2 、 臨 死 体 験 、 前 世 療 法 

 

   三 世 の 生 命 観 

 

仏教(釈尊=釈迦牟尼世尊の教えで、サ−キャ族から出たこの世で最も尊ばれる聖者、すなわち悟った人の教え)では、生命は過去・現在・未来の三世にわたって生死を繰り返しているという生命観が説かれています。

さらに人生は三世両重の因果といって、三世にわたる因果の理法によって定まることを説いています。

また仏説には五濁(劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁)という人間が持つ5種類の濁りがあり、その中には三世の生命観を否定する思想的濁りがあることが説かれています。そうした煩悩が

「たった1度しかない人生だから」とか

「人間死ねば全てが無になる」

という誤った考え方につながっていくことになります。こうした五濁や煩悩が強い人にとっては、

「生命は三世にわたって生死を繰り返している」

とは、とうてい信じがたく、また受け入れ難いことでしょう。またこうした三世にわたる因果応報を信じないからこそ、刹那的に生きたり、あるいは凶悪な殺人や強盗、横領や振り込め詐欺等の犯罪が蔓延していく土壌にもなるわけです。

「ばれなければやった者勝ち」

は、五濁や煩悩に犯された人間の特徴といえるでしょう。

そこで三世の生命観を証明する入口ともなる「臨死体験」や「前世療法」等の例を、少し紹介していきたいと思います。

 

   臨 死 体 験 

 

一例として、1994年に文藝春秋から出版された立花隆氏の「臨死体験(上下)」という本を取り上げます。

この本はNHK特集で放送された番組の内容を深めたものです。

仏教書以外の書籍に接している時に、仏教に結びつく事がらや深く関連した内容と出合うことがありますが、これなどはその好例といえるでしょう。

その「臨死体験(上下)」から一部抜粋します。

この本によると、臨死によって起きる体外離脱現象を以下のようにまとめています。

 

体 外 離 脱 現 象 の 主 要 な 特 徴

 

体外離脱現象を神経生理学的に研究してるカルフォルニア大学デ−ビス校のC・Tタ−ト教授は、体外離脱現象の主要な特徴として、次の五項目をあげている。

 

(1)浮遊すること

(2)外側から自分の肉体をみること

(3)外側にいて遠く離れた場所を思い浮かべると、即座にそこに移動すること

(4)非物質的な体を作っていること

(5)その体験が夢でないことを確信していること

 

体験者によっては、強い光に包まれたり、三途の河に行き当たったり、お花畑や死んだ親族に出会うという体験をします。

臨死体験は、死後の世界を現実に体験したのだとする「現実体験説」と、脳内に生まれたイメ−ジにすぎないとする「脳内現象説」の二説があります。

次にこの本に書かれている多くの体験例から一例をあげますが、この例は「脳内現象説」では説明がつかない非常に興味深い事例です。

 

臨 死 体 験 (ある救急患者の例)

 

彼女(キンバリ−・クラ−ク・シャ−プ)はワシントン大学医学部に進み、大学院生のときに、付属病院でアルバイトがてら、ソ−シャルワ−カ−の仕事をしていた。

そして1976年の春、臨死体験の患者に出会う。(現在はワシントン大学医学部教授で、ソ−シャルワ−カ−もしている)

患者はマリアという名前の五十代の女性だった。メキシコからやってきた貧しい季節労働者で、シアトルの友人を訪ねてきたときに突然心臓発作に襲われ、救急車で病院の救急救命センタ−にかつぎこまれた。「マリアは貧しかったので、病院に払うお金が全然なく、ソ−シャルワ−カ−の私が全部面倒を見てやらなければなりませんでした。そういうことをしてやったので、マリアはきっとわたしに信頼感をもち、あとで臨死体験を打ち明けてくれたんだと思います。

彼女が入院して三日目のことでした。彼女の心臓が突然停止してしまって、大騒ぎになりました。そのとき彼女は、二階の救急治療室にいました。彼女の体にはいろんなチュ−ブやワイヤ−がつながれて、ベッドのまわりはいろんな装置やモニタ−でいっぱいでした。

心停止の警報とともに沢山の医者や看護婦がかけつけて、心臓マッサ−ジをしたり、酸素を吸わせたり、注射をしたり大騒ぎでした。それをわたしは、入口のところに立って見ていました。しばらくして、マリアは息を吹き返し、意識を回復したので、わたしは安心して自分の部屋に戻りました。

その日の夕方、救急治療室の看護婦から電話がかかってきて、すぐ来てくれというのです。マリアがわたしに会いたがっているというのです。マリアの精神状態が普通じゃなくて、異常に興奮してベッドの上で暴れまわっているというのです。また心臓発作でも起きたら大変だから彼女に会って、気をしずめてやってくれというのです」

マリアのところに行ってみると、マリアはキンバリ−の腕をつかみ、自分のほうに引きよせると、自分は、医者や看護婦が蘇生処置をほどこしているとき、自分の体から抜け出して天井の上の方から一部始終を見ていたと語り始めた。

それは典型的な臨死体験だったが、キンバリ−はまだ臨死体験について何の知識ももっていなかった。ム−ディの本が当時出版されたばかりだったが、彼女はまだ読んでいなかった。

「そのときベッドのまわりに誰と誰がいて、誰は何をやっていたかということを、マリアは正しく語りました。わたしは自分でもその場面を入口のところから見ていたので、マリアのいうことが正しいとわかりました。

しかし、だからといって、マリアが体から抜け出して天井から見ていたとは思いませんでした。

わたしはマリアは耳がきこえていたんだなと思いました。人間が死ぬとき、聴覚は最後まで生き残るといわれていますから、それは十分ありえることです。

マリアはその救急治療室に二日もいたので、救急事態にお医者さんたちがどう行動するかを基本的に知っていたわけです。だから、耳が聞こえていれば、その情報から頭の中でその場面を再構築することが可能だと思ったのです。

