6 、 文 証 ・ 理 証 ・ 現 証 

 

 

          信 仰 の 実 証 例 

 

 

人生の救済を説く宗教が、理論どおりの実証をもたないとすれば、何の役にも立たない気休めとなり、かつてマルクスが、

「宗教は、逆境に打ちひしがれた者のため息であり、非情な世界の感傷であり、魂のないところに魂を見るものである。それは民衆の阿片(アヘン)である」(ヘ−ゲル法哲学批判)

と批判した、実社会を逃避するための阿片となってしまいます。

それ故、日蓮大聖人は、『三三蔵祈雨事』の中で、

 

日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず

 

といわれ、現実の証拠(現証)というものを重んぜられているのです。

そこで、日蓮正宗を信仰した人々の体験談を紹介して、この仏法によって得た現証の数々を示したいと思います。

なお「法華講」とは、末法の法華経、すなわち日蓮正宗の仏法を信じて実践する人々の集まりをいい、大聖人自らが付けられた名称です。

弘安2年(1279)10月12日、大聖人は熱原法華講衆が日興上人の指導のもと、身命に及ぶ迫害のなか、不退転の信仰を貫いたことに対し、出世の本懐として本門戒壇の大御本尊を建立されました。その脇書には、願主名として「法華講衆敬白」と認められています。また日興上人のお手紙の中にも、「法華講衆」(佐渡国法華講衆御返事)と記されているように、宗門草創の時代から、本宗信徒は「法華講」と呼ばれているのです。

以来、法華講は異体同心の信心を根本とし、正法持・折伏弘通の使命をもって邁進しています。

 

 

          法 華 講 員 の 体 験 談 ( そ の 1 ) 

 

 

丑寅の時刻に我が家に異変が! 不思議な現証に仏法の深淵を感じる(渡辺有生)

 

 

いまから十数年程前に、四国出身で実家が真言宗の寺の総代だという男性(心臓にペ−スメ−カ−を付けている)を自宅(東京都保谷市:現西東京市)で折伏したときの体験を紹介させていただきます。

このときの折伏は明け方にまで及びましたが、それは午前3時になって、男性の表情や態度が急に変わり始め、この男性の気持ちが入信に傾いたおりのことでした。

「入信します!」

と言って、その男性が我が家(一階の居間)に御安置していた御本尊様に目をやった時でした。

何と我が家(軽量鉄骨造りで築2〜3年の比較的頑丈な家)全体がビリビリビリ・・、バリバリバリ・・と振動を始めたのです。

最初は地震かと勘違いしたほどでした。その男性が御本尊様から目を離すと、その振動は一旦は収まりましたが、再度目をやると、再び我が家全体に振動が走りました。

「一念三千の法門」によると、三世間の中の国土世間にも十界があり、これらは他の五陰世間や衆生世間と連動することが説かれています。

人間の気持ち(一念)が国土世間(この場合は我が家)と連動しているということを、このとき身をもって体験しました。

推測するに、男性が入信へと傾いた気持ち(一念)と、御本尊とが感応し合って、大地(もしくは我が家)が、歓喜に震えたのではないかと思っています。私は念の為にこの日、気象庁に電話をして、今日の深夜に東京または保谷市を含めた多摩地域周辺で、震度1〜2くらいの地震がなかったかを問い合わせましたが、その返事は「ありません」とのことでした。

また、我が家が震えた直後(真夜中の3時ちょうど)、当時まだ幼かった末の息子が、突然寝室(2階)から大泣きしながら出てきました。

それまでの息子は、おねしょをしても、明け方までは一度も目覚めるということはありせんでしたし、またその泣き方も、何かにおびえたような異常なものでした。

この男性が帰った後で気がついたことでしたが、この息子が寝ていた部屋の目覚し時計と、男性と話し合っていた部屋の掛け時計が2つとも、3時ちょうどで止まっておりました。もちろん後にも先にも、このようなことはこのとき限りです。つまりこの時刻(丑寅の時刻)に我が家では、凡夫である私の知らない「何か」が起きていたのではないかと思っていますが、それが何かは分かりません。

日蓮大聖人は御書に

「御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむかいにまいり候べし。三世の諸仏の成道はねうし(丑)のをはりとら(寅)のきざみの成道なり」

と仰せられています。

なお総本山大石寺においては、御開山日興上人以来、歴代御法主上人の大導師により、一日も欠かすことなく丑寅(午前2時〜午前4時)の刻に勤行が行われ、宗祖大聖人の御遺命である広宣流布を御祈念されています。そうしたことからも、この午前3時という時刻は、凡夫には計り知れない、仏法上の深い意義が存しているものと思われます。

なおこの男性が入信した直後、その事を知った両親が四国から急きょ上京して、この信仰を止めるように、泣きながら説得したということです。

正法に対しては、必ずといっていいほど、

「三障四魔紛然として競い起る」

とありますが、そのとおりのことが起きたことも体験しました。

この男性は、私が折伏した最初の人でしたので、それだけにより印象深いものがありました。

後日、御書を拝読していると、「瑞相御書」の中に次のような御文があり、この時の信じがたい振動の理由が少し理解できた気がします。そこには、

「仏法華経をとかんとし給う時五瑞六瑞をげんじ給う、其の中に地動瑞と申すは大地六種に震動す・・・・今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり・・・・人の喜び多多なれば天に吉瑞をあらはし地に帝釈の動あり・・・・」

と書かれてありました。

 丑寅の時刻、生死の中間に、この男性の元本の無明がまさに其の瞬間に破られ、その喜びの瑞相として帝釈の動きが現れたのだと理解しています。

 御書の中にこの御文を見つけたとき、先ほどの体験とともに、さらなる仏法の深淵を感じました。

そしてあらため日蓮大聖人の御本尊の仏力・法力の深淵を確信いたしました。

 

 

          法 華 講 員 の 体 験 談 ( そ の 2 )

 

 

更賜寿命と成仏を実証した徳永千代美さんの事 最期の願業を成就して霊山へ (内山昇氏)

 

 

平成7年12月2日、午前3時17分、私の義理の姉に当たる、徳永千代美さんが亡くなりました。

第17回総会において、徳永さん自身が体験発表したとおり、徳永さんは、平成5年6月に手術不可能な末期ガンが発見され、しかもガンはリンパ節にも転移して全身に細胞が散ってしまっており、余命2、3ケ月と診断されました。

徳永さんは、この病魔をなんとしても乗り越えるべく、信心に起ち上がり、大草講頭の指導のもと、九州の病院から東京へと転院し、治療を受けながら、毎日、7時間、8時間と南無妙法蓮華経とお題目を唱え、折伏をしていました。

その結果、御本尊様の大功徳は厳然と現われ、最初に発見された末期の子宮ガンがきれいに治ったのです。その後、私の家から東大病院に通院する日々が続きました。

そんななかで、尾てい骨に転移しているガンが見つかり、放射線治療、抗ガン剤治療が始まりました。その際、病院の医師から

「この部分はかなり前からガンが転移していて、放射線治療の結果、わからないうちにガン細胞が死滅していたと思う。今回わかったのはその部分の横であり、この箇所には、放射線を当てていないため、治療は可能です。もし放射線を当てた箇所にガンができていれば、もはや治療は不可能になるところでした」

とのことで、不幸中の幸いであると言われました。

その治療は大変つらそうでしたが、病院、あるいは家においても、一生懸命に南無妙法蓮華経とお題目を唱え、折伏をいていました。私たちと一緒に生活していたわけですが、朝起きてくるときなど、目を真っ赤にしていることも何度かありました。

ある時、千代美さんより

「死を覚悟している」

という旨の話もあったのでした。

さらに、今年11月の診断の結果、肺に転移してるガンがみつかりました。そして再度入院。

振り返って思えば、病気が発見された時、すでにリンパ節転移を起こしていたわけですから、そのころより、ガン細胞は全身至るところに転移し、徐々に大きくなりつつあったのでしょう。しかし、死に直面しながらも、多少の信心の波こそあったものの、動揺したり、愚痴をこぼしたり、ふさぎ込んだりすることはただの一度もなく、徳永さんは、腹の決まった信心を貫いたのです。本人の胸中を察するにあまりあります。

入院中、大草講頭がお見舞いに来てくださり、講頭の指導に触れた徳永さんは、

「このままでは死ねない、子供の法統相続ができないうちは死ねない」

とも話していました。

そして容体の悪化に伴い、両親と千代美さんの子供が上京しました。

本人は意識不明、自力では呼吸ができず、酸素吸入器が設置されました。講頭より

「本人が意識が無くなり、お題目が唱えられなくなっている以上、あとは、家族の信心ですべてが決まる。千代美さんの耳元でしっかりと唱題するように」

との指導をいただき、私はお母さんの信心を励ますと同時に、夜は家内と交代で、お題目を唱えていったのです。

そのような中で、周囲の祈りが確かに御本尊様へ通じるのだ、ということを何度も体験し、確信しました。

たとえば、御住職に当病平癒の御祈念をお願いした11月度の日達上人御報恩御講の日まさに御祈念していただいたその時刻に、それまで下降気味であった血圧の数値が、正常近くまで上がったのです。また、徹夜でお題目を唱えている時、眠さと疲れでこちらの意識が朦朧としてしまったときに、千代美さんの心臓が止まるということもありましたし、血圧の数値が急に下がったときなど、ここでお題目を止めてしまえば、千代美さんを助けることはできないと、自分の信心を振り絞ってお題目を唱えていくと、その数値が上がった、ということもありました。

