たつ)べし

 

と、正法に背き、「悪」・「傍」・「偏」・「凶」である邪法に縁すれば、諸天善神は所を去り、そこに「魔」・「悪鬼」が入れ替わり「災起り難起る」と仰せになっています。現世でも邪法に縁していれば、諸天善神をはじめ、左右の肩に添う同名天・同生天の二神も去り、災いと難の元である魔や悪鬼が入れ替わり不幸や苦悩を招くことになります。

107名の犠牲者の中に、正法護持の人が一人もいなかったという事実があります。来世で二人が再び結ばれて、今度は共に白髪まで添い遂げるには、残された遺族の方が正法に帰依して、その大善によって遺族の方自身が成仏し、その功徳をもって故人を成仏させるしかありません。

これは釈尊の弟子で神通第一といわれた目連が、慳貪の罪によって餓鬼道に堕ちて苦しむ母を、神通力では救えず、法華経(正法)を信じた功徳によって救ったことによります。

末法の今日、災いや難を避け、現世安穏・後生善処の生涯をおくるには、「凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根をたつ」こと以外にはありません。邪な宗教(邪宗)の本尊やお守り、家内安全や厄除けのお札等々は、じつは災難を招き寄せる“魔札”であり“鬼札”であることを知るべきです。

末法の人々は、こうした“魔札”は安易に入手しますが、正法の“御本尊”になると、不思議にも正法の信仰を妨げようとする三障四魔という働きが、自身の胸中や周囲の人達から競い起こり、信仰することができなくなります。

しかし三障四魔も、結局は御本尊に対する“不信”(元品の無明)が根源になりますから、最後は、「以信得入」(信を以て入るを得たり)「以信代慧」(信を以て智慧に代える)の法門のごとく、“信”が決定的に重要になります。ですからたとえ「半信半疑」であったとしても、“信”があれば、三障四魔は乗り越えられるのです。

 

今ここにイラク英兵の最後の恋文(新聞記事)があります。若い英国人兵士が戦場に赴く前に、婚約者に残していた手紙です。

「もしもぼくが死んだら、開封して読んでほしい」

と託しておいたものでした。この若い兵士(22歳)はイラク南部の町を巡回活動中に銃撃を受け亡くなりました。

 

イ ラ ク 英 兵 の 最 後 の 恋 文 (要旨)【毎日新聞の記事り】

 

なぜ、ぼくはこの手紙を書いているのだろう。君には絶対にこの手紙を読んでほしくない。だって、読むということは、ぼくが死んだということなのだから。

君は愛がどういうもので、愛されるとどういう気持ちになるか、ぼくに教えてくれた。いかに生き、本当の幸せのためにはどうあるべきかを教えてくれた。

神様がぼくらをこの地上で引き合わせてくれたのだと思う。

ぼくのベッドの頭の上には、君の写真をはっていた。毎晩、口づけしたぼくの指で君の顔をなで、君に見守られながら眠りにつく。今度はぼくが、夢の中でも君が安らかでいられるように君を見守ってあげる番だね。

さびしい時はいつだって、そっと目を閉じてごらん。ぼくは君のすぐそばにいる。

ぼくは全身全霊で君を愛した。君はぼくのすべてだった。    永遠の愛を。リ−

 

善良な若者が最愛の人を残して、何故逝ってしまわなければならないのか。婚約者は何故このような悲しい出来事を受け入れなければならないのか。

この世に生を受けるということが、幸せを感じるためではなく、苦しみを感じるためだとしたら、何とこの世は悲しいのだろうと、この手紙を読んで思いました。

釈尊は、この世のあらゆる肉体的・精神的要素はすべてが苦であるという一切皆苦の真理である「苦諦」(生・老・病・死・愛別離苦・恨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四苦八苦)を説きました。しかし釈尊は涅槃に入る前に、弟子のア−ナンダに、

「ア−ナンダよ、この世はこよなく美しい。この世界も、人生も美しい。」

と語りかけます。

そのためにも、最後の八年間、そう感じることのできる道(法)があることをお説きになりました。

五濁悪世である末法の世に生きる私たちは、この真理と正面から向き合い、その苦を克服していく道(法)を素直に信じ、行じていくことが大切ではないかと思います。

釈尊は法華経でこうした衆生の一切皆苦を救う法を示され、末法では上行菩薩(御本仏日蓮大聖人)に託されたのですから、これほど心強いことはないと思います。

 

衆 生 の 一 切 皆 苦 を 救 う 法 【斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す】

 

○我は為れ衆生の父なり。その苦難を抜き、無量無辺の佛智慧の楽を与え、其れをして遊戯せしむべし(法華経薬草喩品)

○是の諸の衆生、是の法を聞き已って現世安穏にして後に善処に生じ、道を以って楽を受け、亦法を聞くことを得。(法華経薬草喩品)

○経に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と此の文の心よくよく案じさせ給へ、斯人行世間の五の文字は上行菩薩・末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり(寂日房御書)

○此の菩薩は本法所持の人なり本法とは南無妙法蓮華経なり、此の題目は必ず地誦の所持の物にして迹化の菩薩の所持に非ず(略)此の本法を所持するは信の一字なり元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑日信の釈之を思う可し(御義口伝上)

 

 

          三 世 両 重 の 十 二 因 縁

 

「苦集滅道の四諦」のところでも触れた「十二因縁」について、ここで詳細に記したいと思います。 

 

過去世の二因 1、無明: 倶舎に云く「宿惑の位は無明(煩悩)なり」/我々の生命が元々もっている煩悩のこと。

2、 行: 倶舎に云く「むかしの諸業を行と名く」/その煩悩によって過去世で自ら作ったそれぞれの宿業(善業、悪業)のこと。

現在の五果  3、 識: 倶舎に云く「識とは正しく生を結する蘊(おん)なり」/過去世の二因によって、現在の母親を定めてその体内に入る五蘊(色、受、想、行、識という人間の五つの要素)の          こと(五陰ともいう)。受胎すること。

4、名色: 倶舎に云く「六処(眼・耳・鼻・舌・身・意の六根)の前は名色なり」/胎内で心身が発育しはじめた状態。

5、 六処: 倶舎に云く「眼等の根を生ずるより三和の前は六処なり」/心身に六根がすべてがそろった状態。

6、 触: 倶舎に云く「三受の因の異なるに於て未だ了知せざるを触と名く」/生まれたばかりで、分別がないまま物に触れて感ずるだけの状態のこと。

7、       受: 倶舎に云く「婬愛の前に在るは受なり」/寒熱を知って未だ婬欲を発っしない時/やや成長し、苦・楽などを識別して感受する状態のこと。

現在の三因  8、  愛:  倶舎に云く「資具と婬とを貪るは愛なり」/異性を愛して 婬欲等を発すること/さらに成長して、事物や異性に愛欲を感ずる段階のこと。

9、  取:  倶舎に云く「諸の境界を得んが為に遍く駆求するを取と名く」/成人して、他人のものを貪り取る時/成人して、物事に貪欲すること。

10、 有:  倶舎に云く「有は謂く正しく能く当有の果を牽く業を造る」/未来も又このように生を受けるべき業をつくる/愛や取などの現在の因により、未来世の果を定めること。               

未来の両果  11、 生:  倶舎に云く「当の有を結するを生と名く」/未来に正しく生を受けて母の腹に入る時をいう/未来世に生を受けること

12       老死:  倶舎に云く「当の受に至るまでは老死なり」/生老死を受けることを老死憂悲苦悩ともいう/未来世において、年老い、死ぬこと。

 

私たちの生命は、こうように過去の二因(無明、行)→現在の五果(識、名色、六処、触、受)→現在の三因(愛、取、有)→未来の両果(老死憂悲苦悩)という十二の因縁が三世にわたって連鎖しながら、生死の海を流転していくことになります。

したがって老死憂悲苦悩はすべて煩悩(無明)から生じていることがわかります。しかがって煩悩(無明)を滅すれば老死憂悲苦悩がなくなることがわかります。

ちなみに私は道理に暗く、自己中心的な思考が多く、飲酒は生活習慣病の域に達しており、私の血を吸った蚊や自宅に侵入してきたムカデに対する殺生は、罪悪感すら感じておらず、現世で善業を積むどころか悪業ばかりが積み重なっています。

しかも精神は散漫で浮ついており、苦集滅道によって煩悩(無明)を滅して、老死、憂悲、苦悩を滅する(四苦八苦を離れる)事など、凡人の自分にはとうてい不可能なことだと思っています。

ところでこうした教えは、法華経の序文である無量義経では

 

四 十 余 年 未 顕 真 実

 

諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。

 

と説かれ、また法華経方便品では

 

○世尊は法久しうして後かならずまさに真実を説きたもうべし

○諸の菩薩の中に於て正直に方便を捨てて但無上道を説く

 

と説かれ、法華経を説く以前の説法は全て方便であり、法華経において諸佛の秘要である真実最高の教えを説くと言っています。

ですから四諦の法門や十二因縁も小乗経に属する方便の教えになります。したがって法華経が説かれるまでの方便経は、不真実の経といえます。しかし法華経が説かれたうえは、それ以前の方便経はその意味が明らかとなり、諸経は法華経の中に会入されます。

