5、日 蓮 大 聖 人 の 御 一 生

 

 

【 鎌 倉 期 】

 

    8月26日草庵を鎌倉松葉ケ谷に構える

 

・折伏の第一歩を辻説法で踏み出された

 

○はじめは日蓮只一人・唱へ候いしほどに、見る人値う人聞く人・耳をふさぎ・眼をいからかし・口をひそめ・手をにぎり・歯をかみ、父母・兄弟・師匠ぜんう(善友)も・かたきとなる(中興入道消息)

○此の法門のゆへに二十余所(辻を)をわれ・・・(法門申さるべき様の事)

 

・11月日昭入門・富木常忍入信する

・四条頼基、進士義春、工藤吉隆、池上宗仲、荏原義宗等入信する

 

西暦1258年(正嘉2年)聖寿37歳〜

 

    2月駿河岩本の実相寺の経蔵に入り一切経を閲覧

 

・実相寺に修業中の伯耆公(後の日興上人)が大聖人の弟子となる

 

○去ぬる正嘉年中の大地震、文永元年の大長星の時、内外の智人其の故をうらなひしかども、なにのゆへ、いかなる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、日蓮一切経蔵に入りて勘へたるに(中興入道消息)

○日蓮世間の体を見て粗一切経を勘うるに御祈請験し無く還って凶悪を増長するの由道理文証之を得了んぬ(安国論御勘由来)

 

・2月14日大聖人父重忠(妙日)死去西暦

 

西暦1264年(文応元年)聖寿39歳〜

 

◆ 7月16日立正安国論を幕府に献ず〔第一回の国家諌暁

 

○旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上にはびこる牛馬巷にたおれ骸骨路に充てり死を招くの輩既に大半に超え悲まざるの族敢て一人も無し、(略)此の世早く衰え其の法何ぞ廃れたる是何なる禍に依り何なる誤に由るや。

○世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。

○如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。

○汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、此の詞此の言信ず可く崇む可し。

 

立正安国論の中で、謗法の対治をしなかったならば、薬師経、仁王経等の七難のうち、いまだ顕現していない「自界叛逆の難」(一門の同士討ち)、そして「他国侵ぴつの難」(外敵の来襲)があるであろうと予言し、諌暁された。

 

    8月27日松葉ケ谷法難

 

国主の御用いなき法師なればあやまちたりとも科あらじ(殺しても罪には問われない)とおもひけん念仏者並に檀那等又さるべき人人(極楽寺重時等)も同意したるぞと聞へし夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかどもいかがしたりけん其の夜の害もまぬかれぬ(下山殿消息)

 

西暦1261年(弘長元年)聖寿40歳〜

 

    5月12日伊豆流罪

 

   熱心な念仏者であった極楽寺重時とその子、執権長時らによってただの一度の取り調べもなく、理不尽にも伊豆の伊東に流罪にした。

 

○念仏者等此の由を聞きて上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に・かなわざりしかば、長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ(妙法比丘尼御返事)

○両国の吏・心をあわせたる事なれば殺されぬを・とがにして伊豆の国へながされぬ(破良観等御書)

 

まもなく日興上人は伊東の大聖人のもとに参じて給仕されるかたわら、宇佐美、吉田など、近くの村々に行っては折伏教化に専念し、伊東にも大聖人の帰依者が次第に増えていった。

・11月3日極楽寺重時狂死。(法華経「還著於本人」の現罰)

 

西暦1263年(弘長3年)聖寿42歳〜

 

    2月22日伊豆流罪赦免、鎌倉に帰る

 

日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり此をそしり此をあだむ人を結構せん人は閻浮第一の大難にあうべし、これは日本国をふりゆるがす正嘉の大地震一天を罰する文永の大彗星等なり(撰時抄)

 

西暦1264年(文永元年)聖寿43歳〜

 

    11月11日小松原法難

 

安房東条小松原にて地頭影信に襲撃され、弟子の鏡忍房は打ち殺され、檀那の工藤吉隆は瀕死の重傷を負い間もなく死去、その他の者も深手の傷を負い、大聖人も影信が切りつけた太刀によって右の額に深手の傷を受け、左の手を骨折された。

 

