5、日 蓮 大 聖 人 の 御 一 生

 

 

【 身 延 入 山 】

 

◆5月12日鎌倉を発つ

 

又何なる不思議にやあるらん他事には・ことにして日蓮が申す事は御用いなし、(中略)本よりごせし事なれば三度・国をいさめんに・もちゐずば国をさるべしと、されば同五月十二日にかまくらを・いでて此の山に入る、(種種御振舞御書)

 

〈隠栖の理由〉

 

・四恩(父母・師匠・三宝・国)報謝の読経唱題に専念するため

・後世のために法義等を書き残すために閑静な地を必要とした

・弟子たちに対する教育の場と環境を必要とした

     法門の中枢たる「本門の大御本尊」(三大秘法)の確立を図る

 

〈身延の地を選ばれた理由〉

 

・信頼する日興上人の勧めによる

・信頼する日興上人の弘教の地である

・戒壇を建立すべき最勝の地である富士山に近い

・鎌倉からも遠からず、門下への連絡も比較的容易にできる

・深山の趣きがあり隠栖の地として不足がない

 

    5月17日波木井郷に着く

 

隠栖が目的であり、身延山が最終目的地ではなかった

 

○いまださだまらずといえども、たいし(大旨)はこの山中・心中に叶いて候へば・しばらくは候はんずらむ(富木殿御書)

○今たまたま御勘気ゆりたれども鎌倉中にも且くも身をやどし迹を・とどむべき処なければ・かかる山中の石のはざま松の下に身を隠し心を静む(法蓮抄)

 

    6月17日身延沢に庵室成る

 

去ぬる文永十一年六月十七日に・この山のなかに・きをうちきりて・かりそめにあじち(庵室)をつくりて候云々(庵室修復書)

 

「かりそめにあじち」として庵室を築かれてより弘安五年に至るまでの九年間、この身延の深山に居住され、身延の沢から一度も出られることはなかった。その間における生活は、決して豊かではなかった。御供養の品々も弟子たちを養うにはとても十分ではなく、実に質素きわまる生活であった。

そのような中にあっても、昼夜に法華経を読誦し論談するという、心ゆくまでの修行の毎日を過ごされた。

 

○此の郷の内・戌亥の方に入りて二十余里あり、北は身延山・南は鷹取山・西は七面山・東は天子山なり、板を四枚つい立てたるが如し、此の外を回りて四つの河あり、北より南へ富士河・西より東へ早河此れは後なり、前に西より東へ波木井河の内に一つの滝あり身延河と名けたり(中略)此の四山・四河の中に手の広さ程の平かなる処あり、ここに庵室を結んで云々(秋元御書)

○富人なくして五穀ともし・商人なくして人あつまることなし・七月なんどは・しほ(塩)一升を、ぜに百・しほ五合を麦一斗にかへ候しが・今はぜんたい・しほなし・何を以てか・かうべき・みそも・たえぬ(上野殿御返事)

○此の身延の山には石は多けれども餅なし、こけ多けれどもうちしく物候はず、木の皮をはいでしき物とす(莚三枚御書)

○昼は日をみず夜は月を拝せず(種種御振舞御書)

○処は山の中・風はげしく庵室はかごの目の如し(四条金吾許御文)

○十二のはしら四方にかふべをなげ・四方のかべは・一そこにたうれぬ(秋元御書)

○法華読誦の音、青天に響き、一乗談議の言、山中に聞ゆ(忘持経事)

○今年一百よ人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談議して候ぞ(曽谷殿御返事)

 

◆ 10月蒙古来襲(文永の役)

 

○同十月に大蒙古国よせて壱岐・対馬の二箇国を打ち取らるるのみならず、太宰府もやぶられて少弐入道・大友等さきににげ其の外の兵者ども其の事ともなく大体うたれぬ(種種御振舞御書)

○十月に蒙古国より筑紫によせて有りしに対馬の者かたまて有りしに・宗総馬の尉逃ければ、百姓等は男をば或は殺し或は生取にし・女をば或は取り集めて手をとをして船に結い付け・或は生け取りにす・一人も助かる者なし(一谷入道御書)

○是れ偏に仏法の邪見なるによる(曽谷入道殿御書)

 

ついに大聖人の予言は的中し約25000余の蒙古の大軍が九州博多に来襲した。

 

西暦1275年(建治元年)聖寿54歳〜

 

