2 、 臨 死 体 験 、 前 世 療 法 

 

 

   啓 典 の 教 義 ( ド グ マ ) 

 

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、神が啓示したまえる啓典(最高啓典)を持つ啓典宗教だということは前に述べたとおりです。この啓典の教義(ドグマ)は絶対とされ、信者は従わなくてはなりません。何故ならば「宗教上のドグマ=絶対に正しい」となるからです。

世界最大の宗教であるキリスト教に「神を愛し隣人を愛せよ」という根本の教義があります。人間は神の無条件、無限の愛によって救済されるのであるから、人間の愛も無条件で無限でなければならないという分けでしょう。 

ところで以前から疑問に思っていたことがあります。それは15世紀から17世紀後半にかけての大航海時代に、未開の地に上陸したキリスト教国のヨ−ロッパ人が行った現地人に対する大虐殺です。

例えばコロンブスが上陸したときのスペイン人が行った行為は、現地人たちの首と両手両足を切り落とし、串刺しにして丸焼きにして焼き肉にしたとあります。

また、ヨ−ロッパのキリスト教諸国は奴隷貿易で大いに富を増し潤いました。15世紀から19世紀にかけてアフリカ大陸から奴隷として連れ去られた黒人は、6000万人とも言われています。

キリスト教徒が現地を征服したあと、原住民を皆殺しにし、その後に黒人奴隷を入れて労働させて富を得たのです。またアメリカ人が原住民であるインディアンを虐殺して土地と財産を奪ったのも同じ流れによるものです。19世紀初めには100万人以上もいたインディアンは、その終わり頃には6000人台にまで激減していたそうですから、その殺戮ぶりが分かろうというものです。また十字軍を派遣して戦争を起こし、侵略し、虐殺を繰り返したことも歴史の知るところです。

「神を愛し隣人を愛せよ」

という根本の教義があり、その一方では多くの罪のない民衆を虐殺したキリスト教諸国の行為が矛盾したものに思え、これが疑問としてありました。

そしてその答えが『旧約聖書』の「ヨシュア記」にありました。引き続き『宗教原論』から引用します。

 

異 民 族 は 皆 殺 し に せ よ (『旧約聖書』の「ヨシュア記」より)

 

神父も牧師も、日本にキリスト教を伝えるものは、パウロの「ロ−マ人への手紙」だとか「創世記」の一部だとか、日本人のセンスに都合のいい個所は教えるけれども「ヨシュア記」は教えない。だが、この「ヨシュア記」にこそ〈宗教の秘密〉は隠されているのだ。

神はイスラエルの民にカナンの地を約束した。ところが、イスラエルの民がしばらくエジプトにいるうちにカナンの地は異民族に占領されていた。そこで、

「主〈神〉はせっかく地を約束してくださいましたけれども、そこには異民族がおります」

といった。すると神はどう答えたか。

「異民族は皆殺しにせよ」

と、こういったのだ。

神の命令は絶対である。絶対に正しい。となれば、異民族は鏖(みなごろし)にしなくてはならない。殺し残したら、それは神の命令に背いたことになる。それは罪だ。したがって「ヨシュア記」を読むと、大人も子供も、女も男も、一人残さず殺したという件がやたらと出てくる。

「イスラエルびとは、荒野に追撃してきたアイの住民をことごとく野で殺し、つるぎをもってひとりも残さず打ち倒したのち、皆アイに帰り、つるぎをもってその町を撃ち滅ぼした。その日アイの人々はことごとく倒れた。その数は男女合わせて一万二千であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった」(第八章二十四〜二十六)

これがジェノサイド(民族鏖)事始。それから後は、殺すわ殺すわ、王とその町の住民を一人残らず鏖(みなごろし)にするのである。女も男も、生れたての赤ちゃんからヨボヨボの老人まで、例外はない。鏖(みなごろし)にせよ!というのが神の命令だからだ。

このようにして、三十一の王とその町々がジェノサイドされたのであった。(「ヨシュア記」第八章〜第十二章)

異教徒の虐殺に次ぐ大虐殺、それは神の命令なのである。神の命令だから虐殺する。敬虔であればあるほど、異教徒は殺さなくてはならないのだから。

「隣人にかぎりなき奉仕をする人」が、同時に大虐殺を行っても矛盾ではない。両方とも神の命令であるからである。

アメリカがイラクに戦争をしかけ軍隊を派遣しているのも、中東地帯での紛争も、それが意識の上では「テロとの戦い」という大義名分はあるものの、その根底にはキリスト教諸国の為政者や人々の奥底に、中世で行ってきたことと共通するキリスト教の教義である「異民族は皆殺しにせよ」等が無意識のなかに刷り込まれていて、政治思想等の根底に、そうした無意識の世界から端を発していることがあるのではないかと危惧しています。

ちなみに「愛」の反対は「憎悪」であり、したがってこの両者は表裏一体となります。また仏教の「愛」は、愛欲、妄執といった煩悩を意味しており、キリスト教の愛とは正反対の意味を持ちます。

さらに仏教では殺生は五悪といって悪因悪果の筆頭に挙げおり、したがって不殺生戒といって五戒の筆頭に挙げて戒めています。この点でも仏教とキリスト教の教えは相反していることになります。