








マドリッドのルカ−1
ルカがマドリッドで生きると言って、行ってしまってもう9か月。
ルカからは元気でやっている。幸せにしているといつも言ってきた。幸せそうな写真も届いた。しかし「仕事はあるの。お金はちゃんともらってるの」という問いには、どうも、不明瞭で、親には合点がいかないものだった。
9月に日本を発つとき持たせた30万円は、間もなくなくなり、「仕事が遅れて、入るはずのお金が入らないの」と、電話が入るようになり、毎月のように、20万円近くのお金を送って7か月が過ぎた。クレジットカードの支払いも、毎月、母親の所へくる。恋人もできたという。とても、いい男だそうだ。しかし年は60才というではないか。ルカはほんの20才。大きな目にちんまりした鼻、みごとにくぼむ両ほほのえくぼ、美人ではないが彼女の笑顔は、人の心をとろかすほどの魅力があった。ある日の電話で、口論になった。母親は送金を止めることを宣言、クレジットカードも止めた。そして、2ヶ月、ルカからはあれ以来、なんの連絡もない。ウソをつくような娘ではない。努力家でやさしい娘だったが、言い出したら聞かない意地っ張りでもあった。
マドリッドのルカ−2
マドリッドの郊外、ミラシェラで個展をしないか、という話の下調べにマドリッドへ行く私が、通訳をルカに頼もうかと母親に声を掛けたのは、ちょうど、そんな時だったのである。私は子供の頃からルカをよく知っていた。
「もう、心配で心配でしょうがないのよ。見てよ。こんなにやせちゃったわ。お願い。どんな生活してるか見てきて。そして、ありのままを言ってほしいわ」
「そんな深刻なこと請合えないわよ。そんなこと言ってないで、あなたが行きなさいよ。たとえ、私が何を報告したって、あなたの心配は終わらないでしょう。私だったら、もっと早くに行ってるわ」
「でも、私、海外へ行ったこともないし、車にも弱いし、食べ物も全然ダメなのよ」
「ナニ言ってんの。1週間くらい食べなくったって、死にゃしないわ。ずーっと心配し続けるより良いじゃない。夜はどうなの。ベッドが変わると眠れないとか」ホテルで不眠症患者と同室というほどつらいことはない。
「眠る。眠る。そっちは平気よ」。と、彼女は叫んだ。「行く。行く」
こうしてルカの母親と私がマドリッドへと旅立ったのは、7月に入ってからだった。
マドリッドのルカ−3
空港に現れたルカの母親を見て私はびっくりした。なんと、体重45キロの彼女は、30キロをゆうにオーバーする荷物を持っていたのである。
「一体何が入ってるの」水羊羹から、カップなんとかまでだそうだ。
「幼稚園の遠足じゃあるまいし、紙切れ1枚にすればいいのに」
「何とかするわよ」彼女は意気軒昂で、すりむけた肩に荷物をゆすりあげた。
バルセロナから、グラナダ、コルドバ、セビリア、旅は快適に続く。見渡すばかりのひまわり畑の中を走り、アルハンブラ宮殿やメスキータ、ヒラルダの塔を見た。紀元前アフリカの老大国、カルタゴ、次にローマ、西ゴート、アラブの支配下へ、再び、カトリックの厳しい戒律に生きたスペイン。ローマの柱頭にアラブの梁が乗り、その上にキリスト教の円形ドームが乗っている。この国の、生々しい歴史の集約と、その情念に触れる旅。そして、いよいよ、マドリッドに2泊の滞在となったのである。マドリッドには夜に入った。私たちはルカをホテルに呼び出した
マドリッドのルカ−4
ルカと私たちの時間は3晩とあと2日。私はマノロ氏と会って、会場の下見をし、お金の交渉もしなければならない。何より世話役のマノロ氏を見極めて、個展をするかしないかを決める。個展の成否はマネージャー次第。だって、ここには誰も私のことなぞ知っている人間はいないんだから。ルカがやってきた。
「私のスペイン語では十分ではないので、明日からジンも一緒に行動します」