つまり法華経が説かれたあとの方便経は、法華経の真理を説き示す経となります。したがって法華経の真実から引用される場合の方便経は、不真実とはなりません。

小乗経の教えである四諦の法門や十二因縁の基である煩悩(元本の無明)は、末法においては、正八道や以下で示す六波羅蜜の修業ではなく、妙法(御本尊)の信行によって、初めて克服できることが明らかになるのです。

 

 

          六 波 羅 蜜 

 

釈尊が説いた随自意である深遠な究極の真理(妙法)は、四十余年にわたって説き続けてきた随他意の説法である方便(権教)による化導を終えられ、七十二歳から八年間にわたって霊鷲山、虚空会の二処三会で説かれた法華経によって、ついに本懐を遂げます。

そしてこの法華経において、末法五濁の人々の重病を治す大良薬である妙法が、釈尊から上行菩薩(日蓮大聖人)へ付属されることが説かれます。そして末法今日では、日蓮大聖人の妙法(御本尊)への信行学によって、煩悩(無明)を滅して、老死、憂悲、苦悩を滅する煩悩即菩提、生死即涅槃の即身成仏が遂げられることを御教示されています。

日蓮大聖人は御書『諸経と法華経と難易の事』の中で、

 

元 品 の 無 明 を 切 る 利 剣 【元品の無明=煩悩】

 

生死の長夜を照す大燈・元品の無明を切る利剣は此の法門に過ぎざるか随他意とは真言宗・華厳宗等は随他意の易信易解なり仏九界の衆生の意楽に随って説く所の経経を随他意という、譬えば賢父が愚子に随うが如し、仏・仏界に随って説く所の経を随自意という、譬えば聖父が愚子を随えたるが如くなり等云々

 

と説いています。

方便経では六道の世界(地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界)が説かれ、生前の行為によって積まれてきた業によって死後生まれ変わる世界が決まり、それぞれの六道を輪廻していくという輪廻転生の教えがあります。

この輪廻転生は五戒(不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒)を守らなかったことが業の原因となるので、五戒を守ることを定めています。またこの六道輪廻から解脱し、あらゆる苦から解放されるための菩薩の六つの修業法(六波羅蜜)を説いています。

 

六 波 羅 蜜 【菩薩が悟りにいたるための6つの実践法】

 

○布施波羅蜜→あらゆる欲を捨てて、物惜しみせずに施しを行う実践

○持戒波羅蜜→五戒を守る実践

○忍辱波羅蜜→修業中苦難に遭っても耐え忍ぶ実践

○精進波羅蜜→つねに精進して怠けない実践

○禅定波羅蜜→つねに心を平静に保ち精神を集中させる実践

○智慧波羅蜜→道理を完全に理解し悟りへ至る実践

 

しかし六波羅蜜の修業は、方便経で説かれた教えであり、また実際には厳しい歴劫修業が必要であり、凡夫である私たちには到底到達し得ない世界です。

「布施波羅蜜」一つにしても、雪山童子が羅刹に我が身を投じ、因位の釈尊が鳩の身代わりに身を投じた修業を、末法の凡夫がそのまま行じきれるでしょうか。こうした厳しい修業を仏が詳しく説けば、皆怖れて退転してしまう事でしょう。

日蓮大聖人の仏法は、こうした六波羅蜜等の爾前迹門(法華経本門以外)の厳しい歴劫修業を、一行に摂して、

 

妙 法 経 力 即 身 成 仏 の 大 法 【無上宝聚、不求自得】

 

○未だ六波羅蜜を修業することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す

○妙法一粒の良薬に丸せり。豈知るも知らざるも服せん者煩悩の病ひ癒えざるべしや

○南無妙法蓮華経・無上の中の極無上なり、此の妙法を指して無上宝聚と説き給うなり、宝聚とは三世の諸仏の万行万善の諸波羅蜜等の宝を聚めたる南無妙法蓮華経なり、此の無上宝聚を辛労も無く行功も無く一言に受取る信心なり、不求自得とは是なり(御義口伝上)

○釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経法の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ(勧心本尊抄)

 

と、誰にでも行ずることのできる妙法経力即身成仏の大法として、末法の凡夫に御教示されています。

また、釈尊が成仏するために積んだ因行と果徳は、すべて南無妙法蓮華経の御本尊に納まっており、これを受持信行する衆生は、そのまま勧心の悟りを成就して広大深遠な功徳を受けることができると仰せです。法が低ければ修業は厳しくなり、法が高ければ修業は易しくなります。

末法の現世においての正しい修業は、御本尊を受持して自行化他の信心を実践することであり、

「六波羅蜜自然に在前す」

「煩悩の病ひ癒えざるべしや」

「此の無上宝聚を辛労も無く行功も無く一言に受取る信心なり」

との大功徳が得られることを説いています。

 

 

          本 尊 と 感 応 の 理 

 

以前「信仰することによって、自分と信仰との間に『感応』という現象が生じ、全人格に染め込んでいく働きがあります。(中略)ましてや『信仰』とは、字のごとく、手を合わせて礼拝する程に『信じて仰ぐ』行動様式ですから、その影響は自分と信仰とが一体化してしまう程に、ストレ−トに最大限に全人格に強烈に及ぼしていきます。」と書き、またその例として「狐」と「蛇」を対象にした信仰により、それらと感応した人のことも合わせて書きました。

つまり「狐」や「蛇」のように信仰の対象にしたものが「本尊」(根本として尊敬すべきもの)とよばれるもので、人生の根本として信仰・礼拝する対象のことです。そしてこの本尊との感応によって、生活上において様々な現象が生じてくるのです。

上記のように狐や蛇等の畜生を本尊として信仰すれば、それとの感応によって自分自身が畜生と同様の状態になることを意味します。

畜生の持つ利根や通力によって利益を得ることもありますが、最終的には人間としての人格や理性等は失って畜生の生命と同化してしまいます。

本尊の高低・正邪・浅深は、そのまま信ずる者の人格・人生を決定的に左右するほどの影響をもたらします。ですから大切なことは、いかなる本尊を対象として信仰するかという点です。人間より数段劣る畜生を拝むことは無知以外の何ものでもないでしょう。

浄土宗では阿弥陀如来を本尊とし、真言宗では大日如来を本尊とし、キリスト教では十字架上のキリストを本尊とし、各宗教ごとに自宗で立てる本尊を信仰しています。各宗派は爾前権教(方便教)の教えを基にした本尊を立てていますから、架空なものを崇拝し、また正法に背く謗法の行為ともなっています。

宗派によっては本尊を何回も改変するなど、いい加減なところも多数あります。キリスト教は十字架上で惨死した姿のキリスト像と感応しますから、自身の生命も無惨な傾向に染まっていくことでしょう。実に恐ろしいと言わねばなりません。

ところである有名な宗派の本尊は、総本山の寺院では入手できず、なんと門前の仏具店や仏具兼土産物店で平積み販売されていました。根本として尊崇するところの本尊としては、あまりにも粗略な扱いではないかと驚くばかりでした。

日蓮大聖人は、このような宗教界の本尊の乱れに対して

「諸宗は本尊にまどえり」(開目抄)

「本尊とは勝れたるを用うべし」(本尊問答抄)と、本尊の選択こそが最重要であると指摘しています。そして日蓮大聖人は、

「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(草木成仏口決)

「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝)

「日蓮がたまひい(魂)を、すみにそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ」

と、妙法の当体を曼荼羅に表して本尊といたしました。

弘安二年十月十二日に顕された本門戒壇の大御本尊(一大秘法)が、その根本の本尊に当たります。この御本尊を根本として信仰・礼拝することにより、御本尊と感応して常・楽・我・浄の仏界が湧現し、過去世からの悪業を転換(「転重軽受の法門」)して、現世安穏・後生善処の大功徳が得られることが説かれています。

 

 

          仏 教 で 説 く 人 間 の 意 識 : 六 識 

 

人間の体は五蘊(色、受、想、行、識)から構成されていますが、外界の出来事を認識する入口は五カ所しか有りません。レストランでの食事場面を例に取るとします。テ−ブルの上にはおいしそうな食事が並べられ、館内の照明も落ち着いています。これは「眼」という感覚器官で視覚的に認識します。

また食欲をそそるような良い香りがします。これは「鼻」という感覚器官で臭覚的に認識します。

食べ物を口に入れました。得も言われぬようなおいしさで思わず頬がゆるみます。これは「舌」という味覚器官で味覚的に認識します。

レストラン内では落ち着いた雰囲気をかもしだすために、心地よいミュ−ジックが適度な音量で流れています。これは「耳」という感覚器官で聴覚的に認識します。

館内の空調設備は快適で、ほどよい温かさを保っています。また椅子の座り心地は申し分なく、お尻や背もたれのクッションは体を楽に支えてくれています。これは「身」という感覚器官で触角的に認識します。

こうして「眼」「鼻」「舌」「耳」「身」の五つの感覚器官(五感)によって外界を認識し、このレストランでの食事を「心地よいもの」と思考し意識します。これが知覚的な認識で感覚器官は「意」になります。

