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教 え 子 の 死
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社 会 人 と し て の ス タ − ト
昭和53年(1978年)4月1日付けで東京都公立小学校教員に採用された私は、自然豊かな地で暮らすことを夢見て、島嶼(伊豆諸島)の小学校に希望して赴任しました。 当時は教員採用試験に合格すると、第三希望まで希望地を記入することになっており、第一希望に指定した伊豆諸島の校長たちとの面接を、浜松町にある島嶼会館で行い、その中の一つの学校に赴任することが決まりました。
それは竹芝桟橋から、当時2000〜3000トン級の東海汽船で約12時間あまりの航海を要した、伊豆七島の一つにある小学校でした。 今と違って飛行場はなく、また高速船も就航していない時代で、僻地5級(青ケ島、御蔵島、小笠原島と並ぶ最僻地のランク)に指定されていた学校でした。
しかし学校は緑の山を背にして、校舎からも海を見渡せる明るく開放的な環境で、東京とは名ばかりの、雄大で美しい大自然に囲まれた学校と島でした。
また一学年が一クラスの単学級で、全校合わせても児童数は100人台の学校で、初めて受け持ったクラスは27名の5年生でした。 学区域内に教職員住宅があったので、土日も何かしら子ども達と会い、そのまま一緒に終日遊んで過ごすなど、楽しい日々を送っていました。
、 しかし学校はというと、当時は授業を楽しい魅力あるものにする工夫が不十分で、教師としての力量不足からよく叱ったり、時には平手打ちを食らわせたりした事等、思い出の大部分は「申し訳ない」という反省しか、自分の中では残っていませんでした。 島の学校を転任した後は、その反省から教材開発に力を入れて、楽しい授業作りを重点的に取り組んで来ました。それは教師としての力量を身に付けて、いつの日か再び島の子ども達と過ごしたいと考えたからでした。
そのような中で月日は流れ、平成15年のある日、予想もしていなかったクラス会のお誘いがあり、それは一泊二日の日程で、初秋の箱根のホテルで行われました。
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2 3 年 ぶ り の 同 窓 会
面白いもので20年以上も立つのに、どの教え子にも小学生当時の面影が見られたのです。体格も声も話す内容も違うのに、ちょっとした表情や話し方やしぐさなどに、その当時の面影が見られ、その当時の感覚が蘇ってきました。
またすでに良き父親や母親、それに社会人となったかつての教え子達から、当時の思い出を聞く中で、私の記憶には完全に消えていた記憶がよみがえり、懐かしさが倍増しました。
例えば土曜の午後や休日に子ども達が教職員住宅に遊びに来た時に、私がみそラ−メンを作って食べさせてくれたのがうまかったという話を聞き、それはおそらく具無しの「サッポロ一番」というインスタントラ−メンで、味はお世辞にもうまいとは言えない代物ではなかったかと、徐ゝに思い出されてきました。
また私が当時部屋で聞いていた、フォ−クソング歌手の曲(岡林信康が歌った「ヘライデ」)が面白くて、その音楽テ−プを私からもらい、今でも大切に持って聞いているという話を聞いて、大爆笑してしまいました。 それはあまりにもお下劣な歌詞なので詳細は省略しますが、35歳を過ぎた父親でもあるこの教え子が、このお下劣な曲のテ−プをいまだに大切に持っていて、しかもそれをいまだに聞いて楽しんでいることがおかしかったからです。
教え子達から聞く思い出話はまだまだ続き、教員住宅でよく泊めてもらったという事も語られました。 そういえば教職員住宅の決まりで、児童や生徒は泊めてはいけないことになっていましたが、公然の秘密でよく泊めていたことなどを思い出しました。 たしか三畳ほどの台所と四畳半の広さの小汚い部屋で、3〜4人の男子児童とざこ寝をして一夜を明かしたという記憶です。
その他にも楽しい事がらがいくつも出てきて、私自身が「そんな事もあったのか」と驚くとともに、新卒当時の島での出来事を懐かしく思い出していました。
