3 、 釈 尊 の 本 意 を 経 文 か ら 探 究 す る
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三 類 の 強 敵
法華経法師品等で説かれた強敵を、中国・天台宗の妙楽大師が三分類したのが「三類の強敵」で、第一が「俗衆増上慢」、第二が「道門増上慢」、第三が「僭聖増上慢」です。第一の「俗衆増上慢」は以下の経文に説かれています。
三 類 の 強 敵 ( 俗 衆 増 上 慢 )【第一の強敵】
○佛の滅度の後の恐怖惡世の中に於て、我等當に廣く説くべし、諸の無智の人の、惡口罵詈し、及び刀杖を加うる者有らん、我等皆當に忍ぶべし(法華経勧持品)
○斯に輕しめられて、汝等は皆是佛なりと言われん、此の如き輕慢の言を、皆當に忍んで之を受くべし(法華経勧持品)
○濁劫惡世の中には、多く諸の恐怖有らん、惡鬼その身に入って、我を罵詈毀辱せん我等佛を敬信して、當に忍辱の鎧を著るべし、是の經を説かんが為の故に、此の諸の難事を忍ばん(法華経勧持品)
○一切世間に怨多くして信じ難し(法華経安楽行品)
これは釈尊の教えに無知な大衆が、法華経(正法)の行者を惡口罵詈し、刀杖などの暴力を加えてくることを指します。
第二の「道門増上慢」は次の経文に説かれています。
三 類 の 強 敵 ( 道 門 増 上 慢 ) 【第二の強敵】
○惡世の中の比丘は、邪智にして心諂曲(心はへつらい曲がり)に、未だ得ざるを得たりと謂い(いまだ悟りを得ざるに得たと思い)、我慢の心(高慢自尊の心)充満せん(法華経勧持品)
○濁世の惡比丘は、佛の方便、随宣所説の法を知らず、惡口してひんじゅくし、(そのために法華経の行者は)数数賓出せられ、塔寺を遠離せん(法華経勧持品)
これは釈尊の教えを、比丘(僧侶)という出家の立場でありながら、浅識や邪智によって歪曲し、悟ってもいないのに悟ったと慢心して、法華経(正法)の行者を迫
害してくることを指します。
第三の「僭聖増上慢」は次の法華経勧持品に説かれています。
三 類 の 強 敵 ( 僭 聖 増 上 慢 ) 【第三の強敵】
○或は阿練若に、納衣にして空閑に在って、自ら眞の道を行ずと謂いて、人間を輕賤する者有らん、利養に貪著するが故に、白衣の与に法を説いて、世に恭敬せらるること、六通の羅漢の如くならん
○是の人惡心を懐き、常に世俗の事を念い、名を阿練若に仮って、好んで我等の過を出さん、而も是の如き言を作さん、此の諸の比丘等は、利養を貪るを為ての故に、外道の論議を説き、自ら經典を作って、世間の人を誑惑し、名聞を求むるを為ての故に、分別して是の經を説くと
○常に大衆の中に在って、我等を毀らんと欲するが故に国王大臣、婆羅門居士、及び余の比丘衆に向かって誹謗して我が惡を説いて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん
この僭聖増上慢についての経文を現代語訳で表すと、
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第 三 の 強 敵 ( 僭 聖 増 上 慢 ) 【現代語訳】
○あるいは森林にいて、あるいは袈裟を着けて静閑なところにいて、自ら真の道を行じていると思い込んで、人々を軽んじ卑しめる者がいるであろう。利益を貪り執着する故に在俗の者に法を説くが、世間から尊敬されること、六神通を得た聖者のごとくである。
○この人は悪心を胸に秘めつつ、常に世俗的な事を思い、森林にいながらも好んで法華経の行者である我等の過ちを指摘してくる。しかも次のような言動を行う、それは「此の諸の比丘等は、財を得るために外道の論議を説き、自分勝手に経典を創作して世間の人を惑わし、栄誉を得るために選別しながらこのような経を説く」と
○常に大衆のうちにあって法華経の行者である我等をそしろうとし、国王・大臣・婆羅門・居士・及びあまたの比丘衆に向かって我が悪を誹謗して、「これ邪見を説く者外道の論議を説く者である」というであろう。
となります。寺院の奥深くに籠って修業をしていると世間から尊敬されているが、実は悟りも何もない見た目だけ、形だけのエセ僧侶がいて、民衆の救済よりも内心は金儲けや栄誉欲、権勢欲に執着し、大衆の中にはいり込んで権力者や邪宗の僧俗と語らい、正法の行者を迫害してくることを言います。
特にこの第三の「僭聖増上慢」は、権力者や大衆から恭敬されている権威者であることから、その正体(仏教の正法にうとく異常なほどの金銭欲、名誉欲、権勢欲に執着するという本性)は見破られにくく、またその宗教的権威や権力を発揮してより強く法華経の行者を迫害して大難を加えてきます。
三 類 の 強 敵
第一は「俗衆増上慢」→釈尊の教えに無知な大衆が、法華経(正法)の行者を惡口罵詈し、刀杖などの暴力を加えてくる