この「意」の感覚器官(意識)を目から数えて六番目にあたる認識能力ということで六識といいます。これが仏教の認識論の基本となります。

私たちの日常の生活では、この五つの感覚器官(五感)とそれに基づいて認識していく意識によって暮らしています。

なお「六根清浄」とはこの外界を認識するこれら六つの器官を清浄にして、身(六識)を清めるということから来ています。

 

六 識 【外界の出来事を認識する器官】

 

【六根】(感覚能力)【六境】(対象物)      【六識】(認識能力)

●「眼根」(視覚) → 色境 (見えるもの)  → 「眼識」(視覚的認識)

●「耳根」(聴覚) → 声境 (聞こえるもの) → 「耳識」(聴覚的認識)

●「鼻根」(臭覚) → 香境 (香るもの)   → 「鼻識」(臭覚的認識)

●「舌根」(味覚) → 味境 (味のするもの) → 「舌識」(味覚的認識)

●「身根」(触角) → 触境 (触れられるもの)→ 「身識」(触角的認識)

●「意根」(知覚) → 法境 (感覚されるもの)→ 「意識」(知覚的認識)

 

ところでこの六根を清浄するために、日常生活の中で五根(五識)を最上のもので覆ったとします。

例えば日々「眼根」には、目にするもの全てを美しい風景で彩り、「鼻根」には、芳しい草花や白壇・沈香・伽羅等の香りを満ちあふれさせ、「舌根」には、最高の食材を使って最高の料理人が調理した美味を味わい、「耳根」には、心地よい妙なるしらべを四六時中奏で続け、「身根」には、爽やかな風と共に寒暖の感じられない程よい空調の中で身を休めることになれば、その五根(五識)によって得られる「意根」(六識)は、不快とは程遠い清浄で幸福な意識になるのではないかと思われます。

こうした環境を整えることはさほど難しいことでは有りません。例えば美しい自然のあふれる田舎で(眼根)、新鮮な空気を吸い(鼻根)、新鮮な山海の幸を味わい(舌根)、野鳥のしらべ、小川のせせらぎ、枝葉を鳴らす風の音に耳を澄まし(耳根)、露天風呂の温泉にゆったりとつかれば(身根)、それらによって得られる心地(意根)は、最上のものになるでしょう。

こうした生活を日常おくれば「六根清浄」が果たせるのではないかと考えられます。しかし、このような生活を送っていても、煩悩(無明)は生命の内面から泉のごとく尽きることなく湧き出てきます。例えば、いくら恵まれた暮らしをしていても、未来永劫続くことのできない暮らしであることには変わりありません。

有名な「色即是空・空即是色」という般若心経の一文がありますが、形(有)あるものはやがて即ち空(非有)となり、また空はやがては因縁によって即ち有(非空)となることを説いています。

すなわち「有=非空、空=非有」であり「非空=有、非有=空」ともなります。

この有(仮)・空の相対立する概念を双照双非する絶対の立場が中諦の理です。(空仮中の三諦)

またこの空仮中の三諦の理は、生命の本質を示しており、全体が三であり一でもあります。(三諦円融の理)

しかしこの三諦円融の理は仏の悟られた真如実相であって、凡智の測り識るところではありませんが、この三諦を如実に一心において観ずることが空仮中の三観であり、この三諦の妙理を即時に一心の生命として得ることが、一心三観であり、妙法の生命であると説かれています。そしてこの般若心経は、その中の空諦の理を主に説いています。

いずれにしても、老い(有)は必ずやって来て、いつか死(空)を迎えなければなりません。

六根清浄の暮らしをしていても、生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四苦八苦の苦悩から逃れれることは出来ないのです。

後で述べるように見惑・思惑・塵沙惑・無明惑の煩悩は、いくらお金をかけて生活環境を最高のものに整えたとしても、それだけでは断ずる(解決する)ことは残念ながらできないのです。

 

 

          仏 教 で 説 く 人 間 の 意 識 : 七 識 ( マ ナ 識 ) 

 

ところでこの「六識」は、起きている時の日常生活でフル回転していますが、夜間などの睡眠中はその活動を停止します。五つの感覚器官(五識)は睡眠によって停止するので、それに基づいて認識していく六識も停止するのは経験上からも理解できると思います。

「六識」が睡眠等で停止状態になると、それまでどこにも見当たらなかった意識(夢はその一部)が浮上してきます。それが七番目の意識、つまり「七識」です。

この七識は潜在意識とか深層意識とか言われるもので、六識の奥にあるより深い意識に当たります。それだけに非常に強い力を持っており、無意識の内に「六識」及び意識下の行動に影響を及ぼしています。

マインドコントロ−ルや催眠術などは、この「七識」に働きかける行為で、そこに刷り込まれると非常に強い影響を与えてやっかいになります。

そしてこの七識が人間の欲望や執念などの煩悩(我執)の元とされております。この無意識下の七識に煩悩があるのですから、六識で煩悩をコントロ−ルしようとしても次から次ぎへと七識から湧き出てきてしまいます。

ですからいくら「六根清浄」を心がけても、六識を清浄にすることはできないのです。逆に言えば「七識」を清浄にできれば、「六根清浄」も可能になると言えます。

なお「半覚醒状態」と言って、眠りから覚めたばかりで夢の世界を記録している状態があります。この状態の時には想像力が旺盛に働いて、七識の深層心理にある秘めた想像力を引き出すことが可能だと言われています。

発明王のエジソンは、この「半覚醒状態」をよく利用して発明のヒントを得たと言われています。

しかしこの七識もやがてその働きを停止する時がやって来ます。それは死を迎えた時です。しかし六識が眠る(冥伏する)と七識が現れるように、死と同時に七識が眠る(冥伏する)とさらにその深層にある八識が現れることが説かれています

 

 

          仏 教 で 説 く 人 間 の 意 識 : 八 識 ( ア ラ ヤ 識 ) 

 

この八識は色(肉体)を離れた超意識と呼ばれるもので、臨死体験や前世療法で感じられる意識は、この八識に相当するのではないかと思われます。

この七識よりも深いところにある深層意識は「無没識」と言われ、死後も存在し続ける生命体になります。また「一切種子識」とも言われます。

「一切種子識」と言われているのは、人間が生きている間に行ってきた行為が、この八識において、「種子」となって蓄積されていくからです。

「臨終に現われる堕地獄の相」は、この八識に蓄積されていた悪因が一気に発現されることにより、肉体(色)に表れるからだと推察されます。

親殺し、子殺し、その他の殺人、強盗、窃盗、振り込め詐欺、架空請求、お年寄りをねらったリフォ−ム詐欺、暴力、性犯罪等々、凶悪化と悪行の増加は目を覆うばかりです。しかしこうした悪い行為は、「悪い種子」となって八識に蓄積されていきます。また「悪い種子」は七識に悪い影響を与えて煩悩を増大させ、それが六識に働きかけて悪い行為が発現されていきます。

また一切種子識に特に重悪な因(謗法の罪)を刻んでしまった人は、六根にまで影響を及ぼしてしまい、生まれながらにして感覚器官に障害を負ってしまうとも考えられます。

また前世からの「悪い種子」の蓄積が、現世でもこうした行為を発現させていると言えます。また「悪い種子」はそのまま悪因となって十二縁起の輪の中で働いていきます。

善い行為は、逆に「良い種子」となって八識に蓄積され、それによって善行が発現され善因となって十二縁起の輪の中で働いていきます。

つまりこの八識(一切種子識、無没識)によって、因果律に基づく輪廻転生がなされるのです。しかもこの八識には、過去遠々劫という長大な過去世の種子が蓄積されているのですから、生半可なことでは書き換えは不可能なことだと想像できます。しかし釈尊及び日蓮大聖人は、人々の過去の無量の悪業を現世で軽く受け流し、後生を助ける道(法)を説いています。

ところでモ−ツァルトは6歳で作曲を初め、その生涯における作曲数は膨大なものでした。また楽曲は全て頭の中に整理されて納まり、譜面に書き表す時は、ほぼ無修正で仕上げたと言います。この音楽的才能はすでにモ−ツァルトの八識に、過去の無量の音楽的種子が蓄積されていたと考えるほうが合理的ではないでしょうか。そして来世でもこの音楽的種子は引き継がれ、再び若くして音楽的才能を開花させることと思います。

モ−ツァルトの音楽的才能に限らず、源義経の軍事的才能、織田信長の戦略的才能なども、八識に蓄積されていたと考えられます。

 

 

          仏 教 で 説 く 人 間 の 意 識 : 九 識 ( ア マ ラ 識 ) 

 

仏教では、この八識の奥にさらに深い「九識」があると説いています。これが最も根源的な宇宙そのものが持つ究極の超意識であると説いております。

この「九識」は、釈尊や日蓮大聖人といったごくわずかな聖人でしか覚知することができない世界です。

わずかに窺い知れることは、この究極の超意識に存在する法則(妙法)を、久遠元初の仏が覚知されて、それを「南無妙法蓮華経」と名付けられたという事です。

極論すれば「九識」という根源的な超意識に働きかけることで「八識」にある悪種子を善種子に転換し(善種子はより高次の善種子に転換し)、それが「七識」を含めた日常の「六識」に発現されて、煩悩即菩提、生死即涅槃という即身成仏の境涯が得られるということです。