悪がきどもが、今ではりっぱな社会人や父親、母親として一家の支え手となって生活していることに、感慨深いものがありました。 漁師として如何にも海の男といった風情をもつ者、大工の棟梁として一軒家を建てる技量を身に付けた者、家族の写真を見せてくれる父親顔の者、主婦として子育てをするかつての女の子たち、島内に留まるのみならず東京や横浜、宇都宮などの内地(島ではそう呼んでいますが)に出て生活を営む者等々、皆一人前として自立して生きていることに強い感慨を覚えました。
都内の学校では考えられないほど、島では子ども達との濃密な関係がつくれたことに、今さらながら島の良さを認識しました。
新卒でのスタ−トが島の学校でしたから、教員生活の最後も島の学校で終えたかったのですが、さまざまな事情で都内 箱根の同窓会に参加して、教員をやっていて良かったと、しみじみと思う一時が過ごせました。さらに5年後に再び同窓会を開催する話も出て、その時が来るのを楽しみにしているところです。 しかし誰も触れたがらない共通の辛い思い出が一つありました。
それは、わずか10歳でこの世を去ってしまった一人の男の子の記憶です。運動神経や人柄が良く、男の子の中でもリ−ダ−的な存在の子でした。
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事 故 の 一 報
昭和53年(1978年)12月25日の午前中に2学期の終業式がありました。私はその日の夜に東京の 翌26日の昼に、学校から「至急連絡をしてほしい」という電話が、外出中の板橋の自宅に入りました。 帰宅後何事かといぶかしく思いながらも学校へ電話をすると、5年生の保護者でもある事務の人から 「Mが交通事故に遭った!ヘリコプタ−で東京女子医科大学の病院に搬送された。」 という寝耳に水の内容でした。
事務の人の話によると、M君はこの日自転車で友だち数人と釣りに出かけ、海岸線に沿って作られていた島一番の見通しの良い直線道路(片側一車線)を走っていた時、後ろから一台の自動車がやって来たそうです。 その車はクラクションを鳴らしながら、加速させて自転車を右側(反対車線)から追い越そうとしたそうです。
車の運転者はクラクションを鳴らせば、自転車の男の子達は車に気づいて左側によけると考えたのでしょう。しかも減速せずにスピ−ドは80km程出していたそうです。 道路の中央付近を走っていたこのM君はクラクションを聞いて、後ろから来た車はそのままの車線で走り去るだろうと思ったのでしょうか、自転車を右(反対車線)に移動させてしまいました。
あるいは左側には他の子の自転車が寄っていたので、右側の方が避けやすかったのかもしれません。 自転車はこの自動車に追突されて、M君は20m程はね飛ばされて、道路に叩き付けられてしまいました。
頭部を強打したM君は、耳や鼻から出血が見られ、緊急用のヘリポ−トからヘリコプタ−で都内の病院に搬送されていきました。
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病 院 へ
すでに30年近くになろうかという当時の状況は、今なお生々しく記憶しています。 電話であらましを聞いた私は、すぐに東京女子医科大学付属病院に駆け付けましたが、M君はまだ病院には到着していませんでした。
しばらくして一台の救急車が到着すると、中からM君の父親と父親に抱きかかえられるようにして、泣きはらした母親が降りてきました。次に頭部を包帯で覆われ、目をつぶった姿のM君が担架で降ろされ、すぐに救急治療室に搬入されて行きました。
それが生前に見たM君の最後の姿になりました。
病院には私の他には東京近郊に住んでいるM君の叔母という人が駆けつけていました。 夕方になり、御両親が医者に呼ばれて病室に入って行きました。しばらくして病室から出てきた両親の姿を見て言葉を失いました。
悲嘆にくれて取り乱す母親を、蒼白な顔色の父親がしっかりと抱きかかえて無言で出てきたからです。
M君の様子や治療の見通しなど、とても聞ける状況ではありませんでした。
病院の待合室に夜遅く迄いた私に、叔母という人から 「後は私が病院に残っています。何かありましたら連絡いたしますので、一旦お引き取りになってお休みください。」 と促されたので、私は板橋にある自宅に戻って休むことにしました。
