山口ももり その書画の世界
山口ももりの父親、田中香雲という人はももりが27歳の時、57歳で亡くなりましたが、日展入選8回、毎日書道展でも最高賞である「毎日賞」を取るなど将来を嘱望されながら癌で早世しました。何よりも毎晩黙々と臨書をしていた姿が頭に残っています。子供の頃、いつも父が勉強している前に、小さな机を置いて宿題などやっていましたので、こういう風に学び続けて一生を過ごすものと思って育ちました。大学に入るにあたっては絵が好きだったこともあり、当時、流行の先端にあったデザインを選びました。父がもあと5年の余命だという医師の宣告を受けた時、今までの絵への興味が一気に書に向かい、父の指導を受け始めたのです。父は手術の後6年生き、亡くなりました。そこで父の師であったに谷邊橘南の門に入り5年、カンカンになって書と取り組みましたが、谷邊先生は病でおけいこを中断されました。谷邊先生は古筆の大家で指導は厳格でしたが父の子ということもあり、戦時中に母の実家の2階に疎開をされていて私の幼い頃をよく知っていてくださることもあり、とてもかわいがっってくださいました。
谷邊橘南先生のおけいこがお休みの間、どうしても仮名の勉強だけではいけないと思っていた私は小坂奇石先生の門をたたきました。谷邊先生がお出しになっていた【書窓」という競書冊子の漢字手本を揮毫されていたからです。小坂先生は京都には月1回のおけいこ、それに錚々たる先輩方がキラ星のごとく小坂先生を取り巻いています。先生の前の大きな硯に黙々と墨を磨って3時間、しかしその5年間は目の前で揮毫される書を見るというこのうえない貴重な経験となりました。京都の一番弟子であった三谷治山先生が小坂先生とたもとを分かたれた時、どうしてもどちらかをということで、本当に心苦しく小坂先生の元を去り、三谷治山先生の門下となりました。今にして思えば、谷邊橘南、小坂奇石、三谷治山という稀代の芸術家の膝元に近く育くまれたことは、何物にも代えがたい大変な幸せです。お三人とも亡くなられて、そしてその時こそ、あれほどひたむきに学んだのに、自分には本当に力がないということを思い知りました。今にして思えば、師匠がいなくなって初めて、自分なりの見方、解釈を創り上げるのだと思います。、
春過ぎて夏来るらし白妙の衣ほすてふ天の香具山
青によしならの都は咲く花のにほふが如く今盛りなり
書道界というところにどっぷり30年、日本書芸院の審査員にしてもらってもどうも私は満足できませんでした。自由に書きたかったのです。そんな時、絵を取り込んだ書を発表し始め、折からのバブルへ向かうアート熱に人より一歩先んじたのでしょう。初めての個展以来、引く手あまたで次から次とお誘いがあっていろんなところで発表させていただきました。最近、こういう絵をあまり描いていませんが、こちらのタイプの絵もまた、ももりの世界なのです。
にぎたづに船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎいでな
たごの浦に打ち出でてみれば真白にそ冨士の高峯に雪は降りつつ