2 、 臨 死 体 験 、 前 世 療 法
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毒 矢 に 射 ら れ た 男 の 話
ところで釈尊には、マ−ルンクヤという刑而上学的な質問を繰り返す弟子がいました。あるとき、この弟子が
「死後は存在するのか」
「死後の世界はどうなっているのか」
「宇宙の果てはどうなっているのか」
等々の質問を行い、
「ちゃんと答えてくれないのなら、教団を離れます」
と言いました。
それに対して釈尊は直接答えず、次のような話をしました。
「ちょうどここに毒矢に射られた男がいるとする。友人らがその毒矢を抜こうとすると、それを制止して、いったいこの毒矢を射ったのは誰で、年齢はどれくらいで、矢の材質と毒の種類は何で、どの方角からこの矢は飛んできたのか、それが分かるまでは抜いてはならないと言ったために毒が全身に回って死んでしまった。今なすべきことは、すぐに毒矢を抜くことである。死後の事を知ろうとするあまり、現世での修業が後回しになれば、虚しく死を迎えるだけである。やるべきことは現世の苦をいかに抜いて解脱するかの実践である。」
釈尊は現世での行いによってのみ、過去世からの悪業(無明)が立ち切れる事を説いています。
大切なのは今の修業(行)であり、未来の知識ではないことを諭しています。ですから、臨死体験や前世療法、輪廻転生等の三世の生命観や三世の因果の理解等にのめり込んで、肝心の悪業(無明)を立ち切る実践がおろそかになっては、毒矢に当たった男と同じ轍を踏むことになります。理解は大切ですが、
「一信(真実最高の教えを信ずる)、二行(その教えを素直に実践する)、三学(その教えを学ぶ)」と言われているように、無解有信(理解できなくても信じる)事の方が、有解無信(理解できても信じない)よりも大切だと説いています。
釈尊は「以信得入」(信を以て入ることを得たり)と言って「信」がいかに大切であるかを説いています。
そもそも仏智(仏の知恵)は、「三世の因果」を一つとってみても「難信難解」(信じがたく理解しがたい)なのですから、私などの凡夫(凡人)などには到底理解できるものではありません。
ですから大切なのは、教えを素直に信じて実践していく事だと釈尊は説いています。