こうした状況をつぶさに見て、最初は病室内でお題目を唱えることに消極的だったお母さんが、御本尊様にすがって真剣に南無妙法蓮華経と唱題するようになっていました。そしてそれを待っていたかのように、千代美さんは、12月2日の早朝、3時過ぎ・・・・・、ちょうど丑寅勤行の時刻に合わせてお母さんと家内が勤行を行い、唱題に入ったときに、すうっと息を引き取ったのです。

「余命2、3ケ月」と宣告されたのに、1年半も寿命を延ばし、千代美さんは、37歳の生涯をここに閉じたのです。

死亡の原因はガンではなく、むしろガンは抗ガン剤が効いていたのですが、身体が衰えて心臓が持たなかったのだそうです。

大聖人様は、御金言に

「御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむかいにまいり候べし。三世の諸仏の成道はねうしのをはりとらのきざみの成道なり」(御書1361ペ−ジ)

と仰せられています。

佐々木支部長に連絡いたしましたところ、支部長は

「大聖人様が丑寅の刻にお迎えに来てくださったんですね」

と言われました。

私はその言葉に、37歳という若さで亡くなったことに対する忍び難い哀惜の念と共に、成仏させていただけたことに対する有り難さを思わずにいられませんでした。

そして12月3日お通夜、4日告別式に当たり、大草講頭はじめ、多数の妙観講の方々が御参列くださいました。中でも、33支区から、岡野部長をはじめ多くの方が、遠方よりお見送りに来てくださいまして、本人もさぞかし喜んでいたことと思います。

千代美さんの臨終の相はたいへんきれいで、本当に笑っているようで、とてもすがすがしく、さらに、棺を持った岡野部長の話によると、たいへん軽かったそうです。

「まるで人形のようにかわいかった」

と表現した人もいましたが、本当にそんな感じでした。

導師をしてくださった妙乗寺の御住職も、そのような千代美さんの遺体をごらんになって感極まった表情をされ、勤行をするようになった千代美さんの子供に対して、

「お母さんの分まで頑張るように」

との言葉をかけてくださいました。その後、大草講頭は、千代美さんが亡くなったことについて、

「仏法は因果であり、業を作れば、果報は受けなければならない。徳永さんは、業によってガンになり、発見された時は、すでに手遅れの状態であった。しかし、そこから信心を起こして、唱題・折伏に励むなか、御本尊様の大功徳で、一つひとつ病状を克服し、1年半も寿命を延ばしたのである。そして、自分の成仏を自分で勝ち取り、また、さまざまな実証を通じて親や子供に信心の有り難さを教え、最後の願業であった法統相続も成し遂げたのである」

と言われましたが、本当に、最初からの経緯を考えれば、千代美さんは、まさに最善の形で臨終を迎えたのだと思います。(後略)(法華講員の体験集『蒼碧集』4.より)

 

 

          法 華 講 員 の 体 験 談 ( そ の 3 )

 

 

入信10年、180度転換した人生 (榎本文男氏)

 

 

私は昭和59年11月、17歳の時に、姉である62支区・加藤明美部長に折伏され、日蓮正宗に入信いたしました。

当時の私は、中学生の頃から、たいへんにグレてしまっていました。家に友達を呼んでシンナ−を吸い、酒を飲み、夜になると、無免許でバイクに乗って暴走族のように暴れ、しばしば警察のご厄介になっていました。

髪の毛が、傷んでボロボロと折れるほど真っ赤に染め、頭の半分ぐらいまで剃りこみを入れ、眉毛も見えなくなるほど剃り、クラスでついたアダ名が“3ミリ眉毛”。校内暴力に明け暮れて、クラス担任の先生などが私を呼びつけようものなら、先生の胸ぐらをつかんで脅し、教室の机やイスを投げつけたりと、やりたい放題の毎日を送っておりました。

私の問題児ぶりは、高校へ進学しても、直るどころか、さらにエスカレ−トして、木刀を持ち歩き、他校へケンカを仕掛けてみたり、今はやりの“いじめ”をして、クラスで最も弱い同級生から金を巻き上げるなど、たいへん、すさんでおりました。

またシンナ−遊びがやめられず、とうとう奥歯がシンナ−で溶けてしまうほどでした。

「怖いもの知らず」を勲章のようにして、警察を見ては、逃げるどころか、こちらから絡んで、パトカ−のフロントガラスをめちゃくちゃにしたこともありました。

そして高校1年の10月、私は、友達と飲酒運転でバイクを二人乗りし、カ−ブを曲がりきれずにコンクリ−トの橋に激突、バイクは粉々となって、友達は、脳挫傷の瀕死の状態で病院に運ばれ、私の方は、かすり傷程度でしたが、病院から警察へ、警察から学校へと通報され、とうとう学校を退学せざるをえなくなってしまったのです。

「なぜ、自分ばかりがこんな目に」

と、私は、人生がすべて終わったように思え、気持ちがすさんで、今度は、親にまで手を上げようとする有り様でした。

その後、まもなく、さらに衝撃的なことが起きました。

私の父は大工をしているのですが、仕事中、木を切断するグラインダ−の歯が突然割れて飛び散り、その破片が父の眉間に突き刺さって、脳まであと数ミリという危ない状態で救急車で運ばれてしまったのです。幸い命は助かりましたが、私は、信じられない思いで、呆然としてしまいました。

というのは、私と違って、父も母も正直な人で一生懸命生きてきたというのに、こんな目に会うとは、世の中には神も仏もあったものか、私の家族は始めから幸せにはなれないと決まっていたのだ、と思えたからです。そして、本当にすべてがいやになった私は、仲の良かった友達にも連絡することなく、逃げるように田舎と決別し、上京しました。

最後に母が、新潟駅まで見送りに来てくれましたが、その疲れ切った表情、寂しく泣きながら送り出してくれた姿は、昨日のことのように、鮮明に脳裏に焼き付いております。

状況後、私は、中野区にある食品会社に入社いたしました。環境を変えれば少しはよくなるだろうという、わずかな希望と期待をもって、真面目に働き始めました。

しかし、それもつかの間、不思議なほど、やることなすこと、うまくいかず、昨年の元旦には、新宿・歌舞伎町のど真ん中でバイクの事故を起こし、次第に仕事にも嫌気がさし髪をモヒカン刈りにし、ズボンのポケットには、いつも切れ味のいいナイフを持ち歩き、仲の悪かった上司を刺し殺そうと、本気で計画するほどになってしまいました。とうとう会社からも、

「このままならクビにする」

と宣告され、自暴自棄になっていたその時に、姉より、日蓮正宗の話を聞くことができたのです。私は、姉が入信した時などは

「騙(だま)されているんだ」

と言って、頭から仏法を否定しておりましたが、入信後の姉が、どんどん変わり、明るくなっていくのを見て、これは何か変なクスリでも飲まされているのに違いない、それとも本当に宗教の力なのかと、疑問に思うようになっていました。その姉から電話があり、

「大事な話がある。武蔵小金井の駅で会いたい」

と言われた時には、私は、てっきり、よい飲み屋でもできたものと勘違いし、簡単にO・Kしてしまいました。もっとも、なぜ、武蔵小金井駅などという処で会わなければいけないのだろう、という素朴な疑問が湧き上がってきましたが、細かいことは気にせず、約束どおり駅で会いました。

しばらく歩き、着いたところは「妙観講」の看板がかかっていました。変わった飲み屋だなと思いつつ、ドアを開けたところ、勤行の声が聞こえ、はじめて、日蓮正宗の話をするために、ここに連れて来られたのだということがわかりました。

はじめは、腹だたしく思いましたが、いくら私が、あたりちらしても、その場にいる方全員がニコニコして応対され、最後には中山支部長の情熱をもった折伏に感激し、自分の人生を変えるべく、入信を決意しました。

入信後の私は、御本尊様の大功徳をいただき、百八十度変わることができました。

先輩より、勤行こそ信心の根本、功徳の源であると御指導いただき、朝の勤行は最低30分、南無妙法蓮華経とお題目を真剣に唱え、実践させていただきました。するとどうでしょう。命の奥底から生命力がフツフツと湧き上がり、何に対しても積極的になれる自分に変わり、生きていること自体が楽しく、本当に信心して良かった、という実感の日々になったのです。

私はこの感激を誰かに話したくてたまらなくなり、会社の同僚、上司、社長、まかないのおばさん、同級生、そして通行人にまで折伏していきました。すると、会社の人達からは、

「榎本は、宗教にとりつかれ、頭が狂った」とか、同級生には

「学校にいた時は、さんざんいじめたくせに、お前が人を救う話をするなんて、誰が信じられるか」と攻撃されましたが、

「難来たるを以て安楽と意得べきなり」(御書1763ペ−ジ)