しかし、そういう解釈では理解できないことをマリアは話はじめたのです」

マリアは医者たちの作業を見ているのにあきて、何か他のことをしようと思った瞬間、今度は救急治療室の窓のすぐ外の、病院の玄関の上のあたりの空間にいたというのである。

救急治療室からそこに移動するというプロセスはなくて、一瞬にしてそちらに移っていたという。

「そしてそこから何を見たかをいろいろと話してくれたのですが、それも現実とよく合っていました。しかし、それは、病室の窓から見れば見えることなので、はじめは何かの機会に窓から外を見たのだろうと考えたのですが、よく考えてみると彼女には外を見る機会は全くなかったのです。

彼女のベッドは二階の救急治療室の真ん中あたりにあって、そこから窓の外の空は見えても地表を見るということは絶対にできません。彼女は入院するとすぐに、チュ−ブやワイヤ−でいろんな機器につながれてしまいましたから、ベッドの上で起き上がったり、立ち上がって歩くなどということはできないのです。

トイレも全部ベッドの上で看護婦さんにやってもらっていました。そして、病院にかつぎこまれたのは夜で、たとえそのとき意識がはっきりしていたとしても、彼女が詳しく話したような周囲の状況はとても見てとれないのです。

さらにマリアの話を聞いていくと、彼女はもっと驚くべきことをいいはじめました。」

マリアはその玄関の上の空間から、もう一度瞬間的に移動した。そこはやはり病院の一画だったが、彼女の病室があるあたりとは別の場所だった。マリアはそこの三階あたりの窓の外側にいた。その窓枠の下のところがちょっと外に張り出していた。そこにブル−のテニス用シュ−ズの片一方だけがのっかっているのをマリアは見た。その靴は小指のところがすり切れていて、靴ひもがほどけて、かかとの下にたぐり入れられているといった細かいところまで見た。それは夢や幻ではなくて、本当にこの目で見たのだから、きっとどこかにあるにちがいない。それを探して取ってきてくれと彼女はキンバリ−に頼んだのである。「そのときは、まさかそんなことがと思いました。しかし、マリアがあんまり真剣に頼むので、それじゃ探してきてあげるといって、まず外に出ました。

三階の窓のところを見あげて病院をグルッとまわってみましたが、そんなものはどこにも見当たりません。やっぱりと思いましたが、念のためと思って、次に三階にあがり、部屋を一つ一つ訪ねて、窓のところをのぞいて歩きました。すると驚いたことには、ある病室の窓のところに、マリアがいった通りのテニスシュ−ズがあったのです。

それは片一方だけで、色はブル−で、小指のところがすり切れていて、靴ひもがかかとの下に入っているのも、マリアのいった通りでした。これはもうショックでした。マリアがこの靴の存在を事前に知るということは絶対にありえないことです。

その窓は三階で、マリアの病室は二階です。その窓は病院の西側に面していて、マリアの病室は北側なのです。マリア以外の人にも、その靴は絶対に見えません。下から見あげても窓枠に邪魔されて見えません。窓を開けるか、窓のすぐそばによって、下を見れば見えますがそれ以外では見えません。近くの建物からなら見えるのではと思われるかもしれませんが、病院の西側は開けた土地でずっと建物がないのです」

− なんでそんなところにそんな靴があったんですか。(質問者)

「それは全くわかりません。謎です。いつからあったのかもわかりません。ただその病室は、精神異常の人が入っていたことがある部屋だったので、そういう人が置いたのかもしれません」(略)

「その靴をマリアのところに持っていくと、マリアはとても喜びました。マリアは自分が見たものが幻覚ではなくて、現実であるということを確かめたかったのです。自分の頭がおかしくなったのではなく、本当にそういう体験をしたのだということを人にも信じてもらいたかったのです。

彼女は、その体験は、人の死後、魂が肉体から抜け出るということなんだと受け取ったようでした。それを魂と名づけるべきがどうかは別として、マリアの体験が示すものは、感覚的な体験をすることができる何らかの主体が、肉体を離れて、自由にどこにでも飛んでいけたということです。

その主体には、肉体の中にあったときと同じ意識が保持されていて、その間の記憶も保持されているのです。肉体から『その人自身』が離れるのです。

臨死体験者はみな体外離脱して自分の肉体を見るときに、肉体はまるでモノのようにそこにころがっていたといいそれを見ていた自分こそが本当の自分だったといいます」

 

以上この書籍から見てきたように臨死体験とそれにともなう体外離脱体験は、「死=無」ではなく、「死=空」、仏教で説くところの「三世の生命」の真理を暗示しているのではないでしょうか。

さらに臨死体験は本当の死ではありませんから、死後の自我(意識)はどうなっていくのかという事は証明のしようがありません。しかし次のような催眠療法を使って、人間の潜在意識という無意識の世界の領域に踏み込んで、過去世を明らかにしていく「前世療法」という分野がありますので大変参考になると思います。

 

 

   前 世 療 法 ( 書 籍 か ら ) 

 

そのきっかけは精神科の医師が精神療法として催眠術を行い、幼少時代の出来事を思い出させて治療を施すという催眠療法からでした。

それは退行催眠中に医師の曖昧な指示によって、患者の前世の記憶を呼び覚ませてしまったことから始まりました。

今では著名な医師や心理学者、研究者たちが実施していて、アメリカやヨ−ロッパを中心に各地で目ざましい成果を上げています。ここではアメリカのエ−ル大学大学院医学部で医学博士号を取得し、マイアミ大学付属病院の精神科首席教授も勤めたことのあるブライアン・L・ワイス医師が、シナイ山医療センタ−の精神科部長になって、一年ほどになってキャサリンというある患者の治療に当たった時の記録で、その著書「前世療法@A」(PHP研究所)からの抜粋です。

