9 、 日 蓮 正 宗 の 信 仰
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日 蓮 正 宗 へ の 入 信
日蓮大聖人の教えのすべては、血脈相承によって代々の御法主上人に受け継がれ、今日まで日蓮正宗に脈々と伝えられています。この正法の宗旨である日蓮正宗に入信し信仰に励むことによって、成仏という揺るぎない幸福境界を確立することができるのです。
入信にあたっては、今までの誤った思想や信仰の妄執を断ち切り、三宝(仏=宗祖日蓮大聖人、法=本門戒壇の大御本尊、僧=血脈相承の御法主上人)への尊信と不退転の決意をもって入信することが肝要です。
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謗 法 払 い
謗法払いとは、日蓮正宗への入信にあたって、それまでに所持していた他宗の本尊や仏像・神札・お守りなどを処分することをいいます。
謗法払いを行う理由は、それら邪宗の本尊などには人を救うどころか、正法の信仰を惑わし、人を不幸にする魔の働き(「感応の理」参照)があるからです。もし、この正法に他の邪な宗教をまじえて修業するならば、正しい信仰の功徳を消し、大きな罪業を積むことになります。
日蓮大聖人は、このことを『曾屋殿御返事』に、
「何(いか)に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし」
と説かれ、いかに正法をたもっても少しでも謗法があれば、堕地獄のもとになると仰せられています。
成仏の大利益は、日蓮正宗の仏法に余事をまじえず、唯一無二の御本尊を清浄な心をもって信ずるところに、はじめてもたらされるのです。
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御 授 戒 ・ 勧 誡 式
入信者は、謗法払いをした後、本宗寺院で御授戒を受けます。
この御授戒は、受ける入信者の立場からは「受戒」といい、授ける立場からは「授戒」となります。
本宗の御授戒は、一切の謗法を捨てて日蓮大聖人の教えを信じ、三大秘法の御本尊を受持信行していくことを誓う崇高な儀式です。入信者は寺院の御宝前において、読経・唱題の後、御本尊を捧持した導師から戒文を受け、この正法を現当二世にわたって持(たも)っていくことを誓います。
大聖人は『教行証御書』で
「此の法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為(せ)り。此の五字の内に豈(あに)万戒の功徳を納めざらんや。但し具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれども破れず。是を金剛宝器戒とや申しけん」
と仰せられているように、妙法を受持するところに無量の功徳がそなわると説かれています。また妙法蓮華経の戒は金剛宝器戒といって、一度受持すれば永遠に破られることなくその人の生命に存続します。したがって、たとえ退転(信心から遠ざかる)して悪道に堕ちたとしても、その人は戒の功徳によって再び妙法に縁し、成仏を遂(と)げることができるのです。
また日蓮正宗の信徒でありながら、正しい信仰を見失って退転した人が、再び本宗の信仰を求め、入信を願う場合は、寺院において勧誡(かんかい)を受けます。
このときは二度と謗法を犯すことなく、信行に精進することを御本尊に誓います。
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御 本 尊 下 付
御本尊は信仰の対境であり、成仏得道には欠かすことのできない功徳の根源です。
御本尊の下付は御授戒後、本人が御本尊を守護し御安置できる状況であれば、その願い出により下付されます。下付とは、総本山より末寺をとおして、御貸し下げされるということです。
日蓮大聖人は『経王殿御返事』で、
「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給え」
と仰せられているように、御本尊は御本仏大聖人の御魂魄(ごこんぱく)であり御当体です。したがって、御本尊を我が家に御安置することは、生身の大聖人をお迎えすることと同じであり、真心からのお給仕を心がけることが大事です。
また御本尊を御安置する際には、僧侶の導師により入仏式を行います。僧侶が出仕できない場合は、僧侶の指示により法華講の役員等が執行することになります。