との仰せを心肝に染め、折伏の功徳は絶対であること、折伏ゆえの悪口や中傷は罪証消滅の証であることを信じ、毎日楽しく実践していきました。

すると、そのような中、御本尊様の功徳が厳然と顕れ、クビを宣告した会社の専務からは、

「榎本は、態度や、言葉づかいも変わり、毎日明るく仕事も順調にこなしていけるようになった。これは、その宗教の力である」と言われ、さらには

「会社の雰囲気まで変わってきた」ということで多大な評価をしてくださり、1年間で3回も昇給するといった、会社として異例な処置までとってくれました。

一度は、すべてを投げ出しかかった私にとって、これらの仕事上の功徳は、本当にありがたく、何をやっても行き詰まった、以前のことを振り返ると、感謝の気持ちにたえません。また、ありがたいことに功徳がさらに功徳を呼び、入信半年後、私の変わったことを一番喜んでくれた母が入信、その半年後、事故のケガがよくならずに後遺症で苦しみ、仕事復帰は難しいと思われた父が、弟と共に入信決定し、晴れて、不幸の源である邪宗教を改宗し、御本尊様を家に迎え入れ、一家の広宣流布をなすことができました。

父も入信後、勤行に励むうちに、ケガが順調に治りはじめ、それまで目途のつかなかった、最後の額の骨入れ手術ができることになりました。

その手術は、足の一部の骨を取って額に入れる、というものですが、なんと、実際に開いてみたら、あまりに良くなっていて、その必要すらなく、すべて完治してしまうという大功徳を頂戴したのです。

その後、平成2年を迎え、創価学会問題が勃発しました。大草講頭は、

「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なり」(御書1165ペ−ジ)

の御金言を引かれ、あろうことか創価学会が宗門に敵対し猊下様を打ち倒そうとしてきたこと、妙観講はこの時のために、仏祖三宝をお護りすべく立った講中であること・・を、強く訴えられました。

その講頭の、どこまでも三宝を護らんとする赤誠の信心に触れ、自分ごとき者も、今まで救っていただいた大恩ある御本尊様をお護りすべく、自分の存在をすべて掛けきる思いで、創価学会に対する折伏に邁進することを決意いたしました。

学会員の名簿の作成、『慧妙』配布、男子部との法論、訪問折伏など、すべて喜んでやらせていただく中、さらに無上宝珠・不求自得ともいうべき大功徳を、御本尊様より頂戴しました。

それは、昨今の不況の中、私の勤めていた会社も経営方針を変えざるをえなくなり、それを機に私も退社することを決断し、単なる方法論ではなく、本当に御本尊様に、心から頭を何度も畳にこすりつけて真剣に祈っていきました。するとどうでしょう。まったく考えもつかなかったところから道が開け、私の満足できる希望どおりの会社に、無事、入社することができたのです。

その会社とは、荒川区で電気受注率ナンバ−1の会社であること、本来なら、大学卒や専門学校卒しか入社できないこと、不況に関係なく役所から安定して仕事がはいること、その他、給料面、対人関係、すべて御本尊様に祈りを叶えていただき、まったく予期していなかった順調な形で、長年の夢であった電気代理人の第一歩を踏み出すことができました。

また住まいも、汚い六畳のアパ−トからオ−トロック付きマンションの会社の寮へと引っ越しを済ませ、安心した生活を送らせていただいております。御金言に

「法華経の行者は信心に退転無く、身に詐親無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修業せば、たしかに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり」(御書642ペ−ジ)

とありますが、入信10年たった今、私は本当に生まれ変わることができ、この大聖人様の仰せが真実であること確信いたしました。(後略)(法華講員の体験集『蒼碧集』4.より)

 

 

          法 華 講 員 の 体 験 談 ( そ の 4 ) 

 

 

頭 破 七 分 の 大 苦 か ら 救 わ れ る (山田琢也氏)

 

 

私は正しい仏法に背いて罰を受け、それでやっと気が付き入信することができました。

初めて仏法の話を聞いたのは、昭和58年、妙観講・佐々木部長からでした。

宗教なんて今まで関わったことはなかったけれど、話を聞いてみると、道理の通った、すばらしい仏法であり、今までの宗教観が打ち砕かれるようでした。友達と二人で聞きましたが、私は素直に入信することにしました。ところが、その帰り道で、友達から

「あんな話はでたらめだ、だまされるなよ」

と言われ、私の気持ちは翻ってしまったのです。そのときに

「正しい仏法に背いていけば、100日、1年、3年、7年の節目で、必ず罰が現れますよ」

と言われましたが、気にもせず、それっきりでした。

その後、いろいろと神経を使うことが多くなり、私は、もともと、神経が過敏だったせいもあって、うつ病気味になるようになりました。そこで罰と気が付けばよかったのですが、あろうことか、易者が、「般若心経を毎日、1枚ずつ書いたらいい」

と言うので、それに従い、実行しました。

気分の悪いときは、4、5枚書きました。そうしているうちに、だんだんと気分が良くなってきたような気がして、どんなことがあっても、欠かさずに般若心経を書くことにしました。

しかしそんな日は長く続かず、仏法の話を聞いてちょうど3年目に仕事が行き詰まり、そこから、また、うつ病の症状が出てきたのです。

病院に行き、強い薬をもらって飲み、それでも効かないので、もっと強い薬にしてもらいました。そのうえ、胃潰瘍になり、さらには肝臓、のど、目など、身体のいたるところが悪くなり、自分でもいやになるくらい、多くの量の薬を飲まなければならなくなったのです。ついに仕事も休まざるをえなくなりました。

ある朝、目がさめると、じっとしていられなくなり、家中を歩き回りはじめました。勝手に足が動いて、その足がだんだんと速くなっていきます。いつのまにか駆け足になっていて、疲れて休みたくなっても、とにかく足を止められないのです。それが3日も続いたため、こんな状態の自分がいやになり、マンションの屋上から飛び降りようと思い、階段を駆け登りました。

すぐに妻が追ってきて、止めてくれましたが、私は、なんとかして死のうと、ベランダに行ったり、包丁を持ち出したりし、そのたびに妻の強い力で止められました。しばらくして両親が来てくれ、3人で押さえてくれましたが、私は、それ以上の力で外へ出ようと、暴れました。

そんな日が6日間続きました。老いた父が私を止めてくれる細い手、妻や子供、母の泣く顔と声、それを見ながら聞きながら、その悲しみを感じながらも、歩くのをやめられず、自殺したい気持ちを押さえることができないのです。この6日間で体重が5キロ減りました。

両親も、妻もくたくたで、父が

「もう限界だ、もうやめてくれ。入院してもらうしかない」

と私に力尽きた声で言いました。すぐに入院の用意をして、母と妹のすすり泣く声、

「お父さ−ん」

という、何も知らない子供の声を聞きながら、病院へ行きました。

あの、病室のドアの重々しいカギの音を、私は忘れることができません。10日後、私は先生に、二度と自殺など考えないことと、1週間に2回通院することを約束して、退院しました。

退院して3ケ月間、私は毎日、朝から晩まで泣いてばかりいました。わけもなく涙が出続けるのです。そして、再び自殺を決意し、遺書を書きました。

そんな時です。3年ぶりに、突然、佐々木部長から電話がありました。私は今まであったことを全部話しました。すると部長は、すぐにタクシ−で来てくださって、この私の姿こそ、仏法に逆らった罰なんだと、教えてくださったのです。

私はすぐに入信を決意し、信心を始めました。

すると、その日から、わけもなく出続けていた涙がピッタリ止まったのです。次の日、妻も佐々木部長の折伏を受け、子供と共に入信しました。しかし私には、正座して勤行するということができませんでした。というのは、幼い時足をケガし、筋肉に骨がくい込んでしまったため、5分間以上、正座をすることができなかったのです。そこで、

「御本尊様、どうかこの足を治してください。この足を治して、皆と同じように勤行ができるようにしてください」

と必死でお願いしていきました。すると、5分しかできなかった正座が15分になり、15分が30分に、30分が1時間、2時間にと、どんどん長くできるようになっていきました。そして、毎日4時間の正座ができるようになったのです。

不思議に思って、病院に行ってレントゲンを撮ってみると、筋肉にくい込んでいた骨がなんと元どおりに治っているというではないですか。

「一生、治らない」

といわれていたので、本当に自分でも信じられませんでした。そして、入信して3ケ月後、妹を折伏したところ、これまで、私が一生懸命に拝んでいるのを馬鹿にしていた妹が、

「私もやってみたい」

と言ってくれました。

今度は、父と母を折伏しようと実家に行きましたが、母は、30年来の出雲大社の信仰に執着し、父も、先祖代々の浄土真宗を捨てるのはいやだと、相手にしてくれませんでした。私は、それにもめげずに、毎日、雨の日も雪の日もお寺に通い、勤行・折伏に励みました。すると、入信して1年目、ついに社会復帰ができることになったのです。医者には、

「何年かかるかわからない」

と言われたのに、わずか1年で働けるようになったのです。

薬の量も減り、身体も丈夫になり、金銭的にも楽になりました。この現証の前に、母が入信を決意し、出雲大社の神棚を捨てました。その2日後には、父も

「入信したい」

と言ってくれたのです。

私は、入信前と今を比べ、自分が大きく変わったことを感じ、御本尊様の偉大さに心から感謝しております。(『捨邪帰正のすすめ』/暁鐘別冊号より)