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真 夜 中 の 電 話
日付けの変わった12月27日の深夜3時頃、自宅に一本の電話が掛かってきました。それは病院に残っていたM君の叔母からのもので、
「夜分申し訳ありません。Mはつい先程亡くなりました。先ずは先生にこのことをお知らせいたします。」 というものでした。
電話口から聞こえてくる叔母の声は、悲しみを押し殺した沈痛なものでした。 ◆
初 め て 見 る 遺 体
27日の午前中に病院に駆け付けると、M君は霊安室に安置されていました。 寝ているような表情でしたが、色は青白く、鼻や耳には綿の詰め物がしてありました。 つい二日前の終業式の日は、元気に過ごしていたというのに、このような変わり果てた姿になろうとは、運命の残酷さに打ちのめされる思いでした。
母親は私の姿を認めると、泣きながら「先生、息子はだめでした。」と言うなり、後は言葉になりませんでした。
初めて経験する事ばかりで、このような時にどのような言葉をかけ、何をしたらよいか見当もつかず、私はただうつむいて悲しむ事しか出来ませんでした。 先生とは言っても社会に出てからまだ1年もたたない弱輩ものでしかありません。しかも遺体と出会ったのは私の人生においてこれが初めての出来事でした。悪夢ならば早く覚めてほしいと心底願いました。 間もなく葬儀屋が来て親族の立ち合いのもと納棺の作業が行われ、終了後に棺に納められたM君の姿と対面して愕然としました。
小さな棺に納められたM君の姿があまりにも痛ましかったからです。
着物姿の死に装束で、足には脚半が巻かれ藁ぞうりが履かされていました。棺の中には金剛杖が置かれ手には念珠が握られており、腰には頭陀袋と六文銭を入れた袋がかけられていました。 菅笠が被せられ、それは死出の旅に一人出かけるというさびしい姿でした。 これで無事に黄泉の世界に辿り着けられるのであろうか。浄土に行けて幸せに暮らせるのであろうか。 そもそも命とは何なのか。死ねば無なのか、それともあの世という世界が存在して生き続けるのか、あるいは死は肉体だけで、生命は存在し続けて再び生まれ変わるものなのかと、このM君の死出の姿を前にして考えざるを得ませんでした。 それは 「いままで存在していた生命とは何か」 「若くして死なねばならない運命は偶然なのか」 「このような深い悲しみを何故受けねばならないのか」 「人は何のために存在するのか」 等々の難問を突きつけられた出来事でもありました。
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病院から下田港、下田港から島へ
お昼ごろ、M君の親戚だという若い男性のワゴン車に棺を載せ、M君の両親と私がつき添って伊豆半島の先端に近い下田港に向かいました。
5時間あまりの車中では、ステ−ションワゴンの荷台に載せられた棺を母親がしっかりと抱きかかえ、食事や休憩を取る事もなく、「M、M」 と男の子の名前を呼び続け、流した涙は枯れる事なく泣き続けていました。
私にできる事は、ただ島までつき添って行くことだけでした。
下田港に着くと、すでに島の漁船が待機していて、ワゴン車から小さな棺を船内に移動させました。 そのとき漁師の人が悲痛な表情で 「こんな姿になって戻ってきてや−!」 と言った一言がいまだに耳に残っています。
小さな漁船の揺れは大きく、2時間以上の船旅は辛いはずでしたが、深い悲しみと異常な出来事が神経を麻痺させたようで、船酔いは感じませんでした。
棺には小さな窓が付いていて、船内でも母親が扉を開けては 「M、M」 と名前を呼び、棺を抱きかかえては名前を呼び、絶えることなく泣き続けていました。
島に着いた時には日はすでにとっぷりと暮れ、港の照明が眼に飛び込んできました。 港には多くの島民がM君の到着を待っていました。 船が着くと、島の人達の中からすすり泣きや号泣する声が聞こえ、この事故に対する島の人達の深い悲しみを知ることになりました。
上陸をして安堵すると共に、島の人達の悲しみに接して再度涙をこらえていると、近くにいた見ず知らずのおじいさんが私のそばに寄ってきて言いました。
「先生、お願いだから泣かんでくれ、お願いだから泣かんでくれよ。」 と、泣きながら懇願していました。