「でも、私はあなたにしかお手当てを払えないわよ」
「わかっています。私とジンはいつも一緒に行動しています」
「そのジンっていうのが、あなたの彼氏なの」ルカはうなづいた。「今、わたしをモデルに小さなフイルムを一本撮って、今、ジンがあちこちに紹介してくれてます。彼はとても素晴らしい過去を持った人で、いい友達も一杯いるんです。彼にタップも習ってるわ。ジンは俳優でダンサー、脚本も書きます。私のこと、とっても才能があると言ってくれてます。今、本当に仕事がないんですけど、アメリカへ帰ったらかならず、仕事はあるって言ってます。彼は20年間アメリカで暮らした人なんですから。それに、もうすぐ、コスタリカへ映画を撮りに行く話があって、やっと、ほんの昨日、ファックスで決まったと言ってきました。そこでは、必ず仕事があるって」
「コスタリカって何よ」母親が叫んだ。
マドリッドのルカ−5
コスタリカって何よ」母親が叫んだ。
「南米で映画を撮るの」
「何、夢みたいなこと言ってるの。娘のことはお母さんが一番よく知ってるわよ。美人でもなし、エクボだけで売り出せるほど、世の中甘くないんだから。そんなタップなんて」
「成功すれば、モンテカルロの舞台にだって立てるって」私はルカをさえぎった。
「ルカちゃん。それはダメよ。そんな、全然プロポーションが違うわよ。身長だってみんな180センチはあるでしょう。それに、ルカちゃん、あなたは今21才、今が一番きれいな時よ。今、売り出してなくて、今頃タップを習いだしてるなんて、遅すぎるわよ」
「ジンは今、どんな仕事をしているの」
「今、本当なら次の撮影に入っているはずなんですけど、もう、2週間も3週間も遅れているんです。だから、次の仕事も考えないといけないんですけど」
「お母さんのお金がなくなってからはどうして食べてたの」
「それはジンのお金で」
「ジンのお金でやっていけるの」
「ほんとうに苦しいんですけど、私が何とかやりくりして」
「もう、遅いし、ホラ、2時よ。明日、朝、必ずわたしの仕事の段取りを付けて下さい。まあ、ルカちゃんの元気な顔も見たことだし」
「気をつけてタクシーで帰るのよ。お父さんから預かったお金も持ってるんだけど、こんな夜更けの女ひとりなんだし、明日、渡すわ」
ルカはジンに合図の電話をした。アパートの前、タクシーから降りてからすら危ないという、このマドリッドの現状なのである。ルカは母親の持ってきた荷物のほんの一部を持って帰っていった。母親の荷物はあまりにも大きくて、いったんバラバラにしてしまったが最後、到底一度には持てる量ではなかったのである。母親に見送られてタクシーに乗り込むルカを、私は部屋から見送った。窓の外では、ジプシーの少年が、エレクトーンでもの悲しいメロディーを奏でていて、妹らしい5,6才の少女が帽子を持って人々の間を回っている。マドリッドの午前2時は未だ宵の口なのだ。
マドリッドのルカ−6
二日目の朝、私たちは興奮気味で早くから目覚めていた。
「ちょっと散歩しようか」
地図を片手に、ホテルの前を上がって行く。王宮の前をとおり、スペイン広場へ。スペイン人って本当に愉快で、スペイン語はわからないのに、道を尋ねると必ず目的地にたどり着ける。身振り手まねが実に的確で、時には一緒に連れて行ってくれたりもする。セルバンテスとドンキホーテの像で有名なスペイン広場へやってきた。
かぎの手に折れ曲がった細い陸橋の下へ差しかかったとたん、ルカの母親が「ギャアーッ」と叫んで走り出す。前から、私たちのほうへ楽しくおしゃべりしながらやって来ていた二人の若者が、母親の前をヒラヒラは知っていくのが目に映った。彼女と並んで歩いていたわたしにも、何が起こったかわからない、一瞬の出来事だった。「返してええ」と叫びながら階段を駆け上がっていく母親のうしろから、ハラリハラリと落ちたものが、ハンドバックのひもであるのをわたしは知った。階段を駆け上がったわたしの前に、ルカの母親はしゃがみこんでいた。