 

 

          法 華 講 員 の 体 験 談 ( そ の 5 ) 

 

 

ま の あ た り に し た 神 宮 の 害 毒 (大山真氏)

 

 

昭和57年に高校を卒業した私は、神主をしていた叔父から、

「神主というのは、修業もないし、儲かるぞ。だから、神主になって自分の後を継げ」

と勧められ、神主になることになりました。

そして、神主の資格を取るため、郷里を離れ、三重県の伊勢神宮に中にある“神宮研修所”という、2年制の学校に入ったのです。

同期で入学した人達は、私以外は全員が神社の息子で、不思議なことに、皆、家庭内や健康面・精神面などに異状があって、苦しんでいる人ばかりでした。ある人は、有名な神社の息子でしたが、白痴同然で、まともに箸も使えなかったり、また、ある人は、母親が自分を産むのと引き換えに死亡していたり、あるいは、ひどい癲癇症の人、入学してからノイロ−ゼになって発狂した人等々、まともな人生を送っている人は一人としておらず、ひどい話ですが“オカマ”が二人もいました。

このような人達が、2年間の研修を終え、神主となって全国の神社へ就職していったのですから、今にして想えば空恐ろしい話ではあります。

私はそのまま伊勢に残り、全国の神社の頂点といわれる伊勢神宮に就職しました。ところが、そこで目のあたりにしたのは、学校で教えられてきたことと、あまりにもかけ離れた現実だったのです。

神主達は、金儲け主義に凝り固まり、

「あんまり儲かって笑いが止まらない」

などと放言し、たくさん献金する人に対しては腰を低く、逆に、ただ参拝に来る人に対しては無関心、という有り様でした。しかも恐ろしいことに、事実の多くは隠蔽されておりますが、この神宮の中では自殺、事故死、病死、変死が数多くあるのです。

たとえば、20年に一度、神体(本尊)を古い建物から新しい建物へ移す“遷宮”という祭りが行われるのですが、その神体を運んだ神主達は次々と病気になり、事故に遭い、また発狂して、死んでいます(昭和28年の遷宮では、神体を運んだ神主のほとんど全員が、たて続けに急死したとのことです)。

また、代々、神宮の建物を造ってきた“宮大工”の家系にも、病死や、作業中の事故死が、非常に数多く見られます。なかでも語り草となっているのは、昭和48年の遷宮の際に、徹夜で作業していた大工が、屋根の上に長く突き出ている飾りの端に、乗ったまま変死していたことです。

その他、神宮に参詣した仏所護念会(日蓮宗の一派)の信者が、神宮内で憑依状態となり、いきなり自分の頭を石に叩きつけ、血だらけで笑いながら、それを何度も繰り返して絶命したこと、また神宮の守衛が首吊り自殺をしたり、神主が割腹自殺をしたり、万引きをしたり、本妻と愛人を一緒に住まわせたり、交通安全を祈祷した自分自身が事故に遭ったり等々、神宮内での異常なできごとを挙げたら枚挙にいとまがありません。

そして、かくいう私も、神主をしていくうちに、次第におかしくなっていったのです。

まず、精神面では善悪の区別がつかなくなり、自分が何を考え何をしているのかさえ、わからなくなりました。一例を挙げれば、運転免許もないのに自動車を買い、無免許で乗り廻したあげく警察に捕まったのですが、4時間に及ぶ取り調べに対しても、最後まで「自分は確かに免許を取った」などと言い続ける有り様でした。

また、健康面でも、酒に溺れてアルコ−ル性脂肪肝という病気になったのをはじめ、結膜炎、蓄膿症、ひどい歯肉炎と、多くの病気を抱えて苦しむようになってしまいました。

急に意識不明となって倒れ、痙攣を起こすことも、しばしばでした。夜は夜で、高い所から落ちていく悪夢に、連日、うなされ続けるのです。

こうした異常な状態は、解決するどころか、日増しに悪化していきました。そして最後に、神宮の玉串料を横領したところを、隠しカメラで撮影され、私は神宮を退職することとなりました。

退職後は心機一転、郷里に戻って神主をするつもりでしたが、この時、幸いにも折伏を受け、神道を捨てて日蓮正宗に入信することができたのです。

そして、先輩達に励まされながら、信心を続けたところあれほど悩み苦しんでいた病気や精神的問題が、着実に解決しはじめました。夜中に激しい汗をかき、脱水症状になって病院に行ってみたら、アルコ−ル性脂肪肝がすっかり治っていたり、また、高校時代からの足の筋のねじれと痛みが、不思議にも正常に戻ったりと、入信後3ケ月くらいから次々に病気が治っていきました。

善悪の分別もつくようになり、新しい仕事も毎日きちんと勤めています。本当に神主をしていた頃と比べ、大きく変わることができました。もし、あのまま神主を続けていたら、私の将来はどうなっていたことか、背筋が寒くなる思いです。これも、すべて正しい信心のおかげ、と心よりありがたく感じております。(『捨邪帰正のすすめ』/暁鐘別冊号より)

 

 

          法 華 講 員 の 体 験 談 ( そ の 6 

 

 

こ の 厳 然 た る 成 仏 の 実 証 (佐々木博子さん)

 

 

私の主人は、昭和57年に日蓮正宗に入信しましたが、葬儀社を経営していた関係上仕事で使う邪宗の本尊を会社で持っておりました。

「それを捨てるように」

と、講頭が再三にわたって御指導くださったのですが、かえって反発し、あげくのはては日顕上人猊下様を誹謗したり、講頭に怨嫉したりする有り様でした。

謗法を犯せば、10日、1年、3年、7年の節目で罰が出ると聞かされていましたので心配しておりましたところ、ちょうど反発しだして3年ほど過ぎた昭和61年9月、ついに主人に罰が出てしまいました。それまで元気だった主人が、突然、具合が悪くなり、倒れてしまったのです。

病院に運ばれ、緊急手術を受けた結果、まさかと思っていたガンで、それも、すでにお腹いっぱいに拡がっていたのです。もう、手の施しようもなく、お医者さんからは、

「御主人は三日の命だから、知らせるところがあれば知らせるように」

と言われ、もう目の前が真っ暗になってしまいました。かねて講頭から、

「このままでは御主人は大変なことになるかもしれない」

と御心配いただいておりましたが、こんな形で、その大変なことが起きてしまっていたのです。

すっかり落ち込んでいましたが、早くから信心をしていた息子が

「こんな時こそ、必死で御本尊様におすがりして、救っていただかねばいけない」

といって、家中で一生懸命に南無妙法蓮華経とお題目を唱えました。するとどうでしょう、三日ももたないといわれた病状が、少しずつ快方に向かいはじめたのです。

病人の意識が戻り、気分も少し落ち着いてきた頃、息子が、

「お父さんに、病名がガンであることを、ハッキリ知らせる」

と言い出しました。私はびっくりして、そんな残酷なことはやめてくれと頼みました。けれども息子は、

「仏法に背いた罰でこうなったのだから、お父さん本人にしっかり懺悔させ、邪宗教を捨てさせなければ、助けることもできないし、結局は地獄に堕ちてしまう」

といって、主人に邪宗・謗法の罰の恐ろしさを話していきました。

そばにいる私は、本当にハラハラしながら聞いておりましたが、主人は、

「自分が本当に悪かった」

と、涙を流して懺悔し、しっかりと南無妙法蓮華経とお題目を唱えるようになったのです。

また家中で徹夜の看病をする一方、息子は友人達を次々に折伏し、一挙に20人、30人と、入信する人が増えていきました。すると、三日ももたないといわれた主人の病状は、奇跡的にどんどん快方に向かい、3ケ月後には無事に退院することができたのです。

主人は退院後、さっそく、会社にあった邪宗の本尊を焼き捨て、電話で親類の者を折伏するようになりました。また、総本山に参詣させていただいたり、昭和62年の7月には暑い中を仏教講演会に二度も足を運び、熱心に聞いていました。

その後、二度目の入院をして血液検査を受けましたところ、考えられないほどのガンの数値が出て、医者が

「生きているのが不思議だ」

と、首をかしげていました。そんな病状なのに、ただの一度も痛みを訴えたことがなく、また、食事も普通に食べられるのです。そして、なんと、また退院することができました。

もう、これは本当に御本尊様のおかげです。こうして主人は1年間の寿命を延ばしていただき、その間に、娘の結婚式にも参列することができました。

昭和62年の9月、三たび病院に入ったのですが、毎日、本当に静かに寝ており、ガンの末期の苦しみなど全然ないまま、また、ただの一度も痛み止めの麻薬を打つことなく過ごしました。とうとう息を引き取る段になっても、本当に静かに、安らかに眠っているようでした。

家族が南無妙法蓮華経と題目を唱える中、ス−ッと息が止まった途端に、主人の口元がほころんで、にっこりと笑っているようでした。その相はといえば、まさに、御金言に説かれる成仏の相そのもので、身体には硬直も起こらず、柔らかいまま、臭いもなく、色も白く、また半眼半口で、ちょっとさわれば、くすぐったがって笑いだすのではないかと思えるような、穏やかな顔でした。

