
は じ め に
《 “ 一 眼 の 亀 ” の 意 味 》
このホームページの表題の由来ですが、これは『法華経荘厳王本事品第二十七』に説かれている経文から引用したものです。
『佛(ほとけ)には値(あ)いたてまつること得難(えがた)し。優曇波羅華(うどんばらけ)の如く、又、一眼(いちげん)の亀の浮木(うきぎ)の孔(穴)に値
えるが如し。而(しか) るに我等(われら)、宿福深厚(しゅくふくじんこう)にして、佛法に生れ値えり。』
と説かれています。要約すると、 「仏に巡り値えるのは非常に難しいことである。例えば(三千年に一度しか華を咲かせない
という)優曇波羅の華を見ることができるような、また、(千年に一度しか浮かぶことができないという)片目しかない亀が、浮木の穴に値うことができるようなものであり、たいへんに希なことなのである。それにもかかわらず、我らは過去からの宿業・福運が深くて厚い因縁によって、受け難き人身を受け、値い難き仏法に値えることができたのである。」
という意味になります。
この亀は、大海の中、八万由旬の底に住む大魚であり、手足もなくひれもありません。腹の熱いことは、焼けた鉄(くろがね)のごとくであり、背の甲羅の冷たいことはまるで
雪山のようでした。
この亀が昼夜朝暮に願い、時々刻々に口癖のように言うことは、熱い腹を冷やし、冷たい甲羅を温めることでした。赤栴壇(あかせんだん)という聖木(せいぼく)
がありますが、これは人でいうと聖人に当たります。その他の木は、凡木といって、人でいうと愚人のようなものです。
この栴壇の木こそが、この魚の腹を冷やすことができる唯一の木であり、この聖木に乗って、腹を穴に入れて冷やし、甲羅を天の日にあてて温めようと願っているのです。この亀は、自然の理(ことわり)として、千年に一度しか浮かぶことができません。しかもその時には、この聖木に値うことは難しいのです。何故ならば、大海は広く、亀は小さいので、この浮木に値えるのは希(まれ)だからです。たとえ他の浮木には値えても、栴壇には値えないのです。かりに栴壇の浮木に値えたとしても、亀の腹をちょうど彫りはめたような、ピタリと合う穴の浮木には値い難いのです。
たとえ穴があっても広すぎて、そのあなに落ちてしまえば、甲羅は穴の陰にかかってしまい、日が当たらずに温められません。しかも、穴から取り上げてくれる人はいませんから、抜け出ることすらできません。
反対にこの穴が狭くて腹を入れることができなければ、波に洗い落とされて再び大海に沈むことになります。たとえ不思議にも、ピタリと穴の合う栴壇の浮木に、たまたま行き値ったとしても、亀は一眼のために、視界が僻(ひが)んで見えるので、この浮木が西に流れれば東と見て、急いで乗ろうと思って泳げば、いよいよ遠ざかってしまいます。反対に、東に流れれば西と見てしまいます。南北も同様で、この浮木から遠ざかってしまい、近づくことはできないのです。
こうして、無量無辺劫という長大な時を経ても、この一眼の亀が浮木の穴に値うことは難しいのだが、仏法に値うことはそれくらい難しいことなのだと、仏は説かれたのです。また、六道輪廻の中で人間としてこの世界に生を受けることも、極めて希であることが説かれています。この地球上には、犬や蟻などの様々な生命が存在しますが、その中に人間として、人界に生を受けることは尊いことであり、我々が人間に生を受けることは千載一遇であると説かれています。さらにその受け難き人身を受けることよりも、さらに難しいのは、仏法に値うことだと説かれています。
実は、この一眼の亀の譬えには、さらに深い意味があります。それは、物事を正しく見ることができない凡夫の、迷いの姿を示しているということです。
○一眼の亀とは→私たち衆生を譬えたもの
○大海とは→私たちの住む娑婆(しゃば)世界を譬えたもの
○亀に手足がないのは→私たちの身に善根が具(そな)わらないことを譬えたもの
○腹の熱いのは→人間の怒りの炎が燃え盛ることを譬えたもの
○背の甲羅が冷たいのは→人間の貪欲(とんよく)の心の冷たさを譬えたもの
○千年の間、大海の底にいるのは→私たちが地獄・餓鬼・畜生の三悪道に墜ちたまま浮かび上がることができないのを譬えたもの
○千年に一度海上に浮かぶのは→三悪道より人間に生まれても、仏様が出世された時に値うことの難しさを譬えたもの
○他の浮木には値いやすく栴壇の浮木には値い難いのは→爾前(にぜん)経には値いやすいけれども法華経(正法)には値い難いことを譬えたもの
○栴壇の浮木には値っても穴が合わないのは→法華経の肝心が知り難いことの譬え
○方角を間違えるのは→勝れた教えを劣っていると思い込み、不成仏の法を成仏の法と思い込み、機根の叶わぬ法を叶う法であると、思い込んでしまうことを譬えたものとなります。
要するにこの譬えは、末法の衆生が、正法(しょうぼう)に縁していくことが、いかに希で難しいことであるかを示したものと言えるのです。
《 “ 現 世 安 穏 ・ 後 生 善 処 ” の 意 味 》
この冊子の副題である、「現世安穏・後生善処」とは、『法華経薬草品第五』に説かれている経文から引用したものです。

『諸(もろもろ)の衆生、是(こ)の法を聞き已(おわ)って現世安穏にして後に善処に生じ、道を以(もっ)て楽を受け、亦(また)法を聞くことを得(う)』
と説かれています。要約すると、「諸の人々は、この仏法をすでに聞くことによって、現世(今生)は安全で穏やかに過ごすことができ、後の世(来世)には、善い環境・境遇のもとに生まれることができ、その因縁・果報によって安楽を受け、来世でも再び仏法を聞く(巡り値う)ことができる」という意味になります。
受け難き人身を受け、値いき難き仏法に値う人は、現世安穏・後生善処の大功徳を得ることが説かれていますが、「一眼の亀」の譬えにもあるように、それは極めて難しいことであると説かれています。
『涅槃経三十三』においても、釈尊が大地から少しの土を取って、それをご自分の爪の上に置いて、弟子の迦葉(かしょう)に、「正法に巡り値う人間は、この爪の上の土のように少なく、正法に値わずに悪道に墜ちる人間は、大地微塵の土よりも多い」と説かれています。
このホームページは、“ピタリと穴の合う栴壇の浮木”“現世安穏・後生善処”“爪の上の土”である仏法(正法)について、愚人である私の理解の範囲内で記していったものです。
このホームページが、受け難き人身を受け、無量無辺劫という長大な時を経て、“ピタリと穴の合う栴壇の浮木”と出会える羅針盤の一助になれることを願っています。

仏は、一眼のために、視界が僻(ひが)んで見えるのは、全てが「不信」(元本の無明=煩悩)によるためであると説いています。
東を東と信じ、西を西と信じて、南北も同様で、この浮木(正法)に到達して、“現世安穏・後生善処”の大功徳を得られることを、切に願ってやみません。
なお、近代の科学が現代に至りようやくたどりついた模型(モデル)が、実はすでに仏法で唱えている空・仮・中の三諦(三つの真理)の一つである空諦の論理であり、仏法は近代科学の先駆けであることが、科学者の間では認識されてきています。
つまり最新科学に至り、科学は仏法にようやく追いついてきたというのです。
またアインシュタインは、自分の理論の先にあるのは、もはや宗教の領域であると語っています。深淵な仏法の核心が、透徹された深い生命哲学と生命科学に裏打ちされたものであることが、最新科学によってようやく認識されはじめた、と言っても過言ではありません。