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御 本 尊 の 御 安 置 と お 給 仕
御本尊を御安置するためには仏壇が必要ですが、仏壇にはいろいろな種類のものがありますので、それぞれの事情と状況に応じたものを使用すべきです。仏壇の大きさや機能・素材などにとらわれる必要はありません。
仏壇は、住居の中で最良な場所を選び、勤行のときに御本尊が目の高さより、やや上方に拝することができるように置きます。また仏壇の上に物を置いたり、額を飾ることは厳に慎むべきであり、仏壇とその周辺は常に清潔にしておくことが大切です。
御本尊のお給仕は、御本尊即日蓮大聖人と拝する心をもって行うべきです。
日々、仏壇を拭き清め、お水・仏飯をお供えし、樒(しきみ)の水を換え、灯明をつけ、香を焚くことは、御宝前を荘厳(しょうごん)し、御本尊への供養となって、自らの功徳となるのです。
《 お 水 》
仏にお供えする水を梵語(サンスクリット語)では門伽(あか)といい、「功徳水」と意訳します。御宝前には、くみぞめの清らかなお水を朝の勤行の前にお供えし、夕の勤行の前に下げます。お水には樒一葉の葉先を切り、その先端部分を入れます。なお、当宗では湯茶は供えません。
《 仏 飯 》
仏飯のお供えは、炊きたての御飯を仏器に盛り、家族の者が食する前にお供えします。その際、「南無下種三宝御報恩謝徳御供養の為、南無妙法蓮華経」と観念し、鈴を三打して題目三唱(「南無妙法蓮華経」と三回唱える)の後にお下げします。
《 三 具 足 ・ 五 具 足 》
御宝前の荘厳には、三具足または、五具足を用います。三具足は左から華立て・香炉・燭台の順に並べ、五具足は華立てと燭台を一対ずつにしたものです。
華は、色花ではなく樒(しきみ)を用います。色花は美しく見えますが、やがて色もあせて散ってしまいます。これは仏法からみれば無上の理を表しています。これに対して樒は、常緑樹の香木であり、その香りは常住にして尊極の御本尊を荘厳するのにもっとも適したものです。なお、樒を産しないところでは他の常磐木(ときわぎ)を用います。
香を焚(た)くことは、、仏前を清浄にし御本尊に香りを供養するためです。薫香は静穏を旨とし、灰の散乱を防ぐため線香は立てずに横にねかせます。
灯明は、御本尊に明かりをお供えすることによって仏前を荘厳するものです。法華経をはじめ多くの教典には灯明供養の甚大な功徳が説かれています。
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信 仰 の 実 践
宗祖日蓮大聖人は、
「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候」(諸法実相抄)
と仰せられ、信心を根本とした行・学の二道に励むことの大切さを教えられています。
「行」とは修業をいい、自行と化他行があります。自行とは自身の成仏のために行ずる勤行唱題などをいい、化他行とは他の人を教化・化導することをいいます。また「学」は、大聖人の教義を正しく理解し、信心修業を深めるために仏法の道理を学ぶことをいいます。
日蓮正宗においては、これら自行化他の実践を仏道修業の基本とするのです。
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勤 行
勤行とは、「勤めて善法を行うこと」を意味し、時を定めて、仏前で読経・礼拝することをいいます。
日蓮正宗の勤行においては、御本尊に向かって、法華経の『方便品第二』と『寿量品第十六』を読誦し、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えます。
勤行では、仏法僧の三宝への報恩謝徳、広宣流布と諸願の成就、先祖の追善供養などを朝に五座、夕に三座を勤めます。大聖人は、
「朝々仏と共に起き、夕々仏と共に臥(ふ)す」(御義口伝)
と示され、一日の生活を仏とともに送ることを教えられているように、朝夕の勤行はたゆまず実践することが大事です。
朝夕の勤行こそ信心の根本であり、御本尊の広大無辺の功徳を受け、成仏という信の幸福境界を得る源泉なのです。
《 正 行 と 勤 行 》
勤行には正行と助行の義がそなわっています。
正行とは、南無妙法蓮華経の題目を唱えることで、助行とは、法華経の方便品と寿量品を読誦することをいいます。この両品を読誦する理由について大聖人は、
