3 、 釈 尊 の 本 意 を 経 文 か ら 探 究 す る 

 

 

   正 法 で 得 ら れ る 大 利 益 ( 大 功 徳 ) 

 

正法(妙法)という正しい仏法を受持して信行するならば(そのためにはまず爾前権教等の謗法と縁を切ることが必要ですが)、「常・楽・我・浄」という四つの徳性に象徴される仏界(仏性)が、生命の内(第九識)から発揮され、自身の身体面、精神面に作用して力強い生命力と仏智とよばれる不思議な智慧が働き、人生の苦悩を前向きに乗り越え、打開していくことができるのです。

その大利益(大功徳)を経典等から挙げていくと次ぎのようになります。

前に示した罰とその臨終の相の二つと比較してみると、その大きな違いが分かります。

 

正 法 で 得 ら れ る 大 利 益 ( 大 功 徳 ) 【経文からの要約】

 

○仕事の成果が大きく上がるようになる。

○社会的信用を得られるようになる。

○所得が増加して、衣食住に困ることがなくなる。

○世間において上長の位を得る。

○常に生き生きとした健康体になっていく。

○生まれついての業病すら克服できる、いわんや、それ以下の軽病はことごとく治癒していける。

○寿命によって死すべき命も、延ばすことができる。

○淫欲さかんな者もおのずと欲を離れて正常になり、短気で怒りっぽい性格、愚痴が多く嫉妬深い性格等も改まって、立派な人格者へと向上していく。

○臨終を迎える姿においては、悶絶・狂乱等の悪相を全く現ずることが無く、また遺体の状態においては、形を損ぜず、生前よりも美しい色白となり、眠るがごとき半眼半口で、身体が生前以上に柔らかく、軽く、死臭すらない。

 

正法を受持して信行する功徳は、経済面・健康面・精神面と三拍子そろって、あらゆる悩み・苦しみ・行き詰まりを解決していけるということです。

ただし私達には過去世からの罪障(悪業)があります。譬えて言えば長期間使用していなかった水道水のようなものです。もしも何年かぶりで栓を開いたらどうなるでしょうか。

まずは管内に溜まった赤錆などのぞっとするような濁った汚い水が、蛇口から流れ出てくることでしょう。それに驚いて栓を閉めてしまえば、濁った汚い水はそのまま管の中に留まったままになることは明らかです。

たとえ濁った汚い水が蛇口から流れ出て来ようと、そのまま流し続けていれば、やがて清浄な水がこんこんと流れ出てきます。

私達の生命には過去からの罪証(悪業)が、溜まりに溜まっています。これらが正法(妙法)に縁することにより、開栓全開と同じ状況になります。しかも正法(妙法)が浄水器の役割を果たしてくれるので、濁った汚い水もかなり汚れを吸着して流し出してくれます。

つまり過去からの罪証を、現世で大量にしかも軽くして流してくれるのです。(転重軽受の法門)

正法(妙法)を受持して信行する人は必ず経験することですが、こうした過去からの罪証(悪業)がぽんぽんと出てきます。軽く出てきているにも関わらず、中にはそれに怖れを抱いて栓を閉じてしまう人もいます。また正法(妙法)を妨害しようと三障四魔も表れてきますから、ここで負けないことが大事です。

その反面「初心の功徳」といって、正法(妙法)の働きによって初心の人に妙法の力(功徳)が分かる形で表れる(現証)ことがあります。(顕祈顕応)

いずれにしても正法(妙法)で得られる大利益(大功徳)は、魔に粉動されずに一年、三年、七年と真面目に信仰を貫いた人に、誰一人例外なく現証として現れます。そしてその生涯を終えたとき、死後硬直・変色・腐敗臭の発散・重い遺体等の堕地獄の相が表れることなく、生前よりも美しい色白となり、眠るがごとき半眼半口で、身体が生前以上に柔らかく、軽く、死臭すらない、経文に説かれた成仏の相を現じるのです。

 

《 経 済 面 で の 現 証 》 

 

私自身この妙法と縁する以前は罪が八個(2、4、6、7、11、12、15、16番)あったと書きましたが、縁してから30年になろうとしている今、その全てが改善しています。