この厳かな事実の前に、亡くなったという悲しさよりも、無事に成仏させていただいたという感動で、私達は胸がつまり、涙が溢れてきました。

本当に、今さらながら謗法の恐ろしさ、そして正しく信心することのありがたさを、しっかりと体験させていただきました。(『捨邪帰正のすすめ』/暁鐘別冊号より)

 

 

          法 華 講 員 の 体 験 談 ( そ の 7 ) 

 

 

正 信 の 喜 び ! 相 次 ぎ 大 災 難 を 免 る (越智良子さん)

 

 

(前略)正しい師匠・講中のもとで信仰させていただくところには、本当に御本尊様からの大きな御加護があるのだということを、体験を通じて思い知らされる出来事がありました。

以前、私は江戸川区に住んでいましたが、51支区の拠点がある柏の近くに住んで、さらに仏法を学んでいきたい、と願い、柏の公団住宅に住もうと思いました。

そして、御本尊様はこの願いを絶対叶えてくださると思い、真剣に御祈念したところ、20倍もの高倍率にもかかわらず、当選することができました。おかげで、それまで1回1200円ずつかかっていた交通費もかからなくなり、親と同居するようになりましたので、別々に暮らしていた時よりも家賃・生活費が楽になって、経済的にも大きく負担が減少し、御本尊様に心より感謝申し上げました。

しかも、後になってから、このことが、まさに仏天の御加護だったのだ、ということに気付かせていただきました。

といいますのも、もし、この団地に当選しなければ、私は、そのまま江戸川区の下宿に住んでいるつもりでした。

団地へ引っ越した後、しばらくして、前の下宿先の前を通ることがありました。すると驚いたことに、私の住んでいた部屋が、火事で真っ黒に焼けてしまっているではありませんか。そのとなりの家から火が出て、私の下宿先の建物に燃え移った、という感じでした。私が住んでいた部屋の燃えた跡が、生々しく残っていました。もし団地に当選しなければ、引っ越すつもりはありませんでしたので、火事に見舞われて、焼け死んでいたか、大損害をこうむっていたことでしょう。

また私は、団地に応募していることを母には知らせていませんでした。母は、その時にはすでに、長年の夢であった神戸に引っ越すことを決めていたのです。

ところが、私が団地に当選したことから、講中の先輩方にも御指導を受け、一緒に信仰に励めた方がよいだろう、とのことで、母に話をし、母も一緒に団地に住むことになりました。もし、あの時、団地が当選していなければ、母は神戸に引っ越して一人住まいとなり、その後起こった、阪神大震災の被害に遭うところでした。

もし、あのまま学会にいて妙観講へ入講できずにいたら、母親は阪神大震災に、私は火事に巻き込まれ、悲惨な状況になっていたことは間違いありません。

御本尊様が、御仏智をもって、私と母親を災難から守ってくださったのです。本当に御本尊様はありがたく、御仏智の計り知れないすごさに、心より感激したしました。(後略)(法華講員の体験集『蒼碧集』4.より)

 

 

          法 華 講 員 の 体 験 談 ( そ の 8 )

 

 

真 っ 暗 な 人 生 を 克 服 ! 今 和 楽 の 家 庭 が (本間秀子さん)

 

 

私は、昭和59年8月、21歳の時、すでに妙観講の講員となっていた友人より折伏を受け、日蓮正宗に入信させていただきました。

それまでの私の人生はメチャクチャで、いつ死んでも悔いはない、とさえ思っていましたので、折伏を受けた時は、何か、光が見えてきたような気がして、これが最後の望みと思い、入信いたしました。

過去を振り返ってみますと、私の不幸は生まれた時から始まりました。私は、赤ん坊の頃より体が弱く、さらには重度の小児喘息にもなり、病院通いの毎日でありました。その上、母が、肝臓ガンのために、33歳の若さで亡くなってしまいました。

当時、2歳だった私は、母との死別後、毎晩のように夜中に、

「ママ、ママ」

とうわごとを言い、泣いてばかりだったそうです。

次第に心身ともにまいってしまい、あらゆる内臓の機能が弱まり、抵抗力も無く、ひとたび風邪をひこうものなら、1〜2週間は寝込んでしまう状態となりました。

さらに小学生の頃には、強度の偏頭痛と、鼠蹊ヘルニアによる激痛が起こり、さらには血液中の血小板が減少して、ひとたび出血すると血が止まりにくく、また、それによる貧血まで起こりはじめました。まさに私の身体は正常なところが皆無に等しい状態となり、少しも休みなく、常に、どこかが痛く、病院へ行っても治療するスベがないという病状でした。

私は、子供心にも、生きるということはなんて辛いことだろうと、感じておりました。

(中略)その当時は

「何も私が悪いことをしたわけではないのに、なぜ、こんなに苦しまなければならないのか」

と、何をうらんでいいのかわからず、友人を誘っては邪宗の寺参りや神社参りに頻繁に行くようになりました。それが高じて、しまいには、お守りを収集するのが趣味となってしまい、今思い出しますと、ゾ−っとしますが、100個近くの邪宗のお守りを持つに至りました。

しかし、邪宗を信仰してよくなるハズがなく、邪宗参りを続けているうちに、体の状態はますます悪くなって、ほとんど薬り漬けになり、いつ、どうなってもおかしくないほどでありました。

そんな日々を続けてきた昭和59年の8月、私は、通っていた音楽の専門学校の友人より、折伏を受け、入信いたしました。当時班長であった佐々木支部長より

「どんなことでも祈りとして叶わざるなしだから」

と励まされ、毎日、お寺に通っては3〜4時間の唱題を続けていきました。また、折伏も必死でやらせていただきました。

すると、不思議なことが次々と起こってきました。あれほど痛かったヘルニアの痛みが消え、15年間悩んでいた偏頭痛がなくなり、また、血液の状態が正常値に戻り、出血しても止血作用が正常に働くようになり、血圧も正常になりました。

勉強にも前向きに取り組めるようになって、成績がどんどん上がりました。そして、折伏をしてクラス内で悪口を言われれば言われるほど、私自身、全てが良い方向へ良い方向へと変化していくのが手に取るように感じられました。

また入信前の私は、体も病弱な上、家庭に多大な問題を抱えておりましたので、結婚する望みさえ捨てておりましたが、御本尊様の功徳によって問題を一つずつ克服できていきましたので、同じ妙観講の先輩であった現在の主人と結婚することができました。

そして結婚3年目に、御本尊様より大功徳を頂戴いたしました。私は、元来、病弱な体であったため、妊娠しても流産する可能性が極めて大でした。その私が、双子を妊娠してしまい、医師からは、とても出産は無理だと言われました。しかし、この時こそ、

「湿れる木より火を出だし、乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」

の思いで、日々真剣に、御本尊様に向かい唱題しぬこう、と決意し、日々祈っていきました。

果たして、8ケ月が経ち出産を控える頃、一人の子供の心拍が停止し、すぐにでも手術しないと、もう一人の子供の命も危なくなり、さらには私の体も、血を固める機能が弱まり、このままだと全身大出血を起こして危なくなるという状態になってしまいました。

何としても子供の命だけは救いたいと思い、手術室に入ってからも、必死で南無妙法蓮華経と唱題していきました。結果、残った子供と私は助かり、無事出産ができました。

本来、私の重き宿業により、出産はおろか、私も含む三人の命が危ないところを、まさに御本尊様の功徳によって、二人の生命を助けていただいたのです。

(中略)今、振り返ってみると、本当にいろいろなことがありましたが、全ては邪宗の害毒と、過去の謗法の宿業のもたらした苦悩であったのです。

私のような者が、この仏法にめぐりあって、救っていただけたことは、本当に有り難いと思っています。(後略)(法華講員の体験集『蒼碧集』4.より)

 

 

          法 華 講 員 の 体 験 談 ( そ の 9 ) 

 

 

邪宗の害毒を乗り越え、みごとな成仏を遂げた母 (佐々木寛司氏)

 

 

本日は、半年前に亡くなった、私の母の体験を述べさせていただきます。

私の実家は京都にあり、もともと葬儀屋をしていた関係で、邪宗に深く関わっており、さらには熱心な浄土真宗本願寺の檀家でもありました。

そうした邪宗の害毒によって、私の母は、今から17年ほど前、難病といわれるリウマチになってしまいました。

リウマチという病気は、現代の医学をもってしても治すことができず、全身の筋肉、そして骨という骨、関節という関節を、次第に蝕んでいきます。母も例外ではなく、肩、ひじ、ひざ、手足の先まで、年々、まるで公害によって生まれた奇形魚のような無残な形に歪んでいきました。

それに伴う激痛は想像を絶するものがあり、さらに、その痛みを抑えるために多量のステロイド剤を服用したことから、副作用で肝臓を悪くしてしまい、顔は倍ぐらいにはれあがり、体には力が入らず、とうとう、ほとんど寝たきりの状態になってしまったのです。当時、母は涙ながらに

「早く死んでしまいたい」

と、口グセのようにつぶやき、悲嘆にくれておりました。

そんな状況下、私が日蓮正宗の仏法に巡り会い、信心を始めたことから、母も、長年すがってきた念仏信仰こそが不幸の根元の邪宗教であることに気づいてくれ、昭和57年に入信することができたのです。それ以後、信心に励むようになった母は、次第に元気になり、登山へも、また東京の私のところへも、一人で来れるほどになっていきました。

