5、日 蓮 大 聖 人 の 御 一 生
【 御 誕 生 】
西暦1222年(貞応元年)聖寿1歳〜
◆
2月16日安房の国(現在の千葉県)長狭郡東条郷小湊に誕生
・父は三国太夫(貫名次郎)重忠で漁夫
・母は梅菊女
・幼名は善日麿→出生の時の母の夢想によって名付けられた
「産湯相承事」によると、懐妊された時母君の夢は
或夜の霊夢に曰く叡山の頂きに腰をかけて近江の湖水を以て手を洗うて富士の山より日輪の出でたもうを懐き奉る
父君の夢は
虚空蔵菩薩みめ吉き児を御肩に立て給う、此の少人は我が為には上行菩提菩薩なり、日の下の人の為には生財摩訶薩なり、亦一切有情の為には行く末三世常恒の大導師なり、是を汝に与えんとのたもう
また大聖人御誕生の時の母君の霊夢は
又産生まるべき夜の夢に富士山の頂きに登って十方を見るに明なる事掌の内を見るが如し三世明白なり、梵天・帝釈・四大天王等の諸天悉く来下して本地自受用報身如来の垂迹・上行菩薩の御身を凡夫地に謙下し給う御誕生は唯今なり(略)人天・竜畜・共に白き蓮を各手に捧げて日に向かって今此三界・皆是我有・其中衆生・悉是吾子・唯我一人・能為救護(今この三界はみは是れ我が有なり、その中の衆生は悉くこれ吾が子なり、ただ我れ一人のみよくきゅうごをなす)と唱え奉ると見て驚けば則聖人出生給えり
伝説によれば、宗祖御誕生のとき砂浜から清水がこんこんと湧き出て、御誕生の数日前より、海上には忽然として青蓮華が生じ、あざやかな花を咲かせたといわれる。
また誕生の日、庭の池に蓮華が開き、海中より五尺ほどもある巨鯛が飛び跳ねて御誕生を祝ったと伝えられている。
○日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり(佐渡御勘気抄)
○日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅が家より出たり(佐渡御書)
○日蓮は中国都の者にもあらず、辺国の将軍等の子息にもあらず遠国の者民の子にて候(中興入道消息)
○民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり(妙法比丘尼御返事)
と、大聖人は自ら「旃陀羅が子」「貧窮下賤の者」「旃陀羅が家」「民の子」と仰せられている。
「旃陀羅」とは、梵語で「チャンダ−ラ」と言い、屠者・殺者等と訳し、猟師とか漁夫など、生き物を殺すことを職業とする屠殺者の名称である。古代インドにおいては、仏教の不殺生の戒律に背く職業として、最も低い身分・階層とされていた。釈尊が国王の子として誕生したことに対して、大聖人が民衆階層より出生された意義は、
○末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり(御義口伝)
○日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す(法華経神力品)
とあるように、末法の本未有善・三毒強盛の衆生を下種の妙法をもって救済するために、また法華経に「斯の人」と予証されているように一介の凡夫としての御姿のまま、その身のままで等しく成仏できるということを示されるために、示同凡夫の御本仏として出現された。
なお大聖人の生家は、1498年(明応7年)8月25日の大地震と津波によって海中に没し去り、その聖跡は清らかな海水に守られて海底に静かに眠っている。
【 出 家 ・ 修 業 】
西暦1233年(天福元年)聖寿12歳〜
◆ 安房の清澄寺(慈覚大師の流れを汲む天台密教の寺)に登り学問す
○生年十二、同じき郷の内清澄寺と申す山にまかり(本尊問答抄)
○幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てゝ曰はく、日本第一の智者となし給へと云々(善無畏三蔵抄)
○幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此の願を立つ(破良観等御書)
大聖人はこのとき既に、不思議法師の彫刻と伝える同山の虚空蔵菩薩へ、日本第一の智者となし給へと誓願せられた。
西暦1237年(喜禎3年)聖寿16歳〜
◆ 道善房を師として出家得度し是聖房蓮長と名乗る
○日蓮は日本国安房の国と申す国に生れて候しが、民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり、此の度いかにもして仏種をも植へ生死を離るる身とならんと思いて候し程に、皆人の願わせ給う事なれば阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱え候し程に、いささかの事ありて(念仏を唱える人々の臨終の狂乱悶絶の現実をまのあたりにされて)、此の事を疑いし故に(念仏に対する深い疑問を抱かれ)一つの願をおこす(中略)宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故(妙法比丘尼御返事)
○日蓮此の事(日本未曾有の大事件であった承久の乱において、天皇方は天台真言等の座主・高僧によって調伏祈祷の秘法秘術をあらん限りしたにもかかわらず惨敗し、三上皇がそれぞれ島流しに処せられたという事実)を疑いしゆへに幼少の比より随分に顕密二道並びに諸宗の一切の経を・或は人に習い・或は我れと開見し勘へ見て候(神国王御書)
○何の経にても・をはせ一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ而るに十宗七宗まで各各諍論して随はず国に七人十人の大王ありて万民をだやかならじいかんがせんと疑うところに一つの願を立つ(報恩抄)
と述べられ、念仏宗等の行者が臨終に悪相を現ずることに対する疑問や、鎮護国家を標榜する真言密教の逆しまな現証への疑い、釈尊一代所説の本意に適う宗旨は一つであり、ただ一経こそ最勝の経であるべきではないかとの疑いを晴らし生死を離るる身となるため、一切の経教の肝要を知り諸宗の子細を究めんと、研鑽を行っていった。生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ(清澄寺大衆中)と仰せられ、この智慧によってその後、一切経を披見して、曇りなく解了することができたと述懐されている。
なお蓮長法師が若年の修学中、清澄寺にあって、ある夜、池の辺にたたずまれるに、不思議にも水に映る我が影は妙法大曼荼羅であったという。
年少よりの疑問や研鑽も、このような自らの妙法境界より生ずる疑問であり、勉学であった。
西暦1239年(延応元年)聖寿18歳〜
◆ 鎌倉遊学〜叡山遊学〜諸国遊学
○(清澄寺は)遠国なるうへ寺とはなづけて候へども修学の人なし然而随分・諸国を修業して学問し候いしほどに我が身は不肖なり人はおしへず(本尊問答抄)
○日本国に渡れる処の仏教並びに菩薩の論と人師の釈を習い候はばや(略)此等の宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分にはしりまはり十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に(妙法比丘尼御返事)