 

前 世 療 法 (ある女性患者の例)

 

彼女は二十代後半の女性で、不安感、恐怖感、強迫観念、うつ病、そして悪夢に悩んでいました。

これらの症状は子どもの頃からずっと続いていて、しかも悪化しつつありました。一年以上にわたって、従来の精神療法をいろいろ試してみましたが、彼女の症状は一向によくなりませんでした。それぐらい治療をすれば、もっと良くなるはずなのにと私は思いました。

彼女は病院の実験室で働いている技術者でしたから、頭も良く、治療から良い結果を得るための理解力も十分持っていたからです。

彼女の本来的な性格から考えても、そんなに治りにくいはずはありませんでした。むしろ、彼女の経歴からすれば、もっと良くなってよいはずでした。

ただ、キャサリンは息がつまるのを極度に恐れていたために、薬を飲むのを一切拒否していました。そのため、私は抗うつ剤や精神安定剤等の薬を使うことができませんでしたが、この薬に対する強い拒否反応が、結局は良い結果をもたらすことになりました。

ついに、キャサリンは催眠術を試してみることに同意しました。

催眠術によって意識を過去に集中させて、子ども時代の出来事を思い出し、病気の原因となった心の傷や恐怖を探り出そうとしたのです。

キャサリンは深い催眠状態に入り、普通の意識では決して思い出すことのできない数々の出来事を思い出し始めました。

子どもの時に飛び込み台の上で後ろから押されて水の中に落ち、溺れて息ができなくなった事件、歯医者に行った時にガスマスクを顔の上にのせられて、びっくりして息がつまった時のこと等を思い出しました。

そして、一番悲惨な出来事として、三歳の時に酒に酔った父親から性的ないたずらをされたことも思い出しました。その時、父親は彼女が騒がないように、大きな手で彼女の口をおおい、そのためキャサリンは息ができませんでした。

これで病気の理由がはっきりしたと、私は確信しました。すぐに病気は良くなると思ったのです。ところが、彼女の症状は一向に良くなりません。私には信じられませんでした。もっと良い結果が出ると期待していたからです。

行きづまった私は、彼女の潜在意識の深い所にまだ隠された精神的な傷があるに違いないと思いました。三歳の時に父親にいたずらされたということは、もっと小さい時にも同じような体験があったのではないか、と考えたからです。そこでもう一度、退行催眠を試してみることにしました。

次の週、私は再びキャサリンに催眠術をかけ、深い催眠状態に導きました。しかしこの時、私はうっかり、具体的な指示のかわりにごく大ざっぱな誘導をしてしまったのです。

「あなたの症状の原因となった時期まで、戻って下さい」

と私は指示しました。

キャサリンがもう一度、幼児時代に戻るだろうと思ったのです。しかし、彼女はおよそ四千年も前の古代の中近東の人生に戻ってしまったのです。

そこで彼女は、今とまったく別の顔と肉体、髪の毛と名前を持っていました。その場所の風土、人々の服装、日常生活の細々としたことまで、彼女は詳しく思い出しました。その上、当時の自分の人生に起きた様々な事件も思い出したのです。

最後に、大きな津波に襲われて、抱いていた赤ん坊を波にさらわれた上、自分も溺れて死んだことを思い出しました。そして死んだあと、彼女は自分の死体の上を漂っていました。

この日の退行催眠で、キャサリンは他に二つの過去世について思い出しました。一つは十八世紀のスペインで売春婦だった時のもの、もう一つは中近東での人生から何百年かあと、ギリシャ人の女性だった時のものでした。

私は大変なショックを受け、どうしても信じられませんでした。それまでの数年間私は何百人もの患者に催眠療法を行ってきました。しかし、こんなことは一度も起こりませんでした。また、キャサリンにはすでに一年以上も集中的な精神療法を行っていましたので、彼女のことは十分よく知っているつもりでした。

彼女は精神分裂病ではありませんし、幻聴、幻覚、白日夢などの兆候もなく、多重人格者でもなければ、特に暗示に弱いタイプでもありませんでした。それに、薬物やアルコ−ルの中毒にもかかっていないことは、よくわかっていました。

そこで、彼女の見たものは幻想か、一種の夢のようなものだろうと、私は結論を出したのでした。

しかし、不思議なことが起こりました。キャサリンの症状が急激に良くなり始めたのです。

幻想や夢の一種では、こんな急速な回復は起こりません。毎週、彼女が催眠術によって過去世を思い出すたびに、以前には手に負えなかった症状が消えてゆきました。そして、二〜三カ月たつと、彼女は薬の力を借りずに完全に治ってしまいました。

私のかたくなな懐疑主義も次第に消えてゆきました。キャサリンは十二にものぼる過去世へ退行し、それによって彼女の病気は治ってしまいました。

彼女はひどい不安や根深い死の恐怖から解放され、今ではとても幸せな楽しい人生を送っています。そして自分で意識できる記憶や人格より、ずっと大きな広がりを持つものが存在していて、それは肉体的な死をも超越して存続していくことを、彼女は知っています。

キャサリンとの一連の体験を経て、私の精神療法の見方は、大きく変わり始めました。過去世に戻るこの療法によって、これまで何年も何か月もかけて多額の費用を費やしても治療の難しかった精神的症状を、すみやかに治療できることを発見したのです。この方法こそ、心の痛みや恐怖をいやす、より直接的で効果のある方法だったのです。

私はこの退行催眠療法を他の患者にも応用し、すばらしい効果をあげることができました。現在までに個別に何百人という患者に退行催眠を行っています。またその何倍もの人々に対し、グル−プで退行催眠を行っています。

過去世を思い出すことによって、患者の多くは様々な恐怖症、パニック、悪夢、理由のわからない恐れ、肥満、対人関係不適応症、肉体的な苦痛や病気等から解放されました。

体や心の症状がいやされるよりもっと大切なことは、私たちの肉体が死んでも、私たち自身は死なないということを知ることです。私たちは死にません。肉体は滅んでも生き続けているのです。