「ルカのお金が、ルカのお金が・・・」
マドリッドのルカ−7
パスポートから、トランクの鍵、カードも現金もすっかりひったくられたルカの母親が添乗員に事情を話す間に、ルカに電話をかけた。
「お母さんが、すっかりやられちゃったのよ」
「ええっ」
「ひったくりに、パスポートから、お金から、カードから、何から何まですっかり盗られちゃったのよ。すぐ来てちょうだい」
間もなくルカがあらわれた。一緒にやってきたジンを見て、わたしは少々拍子抜けした。ジンは背も低く、ほほがげっそりとこけ、反っ歯がまだらにすいて風通しのよい、どう見ても、21歳のルカが結婚したがるような男には見えなかった。「スイカを食べさせたら速いな。何しろ、種は歯のすき間から勝手に出るってやつだ」わたしは腹の中で思った。尤も、60才には見えない。うす水色のシャツのわきの下が大きく汗で色あせしている。ジーンズにスニーカーといういでたちである。ジンは、母親と一緒にオロオロするルカに指図して、テキパキと何か所かに電話をした。「案外、しっかりした男かもしれない」わたしは腹の中で品定めをする。母親は添乗員と一緒に大使館へ出かけて行き、私とルカとジンはホテルの部屋で向かい合った。
マドリッドのルカ−8
昨夜母親と私はルカに詰問した。
[ルカちゃんは麻薬をうったりはしてないわよね」
「とんでもありません」
「暴力を振るわれてはいないのネ」
「いいえ。私だって自分のからだは大切です。彼は本当に私のことを考えてくれていて・・・」きれいに化粧したルカは、耳の上で切りそろえたまっすぐな髪がエキゾチックで、あか抜けして別人のようだ。こんな東洋アッピールもあるらしいと感心する。
「今はどうしてるの」母親の出番である。
「見てよ、ホラ。これ、お母さん全部持ってきたのよ。こんなに肩がすりむけちゃった。今、どうして食べてんの。仕事はあるの。お金はどうしてるの。どうして、こんなに痩せちゃったの」ルカの答えは歯切れが悪い。
「ルカが行ってしまってからは、お父さんはすっかり弱っちゃってため息ばっかりついてるし、お兄ちゃんは、もう怒ってしまってる。アレだけ勝手にしてみんなを心配させてるんだから、もうどうなったって放っておけって」
昨夜、二人は代わわるがわる彼女を問い詰めた。彼女の働くプロダクションは夫婦2人でやっている会社で、映画関係のフィルムを製作して売り込んだりするという。夫婦はとても良い人だけど、ケチでお金をくれないのだそうだ。素晴らしい別荘を持っているという。人に金を払わぬ良い人なんているもんか。
マドリッドのルカー9
ホテルで向き合った私にジンは言った。
「お仕事の時間をまず決めましょう」
「今日はこんな状態だから、午後以降か、明日にしてもらって下さい」マノロ氏との打ち合わせは、明日、11時と決まる。私は打ち合わせの為に、日本から持ってきた絵を広げた。
「素晴らしい」ジンはうめいた。
「これは成功まちがい無しだ。僕もいっぱい良い友達を持っている。スペイン王妃の妹とも知り合いだ。ショーン・コネリーも知っている」
「そんな大変な人とお知り合いなんですか」
「ミフネを知っているでしょう。スペインで「黒い太陽」という映画を撮ったことがある。彼と一緒に食事をしたこともありますよ。日本でゾロっていうテレビが放映されたのを知りませんか」
「ゾロ?ゾロですって?私はあれにどんなに夢中になったことでしょう」私はヒュッヒュッヒュッと空中にゼットを描いた。
「僕はあの撮影の時のスタッフでした」
「彼はいっぱい凄いお友達がいて過去がすごいんです」ルカも加勢する。