○念仏者は数千万かたうど多く候なり。日蓮は唯一人これなし。いまゝでもいきて候はふかしぎなり。今年も十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものわづかに三四人なり。射る矢はふる雨のごとし、うつ太刀はいなずまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事の手にて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候ひし程にいかゞ候ひけん、うちもらされていまゝでいきてはべり。いよいよ法華経こそ信心まさり候へ(南条兵衛七郎殿御書)

○地頭・東条左衛門影信、大勢を卒して、東条の松原に待ちぶせし奉る。さんざんに射たてまつる、御身には左衛門太刀を抜き切り奉る。御かさを切り破って御つぶりに疵をかぶる、いえての後も疵の口四寸あり、右の御ひたいなり(御伝土代)

○頸を切れ所領を追い出せ等と勧進するが故に日蓮の身に疵を被り弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり、此れ偏に良観・念阿・道阿等の上人の大妄語より出たり(行敏訴状御会通)

 

・日ならずして東条影信狂死。(法華経「還著於本人」の現罰)

 

彼等は法華経十羅刹のせめを・かほりて・はやく失ぬ(報恩抄)

 

・上総・下総・安房・下野において弘教される。

・文永4年8月15日大聖人母梅菊(妙蓮)死去

 

西暦1268年(文永5年)聖寿47歳〜

 

    1月18日蒙古国の牒状鎌倉到着

 

大蒙古国皇帝書を日本国王に奉る。朕惟に小国の君境土相接すれば尚信を講じ睦を修するに務む(中略)好を相通せざれば豈一家の理ならんや、兵を用いるに至る。それいずれか好むところならん、王、其れ之を図れ。文応元年より文永五年後の正月十八日に至るまで九カ年を経て西方大蒙古国自り我が朝を襲う可きの由牒状之を渡す、又同六年重ねて牒状之を渡す、既に勘文之に叶う(立正安国論奥書)

 

    10月11日十一通の諫状を発せられる

 

・国をあげての邪法による祈祷を止めて諸宗の輩を御前に召し合わせて、仏法の邪正をけっすべきであると、強く諸宗との公場対決を迫られた。

・執権北条時宗、宿屋入道、平左衛門尉頼綱、北条弥源太、建長寺道隆、極楽寺良観、大仏殿別当、寿福寺、浄光明寺、多宝寺、長楽寺にあてて送った。

 

○万祈を抛つて諸宗を御前に召し合わせて仏法の邪正を決し給え(北条時宗への御状)

○蒙古国の牒状到来に就いて言上せしめ候いおわんぬ、抑先年日日蓮立正安国論に之を勘えたるが如く少しも違わず普合せしむ(略)早く須く退治を加えて謗法の咎を制すべし(平左衛門尉頼綱への御状)○一代諸経に於て未だ勝劣・浅深を知らず併がら禽獣に同じ忽ち三徳の釈迦如来を抛って、他方仏・菩薩を信ず是豈逆路伽耶陀の者に非ずや(中略)「我慢の心充満し、未だ得ざるを得たりと謂う」の我慢 の心充満し、未だ得ざるを得たりと謂う」の大増上慢の大悪人なり(中略)一処に寄り集りて御評定有る可く候、敢て日蓮が私曲の義に非ず只経論の文に任す処なり(建長寺道隆への御状)

○三学に似たる矯賊の聖人なり、僭聖増上慢にして、今生は国賊来世は那落に墜在せんこと必定なり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し(極楽寺良観への御状)

 

・同じ日に弟子檀那一同に対して『弟子檀那中への御状』を与える

・『十一通の諫状』により、弟子檀那らに大弾圧が加えられる事を予見して覚悟を促された。

 

日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり(中略)少しも妻子眷属を憶うこと莫れ、権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切って仏果を遂げしめ給え

 

     幕府はこの諫状を無視黙殺したが、裏面で大聖人に対する種々の陰険な策謀が行われた。

     極楽寺良観は様々な讒言をもって大聖人の悪評の蔓延を計り、北条一門の実力者及びその閨門等は、大聖人に嫌悪憎嫉の念を抱く

     文永6年11月再び処々へ諫状を送る

 

これほどの僻事申して候へば流・死の二罪の内は一定と存ぜしがいままでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼへ候

 

と『金吾殿御返事』には、再三にわたる強諫によって惹起するであろう流罪・死罪をすでに覚悟され、むしを今まで科のないのは不思議であるとさえ述べられている。

 

