4 、 仏 法 を 学 ぶ
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仏 教 で 説 く 人 間 の 意 識 : 九 識 ( ア マ ラ 識 )
仏教では、この八識の奥にさらに深い「九識」があると説いています。これが最も根源的な宇宙そのものが持つ究極の超意識であると説いております。
この「九識」は、釈尊や日蓮大聖人といったごくわずかな聖人でしか覚知することができない世界です。
わずかに窺い知れることは、この究極の超意識に存在する法則(妙法)を、久遠元初の仏が覚知されて、それを「南無妙法蓮華経」と名付けられたという事です。
極論すれば「九識」という根源的な超意識に働きかけることで「八識」にある悪種子を善種子に転換し(善種子はより高次の善種子に転換し)、それが「七識」を含めた日常の「六識」に発現されて、煩悩即菩提、生死即涅槃という即身成仏の境涯が得られるということです。
そして「九識」という根源的な超意識に働きかける手段が、日蓮大聖人の御図顕された九識本法の法体である「御本尊」を信じて、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え行じることなのです。
過去遠々劫にわたる長大な過去世の因業を変えることは、この方法でしか出来ません。何故ならば実経である法華経で、過去の悪業の根本原因は、正法(妙法)に対する謗法にあると説かれているのですから、正法(妙法)でしか悪業は変えられないのは自明の理です。
法華経で説かれている
「唯仏と仏とのみ、いまし能く諸法の実相を究尽したまえり」
「如来の秘密神通の力」
「是の好き良薬」
「當に知るべし是の妙法は諸仏の秘要なり」
等々はこの御本尊を示唆しています。
妙 法 の 雨 は 九 識 本 法 の 法 体 【第十の仏果より九界へふらす、識分にては八識へふり下りたるなり】
○此の妙法の雨は九識本法の法体なり(中略)ふらすと云うは・上より下へふるを云うなり、仍つて従果向因の義なり、仏に約すれば、第十の仏果より九界へふらす、法体にては・ふる処も・ふらす処も、真如の一理なり識分にては八識へふり下りたるなり、然らば今日日蓮等の類い南無妙法蓮華経を日本国の一切衆生の頂上にふらすを法の雨をふらすと云うなり云々。(御講聞書)
○かかる御本尊を全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて、南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、(略)此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり(日女御前御返事)
御本尊を受持信行することにより、我れ等衆生の胸中の肉団は九識心王真如の都となり妙法が八識以下に働きかけ、実践困難な仏道修業である正八道や六波羅蜜等を行じなくても、悪業が転換できると説かれています。
九 識 心 王 真 如 の 都 【「御本尊への信行」=「九識心王真如の都」】
●六識=五感の「五識」とこれを総合して思考する作用を持つ「意識」1「眼識」、2「耳識」、3「鼻識」、4「舌識」、5「身識」、6「意識」
●七識(末那識)=マナ識: ・六識の根底に存在する、欲望や執念などの煩悩(我執)の元
・夢はこの深層意識の一部
●八識(阿頼耶識)=アラヤ識: ・色(肉体)を離れた超意識で、七識よりもさらに深い深層意識(死後に現れる超意識)
・人間が生きている間に行ってきた行為が、この八識において、「種子」となって蓄積されていく(因果律に基づく輪廻転生の因)
●九識(阿摩羅識)=アマラ識: ・最も根源的な宇宙そのものが持つ究極の超意識(清浄無垢な意識)
・九識本法の法体・究極の超意識に存在する法=妙法
・聖人(仏)がこの法則を覚知して「南無妙法蓮華経」と名付ける→久遠よりの成仏の本種子(妙法)
・「妙法(御本尊)への信行」=「九識心王真如の都」
九識に存在する法則(妙法)の種(仏種)を受けていた本已有善の人々は、釈尊在世や正法、像法時代において漸全に八識を清浄にすることが可能となり成仏できました。しかし末法は本未有善の人々のために、妙法の種を受けなければ成仏はかないません。
本已有善の人々は病気に譬えると軽症患者といえます。釈尊の仏法で十分に治癒できる人たちです。しかし末法に生まれてくる本未有善の人々は重病患者にあたります。
釈尊の仏法ではその薬の効果は薄く、白法隠没と言ってもはや人々の苦悩を救うことは出来ません。末法には、それに相応しい大良薬(重篤に利く強い良薬)を処方する人が必要になります。そこで成仏するために必要な妙法の本種子(八識「一切種子識、無没識」にある過去世からの法謗による悪因の種を滅する種子)を釈尊から上行菩薩に付属されて、下種といって末法の人々にこの妙法の本種子(九識本法の法体)を植えるように託されたのです。
しかしこれはあくまでも法華経の文上に記された事で、内証は釈尊の師匠にあたる御本仏(久遠の当初に妙法を覚知され、この妙法の本種子を所持されている仏)に末法の下種を託されました。
法華経如来寿量品第十六に『我本行菩薩道』【我もと菩薩の道を行じて】とあり、釈尊が五百塵点劫の時に、この妙法を修業したことが説かれています。したがって、この妙法を所持されている仏は、釈尊の師匠にあたる御本仏になります。
この妙法の本種子(九識本法の法体)の下種によって、業の大本である煩悩を直ちに浄化転用して菩提に用うるところが大聖人の下種仏法です。
六根清浄というのは即身成仏と同義です。日蓮大聖人の仏法は、九識本法の法体である妙法(御本尊)への信行により、煩悩即菩提、生死即涅槃の原理によって「不断煩悩、不離五欲」と仰せのように、あえて煩悩を断ずることもなく、五欲を離れることもなく、六根清浄の功徳を得て、その身そのままに凡身が仏身に転じていくことができるのです。