「そうだ。コスタ・デル・ソルだ。あそこは世界中の金持ちが集まっている所だ。あそこで、小さなギャラリーを見つけて個展をするんだ。王妃の妹にも手紙を出そう。彼女は絵が大好きだ。ピカソやダリの作品の収集でも有名なんだ。他にもいっぱい買いそうなのがいる。飛行機でやってきて全部買い取るかもしれない」彼はサッカーチームの持ち主のナントカ氏とか、映画スターのタレソレとかいっぱい名をあげた。彼は饒舌で魅力的に語った。横でルカは黙ってニコニコしている。
マドリッドのルカー10
私はジンをさえぎった。
「ちょっと待ってください。今回はマノロ氏のお世話になるんですよ。私はそのための打ち合わせに日本から来てるんです」
「二度目はルカと僕とでやりましょう。成功間違いなしだ」ジンは何度も何度も首を振り、サクセスフルをくり返した。
「大変失礼なことを言うことをお許しください。わたしに少しあなたという人についての知識を下さい。あなたのお話は夢のようで、私のような貧乏絵描きには理解できないんですから」ジンの正体を見極めてやる。慇懃に、しかし、ズケズケと。かれの過去はこんなものだった。スペインで生まれ、幼い頃から子役で映画に出演し、ずっとこの世界で生きてきた。アメリカにわたって20年。結婚した妻を亡くし、子供は二人、もう独立している。彼は家族の写真を見せた。腕にいれずみのある、もっさりしたアメリカの下層階級の人間のように見えた。もう一人は大学の博士課程に在籍中とか。タップダンスの舞台写真も見せてくれた。2年前、生まれ故郷のスペインが懐かしくなり、舞い戻ってきたという。
「どうしてルカちゃんと知り合ったの」
ルカが大学二年の時、友人と二人で夏休み1ヶ月かけて旅行した。ほんのささいなことで知り合い、日本へ帰ってからも手紙のやり取りが続いた。ルカは大学を卒業。大手住宅メーカーに就職。しかし、ルカは言う。「あの会社には、文科系の私を生かすものはなにんもないんです」そして、6ヶ月、ジンからは仕事があるから来いと、何度も何度も言ってくる。周囲の反対を押し切って、それでも、仕事は本当にあるか調べるために再びスペインへ。その時は、翻訳やタイプの仕事がいっぱいあったという。そして、今がルカの3度目のスペインなのである。
「今は、本当に景気が悪くて・・・」
「オリンピックや万博でわく、今のマドリッドが景気が悪い??」私は出かかった言葉を飲み込んだ。
なれない英語の半日と、とんでもない世界の話に、私はすっかりくたびれてしまった。口が渇いて、喉がいがらっぽい。間もなくルカの母親も帰ってきた。マドリッドは犯罪が多い。麻薬も売買は禁止されているものの、使用者に処罰が無いというお国柄である。大使館には毎日毎日いろんな被害者がやってきているという。オリンピック、万博を当て込んだジプシーや流れ者が、今、この、マドリッドにはいっぱい来ているという。「奥さん、命に別状無くてよかったですよって言うのよ]
マドリッドのルカー11
少し休んでからルカとジン、母親とわたしは街にでた。インド人の経営する日本料理店で軽い昼食を取る。
「せっかくここまで来たんだから、二人の住まいも見せてもらいましょうよ。お父さんにも報告しなければならないんだから。いけませんか」
「とんでもない」
7月のマドリッドの街はカッと熱く、乾いて埃っぽく息苦しかった。都会の喧騒を吸い込んだ汗がベトつく。「ここが、プエルタ・デル・ソル、ここがサイベレス広場、ここがプラド美術館・・・・」
ルカとジンのアパートは、マドリッド一の大通り、グランビアに面していて、古いがおしゃれな角ビルである。「あのビルの8階です」とジンが言った時、私はルカの母親に言った。「ルカちゃん、ひょっとして大したものかもしれないわよ」
1階の左側にみやげ物屋が2軒、右側は守衛の詰め所である。真ん中に3人乗りのエレベーターが2機ついている。わたしとルカと母親が一方に乗り、もう一方にジンが乗った。8階の入り口に頑丈な鍵がある。ビルの最上階にこんな迷路みたいな通路があるなんて全く以外だ。