西暦1271年(文永8年)聖寿50歳〜

 

    6月18日〜7月4日極楽寺良観、幕府に命じられて雨乞いの祈祷をするも失敗する

 

     法華経の実義を顕わし、邪教の人法を破折すべく、もし雨が降れば良観の勝ち、降らなければ負けとして、いずれが負けても互いに弟子となる約定をする。

 

七日の内に(雨を)ふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房(良観)の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし(中略)又雨ふらずば一向に法華経になるべし(頼基陳状)

 

大聖人から僣聖増上慢、偽善者と破折された上、祈雨の修法でも完敗した良観は、弟子になる約定を破るのみならず、かえって陰険な裏面工作(悪口讒言を権門に吹聴する)の復讐に取りかかる。

 

良観房は涙を流す。弟子檀那同じく声をおしまず口惜しがる。(中略)然れば良観房身の上の恥を思はゞ、跡をくらまして山林にもまじはり、約束のまゝに日蓮が弟子ともなりたらば、道心の少しにてもあるべきに、さはなくして無尽の讒言を構へて、殺罪に申し行なはむとせしは貴き僧か(頼基陳状)

 

◆9月10日問注所に召喚され平左衛門尉頼綱に見参し諫暁する

 

    9月12日諫状(『一昨日御書』)を平左衛門尉頼綱に与える

 

日蓮生を此の土に得て豈吾が国を思わざらんや、依って立正安国論を造って故最明寺入道殿の御時・宿屋の入道を以て見参に入れ畢んぬ(中略)夫れ未萠を知る者は六正の聖臣なり法華を弘むる者は諸仏の使者なり、(中略)抑貴辺は当時天下の棟梁なり何ぞ国中の良材を損せんや、早く賢慮を回して須く異敵を退くべし世を安ずるを忠と為し孝と為す、是れ偏に身の為に之を述べず君の為仏の為神の為一切衆生の為に言上せしむる所なり、

 

この御状に対して頼綱がとって返答は、即日松葉ケ谷を襲い大聖人を召し捕るという、狂乱きわまりない暴力による報復であった。

 

◆9月12日平左衛門尉頼綱、数百人の武装した兵士を率いて松葉ケ谷の草庵を襲う〔第二回の国家諌暁〕

 

○文永八年九月十二日・御勘気をかほる、其の時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ、(中略)平左衛門尉・大将として数百人の兵者にどうまろきせてゑぼうしかけて眼をいからし声をあらうす(中略)平左衛門尉が一の郎従・少輔房と申す者はしりよりて日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出しておもてを三度さいなみて・さんざんとうちちらす、(中略)日蓮・大高声を放ちて申すあらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす〔第二回の国家諌暁〕と・よばはりしかば上下万人あわてて見えし、日蓮こそ御勘気をかほれば・をくして見ゆべかりしに・さはなくして・これはひがことなりやと・をもひけん、兵者どものいろこそ・へんじて見へしか、(種種御振舞御書)

○小菴には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其の室を刎ねこちて・仏像・経巻を諸人にふまするのみならず・糞泥にふみ入れ云々(神国王御書)

○法華経の第五の巻をもって日蓮が面を数箇度打ちたりしは日蓮何とも思はずうれしくぞ侍りし、不軽品の如く身を責め勧持品の如く身に当つて貴し貴し(妙密上人御消息)

○日蓮は此の関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時大音声を放てよばはりし事これなるべし(佐渡御書)

 

    9月12日竜の口の法難

 

・評定所へ連行され、深夜相州竜の口の刑場に連行される。

・評定所での判決は、表向きは「佐渡流罪」であったが内々には斬首の刑に処さんとしていた。

・当時の法律である『御成敗式目』を見ても、一分の世間の罪もなく、ひたすら仏法の正邪を正せと訴えた僧を裁判もなく死刑斬首に処するなどは、法令を無視した常道を逸したものであった。

 

一分の科もなくして佐土の国へ流罪せらる、外には遠流と聞えしかども、内には頸を切ると定めぬ(下山御消息)

 

子の刻(零時ごろ)になって、武具を帯した武蔵守の家来数名に前後を固められ、馬に乗って出発した。若宮小路に出て八幡宮の前まで来た時、大聖人は下馬し、八幡大菩薩に向かって、次のように諌暁された。

 

