5、日 蓮 大 聖 人 の 御 一 生
【 佐 渡 期 】
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10月28日佐渡に着く
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11月1日佐渡塚原の配所に入る
同十月十日に依智を立って同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ、十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所にしきがわ打ちしき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹・雷電ひまなし、昼は日の光もさゝせ給はず、心細かるべきすまゐなり(中略)今日蓮は末法に生れて妙法蓮華経の五字を弘めてかゝるせめにあへり。仏滅度後二千二百余年が間、恐らくは天台智者大師も「一切世間多怨難信」の経文をば行じ給はず。「数数見賓出」の明文は但日蓮一人なり。「一句一偈我皆予授記」は我なり。「阿耨多羅三藐三菩提」は疑ひなし。(種種御振舞御書)
伊豆流罪の時と同様、この極寒の佐渡の地においても日興上人はお供をして、給仕を行う。こうした厳しい環境の中でも、大聖人はひたすら読経唱題と述作の日々を過ごされた。
○此北国佐渡の国に下著候て後二月は寒風しきりに吹きて霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし、八寒を現身に感ず、人の心は禽獣に同じく主師親を知らず何に況や仏法の邪正・師の善悪は思もよらざるをや、(中略)流罪の事痛く歎せ給ふべからず、勧持品に云く不軽品云く、命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国土也云々。(富木入道殿御返事)
○北国の習なれば冬は殊に風はげしく雪ふかし衣薄く食ともし、(中略)現身に飢餓道を経・寒地獄に堕ちぬ(法品蓮抄)
○此の佐渡の国は畜生の如くなり、又法然が弟子充満せり、鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候(呵責謗法滅罪抄)
○彼の島の者ども因果の理をも弁へぬ・あらゑびすなれば、あらくあたりし事は申す計りなし、然れども一分の恨むる心なし(一谷入道御書)
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阿仏房・千日尼入信する
西暦1272年(文永9年)聖寿51歳〜
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1月16日〜17日塚原問答
佐渡の念仏僧らは徒党を組み、大聖人を亡き者にしようと謀議をこらし、守護代の本間六郎左衛門尉重連に大聖人の謀殺を迫った。それに対して六郎左衛門尉は「法門をもって決着すべきである」と、至極良識的な判断を行い、これによって諸宗の僧等との問答が塚原の三昧堂前で実現した。これが塚原問答である。
念仏者等・或は浄土の三部経・或は止観・或は真言等を小法師が頸にかけさせ或はわきにはさませて正月十六日にあつまる、佐渡の国にみならず越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国国より集れる法師なれば塚原の堂の大庭・山野に数百人・六郎左衛門尉・兄弟一家さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集りたり、念仏者は口口に悪口をなり真言師は面面に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる、在家の者どもは聞ふる阿弥陀仏のかたきよと・ののしり・さわぎ・ひびく事・震動電雷の如し、(中略)さて止観・真言・念仏の法門一一にかれが申す様を・でつしあげて承伏せさせては・ちやうとはつめつめ・一言二言にはすぎず、鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ、利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如し、仏法のおろかなる・のみならず或は自語相違し或は経文をわすれて論と云ひ釈をわすれて論と云ふ、善導が柳より落ち弘法大師の三鈷を投たる大日如来と現じたる等をば或は妄語或は物にくるへる処を一一にせめたるに、或は悪口し或は口を閉ぢ或は色を失ひ或は念仏ひが事なりけりと云うものもあり、或は当座に袈裟・平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓願立つる者もあり(種種御振舞御書)
かくしてこの問答は、大聖人の仏法の正義の前にあっけなく終ってしまった。塚原問答によって佐渡の地でも大聖人に敬服し、その徳を慕って帰伏する人々が次第に生れてきた。
・1月16日本間六郎左衛門尉重連に自界叛逆を予言する※「二月騒動」(別名「北条時輔の乱」)起こる
・2月初旬天台宗の流人、最蓮房入信
・2月11日生死一大事血脈抄を著す
◆2月開目抄二巻を著す(人本尊の開顕)
○夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり。又習学すべき物三つあり。所謂、儒・外・内これなり
○一念三千の法門は但法華経の本門・受量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知ってしかも・いまだひろいいださず、但我が天台智者のみこれをいだけり
○而るに法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由陀の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし
○善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし
○我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等ちかいし願やぶるべからず
○日蓮は日本国の諸人にしうし(主師親)父母なり
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4月3日一谷へ移居・中興入道、一谷入道入信
西暦1273年(文永10年)聖寿52歳〜
◆4月25日観心本尊抄を著す(法本尊の開顕)
○草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり
○観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり
○詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり
○釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
○其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏。多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩(中略)末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか
○此の時地湧千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし
大聖人が佐渡流罪の期間に著された御書は、五十篇を越えた。
西暦1274年(文永11年)聖寿53歳〜
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2月14日幕府が赦免状を発す
・3月8日佐渡に赦免状が着く
・3月13日一谷を発つ(日興上人もお供をする)
大聖人の赦免を知った念仏者たちは大聖人の殺害を企てた。しかし、思いがけない季節はずれの順風が吹いて、大聖人を乗せた船はほんの僅かな日時で本土に渡り着いた。
・3月16日越後柏崎へ着く・越後から鎌倉に向かう途中、念仏者たちは「日蓮房赦免」の報を聞きつけ、信濃の善光寺に集まり、持斎・真言の法師等もこれに加わって、大聖人を殺さんと待ち伏せていたが、越後の国府の数多くの兵士の警固によって、無事鎌倉へ到着された。
◆3月26日鎌倉へ着く
◆4月8日平左衛門尉頼綱に見参〔第三回の国家諌暁〕
幕府の館において評定衆の居並ぶ中、平左衛門尉頼綱以下の幕府最高首脳陣と対面された。
四月八日に平左衛門尉に見参しぬ、さきには・にるべくもなく威儀を和らげて・ただしくする上・或る入道は念仏をとふ・或る俗は真言をとふ・或る人は禅をとふ・平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ・一一に経文を引いて申しぬ、平の左衛門尉は上の御使の様にて大蒙古国はいつか渡り候べきと申す、日蓮答えて云く今年は一定なりそれによっては日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし、譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし、真言師だにも調伏するならば弥よ此の国軍にまくべし・穴賢穴賢、(種種御振舞御書)