○法然・善導等が、かきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七、八の時よりしりて候いき(南条兵衛七郎殿御書)
と仰せのように、出家以来の宿願を果たすべく、いちだんと深い研鑽の志をいだき、多くの仏典・書籍を求め、諸国遊学の旅へ発たれた。
鎌倉をはじめ仏法の奥義、法華経の真髄を討究するため、比叡山延暦寺に登り、さらに真言宗の総本山高野山金剛峰寺に滞在して真言の教義を徹底して検討し、他の真言各寺院・各派の教義の通覧、禅宗南都六宗(倶舎・成実・律・法相・三論・華厳)の学派仏教の研鑽等を行い、十二歳より三十二歳に至るまでの二十年間、ひたすら修学研鑽に精励した。
しかし大聖人は生れながらにして既に深く法華経の玄宗の極地を保持されての出現であり、自らの妙法境界より生ずる疑問であり、勉学であった。諸宗遊学は凡夫に示同する立場から現実的確信を深め、その裏付けを得るにすぎなかった。
そしてこうした遊学によって自得された真理は、日蓮こそ法華経において末法出現を予証せられた地誦上行菩薩その人であり、末法万年の衆生救済のため、一身所持の付嘱の妙法を命にかけて弘通すべき大任を持つ者であるとの自覚であった。
【 宗 旨 建 立 】
西暦1253年(建長5年)聖寿32歳
◆ 4月28日 立宗宣言
○今末法に入って上行所伝の本法の南無妙法蓮華経を弘め奉る、日蓮・世間に出世すと云えども、三十二歳までは、此の題目を唱え出さざるは、仏法不現前なり、此の妙法蓮華経を弘めて、終には本法の内証に引入するなり(御講聞書)
○これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国王の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等に此の二辺を合はせ見るに、いわずば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必ず競い起こるべしと知りぬ。二辺の中にはいうべし。王難等出来の時は、退転すべくば一度に思い止むべしと且くやすらいし程に、宝塔品に六難九易これなり。我等程の小力の者、須弥山は投ぐとも、我等程の無通の者、乾草を負ふて劫火にはやけずとも、我等程の無智の者、恒沙の経々をばよみをぼうとも法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと、とかるゝはこれなるべし。(開目抄)
○仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり、仏法必ず東土の日本より出づべきなり(顕仏未来記)
○日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ(報恩抄)
南無妙法蓮華経の本法こそ、仏法の内証に導く唯一最高の教えであり、この本法は上行菩薩が本来所持され、また上行菩薩でなければ顕わすことのできない教えなのである。
まさに南無妙法蓮華経を唱え出さんとする蓮長は、末法の教主としての使命を自覚されていた。また「これを一言も申し出だすならば・・・」と宗旨建立直前の一大決心が披瀝されてある。
◆ 日蓮と御名乗り
○日蓮は富士山自然の名号なり、富士は郡名なり実名をば大日蓮華山と云うなり、我中道を修業する故に是くの如く国をば日本と云い神をば日神と申し仏の童名をば日種太子と申し予が童名をば善日・仮名は是生・実名は即ち日蓮なり(産湯相承事)
○神力品に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」等云々、此の経文に斯人行世間の五の文字の中の人の文字をば誰とか思し食す、上行菩薩の再誕の人なるべしと覚えたり(右衛門大夫殿御返事)
○経に云く「世間の法に染まらざること蓮華の水の在るが如し地より而も湧出す」云々、地湧の菩薩の当体蓮華なり(当体義抄送状)
○明らかなる事・日月にすぎんや浄き事・蓮華にまさるべきや、法華経は日月と蓮華となり故に妙法蓮華経と名く、日蓮又日月と蓮華との如くなり(四条金吾女房御書)
○一切の物にわたりて名の大切なるなり、さてこと天台大師・五玄義の初めに名玄義と釈し給えり。日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし(寂日房御書)
と、「日蓮」(本仏の名称)の名乗りに甚深の意義があることを明かされている。
◆
初転法輪
先ず序分に禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思う(中略)其の上禅宗・浄土宗なんどと申すは又いうばかりなき僻見の者なり、此れを申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために建長五年四月二十八日安房の国東条の郷清澄寺道善の房持仏堂の南面にして浄円房と申す者並びに少少の大衆にこれを申しはじめて云々(清澄寺大衆中)
安房の国東条の郷の地頭・東条左衛門尉景信は熱心な念仏の強信であった。景信はこの大聖人の説法を聞くと烈火のごとくに怒り狂い、大聖人の身に危害を加えんとした。
・大聖人の父母、念仏を捨てて法華経に入信し、父は「妙日」母は「妙蓮」と法名を授けられる。
【 鎌 倉 期 】
◆
8月26日草庵を鎌倉松葉ケ谷に構える
・折伏の第一歩を辻説法で踏み出された
○はじめは日蓮只一人・唱へ候いしほどに、見る人値う人聞く人・耳をふさぎ・眼をいからかし・口をひそめ・手をにぎり・歯をかみ、父母・兄弟・師匠ぜんう(善友)も・かたきとなる(中興入道消息)
○此の法門のゆへに二十余所(辻を)をわれ・・・(法門申さるべき様の事)
・11月日昭入門・富木常忍入信する
・四条頼基、進士義春、工藤吉隆、池上宗仲、荏原義宗等入信する
西暦1258年(正嘉2年)聖寿37歳〜
◆
2月駿河岩本の実相寺の経蔵に入り一切経を閲覧
・実相寺に修業中の伯耆公(後の日興上人)が大聖人の弟子となる
○去ぬる正嘉年中の大地震、文永元年の大長星の時、内外の智人其の故をうらなひしかども、なにのゆへ、いかなる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、日蓮一切経蔵に入りて勘へたるに(中興入道消息)
○日蓮世間の体を見て粗一切経を勘うるに御祈請験し無く還って凶悪を増長するの由道理文証之を得了んぬ(安国論御勘由来)
・2月14日大聖人父重忠(妙日)死去西暦
西暦1264年(文応元年)聖寿39歳〜
◆ 7月16日立正安国論を幕府に献ず〔第一回の国家諌暁〕
○旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上にはびこる牛馬巷にたおれ骸骨路に充てり死を招くの輩既に大半に超え悲まざるの族敢て一人も無し、(略)此の世早く衰え其の法何ぞ廃れたる是何なる禍に依り何なる誤に由るや。
○世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。
○如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。
○汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、此の詞此の言信ず可く崇む可し。