しかし、大聖人様が

「無間地獄の業」

であると批判された念仏を、長年にわたって信仰してきてしまった母の罪業は重く、腎臓病、心臓病、胃かいようと、病魔が次々と現れてきました。

そんな母を、講頭はいつも御心配くださり、一貫して

「病気を治すためには、真剣に御本尊に祈り、手紙でも電話でもいいから、精いっぱい折伏をしましょう」

と、重病が起きた時こそ、その宿業を転換していくには折伏しかないと、びきしくも慈悲のあふれる指導をしてくださいました。

母は、そのつど決意をあたらにし、登山にまた総会にと、入院中でも強引に外出許可をもらって、参詣していきました。そして病院においては、看護婦さんや知り合った患者さん達に対し、喜んで折伏するようになりました。

そのように、御本尊様を頼みの綱として仏道修業に励んでいきましたところ、そのつど命にもかかわるような危機的な状態から助けていただける、という大功徳を頂戴いたしました。また逆に、信仰がゆるみ、強く怨嫉謗法を犯した時には、てきめんに罰が顕れました。

そのときのことですが、母は、トイレの中で突然、意識を失って頭から倒れてしまい、かつぎ出された時には、目は大きく見開いて天井を見たまま動かず、口は大きく開け、顔は土色に変色し、まさに地獄の相そのものだったそうです。

回りで妹達が必死に唱題していきますと、意識は戻ってきましたが、倒れた時のショックで首の骨がずれてしまい、以来、首にコルセットをはめ、首の痛みにさいなまれていくことになってしまったのです。この現証によって母は、本当に謗法が恐ろしい、ということを心底から思い知ったようでした。

その時の首のズレは、月日と共に大きくなって、7〜8ミリにもなっていき、病院からは、

「これ以上あと2ミリでもズレてしまうと、首の中に通っている神経を押しつぶしてしまい、全身マヒを起こし、最悪の場合は呼吸ができなくなって死んでしまう」

と宣告されてしまいました。

唯一の治療法は、自分の大腿骨を削り、その骨を首の骨に移植するという、非常に困難な大手術をするしかない、というのです。しかし、体力も衰えている母に、とてもたえられるかどうか、保障はなく、また手術が成功するという保障もありません。

母は自分の罪証消滅のため、また、手術が失敗すればもう登山に行けなくなってしまうとの思いから、最後の登山だと思い、大御本尊様を求めて本山に参詣しました。そして手術に対する覚悟も決めて下山し、翌日病院に行って診察してもらったところ、先生がびっくりした顔をして、

「首の骨が自然に元に戻ってきている」

というではありませんか。骨がズレていくことはあっても、正常な方に戻ることなど、ありえなかったものが、御本尊様の大功徳によって、またしても命を救っていただいたのでした。

しかしそのように、病を克服し、命を延ばしてきた母も、高齢になり、次第に身体も衰えて、いよいよ最期の時が近づいてきました。

昨年7月、母は、家の中での歩行が困難になったことから、病院の方が、身体の負担が少なく、治療にも専念できるだろう、とのことで入院いたしました。この時点では私も、そのうちまた良くなって退院してくるだろうと、楽観的に考えておりましたが、母の身体の機能は一気に衰えていったのです。

9月に入って、義理の弟である高坂幹事から、まったく予想もしていなかった連絡が入り、母の意識がほとんどなくなった、というのです。私は、このとき初めて事の重大性に気づき、副講頭に御報告したところ、さっそく御秘符を頂戴できるように御住職にお願いしていただきました。

その日のうちに御秘符をいただいた私は、すぐに京都に向かいました。病室の母は目を閉じたまま眠り続けており、呼びかけると少しは目を開けるのですが、そのまま、すぐに目を閉じてしまう、という状態でした。

すぐに御秘符をいただかせ、南無妙法蓮華経とお題目を唱え続けていきますと、初めの2、3時間はまったく状態が変わらなかったのですが、6時間ほどたった夜中12時すぎになって、だんだん意識が戻りはじめ、はっきりした声で

「こんなもんで死なへん」

「また体験発表をさせてもらう」

等と冗談まで言えるほど、急激に回復してきたのです。

私は今度も御本尊様に助けていただいたと、ありがたさで胸がいっぱいになりました。講頭に御報告したところ、講頭は

「それは良かったね。御本尊様のお力は、そのように医学でも理解できないようなことが起こるんだよ」

とおっしゃり、さらに「生老病死」の理の上から、功徳によって延命をさせていただけたけれども、しかし

「生あるものは必ず死を迎えなくてはならない」

という厳しい現実があることを指導され、

「くれぐれも絶対に自分の信心を緩(ゆる)めないように」

と注意をしてくださいました。

それを伺い、私は、母の状態が良くなったことを手放しで喜んでいた自分の油断を指摘していただいたのだ、と思いました。

そこで私は、母に功徳を廻すべく自らが少しでも多くの功徳を積もうと思い、唱題を重ね、会合に参加し、折伏、家庭指導にと、一つひとつの活動を精いっぱい闘っていきました。その中で、御本尊様の功徳は厳然として、母は命を永らえていったのです。

こうして、しばらくは意識も戻り、回復していた母でしたが、講頭の言葉どおり、2週間、3週間と経つうちに、母は次第に体力が衰えていき、医者からも

「いよいよ一両日中が山でしょう」

と告げられました。

病室の母は、息も浅く、酸素マスクをつけたまま、昏睡状態となっていましたが、子供達と一緒に母のそばに近寄り

「おばあちゃん、また来たよ」

と話しかけると、不思議にも昏睡状態の母の目尻に、見る見る涙がたまり、溢れだしたのです。

「ああ、おばあちゃんはちゃんとわかっているんだね」

と言って、家族皆で、母のそばでお題目を唱えていきました。

9月29日、皆で唱える唱題の中、母の呼吸は次第に浅くなり、血圧も下がっていきました。そして、いよいよ臨終という段階から、医学や常識というものでは、まったく理解できないことが起こってきたのです。

その場には、大人4人と子供達とで、母の顔を見つめながら唱題していたのですが、誰も気づかないうちに、母は静かに息を引き取っていました。母の顔は、薄目を開け、口も少し開け、まさに半眼半口で、さっきまで酸素が欠乏して紫色だった指先から、そしてさらには全身が、生きている時のような肌色に戻っていきました。

看護婦さんが

「あとで、顔が紫色になってきますよ」

と言って死に化粧をしようとしましたが、一切断り、葬儀屋さんも

「ドライアイスを入れないと臭いが出て大変ですよ」

と忠告してくれたのですが、それも断りました。

母の遺体を自宅に連れて帰ってから、京都、大阪、名古屋の講員さん達が、葬儀までの丸三日間、昼夜交替で四六時中、途切れることなく唱題を続けてくれました。そこに来られた方々は皆、母のきれいな相を見て、口々に驚きの声をあげておられました。

何より、亡くなったその日より翌日、さらには翌々日と、日が経つにつれ、ますます相がよくなり、目元にどんどん紅がさし、唇が赤く輝いてくるのです。初めて母の顔を見た方々は、てっきり口紅をつけているものと思ったそうです。

さらに驚いたことに、リウマチのため、曲がってしまっていた両足までが、まっすぐに伸びているではありませんか。しかも、通常の遺体は、死後数時間を経過すると、人間の体がこんなにも固くなるのかと思うくらい、丸太のごとくカチカチになるものです。ところが、母の場合は、死後硬直がまったくなく、三日目になっても、手足はフニャフニャの状態で、手にかけてあげたお数珠がはずれては、もう一度かけ直すのに苦労したほどでした。

葬儀屋さんも、よほど驚いたらしく、納棺のあと、私のところに来て、

「イヤ、驚きました。臭いがまったくなかったですね」

と語っていました。

この葬儀に際し、猊下様よりは、もったいなくも「浄義院妙博日芳信女」との日号を賜りました。私達にとっても、亡き母にとっても、これに勝る喜びは他にはありません。母は、この無上の喜びを胸に霊山へと旅立っていきました。

今度の母の臨終に接し、大聖人様の

「善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛(がもう)の如し、軟らかなる事兜羅綿(とろめん)の如し」

「死すれば光を放つ、是外用の成仏と申す」

との仰せが、まさに真実であることを、あらためて深く確信させていただきました。

これからは、この御本尊様に救いきっていただいた大恩を、一生涯忘れることなく、精いっぱいの御奉公を貫いてまいります。(法華講員の体験集『蒼碧集』5.より)

 

 

          法 華 講 員 の 体 験 談 ( そ の 1 0 )

 

 

折 伏 で 罪 証 消 滅 ! 難 病 ・ 多 病 を 完 治 (二神美保さん)

 

 

私は、子供の頃からたいへん病弱でした。それに加えて、高校一年生の時からアトピ−性皮膚炎を患い、顔が真っ赤に腫れあがってしまったため、いつも大きなマスクをして隠していました。

私は、なんとかこれを治したい、と懸命でしたので、毎日のように病院へ行って、注射をし、薬を塗り、コレクションしているのではないか、と思うほどの多量の薬を飲んでいました。しかしいっこうに良くならず、季節ごとに病状が悪化し、私を苦しめるのです。