    9月7日蒙古の使者杜世忠を竜の口において斬首

 

蒙古の人の頸を刎られ候事承り候日本国の敵にて候念仏真言禅律等の法師は切られずして科なき蒙古の使の頸を刎られ候ける事こそ不便に候へ(蒙古使御書)

 

災難の元凶であり、不幸の根源である邪宗謗法の僧侶たちこそ斬罪に処すべきであるのに、そうでなく、何の罪も武力の持たない蒙古の使が頸を刎ねられたことに同情を寄せられ、いよいよ悩乱する幕府と日本の行く末を案じられる。

 

    1月熱原神四郎、弥五郎、弥六郎入信

 

西暦1279年(弘安2年)聖寿58歳〜

 

◆ 8月法華衆徒の弥四郎が法敵に首を斬られる

 

    9月21日熱原の信徒神四郎、弥五郎、弥六郎等二十名の法華衆徒が下方の政所へ勾留される〔熱原の法難〕

 

今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野坊は乗馬相具し熱原の百姓・紀次郎男・点札を立て作毛を苅り取日秀の住坊に取り入れ畢んぬ云々(滝泉寺申状)

 

熱原の滝泉寺の院主代・行智らは自分たちの生活と権力が侵害されることに危機感を強め、下方庄にある政所役人と結託し、また神四郎と膚があわず反感を抱いていた長男弥藤次を籠絡し、弥藤次に上記のように事実と全く正反対の訴状を作らせ、鎌倉の問注所に告訴した。

捕らえられた神四郎等の二十人は、その日のうちに、弥藤次の訴状とともに鎌倉へ押送された。

 

◆ 10月12日本門戒壇の大御本尊を建立

 

○日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ(経王殿御返事)

○一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり(草木成仏口決)

○今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり、されば此の題目には余時を交えば僻事なるべし、此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり(御講聞書)

○仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり(聖人御難事)○今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。此の時地湧千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし(観心本尊抄)

○是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か(法華取要抄)

○寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり(三大秘法禀承事)

○此の三大秘法は二千余年の当初・地湧千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の三大事なり(三大秘法禀承事)

○正直に方便を捨て但法華経(御本尊)を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり(当体義抄)○日蓮一期の弘法(本門戒壇の大御本尊)、白蓮阿闍梨日興に之を付属す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主、此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり(一期弘法付属書)○日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を授与す(日興跡条々事)

 

久遠元初本仏の真の仏境仏智の当体である三大秘法整足の戒壇の大御本尊を顕された。

 

    10月15日熱原神四郎、弥五郎、弥六郎、鎌倉にて刑死する

 

鎌倉において神四郎等を裁くのは、大聖人を憎んで数々の迫害を加えてきた平左衛門尉頼綱であった。速やかに法華の題目を捨てて念仏を称えるとの起請文を書くよう脅し、それに従わぬと見るや、ひさめの矢を次男の飯沼判官資宗に射らせ、最後には斬首した。

 

     日興上人の『本尊分与帳』

 

「其の後十四年を経て平の入道判官父子、謀反を発して誅せられ畢わんぬ。父子これただ事にあらず、法華の現罰を蒙れり」

 

と記され、権勢をほしいままにした平左衛門尉頼綱一族ははかなく滅亡した。

 

西暦1280年(弘安3年)聖寿59歳〜

 

    1月11日日興に法華本門宗血脈相承(百六箇抄)を相伝する

 

直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり(中略)日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり(中略)建長配流の日も文永流罪の時も其の外諸処の大難の折節も先陣をかけ日蓮に影の形に随うが如くせしなり誰か之を疑わんや(中略)又御本尊書写の事予が顕し奉るが如くなるべし、若し日蓮御判と書かずんば天神地祗もよも用い給わじ、上行無辺行と持国と浄行安立行と毘沙門との間には若悩乱者・頭破七分・有供養者・福過十号と之を書す可きなり、経中の明文意に任す可きか。

 

西暦1281年(弘安4年)聖寿60歳〜

 

    5月21日蒙古来襲(弘安の役)

 

江南軍と東路軍の両軍14万2千人、船艦4400艘という空前の大軍であった。『八幡愚童訓』に

 