そして「九識」という根源的な超意識に働きかける手段が、日蓮大聖人の御図顕された九識本法の法体である「御本尊」を信じて、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え行じることなのです。

過去遠々劫にわたる長大な過去世の因業を変えることは、この方法でしか出来ません。何故ならば実経である法華経で、過去の悪業の根本原因は、正法(妙法)に対する謗法にあると説かれているのですから、正法(妙法)でしか悪業は変えられないのは自明の理です。

法華経で説かれている

「唯仏と仏とのみ、いまし能く諸法の実相を究尽したまえり」

「如来の秘密神通の力」

「是の好き良薬」

「當に知るべし是の妙法は諸仏の秘要なり」

等々はこの御本尊を示唆しています。

 

妙 法 の 雨 は 九 識 本 法 の 法 体 【第十の仏果より九界へふらす、識分にては八識へふり下りたるなり】

 

○此の妙法の雨は九識本法の法体なり(中略)ふらすと云うは・上より下へふるを云うなり、仍つて従果向因の義なり、仏に約すれば、第十の仏果より九界へふらす、法体にては・ふる処も・ふらす処も、真如の一理なり識分にては八識へふり下りたるなり、然らば今日日蓮等の類い南無妙法蓮華経を日本国の一切衆生の頂上にふらすを法の雨をふらすと云うなり云々。(御講聞書)

○かかる御本尊を全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて、南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、(略)此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり(日女御前御返事)

 

御本尊を受持信行することにより、我れ等衆生の胸中の肉団は九識心王真如の都となり妙法が八識以下に働きかけ、実践困難な仏道修業である正八道や六波羅蜜等を行じなくても、悪業が転換できると説かれています。

 

九 識 心 王 真 如 の 都 【「御本尊への信行」=「九識心王真如の都」】

 

●六識=五感の「五識」とこれを総合して思考する作用を持つ「意識」1「眼識」、2「耳識」、3「鼻識」、4「舌識」、5「身識」、6「意識」

 

●七識(末那識)=マナ識: ・六識の根底に存在する、欲望や執念などの煩悩(我執)の元

・夢はこの深層意識の一部

 

●八識(阿頼耶識)=アラヤ識: ・色(肉体)を離れた超意識で、七識よりもさらに深い深層意識(死後に現れる超意識)

・人間が生きている間に行ってきた行為が、この八識において、「種子」となって蓄積されていく(因果律に基づく輪廻転生の因)

 

●九識(阿摩羅識)=アマラ識: ・最も根源的な宇宙そのものが持つ究極の超意識(清浄無垢な意識)

・九識本法の法体・究極の超意識に存在する法=妙法

・聖人(仏)がこの法則を覚知して「南無妙法蓮華経」と名付ける→久遠よりの成仏の本種子(妙法)

・「妙法(御本尊)への信行」=「九識心王真如の都」

 

九識に存在する法則(妙法)の種(仏種)を受けていた本已有善の人々は、釈尊在世や正法、像法時代において漸全に八識を清浄にすることが可能となり成仏できました。しかし末法は本未有善の人々のために、妙法の種を受けなければ成仏はかないません。

本已有善の人々は病気に譬えると軽症患者といえます。釈尊の仏法で十分に治癒できる人たちです。しかし末法に生まれてくる本未有善の人々は重病患者にあたります。

釈尊の仏法ではその薬の効果は薄く、白法隠没と言ってもはや人々の苦悩を救うことは出来ません。末法には、それに相応しい大良薬(重篤に利く強い良薬)を処方する人が必要になります。そこで成仏するために必要な妙法の本種子(八識「一切種子識、無没識」にある過去世からの法謗による悪因の種を滅する種子)を釈尊から上行菩薩に付属されて、下種といって末法の人々にこの妙法の本種子(九識本法の法体)を植えるように託されたのです。

しかしこれはあくまでも法華経の文上に記された事で、内証は釈尊の師匠にあたる御本仏(久遠の当初に妙法を覚知され、この妙法の本種子を所持されている仏)に末法の下種を託されました。

法華経如来寿量品第十六『我本行菩薩道』【我もと菩薩の道を行じて】とあり、釈尊が五百塵点劫の時に、この妙法を修業したことが説かれています。したがって、この妙法を所持されている仏は、釈尊の師匠にあたる御本仏になります。

この妙法の本種子(九識本法の法体)の下種によって、業の大本である煩悩を直ちに浄化転用して菩提に用うるところが大聖人の下種仏法です。

六根清浄というのは即身成仏と同義です。日蓮大聖人の仏法は、九識本法の法体である妙法(御本尊)への信行により、煩悩即菩提、生死即涅槃の原理によって「不断煩悩、不離五欲」と仰せのように、あえて煩悩を断ずることもなく、五欲を離れることもなく、六根清浄の功徳を得て、その身そのままに凡身が仏身に転じていくことができるのです。

 

 

          六 根 清 浄 

 

仏法では、衆生の苦悩の原因を迷いの生命の根源である煩悩から引き起こされるものと解明しています。その衆生の迷いの生命を浄化し、悪い性を断ち切るという果報が、まさに「六根清浄」の功徳なのです。

この六根が煩悩に覆われていると、外界の事象を正しく認識できないばかりか、それにともなう行動も誤ったものとなり、苦しみの原因を作ることになるのです。

『法華経功徳品第十九』には、法華経受持の功徳によって、六根それぞれに多くの清浄の果報を得ることが明かされています。これを概説すると、以下のようになります。

 

六 根 清 浄 の 功 徳 (法華経功徳品第十九からの概説)

 

○眼根の功徳→すべての事象が明らかに見え物事の因果を正確に知ることができる。

○耳根の功徳→あらゆる音声から、実・不実を聞き分けることができる。

○鼻根の功徳→あらゆる臭いを嗅ぎ分け、分別を誤ることがなくなる。

○舌根の功徳→勝れた味覚を持ち、さらにその声は深妙となり、聞く者を喜ばせる。

○身根の功徳→穏やかで健全な身体となり、外界の刺激に適合させ、自身を処することができる。

○意根の功徳→心は清らかに、頭脳は明晰となり、智慧が深くなる。

 

すなわち、六根清浄とは六根にそなわる煩悩の汚れが払い落とされ、物事を正しく判断できる智慧を得ることをいうのです。

たとえば目が不自由であったとしても、妙法受持の功徳によって、肉眼以上の慧眼・法眼・仏眼を得ることができるのであり、このような功徳は他の五根にもつうじていえることなのです。

日蓮大聖人は、

 

功徳とは六根清浄の果報なり、所謂今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり(御義口伝)

 

と仰せられ、末法の法華経である南無妙法蓮華経を信じ唱える者には、必ず六根清浄の功徳がそなわると御教示されています。

 

 

          煩 悩 

 

一切皆苦の原因となる煩悩については以下のように説かれています。

 

煩 悩 と は 【見惑・思惑・塵沙惑・無明惑】

 

     煩悩とは大別すると見惑・思惑・塵沙惑・無明惑の四つがある。

 

見惑 ⇒  五利使 @身見(我が身について「自我」に堅く執着する思想)   

A辺見(自他の生命を死によって無に帰すと見る断見と死後も霊魂等によって存続するという常見)   

B3邪見(因果の道理を否定する思想)   

C見取見(1〜3に執われて自見を最も勝ると自負するもの)   

D戒禁取見(原因でないものを原因と思い、正道でないものを正道と固執する外道の迷見)  

◆この5つの働きが鋭いところから五利使という       

 

五鈍使 @貧(むさぼる気持ちが強い)煩悩 

A瞋(些細なことでも怒る気持ちが強い) 

B痴(道理を否定し理解しようとしない気持ちが強い) 

C慢(自分が他者よりも優れているという慢心が強い) 

D疑(疑い深く信じる気持ちが薄い) 

◆五利使に関連して貧瞋痴慢疑を起し、その働きが鈍いところから五鈍使という   

 

◎今日の大衆の様々な思想的悪見はすべてこの見惑によって生じている     

 

思惑  ⇒ その体に貧・瞋・痴・慢の四つがある。これは三界(欲界・色  界・無色界)の迷界中の個性にそれぞれ八十一品という形で存在している。

殺生・偸盗・邪淫等による種々の犯罪は、概ねこ  の煩悩に基づいている。

   

   ◎見・思の二惑は、自他一切の存在を実有と執する思想で、空の真理に  対する無知迷妄による思想的偏見     

 

塵沙惑⇒ 塵や沙のような微細な無量の惑のことで、前の見・思の二惑が有に執われ空の真相に暗い惑であるのに対し、これは逆に  偏空(空の片寄った考え)の一辺に執われて、無量の差別のある万物の現実相(仮有)に暗い惑のことで、適切に他を導くことができない迷いのこと。   

 