「ここです」と、ジンはわたしたちを中に招き入れた。私とルカの母親は一瞬息を飲んだ。
マドリッドのルカー12
しゃれた新婚家庭を考えていたわたしの目に、厳しい現実のみがむき出しになってあった。
2畳くらいの粗末でいびつな部屋、ダブルベッド一つで部屋はいっぱいだ。押入れになった棚が一方の壁を占領している。棚の上に置かれたプリンが妙に物悲しい。クーラーも冷蔵庫もない部屋のよどんだ空気をかき回すものは、私がルカにおみやげに持ってきたうちわのみである。ルカの性分なのだろう。キチンと整理されて不潔感はない。ルカもジンも恥じるでもなく淡々としている。私と母親は急に疲れてベッドに座り込んだ。
そうだったのか。ルカはこの小さな部屋で仕事もなく、帰ることもできず、夢だけを食べて暮らしていたのか。ジンは相変わらず饒舌である。同じビルの4階にあるというプロダクションにも立ち寄ったが、昼休みで扉は開かなかった。「このすぐ近くに額屋があります。そこならぼくの顔で安くしてくれるんだ」
グランビアの大通りからほんの一ビル入り込んだだけの細い通りに額屋はあった。ここもやはり昼休みで人影はない。スペインの午後は2時から4時までどこも店を閉じて、人々は昼食と午睡に家に帰ってしまうのだ。どす黒い濁った顔色の、ひどい格好の女がフラフラと、夢遊病者のように行ったり来たりしている。盛り上がった胸の半分こぼれそうなドギツイ化粧の女がこれも、ゆっくり行ったり来たりしている。ルカがささやいた。「売春婦よ。こっちの人は何しろグラマーが好きなの」ドギツイ化粧の若い方はまだしもわかる。だけど、もう一方のひどいほうはどうだ?私はルカの母親にささやいた。「あれでも買う奴がいるのかしら」ジンが言った。「この辺は麻薬がよく売買されている所ですよ。。私とルカの母親は扉のくぼみに体を押し付け、ルカとジンが街頭の側で私たちを守る格好である。「ホラ、注射器が落ちている」私はたまりかねて叫んだ。
「もう結構。こんな所でわたしは額を買いません」
マドリッドのルカー13
グランビア大通りからほんのビル一つ分入り込んだだけなのに、ビル蔭にうす汚い売春婦が2,3人もしゃがみ込んでいるのだ。ルカとジンに守られる格好で大通りに戻った。「もう帰りましょう」
ホテルまで送ってきたジンに言った。
「ルカと母さんにゆっくり話しをさせてあげてください。とても久しぶりで会った親子なんだし、又、すぐ別れるんですから」
わたしは未練気のジンに扉の方へ手を差し伸べた。ジンは去った。「ゆっくりお風呂を使いなさいよ。それから食事をしましょう。そして、いろいろと話を聞かせてちょうだい」
風呂上りのルカは素朴な娘に戻っている。
「ルカちゃんはその方がよく似合うわ」
わたしがバスを使っている間、母娘の声が高く低く聞こえてくる。やっぱり多少はこじれているようだ。部屋に戻ると母娘は深刻な顔をしている。
「ルカちゃん、どうしても帰れないの」
「ええ、今、突然私が帰ったらジンの予定が全部フイになります」
「この子はすっかりあの男にいかれてるのよ」母親は涙声になった。
「ルカちゃんには、もっともっと若いステキな男性が似合うと思うけどなあ」
「ルカちゃん、彼とはセックスもするの」ルカは悪びれることもなくうなづいた。
「そうか、つまり、ルカちゃんは、男としてジンを愛しちゃったんだ」
「わたし、愛するってことがどういうjことなのか、まだよくわからないんです」
「愛するってどういうことなんだろう。でも、女って、体の関係が深くなればなるほど執着が出てきて、別れられなくなるものよ」
「そうよ、ルカ、みんながあなたの帰りを待ってるわ。高木君だって浜野さんだって」
「でもわたし、今、帰ったら、せっかくここまで来て何もやれてないんですもの」