 

 

   前 世 療 法 ( テ レ ビ 番 組 か ら ) 

 

非常に興味深い療法ですが、先日も某テレビ番組で催眠療法による前世の記憶を呼び起こす場面が放送されていましたが、真面目なタレントもこの療法を体験しており、その様子を見る限り、テレビ局によるやらせとは思えない内容でした。

療法を行うのは日本催眠療法協会代表理事の吉田弘子という年配の女性で、15年にわたり退行催眠による治療を約3000人に行ってきたスペシャリストでした。

この理事によると、前世はだれにでもあり、映画を見るような見方をする人もいるし、様々な見方をすると言います。療法を行うに当たっては、現在抱えている不安や悩み、それに身体的な特徴などを質問します。

療法はまず、意識の中に自然の景色をイメ−ジさせることから始まります。その後過去にさかのぼる映像をイメ−ジさせて潜在意識を呼び起こし、前世へと誘います。何故前世の世界に導くのかその理由を尋ねると、

「ただ単に前世の世界を見せているわけではなく、現世で抱えている悩みは前世からの影響を受けている事が多いので、前世を体験してその人の心になることで不安や悩みが解消するように前世療法を行うのです。」

と述べていました。

前世療法を体験したタレントとは、佐藤藍子という目に力と特徴がある女優でした。

体験した結果わかったことを要約すると、彼女は2000年前のエジプトで「エイン」と呼ばれた時代に導かれ、18〜19歳頃は宮殿に住む名家の娘でした。ところが父親は家臣に殺され、エインの彼氏は彼女の家柄目当てに近づきます。

30歳頃のエインは囚われの身となり一人獄中に入っています。そして来世では人がいっぱいいて笑顔がある暮らし、愛される人生を願って壁に頭を打ちつけて自殺をします。

その際エインは生きた証を現世に示そうとして小指と人差し指の間に印を付けました。この女優の小指と人差し指の間には5ミリほどのあざが付いています。

治療体験終了後の感想では、治療中はイメ−ジが次々と出てきて夢を見ているようだった事や、意識は半分あり、自分の言ったことははっきりと覚えているという事でした。また自分の口から「エイン」という名前が出て驚いたが、後日調べてみると、この「エイン」とい言葉は「目」を意味するアラビア語で、現代では一般的でないものの、古風な名前としてエジプトに存在していることが分かりました。

佐藤藍子という目に力と特徴がある女優と、「目」を意味するアラビア語のエインとの因果関係には、正直どきりとさせられました。

 

 

   ソ ウ ル メ イ ト ( 魂 の 絆 ) 

 

番組はさらに前世と現世の密接な因果性を検証するべく、双子の兄弟を使っての前世療法も行いました。双子の兄弟は今売出中の漫才師兄弟の「ザ・たっち」です。兄弟はそれぞれ別々に前世療法を行い、その結果分かったことは、この兄弟は前世では直接のつながりはなく、ある人物を核としてつながっていることが分かりました。

この双子の兄弟は、別々の次代と場所で育ち、二人とも孤独な生涯を終えました。

母と兄は16世紀で親子として過ごし、母と弟は18世紀で親子として過ごしました。またこの母は同一人物だと考えられます。

「来世では悲しい人生を歩ませたくない」

という母の魂が現世で二人を引き合わせ、双子の兄弟となってつながりました。

 前世から密接な関係が続いている間柄をソウルメイト(魂の絆)と言いますが、この兄弟の場合は母親がそのソウルメイトになっていたことが分かります。

自分の周囲にいる家族や気の合う友人、恋人、夫婦等々は、前世から密接な関係が続いているソウルメイトの可能性が非常に高いといいます。また出会った瞬間、あるいは身近にいて一緒に仕事等過ごしていくうちに、心が癒されていくような、あるいは魅かれていくような関係は、このソウルメイトと関係があるように思われます。

前出のキャサリンの場合も、このソウルメイトが過去世に頻繁に登場し、それは現世でも続いているそうです。

 

 

   前 世 を 記 憶 す る 子 ど も た ち

 

 アメリカのバ−ジニア大学の精神医療チ−ムが、前世の記憶を持つというインドの子どもたちの現地調査を誠実に行った研究があり、その代表例をイアン・スティ−ブンソン博士らが『前世を記憶する子どもたち』という本にまとめています。

例えば、インドのニュ−デリ−で誕生したシャンティという少女は、十歳になった頃に両親に

「自分はムトラ(ニュ−デリ−から約一千キロ離れた町)に住んでいた主婦で、年は三十三歳だった」

と言い出しました。

少女が話す町の様子は、約20年前のムトラの町と酷似していたために(無論少女はその町には一度もいったことがない)、それから3年後に科学記者との同行でこの町を訪れました。

少女は懐かしそうに案内しながら、ある家の前で歩みを止めて、そこが自分の家であることを告げたのです。

13歳の少女はその家から出てきた40歳代の男性に向かって

「あなた、随分老けたわね!」

と取りすがり、もう一人出てきた20歳代の男性の息子に向かっては

「ああ坊や!私の大切なかわいい子!」

と言って強く包容し、泣き続けました。

この話を知ったバ−ジニア大学の精神医療チ−ムが現地調査を綿密に行い、シャンティの話は事実であると断定しました。

こうした調査の結果、事実であると肯定せざるを得ない前世の記憶を持つ子どもたちの例が20人紹介されています。

ここで紹介した臨死体験や前世療法の他、催眠術によって前世や輪廻転生に迫る著書も多数出版されています。こうした書籍に接すると、三世の生命観や三世両重の因果の正しさが、おぼろげながらも理解されてくると思います。