無明惑⇒ 空・仮の二諦に対する中道実相に暗い惑

いわゆる自他・物心・身土・修性・因果等の而二不二の円融真如を障融し、正しい中道に基づく世界観・人生観を隠蔽する煩悩でありこれに四十二品の重々の累層があるとされる。

 

◎根本無明の煩悩は微細の惑で初めより感知できないから、方便の手段によってまず手近の見・思を、次に塵沙を断じ、最後に無明を断ずることになるが、本源的に見ればこれらは無明煩悩の中の諸惑で、すべて一体である。

 

 

          即 身 成 仏 

 

即身成仏とは、煩悩に覆われた凡夫の身のままで仏に成ることをいい、自己の生命の奥底にそなわる仏性を開き、安心立命の境界となる最極の功徳をいいます。

この即身成仏は、小乗教で説くような煩悩をすべて滅することでも、また死んだ後にはじめて仏になるということでもありません。生きているこの身このまま、煩悩を持ったままの姿で仏の境界を得るということで、これは日蓮大聖人の仏法を信仰することによってのみ可能となるのです。

さらに大聖人は、機根も低く三毒強盛の荒凡夫である末法の衆生に対し、法華経寿量品の文底に秘沈された三大秘法の御本尊を受持信行するところに、煩悩を持ったまま、即身に成仏できる法門を説き示さ

れました。すなわち、

 

即 身 成 仏 の 法 門

 

正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住は常寂光土なり(当体義抄)

 

と仰せられ、大聖人の仏法を信受し、題目を唱える功徳によって、自分の煩悩・業・苦の三道が、不変の真理を悟って清浄にして不動の心(法身)となり、深い智慧と慈愛に満ちた人間性(般若)を開発し、人生を自由自在に遊楽して苦しみの束縛から逃れ(解脱)させる働きをもたらすことになると示されたのです。

すなわち、正しい御本尊を信じ唱題に励むとき、煩悩はそのまま仏果を証得する智慧となり(煩悩即菩提)、苦悩の人生を克服できる力強い生命へと転換(生死即涅槃)されていくのです。

さらにこの即身成仏の境界は、大聖人が、

 

即 身 成 仏 の 境 界

 

いきてをはしき時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏なり。即身成仏と申す大事の法門これなり(上野殿御家尼御返事)

 

と仰せられているように、その徳は今世だけにかぎらず、未来永劫にまで及んでいくのです。またこれらの功徳の実証は、ひいては父母を救い、先祖代々の人々を成仏させ、さらに未来の子孫に福徳をもたらすことにもなるのです。

このように、御本仏大聖人の大慈大悲による仏天の加護を受け、正しい信心と修業によって三世にわたる福徳がそなわり、清浄にして自在な仏の境界を実生活のなかに現していくことができるのです。これが「六根清浄」であり、「即身成仏」の大功徳なのです。

 

 

          苦 の 原 因 − 悪 因 悪 果 − 

 

悲惨な事件や凶悪な犯罪が多発している背景には、世の中の人々に善悪の判断がしっかりとついていないことがあげられます。こうした悪い行為が、現在及び未来に渡って自身に苦の結果を招く要因になることを知りません。

また現在もたらされている苦が、過去の悪い行為に起因してることも知りません。経典には、

「過去の因を見んと欲せば、現在の果を見よ。未来の果を見んと欲せば、現在の因を見よ。」(心地観経)

と説かれています。

「悪」というのは「不善」と同義です。「不善」とは、法や道理に背いて、現在、あるいは未来において「苦」の結果を招くという要因のことを言います。「悪因悪果」といって「悪」は「苦」の結果を招く性質を持っているのです。

したがって「善因善果」といって「善」は「楽」の結果を招く性質を持つことになります。

「悪とは相対的なもので、時代によってその基準は変化する。戦争では敵に対する殺人は数を増すほど賞賛される。したがって悪(不善)と苦との因果関係はない。」

と反論する人もいるでしょう。しかし釈尊はすでに天眼通により三千年も前から、悪(不善)の定義を厳然と説いております。

仏教においては悪について「五悪」「十悪」「五逆罪」が説かれています。

「五悪」とは、殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒の五つのことで、これを戒めたものがいわゆる「五戒」(不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒)です。

「十悪」とは、殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪・瞋・癡の十のことで「十不善業」とも言います。なお、殺生・偸盗・邪淫は身で行う悪なので「身の三悪」、妄語・綺語・悪口・両舌は口で行う悪なので「口の四悪」、貪・瞋・癡は意で行う悪なので「意の三悪」と言われています。

「五逆罪」とは、父を殺す・母を殺す・阿羅漢を殺す、仏の身体から血を出す(出仏身血)、教団の内部を分裂させる(破和合僧)の五つのことで、悪の中でも極悪とされています。

近年板橋区のマンションで起きた爆発事故は、創価学会の信仰に熱心な父親が、父子間のいさかいで父母ともに息子に殺され、その証拠隠滅のために息子が時限装置で現場を爆破したことによるものでした。まさに五逆罪という極悪を犯したのです。

この少年が犯した悪因による悪果を思うと、空恐ろしいものがあります。たとえ少年法で罪が軽いものとなっても、これは世法(社会の法律)のことであり、仏法の因果の理法からするならば、五逆罪という極悪の悪因を生命に刻みこんでしまったことになります。凡夫の私には、この少年の来世は見通せませんが、「未来の果を見んと欲せば、現在の因を見よ。」の仏説を鑑みたとき、来世では、もしまた人間として生まれてきたならば、今度は自分の子供に殺される業因を背負ってその報いを受けるかも知れません。

いずれにせよ、五逆罪を犯したものは無限地獄に堕ちると説かれています。

ところで悪には、この五逆罪以上の最極悪があることが経文に説かれています。

 

無 限 地 獄 ( 阿 鼻 獄 ) の 因

 

○若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。其の人命終して阿鼻獄に入らん、一劫を具足して劫尽きなば更生れん、是の如く展転して無数劫に至らん(法華経譬喩品)

○五逆と謗法とを病に対すれば、五逆は霍乱(日射病)の如くして急に事を切る。謗法は白癩病の如し、始めは緩やかに後漸々に大事なり

○慳貪・偸盗等の罪に依って餓鬼道に堕することは世人知り易し。慳貪等無き諸の善人も謗法に依り亦謗法の人に親近し自然に其の義を信ずるに依って餓鬼道に堕することは、智者に非ざれば之を知らず。能く能く恐るべきか

○設い八万聖教を読み大地微塵の塔婆を立て、大小乗の戒行を尽くし、十方世界の衆生を一字の如くに為すとも、法華経謗法の罪はきゆべからず。我等過去現在未来の三世の間に仏に成らずして六道の苦を受くるは偏に法華経謗法の罪なるべし

 

と説かれています。

大阿鼻地獄に堕ちるのは五逆罪だけでなく誹謗正法、つまり謗法(十四誹謗→その元となるのは「不信」)にあると説かれています。

五濁悪世の末法の世に生まれてきた衆生の大苦の根本原因は、謗法にあることを知らねばなりません。

 

苦 ( 不 善 ) の 原 因

 

○ 五悪「三悪道の因」    ・殺生(生き物を殺す)      

・偸盗(ものを盗む)

・邪淫(よこしまな性関係を持つ)         

・妄語(嘘をつく)     

・飲酒(泥酔するほどの酒を飲む)   

(◆五戒・不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫・不妄語戒・不飲酒戒)   

 

○ 十悪「身の三悪」     ・殺生(人を殺す)       

(十不善業)       ・偸盗(人の財産を盗む)       

・邪淫(よこしまな性関係を持つ)             

「口の四悪」     ・妄語(嘘をつく)          

・綺語(内心と異なるお世辞を言う)       

・両舌(人によって正反対のことを言う                        

・悪口(人の悪口を言う)                      

「意の三悪」     ・貪(むさぼる気持ちが強い)       

      ・瞋(些細な事でも怒る)      

・癡(疑い深く信じる気持ちが薄い) 

 

○ 五逆「大阿鼻地獄の因」  ・殺父(父を殺す)

     「無間地獄の因」   ・殺母(母を殺す)

・殺阿羅漢(阿羅漢を殺す)    

・出仏身血(仏の身体から血を出す)    

・破和合僧(教団の内部を分裂させる)  

 

○ 謗法              ・正法を誹謗する  

 

十 四 誹 謗 (謗法の姿を十四種に分けて具体的に述べたもの)

 

1)喬慢(正法に対して驕り、あなどること。)

2)懈怠(仏道修業を怠ること。)

3)計我(正法を自己の考えで推しはかり、我見に執着すること。)

4)浅識(正法を自己の浅い知識で判断し、より深く求めないこと。)

5)著欲(欲望に執着して正法を求めないこと。)

6)不解(正法を理解しようとしないこと。)

7)不信(正法を信じないこと)

8)顰蹙(正法に対して顔をしかめ、非難すること。)

9)疑惑(正法を疑うこと。)

10)誹謗(正法を謗ること。)

11)軽善(正法を信受する者を軽蔑すること。)

12)憎善(正法を信受する者を憎むこと。)