「9ヶ月も頑張ったんだもの十分じゃない。お父さんがどんなに心配しているか。テレビで花嫁姿が映るたびに、ああ、ルカに着せたかったなあって、何度も何度も言ってるのよ」
「本当にルカちゃんを愛してる人は、ジンのほかにも一杯いるのよ」ルカは父親の話に涙を浮かべたが、しかし、首を立てにはふらない。
「ルカちゃん、お父さんは愛してるなんてちっともささやかないけど、黙々と働いてるわ。そのおかげで、家族は誰も明日の心配をしないで暮らしていられるのよ。愛してる愛してるっていくらささやいたって女一人養えないようじゃ、一人前の男とは言えないわよ」
「本当にお父さんて偉大だわ」母と娘の意見はここでは一致した。
マドリッドのルカー14
「ルカちゃんはもっともっと勉強おしよ。こんな所で仕事を待ってじいっとしてるなんて、青春の浪費よ。あなたの英語もスペイン語も、もっともっと磨いてライセンスを取るのよ。そして、それを企業に売り込んだらどうだろう。外国が好きなら、企業の力をバックにして外国へ来ることよ。たった一人、自分の力で、若い娘が生きるなんて、大変なことよ」ルカの口は重い。しかしそれでも、ポツリポツリと言う。
「私も、こんな所で一体何してるんだろうとはぼんやり考えてたんです」
「ルカちゃん一人で生きるってことは、一人で会社を経営するようなもんよ。仕事が自分で取れなくっちゃ。人が仕事を持ってきてくれるのをじいっと待ってるなんて、駆け出しのやることじゃないよ」
「ジンもアメリカへ帰ることも考えているんです。スペインは本当に帰って間が無いんで」
「ルカちゃん」私は急いで遮った。「それはダメ。一番まずいことは根無し草になることよ。ルカちゃんが大学を出てすぐ良い会社に就職できたのも、ルカちゃんが、20年間日本に生きて、両親もお父さんもしっかり生きてるって事がルカちゃん信用になってるのよ。スペインで9ヶ月、やっと、何人かがルカちゃんのこと良い娘って思ってくれる人も出ようかっていうのに、又々、アメリカへ、コスタリカへなんて、誰も何も仕事なんてくれないわよ。だって仕事を頼む人の身になってごらんよ。そんなよく知らない人に、仕事を任せるなんて、そんなこと怖くってできっこないわ」
「そうよ。根無し草はよくないわ。明日の飛行機に乗っちゃいなよ」母親も必死だ。
「ルカちゃん、パスポートは?自分で持ってるのね」
「いいえ、ジンが危ないからって預かってくれてます」
「ルカちゃん、それは大変なことよ。パスポートがないとこの国から出られない」
マドリッドのルカ−15
パスポートがジンの手元にあるという。さあ、ルカをもう一度帰さなくてはならない。
「ジンは決して悪い人ではありません」
「ジンってどうしてそんなにお金がないの。男で60才っていえば、まともな男なら年金だって出る年よ。能力があるならスタッフの一人や2人使って事務所でも持ってると思うけどなあ」
「前、アルゼンチンで女の人と暮らしていて、その人が悪い人で、お友達のお金を持ち逃げしたので、全部自分が払ったって」
「ルカちゃん、彼は60才。いろんな女と付き合って、そして別れてるのよ。ルカちゃんが心配してあげるほどヤワじゃないよ。そんなもんか」
「私も時々、この人何言ってんだろうって思ってたんです。いい友達だと言っといて、すぐ後から悪口を言ったりする」
「どういうことなの」
「自分がアイディアをいっぱい出したおかげで大成功したのに、友達は尊敬を持って返さないとか」
「そりゃあ、能力がないってことだよ。アイディアくらい誰でも出せる。要は実際に実現できるかどうかなんだ。やるもののみが成功するんだから」
母親がせきこんで言った。「もう、お母さん決めた。明日の飛行機の切符、添乗員に言って買ってもらうから」
「急に、そんなこと言われたって」