島の人達は、厳しい自然の中で生活してきており、特に漁師は気性が荒いと言われていますが、一人の少年の死の悲しみを、深く共有する島の人達の心根を、はっきりと感じ取ることができました。
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島 で の 葬 儀
病院から島に帰るまで身近にいたM君は、島に戻ってきてからは、親族らのもとに引き取られていき、葬儀以外は教職員住宅で一人で過ごす時間が長くなりました。 教職員住宅の賄い(食事)は冬休みのためにお休みで、観光客もいないこの時期は、どこも食堂は閉っていて、3度の食事はカップラ−メンでしのいでいました。
帰省で誰もいなくなった教職員住宅に夜一人でいると、M君の死に装束が浮かんできます。そして 「M君の魂は今どうなっているのか」 等の自問自答が繰り返されます。 「M君に私がしてあげられる事は何かないのであろうか。」
「最高、最上の供養をしてあげられないだろうか。」
「そうした供養があるならば是非してあげたい。」
そのようなことを強く考えるようになりました。
お通夜・告別式と目まぐるしく時間が過ぎていきました。
葬儀が終っていよいよ棺の埋葬(土葬)という段になっても、母親がM君の棺に取り付いて離れようとしない状況で、親族らしい人達によって母親が無理やり棺から引き離されました。 棺を抱きかかえていた両手が空を切り、M君の名前を絶叫し連呼する中で、棺は掘られてあった穴の中へと入れられていきました。 母親の我が子に対する深い愛情と絆の強さを目の当たりにし、それゆえに愛別離苦(愛する者と離別する苦しみ)の悲しさを感じざるを得ませんでした。
「M君の死を無駄にしたくない。短い生涯だったが大きな使命があったと思いたい。今度生まれ変わってきたらもっとずっと長生きできるように祈りたい。」 と心底思いました。 何故ならばM君の命日となった12月27日は、私の23回目の誕生日でもあったからです。 M君の命日と私の誕生日の一致は、私には一段と強い衝撃となりました。
「もしかしたらM君は、私を正しい信仰につかせる使命をもって今世に生まれてきたのではないだろうか。」 あるいは
「私が信仰につくことによって、M君の死は単なる事故死(無駄死に)ではなく、大きな意味のある死に昇華する事につながるのではないか」 「M君の死がきっかけとなって私が正しい信仰に入り、その活動によって他の人達が幸せになっていければ、その功徳はM君にももたらされ、それがM君の善業を積む事になり、輪廻転生後の来世は、後生善処となって幸せな人生を送ることにつながるのではないか」 等々と考えるようになりました。
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重 た い 課 題 と 向 き 合 う
「生命とは何なのか。」 「死ねば無なのか、それともあの世という世界が存在して生き続けるのか。」 「死は肉体だけで、生命は存在し続けて再び生まれ変わるものなのか。」 「幸不幸や運不運は偶然の産物なのか」
「因果応報、自業自得は真理なのか」
「人生の苦しみや無情は克服できるのか」
「様々な宗教があるが、どの宗教が一番優れていて正しい教えなのか」
「そもそも宗教とは、マルクスが批判したようにアヘンの類であり、現実の生活においては何の利益も与えない、現実逃避のものなのか」
「釈尊が説いた仏教の最高真理(最高経典)は一つのはずなのに、なぜ拠り所とする経文に違いがあり、それによって宗派が複数存在し、その数だけ根本として尊崇する本尊が様々に存在するのか」
等々の模索が始まりました。
どれも重たいテ−マであり、凡人である私が理解できることではありません。しかし、過去の先人達の足跡の中に、こうしたテ−マに対して光明を見出された記録が必ずある事を信じて、学んでいくことにしました。
そうした中で釈尊が説いた 「人生は一切皆苦である」 という厳しい苦悩の現実を、煩悩即菩提、生死即涅槃、娑婆即寂光と開き、現世安穏・後生善処の大果報を得る道が仏法に厳然と示されていることを、やがて私は知ることになるのですが、その仏法と真剣に向きあうきっかけになったのが、この1978年12月27日のM君の事故死だったのです。 |
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