13)嫉善(正法を信受する者を嫉むこと。)

14)恨善(正法を信受する者を恨むこと。)

 

『十四誹謗も不信を以て体と為せり』(念仏無間地獄抄)

 

 

          三 悪 道 ( 地 獄 、 餓 鬼 、 畜 生 ) の 世 界 

 

地獄について大聖人は『顕謗法抄』で、

 

八 大 地 獄 【第一等活地獄と第八大阿鼻地獄(無間地獄)】

 

     第一に等活地獄とは此の閻浮提の地の下・一千由旬にあり此の地獄は縦広斉等にして一万由旬なり、此の中の罪人は・たがいに害心をいだく若したまたま相見れば犬と猴とのあえるがごとし、各鉄の爪をみて互につかみさく血肉既に尽きぬれば唯骨のみあり、或は獄卒手に鉄杖を取って頭より足にいたるまで皆打ちくだく身体くだけて沙のごとし、或は利刀をもつて分分に肉をさく然れども又よみがへり・よみがへりするなり

     (第二の黒繩地獄〜第七の大焦熱地獄は省略)

○第八に大阿鼻地獄とは又無間地獄と申すなり欲界の最底大焦熱地獄の下にあり(略)此の地獄の罪人は大焦熱地獄の罪人を見る事他化自在天の楽しみの如し、此の地獄の香のくささを人嗅ぐならば四天下・欲界・六天の天人・皆ししなん、されども出山・没山と申す山・此の地獄の臭き気を・をさへて人間へ来らせぜるなり、故に此の世界の者死せずと見へぬ、若し仏・此の地獄の苦を具に説かせ給はば人聴いて血をはいて死すべき故にくわしく仏説き給わずとみへたり、此の無間地獄の寿命の長短は一中劫なり

○無間地獄の因果の軽重を明さば、問うて云く五逆罪より外の罪によりて無間地獄に堕んことあるべしや、答えて云く誹謗正法の重罪なり、問うて云く証文如何、答えて云く法華経第二に云く『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん』等と云々、此の文に謗法は阿鼻地獄の業と見へたり

 

と、謗法が無間地獄の悪因になることを明かしています。

 

八 大 地 獄 の 因 果 【第一等活地獄〜第八大阿鼻地獄(無間地獄)】

 

※第一の等活地獄 → 殺生

↓(等活地獄の下にあり)

※第二の黒繩地獄 → 殺生+偸盗

↓(黒繩地獄の下にあり、等活地獄の苦の十倍)

※第三の衆合地獄→殺生+偸盗+邪淫

↓(衆合地獄の下にあり)

     第四の叫喚地獄→殺生+偸盗+邪淫+飲酒

↓(叫喚地獄の下にあり、第四地獄の諸の苦の十倍)

     第五の大叫喚地獄→殺生+偸盗+邪淫+飲酒+妄語

↓(大叫喚地獄の下にあり、前の五つの地獄の火は雪の如し)

     第六の焦熱地獄→殺生+偸盗+邪淫+飲酒+妄語+邪見

↓(焦熱地獄の下にあり、前の六つの地獄の一切諸苦の十倍)

     第七の大焦熱地獄→殺生+偸盗+邪淫+飲酒+妄語+邪見+犯比丘尼

↓(大焦熱地獄の下にあり、第七地獄の一千倍の苦)

     第八の大阿鼻地獄→五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)

(無間地獄)→誹謗正法

【若し仏・此の地獄の苦を具に説かせ給はば人聴いて血をはいて死すべき故にくわしく仏説き給わずとみへたり】

 

餓鬼道と畜生道について大聖人は『主師親御書』で、

 

餓 鬼 道 と 畜 生 道

 

○腹は大海の如くのんどは鍼の如くなれば明けても暮れても食うともあくべからず、まして五百生・七百生なんど飲食の名をだにもきかず或は己が頭をくだきて脳を食するものあり或は一夜に五人の子を生んで夜の内に食するものあり、万菓林に結べり取らんとすれば悉く剣の林となり万水大海に流入りぬ飲まんとすれば猛火となる如何にしてか此の苦をまずがるべき

○畜生道と申すは其の住所に二あり根本は大海に住す枝末は人天にまじわれり短き物は長き物にのまれ小さき物は大なる物に食われ互に相食んでしばらくもやすむ事なし、或は鳥獣と生れ或は牛馬と成っても重き物をおほせられ西へ行かんと思へば東へやられ東へ行かんとすれば西へやらる山野に多くある水と草をのみ思いて余は知るところなし

 

と説いております。この畜生道は法華経譬喩品にも説かれ、地獄及び餓鬼道も他の経典に説かれているところです。

 

三 悪 道 か ら 逃 れ る 道

 

然るに善男子・善女子・此の法華経を持ち南無妙法蓮華経と唱え奉らば此の三悪を脱るべしと説きたまえり何事か是にしかん・たのもしきかな・たのもしきかな

 

と三悪道から逃れる道(方法)を、きちんとお示しになっています。

 

 

          定 業 ・ 不 定 業 ・ 転 重 軽 受 

 

癌でも、脳の中枢にできてしまい手の施し用が無い患者と、そうでない場所と適切な処置で退院できる者とがいる事は多くの人が知るところです。

生れながらにして心臓に欠陥があり、心臓移植をしなければ助からない幼児がいて、外国で移植手術ができるように募金活動を行っているニュ−スを見ました。本人のみならずその両親の心痛は計り知れません。

ある母親は脳が萎縮してしまう難病にかかり、徐々に衰弱しながら亡くなりました。そして月日が流れ、今度は家庭を持って平穏な暮しを送っていたその娘も、同じ病が発症して脳の萎縮が進行していき、現在は車椅子の生活を余儀なくされていて、病状はさらに悪化していく一方です。その弟(私の知人)も、いつ自分も同じ病にかかるかと不安を抱えながら生活しています。

「よりによって何故自分達の家族が、こうのような難病にかからねばならないのか!」

とその運命を呪いたくなるであろう事は、察するに余りあります。

島にいて、わずか10歳で悲惨な交通事故に遭い、今世を終えねばならなかったM君を思い出すたびに胸が痛みます。

またM君が亡くなった翌年に島には珍しい転校生(K君)がありました。この島出身の母親が、内地での結婚生活の破綻で戻ってきた事によるものでした。内地で母親は、精神的な病で入院し、その母の傍らでカップラ−メンをすすりながら飢えをしのいだと言います。島に戻った母親は再婚し、K君は祖父母の家で暮らす事になり、K君の業の深さに心を痛めたものでした。

それから5年後の高校二年生の時に、K君は夜バイクでジュ−スを買いに出かけて自動車と正面衝突し、その生涯を終えました。

そして悲劇はそれだけでは終らず、この学年の別の男の子が30才代になったとき、伊豆諸島で起きた群発地震で島の崖が崩れて、たまたま車で通りかかってその下敷きになり命を落としてしまいました。

この学年は私が教員になって初めて受け持った思い出深い子供達で、5年生の時は27名の単学級でしたが、三名もの尊い命が事故で失われてしまいました。本当にやりきれない気持ちで一杯です。

大聖人は、

 

命 は 第 一 の 財 な り 【一日なりともこれを延ぶるならば千万両の金にもすぎたり】

 

○いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、三千界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財も・いのちには・かえぬ事に候なり(白米一俵御書)

○命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりとも・これを延ぶるならば千万両の金にもすぎたり、法華経一代の聖教に超過していみじきと申すは寿量品のゆへぞかし、閻浮第一の太子なれども短命なれば草よりもかろし、日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生犬に劣る、早く心ざしの財をかさねていそぎいそぎ御対治あるべし(可延定業御書)

 

と命の大切さを説いています。

しかしその命には業(定業・不定業)が宿り、その業を消滅しなければこの最第一の命が短命に終ってしまう事を説いています。その業を消滅させる方法として、

 

寿 命 を 延 ば す 法 【定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す】

 

夫れ病に二あり一には軽病二には重病・重病すら善医に値うて急に対治すれば命猶存す何に況や軽病をや、業に二あり一には定業二には不定業・定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す何に況や不定業をや、法華経第七に云く「此の経は則為閻浮提の人の病の良薬なり」等云々、(略)仏滅後一千五百余年・陳臣と申す人ありき命知命にありと申して五十年に定まりて候いしが天台大師に値いて十五年の命を宣べて六十五までをはしき、其の上不軽菩薩は更増寿命ととかれて法華経を信じて定業をのべ給いき(略)されば日蓮悲母をいのりて候しかば現身に病をいやすのみならず四箇年の寿命をのべたり

 

と妙法によって定業が消滅でき、寿命も延ばせる事を説いています。

仏教では一切の生命・生物は、過去の業因によってそれぞれの運命境遇に生れてきていると説明しています。正因縁の十界の生命観による業報の存在を説かれているのです。

人智をもって計り知ることができず、また転ずることのできない定業も、仏法の不可思議の功徳道法により救われるのです。

現世で定業を罪証消滅しなければ、来世でもこの苦しみは繰り返される事になります。妙法の功徳は、いかに深重な悪業もよく転じ消滅できるのです。

謗法の罪は正法(御本尊)を授持し信行することによってのみ、消滅させることができます。「転重軽受」(重きを転じて軽く受く)といって、過去世に積んでしまった重い罪業を転じて、今世の正法の修業で軽く受け流していけるのです。