「ルカちゃん。あなたをこの国で守ってくれるものは何だと思う」
「ジンですか」
「そうじゃないよ。とんでもない。居住権のない一旅行者を守るものはパスポートひとつよ。パスポートには、これを所持するものを保護してくださいって書いてあるでしょう。あれは、日本って言う国がルカちゃんを守るっていう意味よ。パスポートがないと帰れない」
「ジンは昼間言ったわ。娘さんはいつでもお返ししますって」
「パスポートをすんなり返すかしら」
「ジンはそんな悪い人ではありません」
「私にはそんなに良い人とは思えないわ。ほんとに良い人だったら、若いステキな人を紹介こそすれ、自分の娘みたいな若い娘を好きにするなんて許せない」
「娘って、お父さんより年よりじゃないの」
「ジンじゃなくってオジンってわけね」
ドリッドのルカ−16
[ジンは昼間わたしに言ったわ。娘さんはいつでもお返ししますって」
「そんな、急に、そんな・・・」ジンの、あのまばらにすいたソッ歯を思い出してむかむかしてきた。
「このチャンスを逃すと帰れなくなるわよ。飛行機のチケットが高いものなのは知ってるんでしょう」
私たちはこもごも説得したがルカはウンとは言わなかった。私たちの2日目はこうして過ぎて行き、合図の電話をして、ルカはジンの元へ帰って行った。
短い、寝苦しい夜の後の朝がきた。私たちはもう、どうしても連れて帰る気持ちになっていた。しかし、同時にジンの態度が急変しないだろうか。刃物を持ち出したり、部屋に閉じ込めてしまったりしないだろうか。私たちは作戦を練った。ルカの母親が盗られたパスポートの再発行の為にルカ自身のパスポートが必要だという電話をかけた。ルカが現れるまでの間、私たちはどんなに気をもんだことだろう。現れたルカはいたずらをした子供のような顔で言った。
「ジンはもう勘ずいてる。パスポートがいるなんておかしいって」
「もう、飛行機のチケット取っちゃったわよ」
「ええっ」ルカは驚いたが、「どうしても、もう一日待って欲しい」と譲らなかった。
「今日は私の打ち合わせの日だけど、ジンは来るかしら」
「さあ、君は君の好きなようにするんだから、僕は関係ないって言ってましたけど」
私はもうジンの顔も見たくない気分になっていた。あのいびつな小さな部屋のダブルベッドを見たときから、私はジンを許せなくなっていた。ルカの母親からの送金が途切れ、ルカはジンの部屋に転がり込んだ。最初は2つのベッドだった。ある夜、ジンはルカを女にした。「1週間くらい、怒って口をきかなかった」とルカは言ったのだ。
「パスポートは持って来た?」ルカはうなずいて、「カードもスーツケースの鍵も、大切な物は一式持ってる」と、ウエストポーチをたたいて笑った。
「デカシタ。ルカちゃん」
「彼はもう、私は日本へ帰るような気がするって言っています」私は、この際、荷物を全部捨てても良いと思ったが、ルカはきちんと後片付けをしたいと言う。母親も「この娘はいっぱい高価なものを持ってきてるの」と言う。
「大体、高価なブランド品に身を包んだ若い娘が一人、外国で動き回るなんて、カモネギもいいとこだ」と私は腹の中で舌打ちした。日本人は金も大して無いのに、あるように見せたがりすぎる。
「じゃあ、一日だけ遅れて帰るわね。オープンの往復チケットは片道より安いんだし、戻りたかったら、又、マドリッドへ来れるじゃない」しかし、本当にルカ一人でジンの所から抜け出せるだろうかとの不安は色濃くあった。
十一時かっきりにジンはやって来た。
マドリッドのルカ−17
ジンは11時かっきりにやって来た。昨日は拙いけど英語で一生懸命対応したけれど、私には、もうルカと日本語で話す以外、ジンと話す気は無かった。彼は所在なげに、私たちの日本語の会話を眺めていたが、小さくリズムをとって手拍子を打ったり、首を振ったりして気にする風もない。どこか飄然としていて生臭くない。ルカの母親は、添乗員と大使館へ出かけて行った。引ったくられたパスポートの再発行がなされる。