そして20歳を過ぎた頃には、顔から背中から、ただれたような肌になり、Tシャツなどを着ていても、黄色い汁のようなものでシャツが皮膚にくっついてしまい、剥すのが大変で、着替えをするたびに悲鳴をあげる状態でした。

「かゆいし、痛いし、夜も眠れない。なぜ私だけがこんな目に会わなくてはいけないんだ、なぜ親は私をこんなふうに生んだんだ」

と、見当違いにも親を恨み、何度、親に罵声を浴びせ、当たりちらしたかわかりません。

医者からは

「喘息やアトピ−はアレルギ−の一種ですから、治すというよりも、いかに仲良くつき合っていくかですね」

などと言われ、私は一生こんなことが続けばしまいには精神的におかしくなってしまうんじゃないか、いつも不安な思いを持ち続けていました。

そのような状況にあった平成5年12月、アトピ−を治そうと思って行ったエステの店長だった青梅班長に、カバンの中に入れてあったお守りをポロッと落としたことがきっかけで折伏され、日蓮正宗に入信することができました。

しかし、ただ何となく、すがるものがほしくて入信した私は、信心をしたり、しなかったり、という状態を長く続けていきました。しかし平成8年8月、私にとって大きな事件が起こったのです。

二週間に一回、アトピ−性皮膚炎の治療のため厚生年金病院の皮膚科に通っていたのですが、以前から関節などに何とも言えない痛みがあったため、整形外科で検査を受けました。二週間後に結果が出たところ、なんと、難病といわれている『膠原病』である、という診断でした。

『膠原病』にかかると、アレルギ−による拒絶反応が起き、ひどい人は生命も落とすということで、この病気は、進行する事はあっても良くなることはない、せめて現状を維持できるように薬を使ったり、生活の中でいろいろな事に気をつけていく他はない、などのお話がありました。また、『膠原病』と一口で言っても、いろいろな病状があり、その中のいくつかが揃ったところで、難病指定されて医療費が免除になる、とのことでした。

私の場合、この時点では、まだ難病指定までにはいかず、医療費がかかる状態でした。

ショックを受けた私は、すぐに原部長に御指導をいただきました。原部長からは、

「今までの二神さんの信仰の姿が果報となって現れたのです。もう覚悟を決め、どんなことがあっても御本尊様から離れてはいけません。そしてこの病気を治すことは、御本尊様のお力でしか叶わないのです」と言われ、私は、本当に申し訳なく、御本尊様に今までの信仰を反省懺悔し、もうどんなことがあっても退転しない、そして『膠原病』をこの信心で治していくんだ、と強く思いました。

それからの私は、これまで怠けてきた信心を、少しでも挽回させていただきたい、という思いが込み上げてきて、1時間の唱題を心がけ、できうる限り本部での会合にも足を運んでいきました。そして、過去から積んできてしまった謗法の罪障は、折伏でしか消し果てることができないことを、心から確信し、学会員に対する折伏へと立ち上がりました。

学会員名簿を頼りに、電話であたっていくと、

「バカヤロ−!」とか

「このアマ!」などと罵倒されました。

ずいぶんひどい事を言うなァと思い、原部長にお話すると、

「それは良かったですね。これで少しずつ二神さんの罪障が消滅されているんです。ありがたいですね」

と励ましていただき、

「そうだ、もう、こうなったらトコトン悪口を言ってもらって、罪証消滅をしよう」

と、さらに名簿をあたっていきました。そして根気強く折伏を続けていく中、一人、二人、三人と、どんどん脱会して移籍する方がでてきました。

そして平成9年6月、『膠原病』の本格的検査の日がきました。今回は、何とか中途半端な状態から、医療費を免除してもらうためにも難病指定にまでもっていけるようにと、検査の項目を増やしてもらいました。ともかく医療費もバカになりませんでしたので、私は、何とか難病指定となって医療費免除になるように、と真剣に御祈念していきました。

そして7月、結果を聞きに行ったところ、検査の項目を増やしたにもかかわらず、なんと、どれ一つとしてひっかかっているものがなかった、というのです、つまり結果は、良くなったどころか、『膠原病』自体が治ってしまったのです。

ドクタ−の驚いた様子で、今度は定期的に行っていた検査も、念のため1年に一回受ければよいこと、また治療の必要も薬も必要ないこと等、うれしいお話でいっぱいでした。そして、医療費免除もなにも、治療そのものが必要なくなったわけですから、経済面でも本当に助けていただきました。御金言に、

「大地はさゝばはづるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」

とあるように、本当に、祈ってかなわざることなしの御本尊様であり、御本尊様のお力は絶対なんだ、と確信いたしました。(中略)

そして10月に受けた健康診断の結果を見て、私はビックリしました。

脂質検査A、レントゲン検査A、尿検査A、血圧A、肝機能検査A、その他問診もありましたが、総合判定がなんとオ−ルAだったのです。『膠原病』が治って、まだ3カ月も経っていないのですが、オ−ルAということは、健康体というよりも、超健康体ということです。その時、御本尊様の御力の偉大さをまた、あらためて実感しました。

思えば、入信以前の私は、自分に健康などという言葉はありえない、みじめで苦しい一生を送るのだ、辛い、辛い・・・・そんなことを背中にしょって生きていました。まったく生きる希望すら持てなかったのです。あの頃の私に、今のこの状態が想像できたでしょうか。すべて御本尊様のおかげです。(後略)(法華講員の体験集『蒼碧集』5.より)

 

 

◆ 法 華 講 員 の 体 験 談 ( そ の 1 1 )

 

 

入 信 1 0 年 を 迎 え て 、 あ の 異 常 だ っ た 自 分 が 一 変 (本多知史氏)

 

 

私は、昭和61年12月15日、幼なじみの佐々木支部長と、山田琢也班長に折伏していただき、入信することができました。今、この10年間を振り返り、御本尊様よりいただいた功徳の体験を発表させていただきます。

入信以前の私の生活は、まことに異常でありました。元来、地道に働くことが嫌いで、永年にわたって定職も持たず、夜も昼もない生活を送っておりました。

当時住んでいたマンションの月7万円の家賃も、入信当時、すでに263万円も滞納しており、ビルのオ−ナ−が催促をしてくると、

「払わない俺も悪いが、そこまで溜めさせたお前も悪い」

と言って、怒鳴り込みに行ったりしておりました。結局、その後、部屋中に赤紙を張られ、強制執行を受けて追い出されてしまいましたが、その時も一波乱あり、パトカ−が出動するという騒ぎになりました。

その頃、長男の小学校入学を目前に控えていましたが、住むところが決まらないため、入学手続きもできず、妻は本当にいたたまれない悲しい思いをしたようです。

また、以前の私は、コカインと大麻の常習犯でした。最後は密輸にまで手を染めるようになり、アメリカでは、逮捕されてブタ箱に入れられたことさえありました。

このような私ではありましたが、日蓮正宗に巡り会い、御本尊様を朝夕に拝み、折伏を行じていったところ、御本尊様の広大無辺の功徳が厳然と現れたのです。

入信3ケ月頃のある日、このような自分ではあるけれど、もう一度人生をまじめにやり直したい、という思いが腹の底から湧いてきたのです。むろん、かつて使っていた麻薬なども、ほしいとも思わなくなりました。同時に、仕事の方も、タクシ−の運転手として働き始めることにしました。

それまで何をやっても長続きすることのなかった私でしたが、不思議なことに、この仕事だけは何の無理もなく、楽しく勤めることができたのです。

それを見た妻はもちろんのこと、長男までもが、

「お父さんが別人になった」と言って・・・・・(涙に声を詰まらせる本多氏に講頭から「ガンバレ!」の激励。場内大拍手)・・・・・勤行をするようになりました。さらに、友人、知人達が次々と入信を決意し、多くの人達が妙観講員として共に信心に励むに至りました。御金言に、

「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり」

とありますが、こうして貧しいながらも、御本尊様と素晴らしい先輩に支えられて、生まれて初めての平和と安息の日々が訪れたのでした。そして、その後、御本尊様を有り難く思う一心から折伏をしていったところ、仕事上、さらに数々の功徳をいただくことができました。

まず、自分でも天職かと思えるほど、タクシ−運転手が楽しくて、こんなに楽しく働かせていただいた上に、お金まで貰えていいのだろうか、と思うほどでした。営業成績の方も、最初は250人中150番くらいでしたが、会社の人達を次々と折伏していくにつれて、100番、90番、80番と、グイグイ成績が上がっていき、社長をはじめ全社員に私の信仰のことが知れ渡った頃には、毎月平均20番ぐらいになっておりました。さらに折伏をしたことによって、元ヤクザの同僚に殴られたこともありましたが、その翌月には

「難来たるを以て安楽と得べきなり」

との御金言どおり、堂々一位になることができたのです。

さて、入信7年目にあたる平成5年12月、入信以来折伏をしてきた父に罰の現証が顕われ、それを契機に、私の人生にも大きな転機が訪れました。

私の家は、江戸時代からの油屋で、私の入信当時、父は京都市内にガソリンスタンド5軒を所有し、自動車関連事業を営んでおりました。私は父を、再三にわたって折伏しましたが、小さい頃から私が問題を起こしては、そのつど父が学校に呼び出され、教師からは