日蓮大聖人は、このことを『転重軽受法門』で、

 

転 重 軽 受 法 門 【人間の苦報、現世に軽く受くる】

 

○涅槃経に、転重軽受という法門あり。先業の重き、今生につきずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値い候へば、地獄の苦しみぱっときへて

○及び余の種種の人間の苦報、現世に軽く受くるは、斯れ護法の功徳力に由る故なり

 

と正法を護法していく中で「三障四魔」や「三類の強敵」などの様々な難が起こりますがだからこそ、過去の謗法の重罪を軽く受け流していける道理をお説きになっています。

 

必ず三障四魔と申す障いできたれば、賢者はよろこび愚者は退くこれなり

 

『兵衛志殿御返事』にあるように、三障四魔が起きた時には、定業を消滅できる転重軽受の機会が訪れたのだと、むしろ喜ぶべきことを説いています。

 

 

          三 障 四 魔 

 

仏法では、正法の修業を妨げようとする働きを三障四魔とよんでいます。

我々凡夫が正法の修業によって過去世の宿業を転換し、後生を願って即身成仏の境涯を得ようとする変わり目には、必ずこの三障四魔が生ずると説かれています。実際に私も正法を真面目に実践していこうとした時に、この三障四魔が起きて阻止されそうになった経験を持っています。

三障とは煩悩障、業障、報障の三つをいい、四魔とは陰魔、煩悩魔、死魔、天子魔の四つをいいます。

 

三 障 四 魔

 

○三障  ・煩悩障(自分自身の中から貪り、瞋り、癡か等の煩悩が強く起こっ  て正法の信心を妨げる障害)     

・業障 (過去における五逆・十悪等の悪業によって、妻子・友人などが正法の信心に強く反対し、様々な脅しや誘惑等で信心を妨げる障害)   

・報障 (過去における謗法の果報によって、権力者とか会社の上司、父母や夫など、自分より目上にあって力を持っている立場の者が、様々な圧力をかけて正法の信心を妨げる障害。三障の中でも最も強力な障魔の働き)

 

○四魔  ・陰魔 (五陰魔ともいい、五陰−色・受・想・行・識−の和合に障りが出ること。つまり正法の信仰者の身体に病気を起して信心を迷わせる働き)   

・煩悩魔(三障の中の煩悩障と同じ働きのもの)     

・死魔 (正法の信仰者が若くして亡くなったり、命にも及ぶ迫害が起きることによって、信心を迷わせる働き)   

・天子魔(他化自在天子魔ともいい、三障四魔のうちで最強の魔であり、一切の障魔の働きを生ぜしむる根源の第六天魔王が直接に働くもの。例えば多くの民衆から仏のように敬われている者が民衆を正法に迷わせたり、民衆を率いて正法に迫害を加えたりする働き)

 

 

私の場合は、妻からの反対、脅し、誘惑等の「業障」が激しく現れました。ある日一大決心をして御本尊に題目を唱えた途端、妻は乳飲み子を連れて実家に帰ってしまったのです。そうすれば私がこの信仰を辞めると思ったのでしょう。

私はDV(ドメスティックバイオレンス)を働いたわけでもなく、ギャンブル狂いで家計を圧迫させたわけでもなく、不倫等を働いたわけでもありません。人生を真面目に考えて、過去世からの自分の業と向き合い、自分の宿業の転換と家族を含めた現世安穏・後生善処を願って、御本尊に題目を唱えただけなのです。

妻の実父が地域の念仏講に参加した時には、何の反応も示しませんでした。何故かこの正法に対してのみ、強い拒否反応を示しました。

なお三障四魔の働きの根源について大聖人は、あらゆる障魔の働きは元品の無明(根本の煩悩)であると説いています。

末法においては妙法(御本尊)に対する不信や迷いを示しています。

 

 

          イ ン チ キ 宗 教 の 見 分 け 方 (「宗教の五綱」「五重相対」)

 

 日蓮大聖人の身命に及ぶ法難は数知れずありましたが、特に「松葉ケ谷法難」(39歳鎌倉)「伊豆流罪」(40歳、1年9か月間)、「小松原法難」(43歳、安房)、「竜の口法難」(50歳、相州)、「佐渡流罪」(50歳、2年5か月間)が有名です。

ところで大聖人にまつわる伝説や伝承は数多く残されています。例えば「伊豆法難」では、伊東の川奈に近づくと、役人が大聖人を海中の岩の上(まな板岩)に置き去りにしてしまい、潮が満ちれば海中に没して溺死してしまう危険に陥らせたといいます。大聖人がまな板岩で一心に題目を唱えていると、川奈の漁師である船守弥三郎が通りかかり助けられたいう話が伝えられています。

しかし『船守弥三郎許御書』には

 

日蓮去る五月十二日流罪の時その津につきて候しにいまだ名をもききをおびまいらせず候ところに・舟よりあがりくるしみ候いきところに・ねんごろにあたらせ給い候し事は・いかなる宿習なるらん

 

と仰せられていて、御書のどこを探しても海中の岩の上に置き去りにされた記述は有りませんでした。したがって後世の人の創作であると考えられます。

また「竜の口法難」の時には、大聖人が首の座に据えられて、首切り役人がまさに太刀を振りかざそうとしたその時に、突如として光り物(彗星)が現れて、首切り役人の目がくらんで倒れ伏して、処刑できなかったと言われています。いくらなんでも、これは大聖人を神格化するために、後世の信者が創作した伝承話だと思っていました。海中の岩の上(まな板岩)に置き去りにしてしまう話の方が、創作にしてもよほど現実味が有ります。ところが大聖人の御書『種種御振舞御書』に、この時の事がはっきりと記されているのです。

拝読した時には、これが事実であったことを知り、「久遠元初本因妙の佛」「如来秘密神通之力」という言葉が思い出され、大聖人が末法の御本仏であることがうかがい知れました。

釈尊の十大弟子の一人に神通第一といわれた目連という人がいました。彼の母が死んだ後、天眼を開いて母の様子を見ると、生前仏様への供養や他者への施しを惜しんだ慳貪の罪によって、餓鬼道に堕ちて苦しんでいました。常に飢えや渇きの苦しみを受けて、腹は山のように大きく膨らみ、喉は針のように細く、見るも無惨な姿になっていました。

母を助けるべく、神通力を使って餓鬼道に飯を差し入れると、母がその飯を口に入れる瞬間に炎となって母の身を焼いてしまいました。そこで神通力を使って今度は水を差し入れると、それが油に変わって母をいっそう苦しめてしまいました。

目連は釈尊のもとへ急ぎ、母を救う方法を乞いました。釈尊は7月15日に十方の聖僧を招いて百味の飲食を調えて供養することを教えました。そこで目連は、釈尊の教え通りに十方の聖僧を招いて供養を行い、たちまち母は餓鬼道の苦しみから逃れる事が出来ました。これが盂欄盆会の起こりとなります。

また目連が法華経を信じた大善によって自分自身が仏に成るのみならず、その父母をも成仏させることができました。このように仏(釈尊)やその弟子でさえも、これほどの神通力を持っているのです。ましてや釈尊の本師である御本仏(日蓮大聖人)ならば、なおさらのこと光り物(彗星)を動かす程の神通之力があっても不思議ではないのです。

この竜の口の光り物について『四条金吾殿御消息』に、諸天善神の内でも三光天子(日天子・月天子・明星天子)の中の月天子による守護であると仰せられています。

法界の不思議を説く法華経、その修業によって法界に即して、現実の大不思議が現れたのです。この不可思議な現象は、大聖人の己心の妙法が即宇宙法界であって、日月衆星をも手中にされる、久遠元初の本仏の内証境界における力用だと思われます。しかし大聖人は

「法門をもて邪正をだゞすべし。利根と通力とにはよるべからず」

と神通力を使う事は禁じております。

通力は畜生にすら備わっています。しかしそれらに頼っても宿業の解決にはなりません。目連の神通力をもってしても実母の餓鬼道の苦は救えなかったのですから、重要なのは神通力ではなく正法に縁していくことなのです。

正法(御本尊)自体が「如来秘密神通之力」「諸佛の秘要の蔵」なのですから、この信心修業によって、過去世の宿業(謗法)を転重軽受して、即身成仏、現世安穏・後生善処を果たしていくことが本道です。ところで「宗教原論」(小室直樹著/徳間書店)に、「インチキ宗教の見分け方」という興味深い記述があります。そのポイントは二つあると言います。

 

イ ン チ キ 宗 教 の 見 分 け 方 【金儲け宗教と奇跡をひけらかす宗教】

 