「人民堪兼ねて妻子を引具して深山に逃げ籠る処、赤子の鳴声を聞き付けて、押し寄せ殺しける程、片時の命も惜しければ、さいも愛する嬰児をさし殺してぞ隠れける、子を失い親ばかりいつ迄あらん命ぞとし泣き歎く心中いかにせん、世の中に糸惜しき物は子なりけり、それにまさるは我身なりけり」

 

とあるように、対馬・壱岐の島民は筆舌に尽くせない悲惨な状態に遭遇した。

大聖人はこの国難に対して、弟子及び信徒に向けて日蓮の予言の的中を誇るようなことがあってはならないと厳しく誡告されている。また予言が的中したことで、日蓮をばけ物だと言う人々の有様が記されている。

朝廷や幕府は諸宗に異国降伏や戦勝の祈祷・祈願を命じたが、暴風雨が吹いたことを神威によるものとして、祈祷の効果を強調し、それぞれ我がもの顔に誇示し始めた。それに対して大聖人は、毎年やって来る台風のために敵船が破損しただけのことであって、諸山諸神の祈祷の結果などではないと仰せられている。

 

○小蒙古の人・大日本国に寄せ来るの事、我が門弟並びに檀那等の中に若し他人に向い将又自ら言語に及ぶ可からず、若し此の旨に違背せば門弟を離すべき等の由・存知せる所なり、此の旨を以て人々に示す可く候なり(小蒙古御書)

○弘安四年五月以前には日本の上下万人一人も蒙古の責めにあふべしともおぼさざりしを日本国に只日蓮一人計りかかる事・此の国に出来すべしとしる(中略)日蓮が申せし事はあたりたりばけ物のもの申す様にこそ候めれ(光日上人御返事)

○今亦彼の僧侶の御弟子達・御祈祷承はられて候げに候あひだいつもの事なれば秋風に纔(わずか)の水に敵船・賊船なんどの破損仕りて候を大将軍生取たりなんど申し祈り成就の由を申し候げに候なり、又蒙古の大王の頸の参りて候かと問い給うべし其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず(富城入道殿御返事)

 

西暦1282年(弘安5年)聖寿61歳〜

 

    9月日興上人を唯授一人本門弘通の大導師と定め身延相承書(日蓮一期弘法付嘱書)を賜う

 

日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主、此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒壇と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年壬午九月日日蓮在御判血脈の次第 日蓮日興 

 

日興上人は十三歳の正嘉二年に大聖人の門弟になってから、二十有余年にわたって、師弟相対の至誠を尽くされた。弘長元年、大聖人の伊豆配流を始めとして、最大の艱苦であった二年半にわたる佐渡流罪の具奉、その他数々の法難に際しても、大聖人の身に影の添うがごとく、行住坐臥にわたり常に給仕し、その随身を通して大聖人の精神のすべてを、我が身に受けとめられた。

 

此の経は相伝に有らざれば知り難し(中略)此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり(一代聖教大意)

 

と相伝を通して拝することが重要であることを述べられている。

 

    9月8日身延出山

 

約三十年にわたって数々の大難に遭いながら、妙法の弘通して来られた大聖人の御身体は次第に衰弱され、御弟子方の願いによって常陸の温泉に療養するため身延を出られた。

 

    9月18日池上着

 

武州池上の信者・池上宗仲の邸に立ち寄られたが、大聖人の御身体の衰弱はにわかに進んでいった。

 

◆ 10月11日日興上人に法華本門宗血脈相承事(本因妙抄)を賜う

 

    10月13日日興上人を身延山久遠寺の別当と定め身延山付嘱書(池上相承書)を賜う

 

釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当師たるべきなり、背く在家出家どもの輩は悲法の衆たるべきなり。弘安五年壬午十月十三日武州池上 日蓮在御判

 

日蓮大聖人におかれては、御弟子の中から日興上人御一人を選ばれ御自身の悟られた甚深の法のすべてを譲り与えられ、大聖人御入滅後の後継者と定められた。このように、あまたの弟子の中から、もっとも資質の勝れた方をただ一人選び、仏法の極理を授け与えられることを「唯授一人の血脈相承」といい、これによって大聖人の仏法は断絶することなく、後世に正しく伝わっていく。

この唯授一人の血脈を根本として、枝末たる信心の血脈が流れるのである。(総別の二義)

 

    10月13日辰の刻池上宗仲の邸にて御入滅

 