「学校始まって以来のワルです」

と言われ、また、長じては警察の厄介になることが度重なり、親の所に顔を出すのは金の無心をする時だけと、まったく私に裏切られ続けた父は世の中の誰よりも私を最も信用しておりませんでした。

さらに父は、過去に学会員から折伏されたことがあり、それ以来、異常なまでに日蓮正宗を嫌っておりました。

その父を折伏したものですから、父は、講中の先輩までも嫌うようになり、その後は、会ってもくれなくなったのです。家へ父を折伏しに行っても、居留守を使うので、帰ってくるのを待ち伏せてカ−チェイスになったこともありました。

そのような時、佐々木支部長から

「5年、10年とまじめに信仰を貫いていけば、最後は逆転して信心できるようになる時が来るんです」

との御指導をいただき、それを支えに父がわかってくれるまで頑張ろうと決意しました。

そして平成5年、バブルの崩壊により、にわかに父の会社も危うくなり、倒産の危機に瀕しました。この非常事態に対し、父が断腸の思いで5軒のスタンドのうち4軒を売却し、スタンド1軒とその上に立つ本社ビルを残して、何とか倒産だけは免れることができました。が、そこに至る過程では、父が信頼して会社の重役にしていた私の兄が、結局、父を裏切って会社から追放され、父は目(もく)していた後継者を失ってしまったのです。会社は大幅縮小、身内は造反と、まさに仏罰の現証そのものでありました。

そのような中、思いもかけぬことでしたが、父より

「お前が真面目になったことを認め会社を継がせたい」

と言ってきたのです。かねてから

「誰に継がせても、お前だけには継がせない」

と言い続けていた父だっただけに、本当に驚きました。

しかし、それには“私が日蓮正宗の信仰を止めて、家の宗旨である日蓮宗を継ぐこと”という条件が付いていたのです。

私は講頭に御指導をいただいて腹を決め、

「信心も絶対にやめないし、また、父が40年間守ってきた会社をつぶしたくもない。両親の恩に報い、また信心のことをわかってもらうためにも、どうしても、この二つの願いを同時に成就させていただきたい」

と、真剣に御本尊様に祈っていきました。そして、父に、信心をやめない意志をはっきりと示し、

「私はお父さんに報いるため、会社の発展のために、しっかり働きますから、信心を続けていく前提の上で、それでもよかったら、私を用いることを考えてください」

と返事をしたところ、しばらくして

「それでもいいから、会社にくるように」

と言ってきたのです。

こうして父に信仰を認めさせた形で家業を継ぐことになり、今では取締役になって収入も倍増し、経済的にも本当に安定してきました。また、社員15名のうち、4名が妙観講員という恵まれた中で仕事をさせていただいております。

思えば、これらの功徳は、すべて、御本尊様からいただいたものであり、その御本尊様のもとに正しく導いてくださった御住職や講頭をはじめ、妙観講の先輩方に本当に感謝申し上げます。

今、創価学会では、このありがたい御本尊様をニセ本尊と交換する大謗法を、あちらこちらで行っています。(後略)(法華講員の体験集『蒼碧集』4.より)

 

 

◆ 御 法 主 日 顕 上 人 猊 下 の 砌 

 

最後に、平成17年7月9日にブラジル・サンパウロ市における、日蓮正宗開道山正法寺落慶入仏法要において、御法主日顕上人猊下が挨拶として述べられた砌(みぎり)を紹介します。

それは、日蓮正宗の正法(本門戒壇の大御本尊)の実証を示し、「現証にはすぎず」との大聖人の御金言の確かさが確信できる内容だと思うからです。

 

 

御 法 主 日 顕 上 人 猊 下 の 砌

 

【平成17年7月9日に開道山正法寺落慶入仏法要において】

 

 

・・・法華経には、大権力者を含めた俗人と僧侶と高僧という三類の強敵が現れ、仏に対し悪口罵詈、刀や杖の迫害、流罪・死罪等を行うことが予言されており、これを身に当てて実践し、妙法の真髄たる大人格を顕された方こそ日蓮大聖人であります。

経文の予証をそのままに起こった、これらの諸々の大難のなかで最大の難は、なんらの罪もない大聖人様を刑場において頸を切ろうとしたことであります。

泰然自若として頸の座に座られた日蓮大聖人に対し、斬首の役人がまさに刃を振るおうといた時東南より西北にかけて大光明の物体が出現して太刀取りは眼がくらみ、ついに殺すことができなかったのです。これについては、下種仏法の発迹顕本という重大な法門があり、すなわちこの時、大聖人様は凡夫身の日蓮より久遠元初根本の本仏と顕れ給うたのであります。(中略)

 

そして、大聖人様はその本仏の魂を本門戒壇の大御本尊として顕されました。

すなわち末法万年の一切衆生を救い導く、真実の大御本尊様であります。その御内証を拝し奉り、唯授一人の相承をもって書写申し上げる歴代法主の大曼陀羅本尊も、また本仏日蓮大聖人の御魂を宿しまいらせるのであり、この信仰に入られた皆様をお護りくださるのであります。

大聖人は『新尼御前御返事』に末法について、

「大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災害並びをこり(中略)諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼陀羅を身に帯し心に存ぜば、諸王国を扶け万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱(のが)るべし」

と仰せられました。

このような救済の大宣言真実であることは、普通一般の常識では到底信じ難いことであります。しかし、

「道理証文よりも現証にはすぎず」

と仰せのように、これが正しいか否かは、論より証拠、いわゆる現実の証明こそ大切であります。

大聖人様の、この妙法の大曼陀羅を信ずる万民は必ず難を逃れるという本仏の大信念、大確信のお言葉は、実に七百年を過ぎた今日において、妙法受持の功徳として判を押す如く、しかも世界的規模において、まがう方なき現実の証拠として表れております。

すなわち、十年前の日本国の阪神・淡路大震災、奥尻島の大津波、昨年の中越地方の大地震に、日本国内の多くの方々が、お気の毒にも亡くなりました。しかし、それぞれの地における日蓮正宗の信徒は健在であります。

また、六年前の台湾中部の大地震による多くの犠牲者のなかで、数千の日蓮正宗信徒の方々においては、ただ一人の犠牲者もなかったのであります。

さらには昨年12月26日、インドネシア・スマトラ島アチェ沖を震源地とする大地震による大津波の被害は、世界災害史上未曾有のことであり、インドネシア・タイ・スリランカ等、周辺諸国の数十万の尊い人命が失われたことは、まことに痛恨の極みであります。

私も1月27日よりインドネシアの首都ジャカルタを訪問し、翌28日、インドネシア信徒の方々と共に、心より妙法の功力をもって犠牲者の御冥福を祈り、かつ速やかな災害よりの復興を願い、応分のお見舞いを同政府の方に呈した次第であります。

そして、インドネシア国における災害犠牲者は三十万人以上と言われておりますがその国における我が日蓮正宗信徒も数十万人と言われております。その中で犠牲者はいったい何人出たでありましょうか。実に一人も亡くなった方がないという報告がありました。

スリランカとタイにも数千人の日蓮正宗信徒がおりますが、その両国も現在のところ、この災害による犠牲者は一人も報告がありません。

これまさしく大聖人様の「万民は難をのがれん」との御金言が過去・現在・未来の三世にわたり、十方世界中に遍(あまね)く加護があることの現実の証拠ではありませんか。

すなわち本仏大聖人の御魂は、妙法を信ずる我々皆様のところに常にましまして、末法万年を通じて妙法受持の衆生を守り給うからであります。

大聖人様が白法隠没・闘諍堅固の末法において、妙法受持弘通の先陣を切られてあらゆる大難を超克し、その大難によって妙法の偉大な力用と本仏の開顕をあそばしたことは、我々皆様もまた正しい信仰によって三世にわたる最大幸福たる成仏を得る現証であり、その手本をお示しになったとこを確信すべきであります。

正法を受持し自行化他するところ、必ず難が来ます。皆様方もこのブラジルに在って、なんらかの難を受けることがあるかも知れません。しかし強い信心をもって前進するところ、利剣をもって瓜を切る如く、正義に向かう敵はありません。大聖人様も

「悪は多けれども一善にかつ事なし」

と仰せであります。

そして本日は、大聖人様出世の本懐たる閻浮総与の本門戒壇の大御本尊様の御内証を拝し、書写申し上げた当寺常住板御本尊の入仏法要が奉修されました。皆様には、この立派に建てられ荘厳された寺院に常に参詣せられ、僧俗一致和合していよいよ信行倍増し、妙法功徳の発揚に邁進されることを願うものであります。

終わりに臨み、当寺の隆昌と信徒皆様の御健康と御多幸を祈り、本日の挨拶といたします。(『大白法』第673号の記事より抜粋、色字は筆者による)

 

 

「此の五字の大曼陀羅を身に帯し心に存ぜば、諸王国を扶け万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱るべし」は、「道理証文よりも現証にはすぎず」の御教示の通り、現実の生活の中で実証されているのです。

「すなわち本仏大聖人の御魂は、妙法を信ずる我々皆様のところに常にましまして、末法万年を通じて妙法受持の衆生を守り給うからであります。」と御指南されています。