立正安国論の中で、謗法の対治をしなかったならば、薬師経、仁王経等の七難のうち、いまだ顕現していない「自界叛逆の難」(一門の同士討ち)、そして「他国侵ぴつの難」(外敵の来襲)があるであろうと予言し、諌暁された。
◆
8月27日松葉ケ谷法難
国主の御用いなき法師なればあやまちたりとも科あらじ(殺しても罪には問われない)とおもひけん念仏者並に檀那等又さるべき人人(極楽寺重時等)も同意したるぞと聞へし夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかどもいかがしたりけん其の夜の害もまぬかれぬ(下山殿消息)
西暦1261年(弘長元年)聖寿40歳〜
◆
5月12日伊豆流罪
熱心な念仏者であった極楽寺重時とその子、執権長時らによってただの一度の取り調べもなく、理不尽にも伊豆の伊東に流罪にした。
○念仏者等此の由を聞きて上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に・かなわざりしかば、長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ(妙法比丘尼御返事)
○両国の吏・心をあわせたる事なれば殺されぬを・とがにして伊豆の国へながされぬ(破良観等御書)
まもなく日興上人は伊東の大聖人のもとに参じて給仕されるかたわら、宇佐美、吉田など、近くの村々に行っては折伏教化に専念し、伊東にも大聖人の帰依者が次第に増えていった。
・11月3日極楽寺重時狂死。(法華経「還著於本人」の現罰)
西暦1263年(弘長3年)聖寿42歳〜
◆
2月22日伊豆流罪赦免、鎌倉に帰る
日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり此をそしり此をあだむ人を結構せん人は閻浮第一の大難にあうべし、これは日本国をふりゆるがす正嘉の大地震一天を罰する文永の大彗星等なり(撰時抄)
西暦1264年(文永元年)聖寿43歳〜
◆
11月11日小松原法難
安房東条小松原にて地頭影信に襲撃され、弟子の鏡忍房は打ち殺され、檀那の工藤吉隆は瀕死の重傷を負い間もなく死去、その他の者も深手の傷を負い、大聖人も影信が切りつけた太刀によって右の額に深手の傷を受け、左の手を骨折された。
○念仏者は数千万かたうど多く候なり。日蓮は唯一人これなし。いまゝでもいきて候はふかしぎなり。今年も十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものわづかに三四人なり。射る矢はふる雨のごとし、うつ太刀はいなずまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事の手にて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候ひし程にいかゞ候ひけん、うちもらされていまゝでいきてはべり。いよいよ法華経こそ信心まさり候へ(南条兵衛七郎殿御書)
○地頭・東条左衛門影信、大勢を卒して、東条の松原に待ちぶせし奉る。さんざんに射たてまつる、御身には左衛門太刀を抜き切り奉る。御かさを切り破って御つぶりに疵をかぶる、いえての後も疵の口四寸あり、右の御ひたいなり(御伝土代)
○頸を切れ所領を追い出せ等と勧進するが故に日蓮の身に疵を被り弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり、此れ偏に良観・念阿・道阿等の上人の大妄語より出たり(行敏訴状御会通)
・日ならずして東条影信狂死。(法華経「還著於本人」の現罰)
彼等は法華経十羅刹のせめを・かほりて・はやく失ぬ(報恩抄)
・上総・下総・安房・下野において弘教される。
・文永4年8月15日大聖人母梅菊(妙蓮)死去
西暦1268年(文永5年)聖寿47歳〜
◆
1月18日蒙古国の牒状鎌倉到着
大蒙古国皇帝書を日本国王に奉る。朕惟に小国の君境土相接すれば尚信を講じ睦を修するに務む(中略)好を相通せざれば豈一家の理ならんや、兵を用いるに至る。それいずれか好むところならん、王、其れ之を図れ。文応元年より文永五年後の正月十八日に至るまで九カ年を経て西方大蒙古国自り我が朝を襲う可きの由牒状之を渡す、又同六年重ねて牒状之を渡す、既に勘文之に叶う(立正安国論奥書)
◆
10月11日十一通の諫状を発せられる
・国をあげての邪法による祈祷を止めて諸宗の輩を御前に召し合わせて、仏法の邪正をけっすべきであると、強く諸宗との公場対決を迫られた。
・執権北条時宗、宿屋入道、平左衛門尉頼綱、北条弥源太、建長寺道隆、極楽寺良観、大仏殿別当、寿福寺、浄光明寺、多宝寺、長楽寺にあてて送った。
○万祈を抛つて諸宗を御前に召し合わせて仏法の邪正を決し給え(北条時宗への御状)
○蒙古国の牒状到来に就いて言上せしめ候いおわんぬ、抑先年日日蓮立正安国論に之を勘えたるが如く少しも違わず普合せしむ(略)早く須く退治を加えて謗法の咎を制すべし(平左衛門尉頼綱への御状)○一代諸経に於て未だ勝劣・浅深を知らず併がら禽獣に同じ忽ち三徳の釈迦如来を抛って、他方仏・菩薩を信ず是豈逆路伽耶陀の者に非ずや(中略)「我慢の心充満し、未だ得ざるを得たりと謂う」の我慢 の心充満し、未だ得ざるを得たりと謂う」の大増上慢の大悪人なり(中略)一処に寄り集りて御評定有る可く候、敢て日蓮が私曲の義に非ず只経論の文に任す処なり(建長寺道隆への御状)
○三学に似たる矯賊の聖人なり、僭聖増上慢にして、今生は国賊来世は那落に墜在せんこと必定なり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し(極楽寺良観への御状)
・同じ日に弟子檀那一同に対して『弟子檀那中への御状』を与える
・『十一通の諫状』により、弟子檀那らに大弾圧が加えられる事を予見して覚悟を促された。
日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり(中略)少しも妻子眷属を憶うこと莫れ、権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切って仏果を遂げしめ給え
・
幕府はこの諫状を無視黙殺したが、裏面で大聖人に対する種々の陰険な策謀が行われた。
・
極楽寺良観は様々な讒言をもって大聖人の悪評の蔓延を計り、北条一門の実力者及びその閨門等は、大聖人に嫌悪憎嫉の念を抱く
・
文永6年11月再び処々へ諫状を送る
これほどの僻事申して候へば流・死の二罪の内は一定と存ぜしがいままでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼへ候
と『金吾殿御返事』には、再三にわたる強諫によって惹起するであろう流罪・死罪をすでに覚悟され、むしを今まで科のないのは不思議であるとさえ述べられている。
西暦1271年(文永8年)聖寿50歳〜
◆
6月18日〜7月4日極楽寺良観、幕府に命じられて雨乞いの祈祷をするも失敗する
・
法華経の実義を顕わし、邪教の人法を破折すべく、もし雨が降れば良観の勝ち、降らなければ負けとして、いずれが負けても互いに弟子となる約定をする。