枕辺に安置してあった釈尊の立像仏を退けて、御本仏の法魂たる大曼荼羅本尊を掛けさせられ、弟子や檀越等が唱題されるなか、辰の刻(午前八時頃)安祥として御入滅された。その時、突如大地が震動し、池上邸の庭には初冬にもかかわらず桜の花がいっせいに咲き誇ったという。

この妙瑞は、御本仏日蓮大聖人の入滅を宇宙法界の生命が惜しみ奉ると同時に、本仏の入滅は滅に非ざる滅であり、滅に即して常住の妙相を示すという深甚の意義を持つ。

 

    10月14日戌の刻入棺子の刻葬送〔御火葬〕

 

西暦1283年(弘安6年)聖滅2年〜

 

 1月諸直弟子身延御廟輪番の制を定め百ケ日忌を修す

 

    10月13日日興上人、身延に大聖人第一周忌を修す

 

西暦1289年(正応2年)聖滅8年〜

 

◆ 10月13日日興上人、身延に大聖人第三周忌を修す

 

    春 日興上人、身延を離山し河合を経て富士上野南条の館に入る〔身延離山〕

 

身延の地頭・波木井実長の四箇の謗法行為及び学頭の日向の不法等により、身延の地は悪鬼魔神の栖とり、大聖人の正法正義を厳守するために離山を決意された。

四箇の謗法行為とは

・日朗が奪い取った一体仏の代わりに、立像の釈迦仏を造立した。

・謗法の社寺(伊豆山権現、三島神社等)への参詣供養を始めた。

・波木井一門の勧進として、南部の郷内の福士の塔の供養に奉加。

・九品念仏の道場を造立したこと。

 

身延沢を罷り出て候事、面目なき本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ詮にて候え。さりともと思い奉るに御弟子悉く師敵対せられ候いぬ。日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候えば、本意忘るること無くて候(原殿御返事)

 

と、断腸の思いをもって、全山雪の降り積もる中を、本門戒壇の大御本尊を始め、大聖人の御霊骨、御遺文、御遺物の一切を奉持し、日目、日華、日秀、日尊等の弟子と共に身延の地を離れたのである。

なお今日の身延山の堂塔は、徳川時代初期、大聖人のお住まいになられた久遠寺とは反対側の場所に、わざわざ山を削って建てたもので大聖人の霊廟でも何でもない。

境内の札所では曼荼羅本尊は入手出来ず(販売されておらず)、何故か門前にある仏具店や仏具兼土産物店にて平積み販売されている

 

西暦1290年(正応3年)聖滅9年〜

 

    10月13日大石寺建立

 

上野の地頭南条時光の招請を受け、さらに南条家より霊山浄土にも似たらん最勝の地、富士の麓の大石が原の寄進を受けられた。ここに、日興上人は一宇を建立し、本門戒壇の大御本尊を始め一切の宝物を安置し、令法久住、広宣流布の礎を築く決意をされた。

「時を待つ可きのみ」との遺命のままに、日蓮大聖人の法塔は連綿として多宝富士大日蓮華山大石寺に伝えられている。

 

西暦1332年(元徳4年)聖滅51年〜

 

◆ 11月10日日興上人より『日興跡条々事』と称される譲り状が日目上人へ授与される。

 

○日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊、日目に之を授与す

○大石寺は、御堂と云い墓所と云い、日目之を管領し、修理を加え、勤行を致し、広宣流布を待つべきなり

 

日興上人は日目上人に継承され、以後日目上人は日道上人にと、あたかも一器の水を一器に移すがごとく、大聖人の仏法のすべては、御歴代上人方に継承され、今日まで日蓮正宗富士大石寺に伝えられてきている。

日蓮宗を始め、日蓮仏法を標榜する宗派はあまたあるが、日蓮大聖人の出世の本懐である「本門戒壇の大御本尊」の法体の付嘱を始め、唯授一人の血脈相承を受けられた正統な方は、日興上人なのである。

 

「建長配流の日も文永流罪の時も其の外諸処の大難の折節も先陣をかけ日蓮に影の形に随うが如くせしなり誰か之を疑わんや」(百六箇抄)

 

と伊豆流罪・佐渡流罪を始め身延隠栖の時も付き従い、文永・建治・弘安の各期を通じて常随給仕・体信了解した日興上人であることは明らかである。したがって「南無妙法蓮華経」と唱えていれば、日蓮大聖人の仏法であると思うのは間違いであり、堕地獄の因を結んでしまう。

 

「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(一代聖教大意)

 

なのである。