「殊(こと)に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍(はべ)り。余品は皆枝葉にて候なり。されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ(中略)寿量品・方便品を読み候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり」(月水御書)
と仰せられ、法華経の中でも特に迹門方便品と本門寿量品が勝れた意義と功徳を有していることを教示されています。
また正行と助行の関係について、第二十六世日寛上人は、
「助行とは、方便寿量の両品を読誦し、正行甚深の功徳を助顕す。譬えば灰汁の清水を助け、塩酢(えんそ)の米麺の味を助くるが如し。故に助行と言うなり」(当流行事抄)
と示されています。すなわち、正行たる題目を離れては助行の読誦の意義はなく、助行を用いない唱題のみも、正式な勤行とはなりません。勤行は正行・助行ともに合わせて実践することが大事です。
《 勤 行 の 心 構 え 》
勤行は、御本尊をはじめとする三宝に報恩感謝申し上げるとともに、祈念と回向を行ずるものですから、敬虔(けいけん)な気持ちをもって臨(のぞ)むことが大切です。
御本尊に向かうときは、姿勢を正して胸の前で合掌し、御本尊の中央の「南無妙法蓮華経・日蓮」の御文字を拝しますが、その中で「妙」の御文字を基本とします。読経は正確に行い、題目は明瞭な口調で唱えます。
一日のはじめである朝の勤行は、御本尊の功徳に浴して意義のある一日になるように念じ、夕の勤行においては、御本尊に加護されたことへの感謝の心をもって行います。
勤行は月々日々、持続していくことが肝要であり、そこに成仏の境界も築かれていくのです。大聖人は『四条金吾殿御返事』で、
「受くるはやす(易)く、持つはかた(難)し。さる間成仏は持つにあり」
と教示されています。
《 五 座 の 意 味 》
総本山大石寺においては、御開山日興上人以来、歴代の御法主上人の大導師により、一日も欠かすことなく丑寅(午前2〜4時)の刻に勤行が行われ、宗祖大聖人の御遺命である広宣流布を御祈念されています。
丑寅勤行は当初、天壇(諸天供養を行うところ)・本堂・御影堂・客殿・墓所において読経・唱題が行われていましたが、江戸時代の初期より、客殿一カ所において、五座の形式をもって行われるようになり、現在に至っています。
《 初 座 諸 天 供 養 / 方 便 品 ・ 自 我 偈 ・ 引 き 題 目 》
初座では、東方に向かい読経をします。古来「東方諸法のはじめ」といわれるように、一日のはじめにあたり、大日天王(太陽)を代表とする諸天善神に対し、「南無妙法蓮華経」の法味を捧げる意義から東方に向かいます。法華経『安楽行品第十四』には、
「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而(しか)も之(これ)を衛護(えいご)し」
とあり、諸天善神は正しい仏法を護持弘通する法華経の行者を、昼夜にわたり守護することが説かれています。
《 二 座 本 尊 供 養 / 方 便 品 ・ 寿 量 品 長 行 ・ 自 我 偈 ・ 引 き 題 目 》
二座では、久遠元初の自受用報身如来(本仏)の当体であり、事の一念三千(本法)の法体である独一本門の大御本尊を讃歎(さんたん)し、さらにその威光が倍増し利益の広大であることを願い、御報恩謝徳申し上げます。
《 三 座 三 師 供 養 / 方 便 品 ・ 自 我 偈 ・ 引 き 題 目 》
三座では、末法の御本仏である宗祖日蓮大聖人、唯授一人血脈付法の大導師である第二祖日興上人、一閻浮提の座主である第三祖日目上人、以下、伝法所持の第四世日道上人、第五世日行上人等の歴代法主上人の御徳に対して、御報恩謝徳申し上げます。
《 四 座 広 宣 流 布 祈 念 ・ そ の 他 の 祈 念 / 方 便 品 ・ 自 我 偈 ・ 引 き 題 目 》
四座では、広宣流布の大願成就を祈念申し上げ、続いて自身の信心倍増、過去世からの謗法罪障の消滅、さらに現当二世(現在と未来世)にわたる所願成就の祈念をします。
《 五 座 回 向 / 方 便 品 ・ 自 我 偈 ・ 唱 題 》