まず一つ目。金儲け宗教はインチキに決まっている。キリスト教でも仏教でも、お金を出さなければいけないなどとは経典のどこにもかいていない。

経典に書かれていない事を義務づけるというのは、啓典宗教にはありえない。

喜捨という行為にしたところで、仏教ではいくらいくら必要などという基準を示していないし、少なくても家屋敷を差し出せなどということは有りえない。身ぐるみ脱いで置いていけというのは山賊であって、宗教家ではないし、金を借りさせてまで払わせるのはもはや喜捨ではなく、強盗、いやそれ以上である。

二つ目は奇跡をひけらかす宗教です。仏教でも釈迦は奇跡などは止めておけという姿勢である。喜捨の見返りとして力を使うという例は紹介したが、喜捨は力を使う対価、報酬ではない。額の多寡で能力を加減するわけでなし、ましてや、○○病を治したければ最低一万円から、などという喜捨があるわけがない。

日本の仏教で奇蹟を起したとして畏敬を受けている日蓮(大聖人)も、不必要な奇蹟は起していない。

日蓮(大聖人)は数多くの奇蹟を起したけれど、それは結果としてやむをえず起していたもの。首を切られそうになったというくらいの事情なら仕方もあるまい。

本当に奇蹟を起こす人間というのは、いることはいるであろう。しかし、凄い奇蹟を起す能力と宗教的境地が高い低いということは何の関係もないのである。したがって、例えば宙に浮くことができるだとか、病気を治すことができるだとか、そういう能力があることを理由に、自ら教祖であるとか、神の代理人であるとかを主張する人間は、インチキ教祖に違いない。これは宗教をよく研究していると明白である。

 

日蓮大聖人は種々の宗教の高低・浅深を見極め、真実最高の宗教の判断基準を示されています。それは「宗教の五鋼」「五重相対」とよばれるもので、小室直樹氏の二つのポイントとは比較にならないほど的確で、道理のある優れた教相判釈の理論です。

これまで書いてきた事(方便経と実経、本已有善と本未有善、正像末の三時、熟脱と下種等)と重複する部分がありますが、その概要を一覧表で示しておきます。なお「四重興廃」「五重三段」などの選別方法も示されていますが、ここでは割愛します。

「宗教の五綱」「五重相対」等によ り、あまたある宗教の中でも三世の因果の理法を説く仏教が外道よりも優れ、仏教の中でも実経である法華経が優れ、法華経の中でも本門寿量文底下種の本門が最上の法であることが明らかとなります。

本門寿量文底下種の本門とは三大秘法(本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目)であり根本は弘安二年十月十二日御図顕の大御本尊になります。

 

宗 教 の 五 綱 、 五 重 相 対

【教・機・時・国・教法流布の前後、内外・大小・権実・本迹・種脱相対】

 

○宗教の五綱     

1、教【教えの浅深を知る】 

・五重相対、五重三段、三重秘伝、四重興廃等     

2、機【衆生の機根の適、不適を知る】 

・本已有善、本未有善、順縁逆縁の二機等

3、時【時代の適、不適を知る】 

・正法(解脱堅固・禅定堅固)、像法(読誦多聞堅固・多造  塔寺堅固)・末法(白法隠没・闘諍言訴堅固)の三時     

4、国【国柄の相違を知る】  ・寒国、熱国、貧国、豊国、中国、辺国、大国、小国、 一向小乗国、一向大乗国(日本)等     

5、教法流布の前後【教法を広める順序・次第を知る】(※従浅至深)

・小乗→権大乗→実大乗(法華経迹門→法華経本門→法華経本門寿量文底下種の本門)

 

○五重相対         

1、内外相対【外道(仏教以外)と内道(仏教)の相対】《浅》 

・外道(三世の因果に疎い)< 内道(三世の因果の理法)     

2、大小相対【小乗経と大乗経の相対】 

・小乗経(自己の救済のみを目的)< 大乗経(自他共の救  済を目的)

3、権実相対【権経(方便の経)と実経(法華経)の相対】 

・権経(未顕真実の経)< 実経(二乗作仏、一念三千等)

4、本迹相対【迹門(前半十四品)と本門(後半十四品)の相対】 

・迹門(始成正覚、本無今有)< 本門(久遠実成、本有今有)

5、種脱相対【文上脱益と文底下種の相対】《深》

・文上脱益(本已有善の熟脱の化導)< 文底下種(本未有善の下種、久遠元初の下種仏法)

 

     下種=三大秘法(本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目)「如来秘密神通之力」「諸佛の秘要の蔵」

 

正法の当体である本門の大御本尊は、静岡県富士宮市の日蓮正宗総本山内にある奉安堂に厳護されております。

この地において実に七百年以上の長きにわたって、連綿として護られてきています。

 

 

          三 大 秘 法 

 

日蓮大聖人は『日女御前御返事』に、

 

御 本 尊 ( 大 曼 陀 羅 )

【妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる】

 

爰に日蓮いかなる不思議にてかや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり されば首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に坐し・釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ普賢・文殊等・舎利弗・目連等坐を屈し・日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り・悪逆の達多・愚痴の竜女一座をはり・三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等・加之日本国の守護神たる天照大神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祗等・体の神つらなる・其の余の用の神豈もるべきや、宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云々、此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。

 

と仰せです。

すなわち地獄・餓鬼・畜生等の悪も、全て妙法に照らされて「本有の尊形」となると仰せです。

「◆苦の原因−悪因悪果−」や「◆定業・不定業・転重軽受」でも記したように十悪、五逆、誹謗正法の幾多の罪障を積んできてしまった末法の私たちは、本門寿量文底下種の本門(大御本尊)という真実最高の仏法でなければ罪障消滅は叶いません。

本門寿量文底下種の本門とは、独一本門の南無妙法蓮華経、すなわち三大秘法の随一の大御本尊であり、この大御本尊を根本にして自行化他の信行に励むことによって、十悪、五逆、誹謗正法の幾多の罪障を転重軽受の原理で消滅させ、生死即涅槃・煩悩即菩提、娑婆即寂光と開き、六根清浄の果報を得て、現世安穏・後生善処の大利益、大功徳を得ることができるのです。

 

三 大 秘 法

 

【一大秘法】 ⇒ ◆本門の本尊(弘安二年十月十二日御図顕の大御本尊)

 

【三大秘法】 ⇒ ◆本門の本尊     ◆本門の戒壇  ◆本門の題目 

 

【六大秘法】 ⇒ ◆人の本尊(久遠元初の御本仏の再誕・日蓮大聖人)    ◆法の本尊(日蓮大聖人の顕された大曼荼羅  御本尊)   

◆事の戒壇(弘安二年十月十二日の大御本尊の御安置の処)   ◆義の戒壇(御本尊を御安置する各正宗寺院  及び各家庭の処)      

◆信の題目(御本尊に対する純一無二の信心)    ◆行の題目(御本尊を信じて行う唱題行)

 

○三大秘法のすべては、その中心である本門の本尊に合せられ、一大秘法となる。

○三大秘法を開けば六大秘法となりさらに開けば八万法蔵という無量の法門となる。

 

末法は正法(妙法=御本尊)への「信」が最も肝要であり、したがって布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜を行じることを止めて、妙法の根本である大御本尊への信行の題目をもって修業の要諦とすることを説いています。

 

 

          釈尊から日蓮大聖人につらなる仏法の本流(その概観)

 

仏 法 の 本 流 ( そ の 概 観 )

【釈尊から日蓮大聖人につらなる仏法】

 

○五百塵点劫の当初「久遠元初本因妙の佛」が生まれる【末法の衆生のために「日蓮」として再度誕生し本因妙(御本尊)を下種する】

・最も根源的な宇宙に存在する究極の法則である妙法を「南無妙法蓮華経」と名付ける(直達正観)

・妙法蓮華経の佛(本因妙の佛)

・妙法(「南無妙法蓮華経」)の種を施す(本因下種益)

・因果一念の宗(不思議の事の一念三千、即座開悟)

 

○五百塵点劫の時「釈尊の前身」が「久遠第一番本果妙の佛」として生まれる

・この妙法「南無妙法蓮華経」を修業する

・佛果の下種(発心下種)を下す

 

○三千塵点劫の時「釈尊の前身」が「大通智勝佛」として生まれる

     苦集滅道の四諦、十二因縁の因果を説く

・大乗の因行(六波羅蜜)果徳(神通力)を説く

 

○「釈尊の前身」が「十六番の王子」して生まれる

・佛果の下種並びに熟益を施す

 

○約3000年前に「釈迦牟尼世尊」(釈尊)としてインドに生まれる   【本果妙の佛】

・本已有善の衆生(過去世に妙法の種を植え育てられた衆生)を利益する

     一代聖教八万四千の法門

・無量義経において「四十余年未顕真実」と説いて法華経の本懐を明かす

     本果妙の佛(妙法を修業して佛となる)で法華経本門に於て脱益を施す

     白法隠没して闘諍言訟堅固の末法(本未有善の衆生)の時代を予証

     法華経八品に於て地湧千界を召して上行菩薩らに「妙法」を付属(文上)

・末法において妙法を弘通する行者が大難に遭うことを具体的に予証

 

○貞應元年(1222年)二月十六日安房国に日蓮大聖人が御生誕 【「久遠元初本因妙の佛」である下種益の佛が本未有善の衆生を救済していく】