いずれにしてもこうした事例は仏法で説く「三世の生命」「輪廻転生」が真理である事の一端を示していると言えるのではないでしょうか。

「臨死体験」「前世療法」だけでも最近ようやく認知され始めたばかりなのですが、仏法では三千年も前に、こうした生命の真理を仏眼などの五通力によって覚知し、説かれていることに驚きを感じてしまいます。

 

 

   仏 教 と 他 宗 教 

 

世の中には、キリスト教、イスラム教をはじめ、様々な宗教が存在(氾濫)していますが、三世に渡る因果(原因と結果の密接な相関関係)を説いている宗教は仏教以外には見当たりません。また新興宗教の中にはこの因果の理法を説いているものもありますが、仏教からその義を盗み、本尊もいい加減なもので、営利目的である事は明らかです。(なお以下の他宗教の概要については、小室直樹著の『日本人のための宗教原論』/徳間書房を参考にさせていただきました。)

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、天地を創造した全知全能遍在の人格的唯一絶対の人格神を実在する「神」とし、ユダヤ教のヤハウェが収束してキリスト教に伝え、それはまたイスラム教のアッラ−ともなりました。

そしてキリスト教はその神をイエス=キリストとして崇拝し、それをただ信じるだけで救われると説いています。

またユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、神が啓示したまえる啓典(最高啓典)を持つ啓典宗教です。ですからこれらの啓典(ユダヤ教の『ト−ラ−』、キリスト教の『福音書』(聖書)、イスラム教の『コ−ラン』)に書かれていることが神の絶対の教えになります。

つまりこれらの宗教の根底にあるものは、人格を持った「神」が存在し、その神が全てを創造したとされていることです。

ところが仏教でいう「仏」とは、この「神」とは根本的な違いがあります。それは、絶対的なものは久遠の昔から大宇宙に存在する真理や法則といった「法」であり、その法を覚知した(悟った)人が「仏陀」(悟りを開いた人)とよばれ「仏」と言われるのです。

つまり久遠の昔から存在するのは「神」ではなく「法」であり、その「法」を悟った人が「仏」となったのです。ですから「法前仏後」となるわけです。したがって、仏とはインドで誕生した釈尊だけでなく、それ以前にも存在していたことが経典に説かれています。

ただし「仏」となる人は、久遠の昔から何世にもわたる厳しい修業や徳を積み重ねてきて法を悟った人なのだと説かれています。

それに対してキリスト教などの説く「神」は、はじめに神が実在していて、後から他の全ての実在するものを創造したのであり、それは人間などの命あるものや「法」までもを含むとされています。ですから「神前法後」となります。

違いを要約すると、仏教は、「法」が聖人・賢人(仏)が悟ろうが悟るまいが厳然として存在していると説いているのに対して、キリスト教などは、「神」が「法」を含めた大宇宙の全ての天地を創造したと説いている事です。 

両者のもう一つの大きな違いは、仏教は、業因業果・因果応報、すなわち三世に渡る因果の理法(因果関係)を徹底して説いている因果説に対して、特にキリスト教は、原因に関係なく結果があると説いている事です。結果は全て神が一方的に決めていて、全ては必ずそのとおりの結果になるという予定説です。

言い方を変えると、そうなった原因は神の意志によるものであり、それが結果であるというものです。

例えばある児童がいじめにあったとします。その原因を究明すると、仏教ではその児童がいじめにあう何らかの原因(その前にいじめた側の児童の悪口を言っていたとか、教師自身がからかっていたとか)があったからだとされます。それに対してキリスト教では、全知全能遍在の人格的唯一絶対の人格神である「神」がそうなるように決めたからだという、神の意志が原因となります。

例えばある人間が不治の病で死んだとします。その原因を究明すると、仏教では過去世においてその人間が行った悪業により、悪因がその人の命(第八識=アラヤ識))に刻み込まれ、それが今世の定業となって不治の病を引き起こした事にあるとなります。それに対してキリスト教では、全知全能遍在の人格的唯一絶対の人格神である「神」がそうなるように決めたからだという、神の意志が原因となります。また神は何故、何のためにそう決めたのかは神のみぞ知るところであり、その下部である人間の知らしむべきことではないのです。

両者には「法前仏後」VS「神前法後」、「因果説」VS「予定説」という教義の根本的な違いがあります。

 

 

   啓 典 の 教 義 ( ド グ マ ) 

 

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、神が啓示したまえる啓典(最高啓典)を持つ啓典宗教だということは前に述べたとおりです。この啓典の教義(ドグマ)は絶対とされ、信者は従わなくてはなりません。何故ならば「宗教上のドグマ=絶対に正しい」となるからです。

世界最大の宗教であるキリスト教に「神を愛し隣人を愛せよ」という根本の教義があります。人間は神の無条件、無限の愛によって救済されるのであるから、人間の愛も無条件で無限でなければならないという分けでしょう。 

ところで以前から疑問に思っていたことがあります。それは15世紀から17世紀後半にかけての大航海時代に、未開の地に上陸したキリスト教国のヨ−ロッパ人が行った現地人に対する大虐殺です。

例えばコロンブスが上陸したときのスペイン人が行った行為は、現地人たちの首と両手両足を切り落とし、串刺しにして丸焼きにして焼き肉にしたとあります。

また、ヨ−ロッパのキリスト教諸国は奴隷貿易で大いに富を増し潤いました。15世紀から19世紀にかけてアフリカ大陸から奴隷として連れ去られた黒人は、6000万人とも言われています。

キリスト教徒が現地を征服したあと、原住民を皆殺しにし、その後に黒人奴隷を入れて労働させて富を得たのです。またアメリカ人が原住民であるインディアンを虐殺して土地と財産を奪ったのも同じ流れによるものです。19世紀初めには100万人以上もいたインディアンは、その終わり頃には6000人台にまで激減していたそうですから、その殺戮ぶりが分かろうというものです。また十字軍を派遣して戦争を起こし、侵略し、虐殺を繰り返したことも歴史の知るところです。