七日の内に(雨を)ふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房(良観)の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし(中略)又雨ふらずば一向に法華経になるべし(頼基陳状)
大聖人から僣聖増上慢、偽善者と破折された上、祈雨の修法でも完敗した良観は、弟子になる約定を破るのみならず、かえって陰険な裏面工作(悪口讒言を権門に吹聴する)の復讐に取りかかる。
良観房は涙を流す。弟子檀那同じく声をおしまず口惜しがる。(中略)然れば良観房身の上の恥を思はゞ、跡をくらまして山林にもまじはり、約束のまゝに日蓮が弟子ともなりたらば、道心の少しにてもあるべきに、さはなくして無尽の讒言を構へて、殺罪に申し行なはむとせしは貴き僧か(頼基陳状)
◆9月10日問注所に召喚され平左衛門尉頼綱に見参し諫暁する
◆
9月12日諫状(『一昨日御書』)を平左衛門尉頼綱に与える
日蓮生を此の土に得て豈吾が国を思わざらんや、依って立正安国論を造って故最明寺入道殿の御時・宿屋の入道を以て見参に入れ畢んぬ(中略)夫れ未萠を知る者は六正の聖臣なり法華を弘むる者は諸仏の使者なり、(中略)抑貴辺は当時天下の棟梁なり何ぞ国中の良材を損せんや、早く賢慮を回して須く異敵を退くべし世を安ずるを忠と為し孝と為す、是れ偏に身の為に之を述べず君の為仏の為神の為一切衆生の為に言上せしむる所なり、
この御状に対して頼綱がとって返答は、即日松葉ケ谷を襲い大聖人を召し捕るという、狂乱きわまりない暴力による報復であった。
◆9月12日平左衛門尉頼綱、数百人の武装した兵士を率いて松葉ケ谷の草庵を襲う〔第二回の国家諌暁〕
○文永八年九月十二日・御勘気をかほる、其の時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ、(中略)平左衛門尉・大将として数百人の兵者にどうまろきせてゑぼうしかけて眼をいからし声をあらうす(中略)平左衛門尉が一の郎従・少輔房と申す者はしりよりて日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出しておもてを三度さいなみて・さんざんとうちちらす、(中略)日蓮・大高声を放ちて申すあらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす〔第二回の国家諌暁〕と・よばはりしかば上下万人あわてて見えし、日蓮こそ御勘気をかほれば・をくして見ゆべかりしに・さはなくして・これはひがことなりやと・をもひけん、兵者どものいろこそ・へんじて見へしか、(種種御振舞御書)
○小菴には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其の室を刎ねこちて・仏像・経巻を諸人にふまするのみならず・糞泥にふみ入れ云々(神国王御書)
○法華経の第五の巻をもって日蓮が面を数箇度打ちたりしは日蓮何とも思はずうれしくぞ侍りし、不軽品の如く身を責め勧持品の如く身に当つて貴し貴し(妙密上人御消息)
○日蓮は此の関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時大音声を放てよばはりし事これなるべし(佐渡御書)
◆
9月12日竜の口の法難
・評定所へ連行され、深夜相州竜の口の刑場に連行される。
・評定所での判決は、表向きは「佐渡流罪」であったが内々には斬首の刑に処さんとしていた。
・当時の法律である『御成敗式目』を見ても、一分の世間の罪もなく、ひたすら仏法の正邪を正せと訴えた僧を裁判もなく死刑斬首に処するなどは、法令を無視した常道を逸したものであった。
一分の科もなくして佐土の国へ流罪せらる、外には遠流と聞えしかども、内には頸を切ると定めぬ(下山御消息)
子の刻(零時ごろ)になって、武具を帯した武蔵守の家来数名に前後を固められ、馬に乗って出発した。若宮小路に出て八幡宮の前まで来た時、大聖人は下馬し、八幡大菩薩に向かって、次のように諌暁された。
八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて馬よりさしをりて高声に申すよう、いかに八幡大菩薩はまことの神か(中略)今日蓮は日本第一の法華経の行者なり其の上身に一分のあやまちなし、日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきを・たすけんがために申す法門なり、(中略)さて最後には日蓮・今夜頸切られて霊山浄土へ・まいりてあらん時はまづ天照大神・正八幡こそ起請を用いぬかみにて候いけれとさしきりて教主釈尊に申し上げ候はんずるぞ、いたしと・おぼさば・いそぎいそぎ御計らいあるべしとて又馬にのりぬ。(種種御振舞御書)
この時の心境を大聖人は『種種御振舞御書』に、
今夜頸切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり、此の娑婆世界にして・きじとなりし時は・たかにつかまれ・ねずみとなりし時は・ねこにくらわれき、或はめこのかたきに身を失いし事・大地微塵より多し、法華経の御ためには一度だも失うことなし、されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず国の恩を報ずべき力なし、今度頸を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん其のあまりは弟子檀那等にはぶくべし
と述べられている。この処刑が迅速に行われようとしたことに、平左衛門尉の大聖人への容赦ない姿勢を見ることができるとともに、真夜中の処刑は平左衛門尉が大聖人を闇から闇へ葬り去ろうとした意志の表れでもあった。
知らせを聞いて駆け付けてきた四条金吾は、嘆き悲しみ、刑がもし執行されるならば、我も腹切り果てんと覚悟を決めて竜の口までお供をした。
やがて大聖人は兵士たちの用意した首の座に悠然と端座れれた。そしてかねての手はずどおり、兵士たちは大聖人を取り囲み、その中の一人が太刀を抜き、大聖人の頸を切らんと太刀を振りかざしたその時である。
突如、月のような光り物が江ノ島の方より飛び来った。
暗黒の丑寅の刻、この鞠のような光り物は、一瞬人々の顔をはっきりと映し出した。その強烈な光りに太刀取りは、目がくらみ、その場に倒れ臥してしまった。他の武士たちは皆恐怖におののき、ある者は一町ほども走り逃げ、ある者は馬から降りて平伏し、ある者は馬の上にうずくまってしまうありさまであった。こうした様子は『種種御振舞御書』に次のように生々しく記されている。
こしごへたつの口にゆきぬ、此にてぞ有らんずらんと・をもうところに案にたがはず兵士どもうちまはり・さわぎしかば、左衛門の尉申すやう只今なりと(四条金吾が)なく、日蓮申すやう不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰己のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにして人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくまれるものあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよあけば・いかにいかに頸切るべきはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじもなし。