五座では、読経・唱題の後、先祖並びに有縁の精霊への追善回向をします。回向とは、「回向趣向」(えこうしゅこう)の義で、自ら積んだ功徳を他へ回(めぐ)り向かわしめて、自他ともに仏果の成就を目指すことです。
最後に勤行の結びとして、「法界のすべてが平等に南無妙法蓮華経の功徳に浴し、自他倶(とも)に安穏にして寂光土に帰する」ことを祈念します。
《 唱 題 》
唱題は、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経の題目を唱えることで、一切の修業の根幹となるものです。この題目の五字七字は、とりもなおさず御本尊中央の首題であり、大聖人が、
「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ」(法華初心成仏抄)
と仰せられているように、正境たる御本尊に向かい唱題をすることによって、自身の仏となる種である仏性が開き、成仏することのできる道理を示されています。大聖人は唱題の功徳について、
「南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし」(聖愚問答抄)
と説かれ、過去世からのすべての罪障を消滅するとともに、最高の幸福境界を得ることができると教示されています。さらに、
「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘(わた)りて南無妙法蓮華経なり」(三大秘法稟承事)
と仰せられているように、日蓮大聖人の仏法において唱える題目は、自分自身の福徳を成就するばかりでなく、他の人々を折伏教化し利益する功徳をもそなえているのです。したがって、勤行以外においても、より多く唱題することが大切であり、折伏や諸願の成就なども唱題の功徳によって叶(かな)えられるのです。
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折 伏
折伏(しゃくぶく)とは、正法を知らない人や信仰できない人に対して、不幸や苦悩の原因が誤った思想・宗教にあることを教え、日蓮大聖人の仏法こそが真実の幸福を得る道であることを説き示す行為をいいます。
一切の人々に即身成仏という幸福境界をもたらす折伏は、ひいては世を清浄にし安穏ならしめ、真の世界平和を築いていく尊い慈悲の振る舞いなのです。
《 摂 受 と 折 伏 》
仏は、弘教する手段として「摂受」(しょうじゅ)と「折伏」を示されました。
摂受とは摂引容受の義で、衆生の機根に応じて、徐々に誤りを正して真実の法に導く方法をいいます。これに対して折伏とは、破折屈伏(はしゃくくっぷく)の義で、邪義の存在を許さず、ただちに破折し屈伏させて真実の法に導く方法をいいます。大聖人は、
「摂受・折伏時によるべし」(佐渡御書)
「邪智・謗法の者の多き時は折伏を前(さき)とす」(開目抄)
と仰せられているように、謗法の者が多い末法今日には折伏を用いることを定められているのです。
《 法 体 と 化 儀 》
折伏には「法体の折伏」と「化儀の折伏」の二義があります。
法体の折伏とは、大聖人が御一代の御化導において、外道・小乗・大乗・法華経迹門・文上本門を破折し、その終窮究竟(しゅうぐくきょう)の法体として三代秘法総在の本門戒壇の大御本尊を建立されたことをいいます。
化儀の折伏とは、法体の折伏により顕された三大秘法の正法正義を全世界に流布し、多くの人々に受持させることをいいます。
この化儀の折伏に精進していくことが、本宗僧俗の使命なのです。
《 折 伏 の 心 得 》
日蓮大聖人は、数々の法難に遭われながらも折伏弘通の御一生を貫かれました。それは人々の謗法の罪障による苦を取り除き、成仏の大利益を与えようとの大慈大悲の御精神によるものでした。
大聖人は種々の御書において、
「慈なくして詐(いつわ)り親しむは、即ち是彼が怨(あだ)なり、彼が為に悪を除くは、即ち是彼が親なり」(涅槃経疏)
との文を引かれ、相手の不幸の原因を知りながら、それを指摘しないことは無慈悲にあたると教示されています。真の慈悲とは、たとえ相手から誹謗中傷されようとも、その誤りを破折し正法を教えていくことであり、折伏の精神の原点もここにあるのです。この折伏の実践にあたって大聖人は、
「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず」(教行証御書)
と誡(いまし)められ、いかなる相手に対しても臆することなく、勇気をもって妙法を説いていくことの大切さを教えられています。