第二は「道門増上慢」→釈尊の教えを比丘(僧侶)という出家の立場でありながら、浅識や邪智によって歪曲し、悟ってもいないのに悟ったと慢心して、法華経(正法)の行者を迫害してくる
第三は「僭聖増上慢」→社会的に尊敬を受けているものの、常に世俗のことを思い、金銭欲や権勢欲に執着する者で、権力を利用して法華経(正法)の行者に大難を加えてくる
それにしても、経文にはすさまじいばかりの迫害の数々が予証されています。
「惡口罵詈し、及び刀杖を加うる」とは、正法の行者に対して、惡口等を口汚く罵り罵倒することであり、刀で切りつけたり杖(棒)で打ちすえてくることを意味します。現代でも、大声で威嚇されたり、木刀や刃物などの凶器を手にした人物に襲われれば、恐怖にかられてしまいます。
ましてや集団でそれらを振りかざされて命を狙われたら、恐ろしくて、二度とそういう目にあわないように行動を自粛しようとしてしまいます。
また「数数賓出せられ、塔寺を遠離せん」とは、正法の行者は、三類の強敵らによって島流しなどたびたび国土を追われ、塔寺から引き離されることを意味します。
極めつけは涅槃経如来性品で詳細に説かれた、釈尊滅後に現れる邪悪な教祖(僧侶)の真の姿の描写です。
この釈尊の指摘を見るとき、姑息な名利(金儲け)を根本とする、現代の邪悪な宗教(邪宗教)の姿と一致することに驚きを禁じ得ません。
釈 尊 滅 後 に 現 れ る 邪 悪 な 教 祖 ( 僧 侶 )
【涅槃経如来性品の原文訓読】
我涅槃の後・無量百歳に四道の聖人も悉く涅槃せん、正法滅して後、像法の中に於て当に比丘有るべし、かたち持律に像(に)て少しく経を読誦し、飲食を貪嗜し、そ
の身を長養し袈裟を服すと雖も、猶猟師の如く細めに視て徐かに行くこと、猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱う、我羅漢を得たりと、諸の病苦多く、糞穢に眠臥す外には賢善を現し内には貧嫉を懐く、唖法を受けたる婆羅門等の如し、実に沙門に非ずして沙門の像を現し、邪見熾盛にして正法を誹謗し及び其深秘密の教を壊り各自意に随って反つて経律を説く
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釈 尊 滅 後 に 現 れ る 邪 悪 な 教 祖 ( 僧 侶 )
【涅槃経如来性品の現代語訳】
私が涅槃した後は、無量百歳の内に四道の聖人もことごとく涅槃してしまう。正法時代が終わった後、像法時代に入って以降は、まさに次ぎのような僧が次々と現れて法を説くであろう。
これらの僧は、いかにも聖人君子のような人格者を装い、わずかばかりの経典を読んだりするが、その内心では、常に、信者から布施や寄附をしぼり取ることばかり考えている。
その有り様は、まるで猟師が狙った獲物を細目でにらみながら、音もたてずに忍び寄っていくがごとく、また猫が鼠を見つけて飛びかかろうと身構えているがごとく、なんとか、少しでも多額の布施・寄附金を搾取しようと信者を狙っているのである。
そうした彼らが口を開けば、
「自分は神仏の声を聞いた」とか
「自分は真理を悟った」
とかいうのだから呆れたものである。
要するに彼らの外面は、あたかも賢人・聖人のようだけれども、その内面は常に、貪欲で嫉妬深い心が充満していることを知らなくてはならない。
しかもわずかに突っ込んで、その教えの矛盾に批判でも加えようものならば、彼らは明快な返答ができぬものだから、怒り狂い、開き直り、最後は唖法の術を修業中の者のごとく、黙り込んで無視を決め込んでしまう。
このような者達は、いかに宗教家のごとき姿をしていても、実際には真の宗教家でも僧侶でもない。邪(よこしま)な心を持ち、真実の宗教に背く大悪人なのである。
これらの宗教家や僧侶のうわべの姿にあざむかれ、
「あのお方や奥様はとても穏やかで良い人だ。あの教祖(僧侶)はとても良いことを説いている。なんで私が信頼している教えを邪宗教などと悪口を言うのだ。」
などと思う人は、いま一度、釈尊の一日一夜の最後の説法であるこの涅槃経の経文と、現実の教団の姿とを照らし合わせて見て下さい。
布施や喜捨にまつわるトラブルや、周辺信者達の苦悩が改善するどころか、更に増していく現実に思い当たることが多々あるはずです。
また釈尊は、法華経譬喩品において
『此の三界の火宅に於て、東西に駆走して大苦に遭うと雖も、以て患(うれい)とせず』『常に地獄に処すること、園観に遊ぶが如く』
と説いて、大苦に遭い業火に焼かれる地獄のような生活になっていても、もはやそれを苦とも地獄とも思えない精神状態になり、正常な判断力さえ持てなくなり、その地獄等の悪道の中でしか生きられない境界になると説いています。
いま一度、ご自分の信仰が、『法華最も第一なり』と釈尊が仰せの正法であるかどうかを、この経文と実際の信仰とを照らし合わせて検証してみてください。