「神を愛し隣人を愛せよ」

という根本の教義があり、その一方では多くの罪のない民衆を虐殺したキリスト教諸国の行為が矛盾したものに思え、これが疑問としてありました。

そしてその答えが『旧約聖書』の「ヨシュア記」にありました。引き続き『宗教原論』から引用します。

 

異 民 族 は 皆 殺 し に せ よ (『旧約聖書』の「ヨシュア記」より)

 

神父も牧師も、日本にキリスト教を伝えるものは、パウロの「ロ−マ人への手紙」だとか「創世記」の一部だとか、日本人のセンスに都合のいい個所は教えるけれども「ヨシュア記」は教えない。だが、この「ヨシュア記」にこそ〈宗教の秘密〉は隠されているのだ。

神はイスラエルの民にカナンの地を約束した。ところが、イスラエルの民がしばらくエジプトにいるうちにカナンの地は異民族に占領されていた。そこで、

「主〈神〉はせっかく地を約束してくださいましたけれども、そこには異民族がおります」

といった。すると神はどう答えたか。

「異民族は皆殺しにせよ」

と、こういったのだ。

神の命令は絶対である。絶対に正しい。となれば、異民族は鏖(みなごろし)にしなくてはならない。殺し残したら、それは神の命令に背いたことになる。それは罪だ。したがって「ヨシュア記」を読むと、大人も子供も、女も男も、一人残さず殺したという件がやたらと出てくる。

「イスラエルびとは、荒野に追撃してきたアイの住民をことごとく野で殺し、つるぎをもってひとりも残さず打ち倒したのち、皆アイに帰り、つるぎをもってその町を撃ち滅ぼした。その日アイの人々はことごとく倒れた。その数は男女合わせて一万二千であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった」(第八章二十四〜二十六)

これがジェノサイド(民族鏖)事始。それから後は、殺すわ殺すわ、王とその町の住民を一人残らず鏖(みなごろし)にするのである。女も男も、生れたての赤ちゃんからヨボヨボの老人まで、例外はない。鏖(みなごろし)にせよ!というのが神の命令だからだ。

このようにして、三十一の王とその町々がジェノサイドされたのであった。(「ヨシュア記」第八章〜第十二章)

異教徒の虐殺に次ぐ大虐殺、それは神の命令なのである。神の命令だから虐殺する。敬虔であればあるほど、異教徒は殺さなくてはならないのだから。

「隣人にかぎりなき奉仕をする人」が、同時に大虐殺を行っても矛盾ではない。両方とも神の命令であるからである。

アメリカがイラクに戦争をしかけ軍隊を派遣しているのも、中東地帯での紛争も、それが意識の上では「テロとの戦い」という大義名分はあるものの、その根底にはキリスト教諸国の為政者や人々の奥底に、中世で行ってきたことと共通するキリスト教の教義である「異民族は皆殺しにせよ」等が無意識のなかに刷り込まれていて、政治思想等の根底に、そうした無意識の世界から端を発していることがあるのではないかと危惧しています。

ちなみに「愛」の反対は「憎悪」であり、したがってこの両者は表裏一体となります。また仏教の「愛」は、愛欲、妄執といった煩悩を意味しており、キリスト教の愛とは正反対の意味を持ちます。

さらに仏教では殺生は五悪といって悪因悪果の筆頭に挙げおり、したがって不殺生戒といって五戒の筆頭に挙げて戒めています。この点でも仏教とキリスト教の教えは相反していることになります。

 

 

   宗 教 は 「 行 動 様 式 」 を と も な い 「 感 応 」 と い う 現 象 が 生 じ る 

 

このように教義(ドグマ)に従うのが宗教なのですから、例えばオウム真理教の敬虔な信者達は、このオウム真理教のドグマ(といっても浅原彰晃教祖が勝手に都合よく創り上げたのだが)に従って忠実にサリンを撒いて大量無差別殺人を行い、忠実に坂本弁護士一家や不都合な人間をポアしていきました。それが絶対的な正義だからです。

その結果ドグマに忠実に従った信者は、そのほとんどが死刑囚として、現世を終えようとしています。ですから「宗教はその選択を誤ると非常に恐ろしい!」ということを知るべきなのです。

宗教は「行動様式」をともない、人間を意識(六識)的、無意識(七識〜九識)的に突き動かしていきます。つまり信仰することによって、自分と信仰との間に「感応」という現象が生じ、全人格に染め込んでいく働きがあります。

相手に対する信頼や尊敬の念が強ければ強いほど、相手から受ける影響も大きくなるのと同じです。ましてや「信仰」とは、字のごとく、手を合わせて礼拝する程に「信じて仰ぐ」行動様式ですから、その影響は自分と信仰とが一体化してしまう程に、ストレ−トに最大限に全人格に強烈に及ぼしていきます。

例えば熱心に稲荷(「狐」)信仰をしていた人が、ある瞬間に全く狐のようにピョンと跳ねたり、狐付きにあったりする現象は、両者の間で一体化(感応)したことによる表れです。

また別の例では、ある時白装束に身を固め、手には数珠を握り締めたご婦人と道ですれ違い、何気なくそのご婦人の顔を見てぞっとしたことがありました。この世の憎しみと恨みの全てを表情に込めたような、本当におぞましく凄じい形相をしていたからです。後にも先にもあの表情は未だにお目にかかったことがないくらいです。思わず振り返ってしまいましたが、その白装束の後ろには、ある蛇神社の名前が書き込まれていて、その修業を終えた帰りのようでした。畜生である「蛇」と一体化(感応)した姿を目の当たりにした瞬間でした。

宗教にはこのような力があるので、安易に選択しては大変なことになります。

「宗教はその選択を誤ると非常に恐ろしい!」

ということを肝に銘じるべきなのです。だからといって無宗教ならば良いかというと、それもまた怖いことなのですが、それは別のところで述べていきたいと思います。

 

 

   実 在 す る 「 神 」 の 住 ま い と そ の 誕 生 は ? 