また、法華経『法師品第十』に、
「法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として、如来の事を行ずるなり」
とあるように、折伏は仏の使いとしての尊い行為です。したがって、これを行ずる人は仏と同じ振る舞いをなす人であり、その功徳も広大であるといえます。
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登 山 と 寺 院 参 詣
日蓮正宗においては、総本山大石寺を本寺とし、総本山に連なるすべての寺院・教会を末寺とします。末寺は総本山の出城であり、地域における信仰の中心道場です。ここには、本門戒壇の大御本尊のお写しである常住御本尊が安置され、御法主上人の代理として住職・主管が常駐し、御報恩御講をはじめとする年中行事等を執り行い、信徒の教導にあたっています。
《 総 本 山 へ の 登 山 》
日蓮正宗では、総本山大石寺に参詣することを「登山」といいます。
総本山大石寺は、一切衆生の成仏の根源である本門戒壇の大御本尊と、日蓮大聖人以来の唯授一人の血脈を所持する御法主上人まします一閻浮提第一の霊場です。
登山の本義は、大聖人の御当体である本門戒壇の大御本尊を内拝させていただき、御法主上人の大導師のもと、正法興隆による人類の恒久平和・広宣流布を祈り、さらに自身の無始以来の謗法罪障消滅と現当二世にわたる大願成就を願うことにあります。
この大御本尊内拝を「御開扉」(ごかいひ)といい、本宗信仰者にかぎり、御法主上人の許可を得て受けることができます。
大聖人の御在世当時の信徒は、日蓮大聖人を渇仰し、お目通りできる喜びを胸に、交通不便のなかを歩み、困難を押して登山されました。鎌倉在住の日妙尼は女性の身でありながら道中の危険を顧みず、佐渡に配流されていた大聖人を慕ってお目通りを願い、また佐渡在住の安仏房は、90歳という老体にもかかわらず、身延の大聖人のもとへ数度にわたって参詣しています。
長い道中を経てお目通りが叶った信徒たちは、大聖人に少しでも御奉公申し上げたいとの一念から、薪を切ったり、菜を摘んだり、沢へ下って水を汲むなど、真心からのお給仕に励まれたと伝えられます。
これらはまさに、法華経に説かれる「心懐恋慕・渇仰於仏(心に恋慕を懐き、仏を渇仰して)」との精神があるのです。
大聖人は、登山の功徳について、
「毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし、はげむべし」(四条金吾殿御返事)
と仰せられ、その信心を励まされています。
なお、登山には、所属寺院から添書(てんしょ)を受ける「添書登山」、指導教師の引率のもと支部講員が揃(そろ)って登山する「支部総登山」、連合会が主体となって行う「連合会登山」などがあります。
《 寺 院 へ の 参 詣 》
日蓮正宗の末寺は信心錬磨の道場であり、本宗信徒は寺院に必ず所属し信行に励むことが大切です。
本宗末寺における儀式・法要は、日蓮大聖人の仏法を化儀として形のうえに表したものです。したがって本宗の信仰においては、この儀式・法要へ参詣して、大聖人の仏法を行ずるとともに、仏祖三宝尊へ深く報恩謝徳申し上げることが肝要です。
また、その参詣をとおして、大聖人の教えや、正しい修業のあり方を学び、宗門の伝統を後代へ正確に伝えていくことができるのであり、そこに寺院で奉修される儀式・法要に参詣する重要な意義があります。
さらに、常日頃から寺院に参詣し、僧侶の説法や指導を聴聞することは、大聖人の仏法を生活の中に実践し具現していくためにも、また、自らの謗法罪障消滅の功徳を積むためにも、欠かすことのできない大切な修業なのです。
また、日蓮正宗の信仰の基本は、師弟の筋目を重んずるところにあります。本宗においては、本仏(日蓮大聖人)と本師(歴代法主上人)、本師と小師(末寺の住職・主管)、小師と信徒といる縦の信仰の筋目を重んじ、この師弟相対の信心によって即身成仏の大功徳を成就していくのです。大聖人は、
「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし」(新池御書)
を仰せられ、僧侶に親近して法門を聴取し、信心の歩みを進めるべきことを教えられています。したがって、本宗信徒は自ら進んで寺院に参詣し、御法主上人の名代である住職・主管の指導のもと、自行化他の信心に励んでいかなければなりません。