八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて馬よりさしをりて高声に申すよう、いかに八幡大菩薩はまことの神か(中略)今日蓮は日本第一の法華経の行者なり其の上身に一分のあやまちなし、日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきを・たすけんがために申す法門なり、(中略)さて最後には日蓮・今夜頸切られて霊山浄土へ・まいりてあらん時はまづ天照大神・正八幡こそ起請を用いぬかみにて候いけれとさしきりて教主釈尊に申し上げ候はんずるぞ、いたしと・おぼさば・いそぎいそぎ御計らいあるべしとて又馬にのりぬ。(種種御振舞御書)

 

この時の心境を大聖人は『種種御振舞御書』に、

 

今夜頸切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり、此の娑婆世界にして・きじとなりし時は・たかにつかまれ・ねずみとなりし時は・ねこにくらわれき、或はめこのかたきに身を失いし事・大地微塵より多し、法華経の御ためには一度だも失うことなし、されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず国の恩を報ずべき力なし、今度頸を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん其のあまりは弟子檀那等にはぶくべし

 

と述べられている。この処刑が迅速に行われようとしたことに、平左衛門尉の大聖人への容赦ない姿勢を見ることができるとともに、真夜中の処刑は平左衛門尉が大聖人を闇から闇へ葬り去ろうとした意志の表れでもあった。

知らせを聞いて駆け付けてきた四条金吾は、嘆き悲しみ、刑がもし執行されるならば、我も腹切り果てんと覚悟を決めて竜の口までお供をした。

やがて大聖人は兵士たちの用意した首の座に悠然と端座れれた。そしてかねての手はずどおり、兵士たちは大聖人を取り囲み、その中の一人が太刀を抜き、大聖人の頸を切らんと太刀を振りかざしたその時である。

突如、月のような光り物が江ノ島の方より飛び来った。

暗黒の丑寅の刻、この鞠のような光り物は、一瞬人々の顔をはっきりと映し出した。その強烈な光りに太刀取りは、目がくらみ、その場に倒れ臥してしまった。他の武士たちは皆恐怖におののき、ある者は一町ほども走り逃げ、ある者は馬から降りて平伏し、ある者は馬の上にうずくまってしまうありさまであった。こうした様子は『種種御振舞御書』に次のように生々しく記されている。

 

こしごへたつの口にゆきぬ、此にてぞ有らんずらんと・をもうところに案にたがはず兵士どもうちまはり・さわぎしかば、左衛門の尉申すやう只今なりと(四条金吾が)なく、日蓮申すやう不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰己のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにして人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくまれるものあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよあけば・いかにいかに頸切るべきはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじもなし。

 

やがて長い沈黙の後、相模の依智へ連れて行くよう命令が下され本間六郎左衛門の館に到着したのである。そしてその後、当初の判決である「佐渡流罪」が行われるのである。大聖人は後にこの光り物について『四条金吾殿御消息』に

 

三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頸をたすけ、明星天子は四五日已然に下りて日蓮に見参し給ふ、いま日天子ばかりのこり給ふ、定めて守護あるべきかとたのもしたのもし、法師品に云く「則遣変化人為之作衛護」疑あるべからず、安楽行品に云く「刀杖不加」普門品に云く「刀尋段段壊」此等の経文よも虚事にては候はじ

 

とあり、竜の口の光り物は、諸天の内でも三光天子の月天子による守護であると仰せられている。

また法華経の行者は種々の難に遭うが、同時に必ず諸天の守護を受けることは、法華経の『法師品』『安楽行品』『普門品』等に明らかである。

法界の不思議を説く法華経、その修業によって法界に即して現実の大不思議が現れたのである。大聖人の己心の妙法が即宇宙法界であって、日月衆星をも手中にされる久遠元初の本仏の内証境界における力用であった。

この法難において、凡夫上行日蓮の身より久遠元初自受用報身如来(法界をわが命わが体として「ほしいままに受け用いる身」)、すなわち三世諸仏の根源たる久遠名字の本仏として、その本身を開顕された。(発迹顕本)

 

○日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそらしからず・みん人いかにをぢぬらむ(開目抄)

○三世諸仏の成道はねうしのをわり・とらのきざみの成道なり(上野殿御返事)

 

・10月10日相模依智の本間の館を発し佐渡に向かう

・10月21日越後寺泊に着く