 

はじめに神が実在していて、後から他の全ての実在するものを創造したとされる「神前法後」の教義からすると、神自身がどこから生じたのかという居住環境と誕生の経緯の説明がつかなくなります。

全知全能遍在の人格的唯一絶対の人格神である「神」は、「人」でありかつ「神」である実在する人神一体ですから、その神が実在するものを創造する以前の環境(地)は、存在し得ないことになります。

またいつ、どこから、誰からどうやって誕生したかの説明が不可能になります。

さらに仏教以外の教えの多くは、「神」が天地や万物を創造したこと等を説いていますが、これは自然科学にも全く反しています。また神は本源の存在であって生じるものではないと説く宗教もありますが、そこで因果が途切れてしまい道理や道筋(原因・結果を踏まえた筋の通った考え方)がなくなってしまいます。

「法前仏後」VS「神前法後」、「因果説」VS「予定説」では、「法前仏後」「因果説」が、はるかに論理的であり道理にかなっています。

したがって仏教と他宗教を比較したとき、「法」(三世に渡る因果等)に対する洞察を説いている仏教は、自分自身の運命を切り開いていく道が示され、実在する人格神を説く他宗教よりも優れていると断定することができるのです。

 

 

   日 本 人 は 基 本 的 に は 仏 教 徒 

 

日本は538年に朝鮮半島の百済から仏教が伝わり、それ以来日本は仏教国として歩んでいくわけですが、その後聖徳太子によって仏教がさらに普及していきました。

なお小野妹子を遣隋使として中国に派遣したのも、法華経全巻を入手するためだったといいます。聖徳太子が隋に送った国書に「日出ずる処の天子、日没する処の天子に致す」と記したように、日の本の思想の基には、経典の「慧日大聖」「日月光明」という意義や日輪に対する憧憬や発想が想像され、この時から大乗仏教、なかんずく法華経有縁の仏教国となりました。また日本で初めて制定された十七条の憲法も、この法華経が基になったといいます。

言語や行動には思想(思考)を含み、思想(思考)は言語や行動となって表れます。意外に思うかもしれませんが、その重要な言語である日本語はその多くが仏教用語から来ています。

「えっ、この言語も仏教用語だったの!」

と驚くかもしれません。つまり仏教を意識しようがしましが、使用する言葉の多くが仏教用語を含み、その言葉に含まれている仏教的な思想を無意識に自身に刻み込んでいると言えるのです。

ですから、日本人は意識していなくても、すでに思想的には仏教徒になっていると言えます。

 

日 常 的 に 使 わ れ る 仏 教 用 語 例

 

愛、挨拶、愛着、諦める、悪意、阿修羅、有難い、安心、意地、一大事、一切、一心印象、有頂天、有無、会釈、縁、演説、円満、横死、親玉、温室、開演、懐石、開発快楽、覚悟、学者、学生、学徒、獲得、陽炎、過去、火災、火葬、火宅、割愛、葛藤仮名、果報、我慢、可愛い、間隔、歓喜、観察、看病、機嫌、寄付、逆流、行儀、教師、教授、形相、愚痴、工夫、敬礼、下劣、見聞、講演、向上、降伏、極道、

心地、娯楽、根性、作者、差別、作用、散乱、自覚、事業、四苦八苦、自然、思想、実際、慈悲、邪魔、執着、出世、寿命、正直、証明、食堂、所得、真実、親切、親友、真理睡眠、捨身、世間、絶対、掃除、相続、退屈、退治、第六感、達者、堕落、単位、知識、中元、中流、聴衆、長老、投機、道具、道徳、道楽、道理、床の間、咄嗟頓着、人間、馬鹿、彼岸、悲願、非情、非常、皮肉、火の車、秘密、平等、品、不覚、奉行不思議、分別、変化、変心、発起、本性、本体、未来、無為、無垢、無心、無知、無念、迷惑、妄想、融通、勇猛、油断、利益、六根清浄、悪口等々

 

裁判での判断基準で重要なものの一つに「因果関係が認められるか否か」があります。

例えばある突然死した人の遺族が、これは長時間労働の過労が原因により、その結果突然死した「労務災害である」と訴えた裁判では、長時間労働と突然死との間に因果関係があるかどうかを、裁判所は判断します。

裁判所が「因果関係あり!」と認めた場合は、「過労死」となり「労務災害」として認定されます。この「因果関係」を基にした判断であれば、大抵の日本人は納得します。仏教思想が日本に根づいている例ではないでしょうか。

 

 

   毒 矢 に 射 ら れ た 男 の 話 

 

ところで釈尊には、マ−ルンクヤという刑而上学的な質問を繰り返す弟子がいました。あるとき、この弟子が

「死後は存在するのか」

「死後の世界はどうなっているのか」

「宇宙の果てはどうなっているのか」

等々の質問を行い、

「ちゃんと答えてくれないのなら、教団を離れます」

と言いました。

それに対して釈尊は直接答えず、次のような話をしました。

「ちょうどここに毒矢に射られた男がいるとする。友人らがその毒矢を抜こうとすると、それを制止して、いったいこの毒矢を射ったのは誰で、年齢はどれくらいで、矢の材質と毒の種類は何で、どの方角からこの矢は飛んできたのか、それが分かるまでは抜いてはならないと言ったために毒が全身に回って死んでしまった。今なすべきことは、すぐに毒矢を抜くことである。死後の事を知ろうとするあまり、現世での修業が後回しになれば、虚しく死を迎えるだけである。やるべきことは現世の苦をいかに抜いて解脱するかの実践である。」

