4 、 仏 法 を 学 ぶ
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本 尊 と 感 応 の 理
以前「信仰することによって、自分と信仰との間に『感応』という現象が生じ、全人格に染め込んでいく働きがあります。(中略)ましてや『信仰』とは、字のごとく、手を合わせて礼拝する程に『信じて仰ぐ』行動様式ですから、その影響は自分と信仰とが一体化してしまう程に、ストレ−トに最大限に全人格に強烈に及ぼしていきます。」と書き、またその例として「狐」と「蛇」を対象にした信仰により、それらと感応した人のことも合わせて書きました。
つまり「狐」や「蛇」のように信仰の対象にしたものが「本尊」(根本として尊敬すべきもの)とよばれるもので、人生の根本として信仰・礼拝する対象のことです。そしてこの本尊との感応によって、生活上において様々な現象が生じてくるのです。
上記のように狐や蛇等の畜生を本尊として信仰すれば、それとの感応によって自分自身が畜生と同様の状態になることを意味します。
畜生の持つ利根や通力によって利益を得ることもありますが、最終的には人間としての人格や理性等は失って畜生の生命と同化してしまいます。
本尊の高低・正邪・浅深は、そのまま信ずる者の人格・人生を決定的に左右するほどの影響をもたらします。ですから大切なことは、いかなる本尊を対象として信仰するかという点です。人間より数段劣る畜生を拝むことは無知以外の何ものでもないでしょう。
浄土宗では阿弥陀如来を本尊とし、真言宗では大日如来を本尊とし、キリスト教では十字架上のキリストを本尊とし、各宗教ごとに自宗で立てる本尊を信仰しています。各宗派は爾前権教(方便教)の教えを基にした本尊を立てていますから、架空なものを崇拝し、また正法に背く謗法の行為ともなっています。
宗派によっては本尊を何回も改変するなど、いい加減なところも多数あります。キリスト教は十字架上で惨死した姿のキリスト像と感応しますから、自身の生命も無惨な傾向に染まっていくことでしょう。実に恐ろしいと言わねばなりません。
ところである有名な宗派の本尊は、総本山の寺院では入手できず、なんと門前の仏具店や仏具兼土産物店で平積み販売されていました。根本として尊崇するところの本尊としては、あまりにも粗略な扱いではないかと驚くばかりでした。
日蓮大聖人は、このような宗教界の本尊の乱れに対して
「諸宗は本尊にまどえり」(開目抄)
「本尊とは勝れたるを用うべし」(本尊問答抄)と、本尊の選択こそが最重要であると指摘しています。そして日蓮大聖人は、
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(草木成仏口決)
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝)
「日蓮がたまひい(魂)を、すみにそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ」
と、妙法の当体を曼荼羅に表して本尊といたしました。
弘安二年十月十二日に顕された本門戒壇の大御本尊(一大秘法)が、その根本の本尊に当たります。この御本尊を根本として信仰・礼拝することにより、御本尊と感応して常・楽・我・浄の仏界が湧現し、過去世からの悪業を転換(「転重軽受の法門」)して、現世安穏・後生善処の大功徳が得られることが説かれています。