やがて長い沈黙の後、相模の依智へ連れて行くよう命令が下され本間六郎左衛門の館に到着したのである。そしてその後、当初の判決である「佐渡流罪」が行われるのである。大聖人は後にこの光り物について『四条金吾殿御消息』に
三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頸をたすけ、明星天子は四五日已然に下りて日蓮に見参し給ふ、いま日天子ばかりのこり給ふ、定めて守護あるべきかとたのもしたのもし、法師品に云く「則遣変化人為之作衛護」疑あるべからず、安楽行品に云く「刀杖不加」普門品に云く「刀尋段段壊」此等の経文よも虚事にては候はじ
とあり、竜の口の光り物は、諸天の内でも三光天子の月天子による守護であると仰せられている。
また法華経の行者は種々の難に遭うが、同時に必ず諸天の守護を受けることは、法華経の『法師品』『安楽行品』『普門品』等に明らかである。
法界の不思議を説く法華経、その修業によって法界に即して現実の大不思議が現れたのである。大聖人の己心の妙法が即宇宙法界であって、日月衆星をも手中にされる久遠元初の本仏の内証境界における力用であった。
この法難において、凡夫上行日蓮の身より久遠元初自受用報身如来(法界をわが命わが体として「ほしいままに受け用いる身」)、すなわち三世諸仏の根源たる久遠名字の本仏として、その本身を開顕された。(発迹顕本)
○日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそらしからず・みん人いかにをぢぬらむ(開目抄)
○三世諸仏の成道はねうしのをわり・とらのきざみの成道なり(上野殿御返事)
・10月10日相模依智の本間の館を発し佐渡に向かう
・10月21日越後寺泊に着く
【 佐 渡 期 】
◆
10月28日佐渡に着く
・
11月1日佐渡塚原の配所に入る
同十月十日に依智を立って同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ、十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所にしきがわ打ちしき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹・雷電ひまなし、昼は日の光もさゝせ給はず、心細かるべきすまゐなり(中略)今日蓮は末法に生れて妙法蓮華経の五字を弘めてかゝるせめにあへり。仏滅度後二千二百余年が間、恐らくは天台智者大師も「一切世間多怨難信」の経文をば行じ給はず。「数数見賓出」の明文は但日蓮一人なり。「一句一偈我皆予授記」は我なり。「阿耨多羅三藐三菩提」は疑ひなし。(種種御振舞御書)
伊豆流罪の時と同様、この極寒の佐渡の地においても日興上人はお供をして、給仕を行う。こうした厳しい環境の中でも、大聖人はひたすら読経唱題と述作の日々を過ごされた。
○此北国佐渡の国に下著候て後二月は寒風しきりに吹きて霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし、八寒を現身に感ず、人の心は禽獣に同じく主師親を知らず何に況や仏法の邪正・師の善悪は思もよらざるをや、(中略)流罪の事痛く歎せ給ふべからず、勧持品に云く不軽品云く、命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国土也云々。(富木入道殿御返事)
○北国の習なれば冬は殊に風はげしく雪ふかし衣薄く食ともし、(中略)現身に飢餓道を経・寒地獄に堕ちぬ(法品蓮抄)
○此の佐渡の国は畜生の如くなり、又法然が弟子充満せり、鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候(呵責謗法滅罪抄)
○彼の島の者ども因果の理をも弁へぬ・あらゑびすなれば、あらくあたりし事は申す計りなし、然れども一分の恨むる心なし(一谷入道御書)
・
阿仏房・千日尼入信する
西暦1272年(文永9年)聖寿51歳〜
◆
1月16日〜17日塚原問答
佐渡の念仏僧らは徒党を組み、大聖人を亡き者にしようと謀議をこらし、守護代の本間六郎左衛門尉重連に大聖人の謀殺を迫った。それに対して六郎左衛門尉は「法門をもって決着すべきである」と、至極良識的な判断を行い、これによって諸宗の僧等との問答が塚原の三昧堂前で実現した。これが塚原問答である。
念仏者等・或は浄土の三部経・或は止観・或は真言等を小法師が頸にかけさせ或はわきにはさませて正月十六日にあつまる、佐渡の国にみならず越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国国より集れる法師なれば塚原の堂の大庭・山野に数百人・六郎左衛門尉・兄弟一家さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集りたり、念仏者は口口に悪口をなり真言師は面面に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる、在家の者どもは聞ふる阿弥陀仏のかたきよと・ののしり・さわぎ・ひびく事・震動電雷の如し、(中略)さて止観・真言・念仏の法門一一にかれが申す様を・でつしあげて承伏せさせては・ちやうとはつめつめ・一言二言にはすぎず、鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ、利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如し、仏法のおろかなる・のみならず或は自語相違し或は経文をわすれて論と云ひ釈をわすれて論と云ふ、善導が柳より落ち弘法大師の三鈷を投たる大日如来と現じたる等をば或は妄語或は物にくるへる処を一一にせめたるに、或は悪口し或は口を閉ぢ或は色を失ひ或は念仏ひが事なりけりと云うものもあり、或は当座に袈裟・平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓願立つる者もあり(種種御振舞御書)
かくしてこの問答は、大聖人の仏法の正義の前にあっけなく終ってしまった。塚原問答によって佐渡の地でも大聖人に敬服し、その徳を慕って帰伏する人々が次第に生れてきた。
・1月16日本間六郎左衛門尉重連に自界叛逆を予言する※「二月騒動」(別名「北条時輔の乱」)起こる
・2月初旬天台宗の流人、最蓮房入信
・2月11日生死一大事血脈抄を著す
◆2月開目抄二巻を著す(人本尊の開顕)
○夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり。又習学すべき物三つあり。所謂、儒・外・内これなり
○一念三千の法門は但法華経の本門・受量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知ってしかも・いまだひろいいださず、但我が天台智者のみこれをいだけり
○而るに法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由陀の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし
○善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし
○我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等ちかいし願やぶるべからず
○日蓮は日本国の諸人にしうし(主師親)父母なり
・
4月3日一谷へ移居・中興入道、一谷入道入信
西暦1273年(文永10年)聖寿52歳〜
◆4月25日観心本尊抄を著す(法本尊の開顕)
○草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり
○観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり
○詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり
○釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
○其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏。多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩(中略)末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか
○此の時地湧千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし
大聖人が佐渡流罪の期間に著された御書は、五十篇を越えた。
西暦1274年(文永11年)聖寿53歳〜
◆
2月14日幕府が赦免状を発す
・3月8日佐渡に赦免状が着く
・3月13日一谷を発つ(日興上人もお供をする)
大聖人の赦免を知った念仏者たちは大聖人の殺害を企てた。しかし、思いがけない季節はずれの順風が吹いて、大聖人を乗せた船はほんの僅かな日時で本土に渡り着いた。
・3月16日越後柏崎へ着く・越後から鎌倉に向かう途中、念仏者たちは「日蓮房赦免」の報を聞きつけ、信濃の善光寺に集まり、持斎・真言の法師等もこれに加わって、大聖人を殺さんと待ち伏せていたが、越後の国府の数多くの兵士の警固によって、無事鎌倉へ到着された。
◆3月26日鎌倉へ着く
◆4月8日平左衛門尉頼綱に見参〔第三回の国家諌暁〕
幕府の館において評定衆の居並ぶ中、平左衛門尉頼綱以下の幕府最高首脳陣と対面された。
四月八日に平左衛門尉に見参しぬ、さきには・にるべくもなく威儀を和らげて・ただしくする上・或る入道は念仏をとふ・或る俗は真言をとふ・或る人は禅をとふ・平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ・一一に経文を引いて申しぬ、平の左衛門尉は上の御使の様にて大蒙古国はいつか渡り候べきと申す、日蓮答えて云く今年は一定なりそれによっては日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし、譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし、真言師だにも調伏するならば弥よ此の国軍にまくべし・穴賢穴賢、(種種御振舞御書)
【 身 延 入 山 】
◆5月12日鎌倉を発つ
又何なる不思議にやあるらん他事には・ことにして日蓮が申す事は御用いなし、(中略)本よりごせし事なれば三度・国をいさめんに・もちゐずば国をさるべしと、されば同五月十二日にかまくらを・いでて此の山に入る、(種種御振舞御書)
〈隠栖の理由〉
・四恩(父母・師匠・三宝・国)報謝の読経唱題に専念するため
・後世のために法義等を書き残すために閑静な地を必要とした
・弟子たちに対する教育の場と環境を必要とした
・
法門の中枢たる「本門の大御本尊」(三大秘法)の確立を図る
〈身延の地を選ばれた理由〉
・信頼する日興上人の勧めによる
・信頼する日興上人の弘教の地である
・戒壇を建立すべき最勝の地である富士山に近い
・鎌倉からも遠からず、門下への連絡も比較的容易にできる
・深山の趣きがあり隠栖の地として不足がない
◆
5月17日波木井郷に着く
隠栖が目的であり、身延山が最終目的地ではなかった
○いまださだまらずといえども、たいし(大旨)はこの山中・心中に叶いて候へば・しばらくは候はんずらむ(富木殿御書)
○今たまたま御勘気ゆりたれども鎌倉中にも且くも身をやどし迹を・とどむべき処なければ・かかる山中の石のはざま松の下に身を隠し心を静む(法蓮抄)
◆
6月17日身延沢に庵室成る
去ぬる文永十一年六月十七日に・この山のなかに・きをうちきりて・かりそめにあじち(庵室)をつくりて候云々(庵室修復書)
「かりそめにあじち」として庵室を築かれてより弘安五年に至るまでの九年間、この身延の深山に居住され、身延の沢から一度も出られることはなかった。その間における生活は、決して豊かではなかった。御供養の品々も弟子たちを養うにはとても十分ではなく、実に質素きわまる生活であった。
そのような中にあっても、昼夜に法華経を読誦し論談するという、心ゆくまでの修行の毎日を過ごされた。
○此の郷の内・戌亥の方に入りて二十余里あり、北は身延山・南は鷹取山・西は七面山・東は天子山なり、板を四枚つい立てたるが如し、此の外を回りて四つの河あり、北より南へ富士河・西より東へ早河此れは後なり、前に西より東へ波木井河の内に一つの滝あり身延河と名けたり(中略)此の四山・四河の中に手の広さ程の平かなる処あり、ここに庵室を結んで云々(秋元御書)
○富人なくして五穀ともし・商人なくして人あつまることなし・七月なんどは・しほ(塩)一升を、ぜに百・しほ五合を麦一斗にかへ候しが・今はぜんたい・しほなし・何を以てか・かうべき・みそも・たえぬ(上野殿御返事)
○此の身延の山には石は多けれども餅なし、こけ多けれどもうちしく物候はず、木の皮をはいでしき物とす(莚三枚御書)
○昼は日をみず夜は月を拝せず(種種御振舞御書)
○処は山の中・風はげしく庵室はかごの目の如し(四条金吾許御文)
○十二のはしら四方にかふべをなげ・四方のかべは・一そこにたうれぬ(秋元御書)
○法華読誦の音、青天に響き、一乗談議の言、山中に聞ゆ(忘持経事)
○今年一百よ人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談議して候ぞ(曽谷殿御返事)
◆ 10月蒙古来襲(文永の役)
○同十月に大蒙古国よせて壱岐・対馬の二箇国を打ち取らるるのみならず、太宰府もやぶられて少弐入道・大友等さきににげ其の外の兵者ども其の事ともなく大体うたれぬ(種種御振舞御書)
○十月に蒙古国より筑紫によせて有りしに対馬の者かたまて有りしに・宗総馬の尉逃ければ、百姓等は男をば或は殺し或は生取にし・女をば或は取り集めて手をとをして船に結い付け・或は生け取りにす・一人も助かる者なし(一谷入道御書)
○是れ偏に仏法の邪見なるによる(曽谷入道殿御書)
ついに大聖人の予言は的中し約25000余の蒙古の大軍が九州博多に来襲した。
西暦1275年(建治元年)聖寿54歳〜
◆
9月7日蒙古の使者杜世忠を竜の口において斬首