釈尊は現世での行いによってのみ、過去世からの悪業(無明)が立ち切れる事を説いています。

大切なのは今の修業(行)であり、未来の知識ではないことを諭しています。ですから、臨死体験や前世療法、輪廻転生等の三世の生命観や三世の因果の理解等にのめり込んで、肝心の悪業(無明)を立ち切る実践がおろそかになっては、毒矢に当たった男と同じ轍を踏むことになります。理解は大切ですが、

「一信(真実最高の教えを信ずる)、二行(その教えを素直に実践する)、三学(その教えを学ぶ)」と言われているように、無解有信(理解できなくても信じる)事の方が、有解無信(理解できても信じない)よりも大切だと説いています。

釈尊は「以信得入」(信を以て入ることを得たり)と言って「信」がいかに大切であるかを説いています。

そもそも仏智(仏の知恵)は、「三世の因果」を一つとってみても「難信難解」(信じがたく理解しがたい)なのですから、私などの凡夫(凡人)などには到底理解できるものではありません。

ですから大切なのは、教えを素直に信じて実践していく事だと釈尊は説いています。◆ 教 相 判 釈 ( 教 判 ) しかし困った事に、今日の仏教には、浄土宗、浄土真宗、天台宗、真言宗、禅宗、阿合宗、日蓮宗等々の既成宗派や、創価学会、立正佼成会、霊友会等々の新興宗教団体が種々雑多にあり、何を素直に信じていいか分からないのが実情です。もともと仏教はインドに誕生した釈尊が、三千年前に真理を悟って説かれたものです。釈尊は、一代五十年にわたり、八万四千法蔵とよばれている膨大な量の教えを説いていますが、それが時代と共に拠り所となる経典や教えが分かれ、多くの宗派となって今日に至っています。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、神が啓示したまえる啓典(最高啓典)を持つ啓典宗教ですが、仏教ではこの啓典が確定していませんでした。もし国に王や大統領や総理大臣が二人も三人もいたら、収拾がつかなくなり大混乱を来すでことでしょう。釈尊の教えの真意が二つも三つもあったら、仏教も混乱してしまいます。そこで涅槃経に説かれている

「法(経文)に依って人(人師の解釈)に依らざれ」

「了義経(正法)によって不了義経(正法以外)に依らざれ」の釈尊の教えに基づいて、釈尊の真意を掴むべく仏教の原点に立ち返って、釈尊が説いた経典から釈尊の真実最高の教えである「正法」を探っていく必要がでてきて、仏教の経典の優劣と体系を位置付ける教相判釈(教判)が必要になりました。そして中国の陳・隋の時代に天台大師(天台宗の開祖)という名僧が出現し、法華経を中心とする一大仏教体系を打ち立て、仏教の意義を全体的に明らかに、南三北七の小乗・権大乗の諸宗を破し、実大乗の法華経を弘めました。つまりその教判によって釈尊の真実最高の教え(正法)が法華経である事を明らかにしました。(詳細は次章へ)また日本国では桓武天皇の世に伝教大師が現れて、南都六宗(華厳、法相、三論、倶舎成実、律)の義を打ち破って法華一乗を弘通して、比叡山延暦寺に法華の戒壇建立を果たしました。

ただし第三代の座主以降真言の教えに染まり、鎌倉時代にはすでに天台真言宗となり、肉食・女色・僧兵等がまかりとおって堕落し、戦国時代には織田信長によって焼き打ちに合いますが、それまでは仏法の根本道場としての役割を果たしていました。

 

 

   教 相 判 釈 ( 教 判 )

 

 しかし困った事に、今日の仏教には、浄土宗、浄土真宗、天台宗、真言宗、禅宗、阿合宗、日蓮宗等々の既成宗派や、創価学会、立正佼成会、霊友会等々の新興宗教団体が種々雑多にあり、何を素直に信じていいか分からないのが実情です。

もともと仏教はインドに誕生した釈尊が、三千年前に真理を悟って説かれたものです。釈尊は、一代五十年にわたり、八万四千法蔵とよばれている膨大な量の教えを説いていますが、それが時代と共に拠り所となる経典や教えが分かれ、多くの宗派となって今日に至っています。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、神が啓示したまえる啓典(最高啓典)を持つ啓典宗教ですが、仏教ではこの啓典が確定していませんでした。もし国に王や大統領や総理大臣が二人も三人もいたら、収拾がつかなくなり大混乱を来すことでしょう。釈尊の教えの真意が二つも三つもあったら、仏教も混乱してしまいます。そこで涅槃経に説かれている

「法(経文)に依って人(人師の解釈)に依らざれ」

「了義経(正法)によって不了義経(正法以外)に依らざれ」の釈尊の教えに基づいて、釈尊の真意を掴むべく仏教の原点に立ち返って、釈尊が説いた経典から釈尊の真実最高の教えである「正法」を探っていく必要がでてきて、仏教の経典の優劣と体系を位置付ける教相判釈(教判)が必要になりました。

そして中国の陳・隋の時代に天台大師(天台宗の開祖)という名僧が出現し、法華経を中心とする一大仏教体系を打ち立て、仏教の意義を全体的に明らかに、南三北七の小乗・権大乗の諸宗を破し、実大乗の法華経を弘めました。

つまりその教判によって釈尊の真実最高の教え(正法)が法華経である事を明らかにしました。(詳細は次章へ)また日本国では桓武天皇の世に伝教大師が現れて、南都六宗(華厳、法相、三論、倶舎成実、律)の義を打ち破って法華一乗を弘通して、比叡山延暦寺に法華の戒壇建立を果たしました。

ただし第三代の座主以降真言の教えに染まり、鎌倉時代にはすでに天台真言宗となり、肉食・女色・僧兵等がまかりとおって堕落し、戦国時代には織田信長によって焼き打ちに合いますが、それまでは仏法の根本道場としての役割を果たしていました。