《 御 報 恩 御 講 》
全国の寺院では毎月十三日(寺院の事情によって前後する)を中心に、宗祖日蓮大聖人に対する御報恩御講が執(と)り行われています。大聖人は、
「仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし」(開目抄)
と仰せられているように、父母の恩・衆生の恩・国主の恩・三宝の恩を知って、報恩の道を尽くすことの大切さを教えられています。
とりわけ衆生を成仏に導く三宝の恩はもっとも深重なものです。御講に参詣し、御本仏大聖人に御報恩申し上げることは、この三宝への報恩の実践となるのです。
御講では献膳・読経・唱題の後に、大聖人の御書をとおして僧侶から信仰のあり方についての法話があります。大聖人は、法を聴聞する功徳について、
「法師品には『人有って八十億劫の間、無量の宝を尽くして仏を供養し奉らん功徳よりも、法華経を説かん僧を供養して、後に須臾(しゅゆ)の間も此の経の法門を聴取する事あらば、我大なる利益功徳を得べしと悦ぶべし』と見えたり」(松野殿御返事)
と仰せられ、その大なることを教示されています。
このように重要な意義のある御講には、欠かさず家族揃って参詣し、真心からの御報恩を尽くしていくことが肝要なのです。
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信 仰 の 功 徳
日蓮正宗の信仰の実践は、人間の生命を根本から浄化し、英知と福徳をそなえた人生を築くとともに、真の平和社会を構築することを目指しています。この実証こそ、御本尊の大功徳力なのであり、信仰実践の利益なのです。
功徳とは、「積功累徳」(しゃっくるいとく)「功能福徳」(こうのうふくとく)の意で、仏道修業という善因を修し、善根を積むことによって得る福徳のことをいいます。すなわち、利益が他から与えられるものに対し、自ら積むことを功徳と称しますが、仏道修業による得益の相からいえば、その意義は功徳も利益も同一です。
功徳について大聖人は、
「釈尊の因行果徳の二法、三世十方の諸仏の修因感果、法華経の文々句々の功徳を取り聚(あつ)めて此の南無妙法蓮華経を成し玉へり」(御講聞書)
と仰せられ、妙法蓮華経には無量の福徳がそなわっていることを示されています。さらにそのはかり知れない功徳も、
「功徳とは即身成仏なり、又六根清浄なり」(御義口伝)
と仰せられているように、「即身成仏」「六根清浄」の境界を得ることに極まると教示されています。
すなわち、何ものにも脅(おびや)かされない安心立命の境界の確立と、生命の浄化、そして物心両面にわたって福徳に満ちた人生を築くことが、妙法信仰の功徳なのです。
(この第9章は、『日蓮正宗入門』(大石寺)から抜粋いたしました。)
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御 開 扉
本門戒壇の大御本尊は、広宣流布の暁まで固く秘蔵申し上げ、けっして公開されぬ御本尊です。しかしながら七百年の歴史を経るなかで、次第に、大御本尊の偉大な功徳力と御威光を洩(も)れ伺(うかが)い、これを強く渇仰(かつごう)する信徒が増加してきました。
そこで歴代の御法主上人猊下は、これら純真な信徒の信心を憐憫(れんびん)され、特に、大御本尊を厳護する蔵に入って、真近に大御本尊を拝し奉ることを許されたのです。
通常は、遙拝所(ようはいじょ)から拝むべきところを、特別に、その内側に入って拝みまいらせる故に、これを“内拝”(ないはい)といいます。また、いまだ国土には謗法が充満しているため、内拝のときに限って須弥壇・御厨子の扉をお開きしますので、“御開扉”(ごかいひ)ともいいます。
要するに、御開扉は、御法主上人猊下の大慈大悲によって、大御本尊を強く渇仰してやまぬ純真な信徒のために、特別に許されている内拝ですから、世間の邪宗・謗法に執着する未入信の人々、及び、名のみ入信していても全く信心のなき謗法者においては、絶対に御開扉は受けられないのです。
この御法主上人猊下の大導師のもとで、本門戒壇の大御本尊を拝し奉ることができ、大聖人様の仏法を信受していけることこそが、まさしく『一眼の亀の浮木の孔(穴)に値えるが如し』(法華経荘厳王本事品第二十七)なのです。
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