蒙古の人の頸を刎られ候事承り候日本国の敵にて候念仏真言禅律等の法師は切られずして科なき蒙古の使の頸を刎られ候ける事こそ不便に候へ(蒙古使御書)
災難の元凶であり、不幸の根源である邪宗謗法の僧侶たちこそ斬罪に処すべきであるのに、そうでなく、何の罪も武力の持たない蒙古の使が頸を刎ねられたことに同情を寄せられ、いよいよ悩乱する幕府と日本の行く末を案じられる。
◆
1月熱原神四郎、弥五郎、弥六郎入信
西暦1279年(弘安2年)聖寿58歳〜
◆ 8月法華衆徒の弥四郎が法敵に首を斬られる
◆
9月21日熱原の信徒神四郎、弥五郎、弥六郎等二十名の法華衆徒が下方の政所へ勾留される〔熱原の法難〕
今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野坊は乗馬相具し熱原の百姓・紀次郎男・点札を立て作毛を苅り取日秀の住坊に取り入れ畢んぬ云々(滝泉寺申状)
熱原の滝泉寺の院主代・行智らは自分たちの生活と権力が侵害されることに危機感を強め、下方庄にある政所役人と結託し、また神四郎と膚があわず反感を抱いていた長男弥藤次を籠絡し、弥藤次に上記のように事実と全く正反対の訴状を作らせ、鎌倉の問注所に告訴した。
捕らえられた神四郎等の二十人は、その日のうちに、弥藤次の訴状とともに鎌倉へ押送された。
◆ 10月12日本門戒壇の大御本尊を建立
○日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ(経王殿御返事)
○一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり(草木成仏口決)
○今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり、されば此の題目には余時を交えば僻事なるべし、此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり(御講聞書)
○仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり(聖人御難事)○今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。此の時地湧千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし(観心本尊抄)
○是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か(法華取要抄)
○寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり(三大秘法禀承事)
○此の三大秘法は二千余年の当初・地湧千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の三大事なり(三大秘法禀承事)
○正直に方便を捨て但法華経(御本尊)を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり(当体義抄)○日蓮一期の弘法(本門戒壇の大御本尊)、白蓮阿闍梨日興に之を付属す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主、此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり(一期弘法付属書)○日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を授与す(日興跡条々事)
久遠元初本仏の真の仏境仏智の当体である三大秘法整足の戒壇の大御本尊を顕された。
◆
10月15日熱原神四郎、弥五郎、弥六郎、鎌倉にて刑死する
鎌倉において神四郎等を裁くのは、大聖人を憎んで数々の迫害を加えてきた平左衛門尉頼綱であった。速やかに法華の題目を捨てて念仏を称えるとの起請文を書くよう脅し、それに従わぬと見るや、ひさめの矢を次男の飯沼判官資宗に射らせ、最後には斬首した。
・
日興上人の『本尊分与帳』に
「其の後十四年を経て平の入道判官父子、謀反を発して誅せられ畢わんぬ。父子これただ事にあらず、法華の現罰を蒙れり」
と記され、権勢をほしいままにした平左衛門尉頼綱一族ははかなく滅亡した。
西暦1280年(弘安3年)聖寿59歳〜
◆
1月11日日興に法華本門宗血脈相承(百六箇抄)を相伝する
直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり(中略)日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり(中略)建長配流の日も文永流罪の時も其の外諸処の大難の折節も先陣をかけ日蓮に影の形に随うが如くせしなり誰か之を疑わんや(中略)又御本尊書写の事予が顕し奉るが如くなるべし、若し日蓮御判と書かずんば天神地祗もよも用い給わじ、上行無辺行と持国と浄行安立行と毘沙門との間には若悩乱者・頭破七分・有供養者・福過十号と之を書す可きなり、経中の明文意に任す可きか。
西暦1281年(弘安4年)聖寿60歳〜
◆
5月21日蒙古来襲(弘安の役)
江南軍と東路軍の両軍14万2千人、船艦4400艘という空前の大軍であった。『八幡愚童訓』に
「人民堪兼ねて妻子を引具して深山に逃げ籠る処、赤子の鳴声を聞き付けて、押し寄せ殺しける程、片時の命も惜しければ、さいも愛する嬰児をさし殺してぞ隠れける、子を失い親ばかりいつ迄あらん命ぞとし泣き歎く心中いかにせん、世の中に糸惜しき物は子なりけり、それにまさるは我身なりけり」
とあるように、対馬・壱岐の島民は筆舌に尽くせない悲惨な状態に遭遇した。
大聖人はこの国難に対して、弟子及び信徒に向けて日蓮の予言の的中を誇るようなことがあってはならないと厳しく誡告されている。また予言が的中したことで、日蓮をばけ物だと言う人々の有様が記されている。
朝廷や幕府は諸宗に異国降伏や戦勝の祈祷・祈願を命じたが、暴風雨が吹いたことを神威によるものとして、祈祷の効果を強調し、それぞれ我がもの顔に誇示し始めた。それに対して大聖人は、毎年やって来る台風のために敵船が破損しただけのことであって、諸山諸神の祈祷の結果などではないと仰せられている。
○小蒙古の人・大日本国に寄せ来るの事、我が門弟並びに檀那等の中に若し他人に向い将又自ら言語に及ぶ可からず、若し此の旨に違背せば門弟を離すべき等の由・存知せる所なり、此の旨を以て人々に示す可く候なり(小蒙古御書)
○弘安四年五月以前には日本の上下万人一人も蒙古の責めにあふべしともおぼさざりしを日本国に只日蓮一人計りかかる事・此の国に出来すべしとしる(中略)日蓮が申せし事はあたりたりばけ物のもの申す様にこそ候めれ(光日上人御返事)
○今亦彼の僧侶の御弟子達・御祈祷承はられて候げに候あひだいつもの事なれば秋風に纔(わずか)の水に敵船・賊船なんどの破損仕りて候を大将軍生取たりなんど申し祈り成就の由を申し候げに候なり、又蒙古の大王の頸の参りて候かと問い給うべし其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず(富城入道殿御返事)
西暦1282年(弘安5年)聖寿61歳〜
◆
9月日興上人を唯授一人本門弘通の大導師と定め身延相承書(日蓮一期弘法付嘱書)を賜う