自賛と思われることを覚悟で言えば(本意はこの妙法の正しさを示すためにあえて公表するのですが)、経済面では、妙法と出合う(22歳)までは、同級生からは持ち物の貧しさや自宅の古さをからかわれ、社会に出るまでは住込で新聞配達をするなどの貧困生活を余儀なくされていました。

それから30年後の現在では、伊豆半島にある太平洋と初島を望める伊東の地にマイホ−ムを持ち、2棟の貸家と4棟の賃貸用のアパ−ト・マンション計44戸を所有し、50歳でハッピ−リタイアを実現させ、気が向けば群馬県の名湯草津温泉にあるリゾ−トマンションで、悠々自適の暮らしを満喫するまでになりました。

またこうした生活は長年の夢であり、妙法の力をお借りしてそれを実現させることが叶いました。

 

《 健 康 面 で の 現 証 》 

 

健康面では、妙法と出合うまでは、ほぼ週に1〜3回は偏頭痛で帰宅後寝込む生活が日常のことでした。

また誕生の時は、逆子で破水後も体内にとどまったまま母体から出てこず、一時は死産を余儀なくされそうになったといいます。母体から出てきた時は、へその緒が首に巻きつき、チアノ−ゼ状態で、誕生の時から、すでに過去世の業が表れていました。

「有生」(ゆうせい)という私の名前の由来は、この出産のときの様子から来ていて、「生命が有る」「生命を有り難がる」という意味で名付けられたそうです。

この出産のときに頭部が圧迫されたことが原因なのか、幼児期から突然鼻血が大量に出ることが多く、親をずいぶんと心配させたました。それが妙法に縁してからは偏頭痛の頻度も徐々に減少していき、いつの頃からか、これで寝込む事は皆無に近くなりました。

また自分にとって大きな病気と言えば、昔肺炎で二週間入院したことと、すぐ上の兄がガンで死んだ時に軽いうつ状態におちいったことと、尿管結石で救急車を要請したのが2回あったぐらいです。

ちなみに一回目は今から2年程前に新宿駅から大学病院に搬送され、病院で2泊して治しましたが、初日は半日痛みが取れずにかなり苦しみました。

2回目は最近この草津の地で発症して、麓の救急指定病院に搬送されましたが、点滴を打ち始めてから約20分後には痛みがおさまり、2時間余りの点滴の後、痛み止めと利尿の薬をもらって4時間後には草津に戻ってきました。

大学病院を退院する時に、医者から

「毎日2リットルの水を意識して飲むようにしなさい。2年以内の再発率は50%ですよ。」

と言われていたのですが、ここでは一日に何回も温泉に入る割りには水分補給を十分にせず、なるべくしてなった病気でした。

「ビ−ルでもコ−ヒ−でもジュ−スでも何でもいいから、とにかく水分を沢山取るようにしなさい。」

と、ここでも言われてしまいました。それ以降、ここでは薬だと思って、ビ−ル、カフェオ−レ、グレ−プジュ−ス等々、あるいはまたスイカ、メロン、ぶどう、りんごなどのフル−ツ類も意識して食べる事にしました。

これらはもともと大好物でしたから、かえって発症により食生活が格段に豊かになりました。これらが大きな病気に当たるのかは分かりませんが、私の場合はこれだけでした。

 

《 精 神 面 で の 現 証 》 

 

精神面では、妙法と出会うまではすぐ上の4歳違いの兄(三兄)からは、私が生れたことにより親の愛情が末っ子の私に注がれたことに嫉妬して、幼い時からいじめぬかれて育ちました。これによって、

「心が荒んでいさかいばかりの日々が続き、人としての良識に外れた行いが甚だしく、また貪欲で怒りっぽく、筋道のわからぬ人格となり」

の経文のとおり、性格に少なからぬ歪み(ひねくれた性格)が生じ、

「頼るべき人がなく、また人に親しく接していっても、相手はそれほど自分のことを心に置いてくれない」

という人間関係に苦しむ暮らしを送ることになりました。

しかし、こうした家庭環境に生れ、こうした兄と血縁関係を結び、こうした人間関係であったことは、兄が原因ではなく、全ては私の過去世からの業因業果によるものでした。

それが妙法に縁してから30年後の現在では、十界の内の人界(人間らしく平穏で穏やかな精神状態)または天界(思うとおりになって喜びを感じている精神状態)を基調とした日々であることを、自覚しながら過ごせています。

