9 、 日 蓮 正 宗 の 信 仰 

 

 

   登 山 と 寺 院 参 詣 

 

 

日蓮正宗においては、総本山大石寺を本寺とし、総本山に連なるすべての寺院・教会を末寺とします。末寺は総本山の出城であり、地域における信仰の中心道場です。ここには、本門戒壇の大御本尊のお写しである常住御本尊が安置され、御法主上人の代理として住職・主管が常駐し、御報恩御講をはじめとする年中行事等を執り行い、信徒の教導にあたっています。

 

《 総 本 山 へ の 登 山 》 

 

日蓮正宗では、総本山大石寺に参詣することを「登山」といいます。

総本山大石寺は、一切衆生の成仏の根源である本門戒壇の大御本尊と、日蓮大聖人以来の唯授一人の血脈を所持する御法主上人まします一閻浮提第一の霊場です。

登山の本義は、大聖人の御当体である本門戒壇の大御本尊を内拝させていただき、御法主上人の大導師のもと、正法興隆による人類の恒久平和・広宣流布を祈り、さらに自身の無始以来の謗法罪障消滅と現当二世にわたる大願成就を願うことにあります。

この大御本尊内拝を「御開扉」(ごかいひ)といい、本宗信仰者にかぎり、御法主上人の許可を得て受けることができます。

大聖人の御在世当時の信徒は、日蓮大聖人を渇仰し、お目通りできる喜びを胸に、交通不便のなかを歩み、困難を押して登山されました。鎌倉在住の日妙尼は女性の身でありながら道中の危険を顧みず、佐渡に配流されていた大聖人を慕ってお目通りを願い、また佐渡在住の安仏房は、90歳という老体にもかかわらず、身延の大聖人のもとへ数度にわたって参詣しています。

長い道中を経てお目通りが叶った信徒たちは、大聖人に少しでも御奉公申し上げたいとの一念から、薪を切ったり、菜を摘んだり、沢へ下って水を汲むなど、真心からのお給仕に励まれたと伝えられます。

これらはまさに、法華経に説かれる「心懐恋慕・渇仰於仏(心に恋慕を懐き、仏を渇仰して)」との精神があるのです。

大聖人は、登山の功徳について、

 

「毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし、はげむべし」(四条金吾殿御返事)

 

と仰せられ、その信心を励まされています。

なお、登山には、所属寺院から添書(てんしょ)を受ける「添書登山」、指導教師の引率のもと支部講員が揃(そろ)って登山する「支部総登山」、連合会が主体となって行う「連合会登山」などがあります。

 

《 寺 院 へ の 参 詣 》 

 

日蓮正宗の末寺は信心錬磨の道場であり、本宗信徒は寺院に必ず所属し信行に励むことが大切です。

本宗末寺における儀式・法要は、日蓮大聖人の仏法を化儀として形のうえに表したものです。したがって本宗の信仰においては、この儀式・法要へ参詣して、大聖人の仏法を行ずるとともに、仏祖三宝尊へ深く報恩謝徳申し上げることが肝要です。

また、その参詣をとおして、大聖人の教えや、正しい修業のあり方を学び、宗門の伝統を後代へ正確に伝えていくことができるのであり、そこに寺院で奉修される儀式・法要に参詣する重要な意義があります。

さらに、常日頃から寺院に参詣し、僧侶の説法や指導を聴聞することは、大聖人の仏法を生活の中に実践し具現していくためにも、また、自らの謗法罪障消滅の功徳を積むためにも、欠かすことのできない大切な修業なのです。

また、日蓮正宗の信仰の基本は、師弟の筋目を重んずるところにあります。本宗においては、本仏(日蓮大聖人)と本師(歴代法主上人)、本師と小師(末寺の住職・主管)、小師と信徒といる縦の信仰の筋目を重んじ、この師弟相対の信心によって即身成仏の大功徳を成就していくのです。大聖人は、

 

「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし」(新池御書)

 

を仰せられ、僧侶に親近して法門を聴取し、信心の歩みを進めるべきことを教えられています。したがって、本宗信徒は自ら進んで寺院に参詣し、御法主上人の名代である住職・主管の指導のもと、自行化他の信心に励んでいかなければなりません。

 

《 御 報 恩 御 講 》 

 

全国の寺院では毎月十三日(寺院の事情によって前後する)を中心に、宗祖日蓮大聖人に対する御報恩御講が執(と)り行われています。大聖人は、

 

「仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし」(開目抄)

 

と仰せられているように、父母の恩・衆生の恩・国主の恩・三宝の恩を知って、報恩の道を尽くすことの大切さを教えられています。

とりわけ衆生を成仏に導く三宝の恩はもっとも深重なものです。御講に参詣し、御本仏大聖人に御報恩申し上げることは、この三宝への報恩の実践となるのです。

御講では献膳・読経・唱題の後に、大聖人の御書をとおして僧侶から信仰のあり方についての法話があります。大聖人は、法を聴聞する功徳について、

 

「法師品には『人有って八十億劫の間、無量の宝を尽くして仏を供養し奉らん功徳よりも、法華経を説かん僧を供養して、後に須臾(しゅゆ)の間も此の経の法門を聴取する事あらば、我大なる利益功徳を得べしと悦ぶべし』と見えたり」(松野殿御返事)

 

と仰せられ、その大なることを教示されています。

このように重要な意義のある御講には、欠かさず家族揃って参詣し、真心からの御報恩を尽くしていくことが肝要なのです。