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主、此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒壇と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年壬午九月日日蓮在御判血脈の次第 日蓮日興
日興上人は十三歳の正嘉二年に大聖人の門弟になってから、二十有余年にわたって、師弟相対の至誠を尽くされた。弘長元年、大聖人の伊豆配流を始めとして、最大の艱苦であった二年半にわたる佐渡流罪の具奉、その他数々の法難に際しても、大聖人の身に影の添うがごとく、行住坐臥にわたり常に給仕し、その随身を通して大聖人の精神のすべてを、我が身に受けとめられた。
此の経は相伝に有らざれば知り難し(中略)此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり(一代聖教大意)
と相伝を通して拝することが重要であることを述べられている。
◆
9月8日身延出山
約三十年にわたって数々の大難に遭いながら、妙法の弘通して来られた大聖人の御身体は次第に衰弱され、御弟子方の願いによって常陸の温泉に療養するため身延を出られた。
◆
9月18日池上着
武州池上の信者・池上宗仲の邸に立ち寄られたが、大聖人の御身体の衰弱はにわかに進んでいった。
◆ 10月11日日興上人に法華本門宗血脈相承事(本因妙抄)を賜う
◆
10月13日日興上人を身延山久遠寺の別当と定め身延山付嘱書(池上相承書)を賜う
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当師たるべきなり、背く在家出家どもの輩は悲法の衆たるべきなり。弘安五年壬午十月十三日武州池上 日蓮在御判
日蓮大聖人におかれては、御弟子の中から日興上人御一人を選ばれ御自身の悟られた甚深の法のすべてを譲り与えられ、大聖人御入滅後の後継者と定められた。このように、あまたの弟子の中から、もっとも資質の勝れた方をただ一人選び、仏法の極理を授け与えられることを「唯授一人の血脈相承」といい、これによって大聖人の仏法は断絶することなく、後世に正しく伝わっていく。
この唯授一人の血脈を根本として、枝末たる信心の血脈が流れるのである。(総別の二義)
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10月13日辰の刻池上宗仲の邸にて御入滅
枕辺に安置してあった釈尊の立像仏を退けて、御本仏の法魂たる大曼荼羅本尊を掛けさせられ、弟子や檀越等が唱題されるなか、辰の刻(午前八時頃)安祥として御入滅された。その時、突如大地が震動し、池上邸の庭には初冬にもかかわらず桜の花がいっせいに咲き誇ったという。
この妙瑞は、御本仏日蓮大聖人の入滅を宇宙法界の生命が惜しみ奉ると同時に、本仏の入滅は滅に非ざる滅であり、滅に即して常住の妙相を示すという深甚の意義を持つ。
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10月14日戌の刻入棺子の刻葬送〔御火葬〕
西暦1283年(弘安6年)聖滅2年〜
◆ 1月諸直弟子身延御廟輪番の制を定め百ケ日忌を修す
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10月13日日興上人、身延に大聖人第一周忌を修す
西暦1289年(正応2年)聖滅8年〜
◆ 10月13日日興上人、身延に大聖人第三周忌を修す
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春 日興上人、身延を離山し河合を経て富士上野南条の館に入る〔身延離山〕
身延の地頭・波木井実長の四箇の謗法行為及び学頭の日向の不法等により、身延の地は悪鬼魔神の栖とり、大聖人の正法正義を厳守するために離山を決意された。
四箇の謗法行為とは
・日朗が奪い取った一体仏の代わりに、立像の釈迦仏を造立した。
・謗法の社寺(伊豆山権現、三島神社等)への参詣供養を始めた。
・波木井一門の勧進として、南部の郷内の福士の塔の供養に奉加。
・九品念仏の道場を造立したこと。
身延沢を罷り出て候事、面目なき本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ詮にて候え。さりともと思い奉るに御弟子悉く師敵対せられ候いぬ。日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候えば、本意忘るること無くて候(原殿御返事)
と、断腸の思いをもって、全山雪の降り積もる中を、本門戒壇の大御本尊を始め、大聖人の御霊骨、御遺文、御遺物の一切を奉持し、日目、日華、日秀、日尊等の弟子と共に身延の地を離れたのである。
なお今日の身延山の堂塔は、徳川時代初期、大聖人のお住まいになられた久遠寺とは反対側の場所に、わざわざ山を削って建てたもので大聖人の霊廟でも何でもない。
境内の札所では曼荼羅本尊は入手出来ず(販売されておらず)、何故か門前にある仏具店や仏具兼土産物店にて平積み販売されている
西暦1290年(正応3年)聖滅9年〜
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10月13日大石寺建立
上野の地頭南条時光の招請を受け、さらに南条家より霊山浄土にも似たらん最勝の地、富士の麓の大石が原の寄進を受けられた。ここに、日興上人は一宇を建立し、本門戒壇の大御本尊を始め一切の宝物を安置し、令法久住、広宣流布の礎を築く決意をされた。
「時を待つ可きのみ」との遺命のままに、日蓮大聖人の法塔は連綿として多宝富士大日蓮華山大石寺に伝えられている。
西暦1332年(元徳4年)聖滅51年〜
◆ 11月10日日興上人より『日興跡条々事』と称される譲り状が日目上人へ授与される。
○日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊、日目に之を授与す
○大石寺は、御堂と云い墓所と云い、日目之を管領し、修理を加え、勤行を致し、広宣流布を待つべきなり
日興上人は日目上人に継承され、以後日目上人は日道上人にと、あたかも一器の水を一器に移すがごとく、大聖人の仏法のすべては、御歴代上人方に継承され、今日まで日蓮正宗富士大石寺に伝えられてきている。
日蓮宗を始め、日蓮仏法を標榜する宗派はあまたあるが、日蓮大聖人の出世の本懐である「本門戒壇の大御本尊」の法体の付嘱を始め、唯授一人の血脈相承を受けられた正統な方は、日興上人なのである。
「建長配流の日も文永流罪の時も其の外諸処の大難の折節も先陣をかけ日蓮に影の形に随うが如くせしなり誰か之を疑わんや」(百六箇抄)
と伊豆流罪・佐渡流罪を始め身延隠栖の時も付き従い、文永・建治・弘安の各期を通じて常随給仕・体信了解した日興上人であることは明らかである。したがって「南無妙法蓮華経」と唱えていれば、日蓮大聖人の仏法であると思うのは間違いであり、堕地獄の因を結んでしまう。
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(一代聖教大意)
なのである。