三悪道(地獄界、餓鬼界、畜生界)や四悪趣(+修羅界)といった苦を感じる精神状態は、胸中に冥伏したままで全くと言っていい程感じる(湧き上がる)ことはありません。そもそも三悪道・四悪趣が胸中から湧き上がる縁(きっかけ)が、今の生活環境にはないのです。

法華経如来寿量品第十六の経文に、『我が此の土は安穏にして、天人常に充満せり、園林諸の堂閣、種々の寶をもって荘厳し寶樹華菓多くして、衆生の遊楽する所なり、諸天天の鼓を撃って、常に衆の伎楽を作し、曼陀羅華をふらして、佛及び大衆に散ず』という文があり、いまの精神状態は、これに近いと感じています。この

『我が此の土は安穏にして、天人常に充満せり』は、伊豆と草津温泉の地で、正法と諸天善神に守られた穏やかな日々を過ごし、

『園林諸の堂閣、種々の寶をもって荘厳し』は、太平洋が一望できる自宅と草津のリゾ−トマンションと、そこに御安置してある仏様(ご本尊)がそれであり、

『寶樹華菓多くして、衆生の遊楽する所なり』は、それを取り巻く豊かな自然環境と自由な時間を満喫して好きなことをして暮らしていることがそれであり、

『諸天天の鼓を撃って、常に衆の伎楽を作し』は、昔からの趣味であったオ−ディオとホ−ムシアタ−で、大好きな音楽や映画を好きなだけ堪能して、心地よい気分でいられる今の暮らしであり、

『曼陀羅華をふらして、佛及び大衆に散ず』は、我が家にある正法(妙法)の功徳を、身に帯している喜びではないのかと想像して思っています。

ですから、昔自分の胸中からよく湧き上がっていた三悪道(地獄界、餓鬼界、畜生界)四悪趣(+修羅界)の苦しみも、今はすっかりとなりをひそめています。

この原稿を書こうと決めたのも、この経文に説かれている境界が現実にあり、『我此土安穏、天人常充満』の境界になれる真実の法があるのだということを、身近な人達にも知らせ、正法(妙法)の素晴らしさを分かち合いたいと思ったからです。

実は今も、心安らぐ美しい音楽に包まれながら、時間がたっぷりとある境遇を使って、この原稿を書き進めているところです。

最近でも、大阪の宮の森駅(大阪城公園の側)近くで、あるセミナ−の講師として講演を行ってきました。集まってきた人達は、私の講演内容に真剣に耳を傾けて下さり、講演終了後には熱心に質問をしてきたり、私の二種類の著書(ペンネ−ムにて執筆)へのサインや握手を求めて来たりと、「社会的信用を得られるようになる」とまではいかないにせよ、「2、自分が誠を込めて真実を語っても、周囲の人々が信じてくれなくなる」とは、逆の立場にある事は感じることができました。

その後もある月刊誌の編集部の方が取材に訪れてきたので、インタビュ−や写真撮影の依頼に応えたり、またあるセミナ−の講演依頼の話もきています。こうした出来事は、妙法と出合う前までの自分には、全く考えられない現証でした。

以上のような私自身の体験があるからこそ、正法(妙法)の素晴らしさを自信を持ってお伝えすることができるのです。

その正法ですが、末法に入った現代では法華経の経文に説かれているように、インドで生誕した釈尊の「熟脱の法」では白法隠没して救われず、上行菩薩(法華経の行者)の「下種の妙法」という大白法でなければ叶いません。

そして経文に予証されたとおりの難に遭われ、命の危険を顧みられずに妙法を弘通された法華経の行者は、歴史上においてただ御一人だけ該当する人物がおりました。