間もなくマノロ氏がやって来た。やせて、ノッポの彼はやさしい男前で、もっさりと口ひげが口の周りを覆っている。今、カナリア諸島のテネリフェで大きな工事を請け負っていて、昨日帰って来たところだという。いくつもの会社を経営する彼は
「私はスペイン人らしくない。昼も夜も、土曜も日曜も働いている」と言った。彼は怖ろしく早口で、なるほど、これではルカのスペイン語は役に立たない。マノロ氏のスピードにつられて、ジンの英語が速くなり、私がジンの英語についていけない。結局ルカの通訳で、会話は3段階でまどろっこしいことこの上ない。ともかく彼は忙しい。運転しながらジェスチャーは入れるし、社外風景のガイドもつとめる。
「今、通ったあのビルの黄色い外装、あれは、私の会社の仕事だ。この道、毎年、マラソンで走っている。仕事ばっかりの人生で、走るっている時だけが息抜きだ」
「そんなにお忙しいのに、私の個展のお世話までしていただいては、もう一つマラソンを増やさなければいけませんね。京都でも、マラソンはありますよ。どうぞ、ゼヒ京都で走って下さい。京都をご案内したいですよ」
「ハッハッハッ、この道、この辺りでいつもハレルヤコーラスのレコードをかけてる人がいて、走ってると「ハーレルヤ ハーレルヤ、がーんばれ ガーンバレ」って、とても、息が合うんです」
車はマドリッドから郊外へ抜け、高級住宅街に入った。ミラシエラはマドリッドの郊外、半時間あまりの所にあった。荒涼とした内陸のマドリッドだが、ここ、ミラシエラの家々には花が咲き、木々の緑も多い。目指す会員制の保養所は、美しいプールが2つ、テニスコートが12面、ゴルフの打ちっぱなしから託児所まである。建物の中には、ホールやレストラン、バー、ギャンブルをする部屋があり、私の個展の予定会場はラウンジルームである。時期は来年11月。1年半先のことである。全ては、予想以上に快調に決まった。
マドリッドのルカ−18
ミラシエラの支配人にも会ってOK.個展の予定は快調に決まった。ボリビア人の友人が以前、ここで個展をした時、私の絵の写真を何点か見せてくれていて、応諾はもらっていたのだから。「向こうのオープニングパーティーは、そりゃあ、凄かったよ。人で絵が見えないほどだった」と彼女は言っていた。彼女の義弟が、このマノロ氏なのである。会場に引き続いてマノロ氏の自宅に行く。先ほどプールで泳いでいた少年も一緒だ。マノロ氏の次男のこの少年がなんとも美しい。水面に映る自分の姿に見とれて水仙になったというナルキッソスもかくやと思う。美しい奥さんにも紹介され、その次に額屋へ行った。明るくキチンと整理された店内は、ここもやはり昼休みだったが、昨日ジンが連れて行ってくれたところとは、これ程対照的なところもあるまい。
「何もかも任せてください。そのほうがこちらもやりやすいですよ。あなたは素晴らしい作品を作って下さい」
ルカが横でフーッとため息をついた。
「違いますねえ。何もかも」
「ルカちゃん。男はこうでなくっちゃ。有能な男はみんな忙しくしてるわよ。日なか、小娘のお守りをしているなんて、全くお話にならないよ」
ステキにおいしい魚料理を、明かるいレストランでごちそうになり、又、マノロ氏は次の打ち合わせに出かけて行った。私たちはホテルに戻った。ともかく私の方の旅の目的は果たせた。ルカの母親も再発行されたパスポートを持って戻っていた。「とも角、荷物をまとめます」と言って、ルカとジンは帰って行った。
部屋で休むという母親を残して、私は一人、スケッチブックを持って街に出た。マドリッドの夜7時は、まだ陽が差している。しかし、さすがに日中のあの耐え難い暑さはなく、テラスで飲む冷たいビールは、たまらなくおいしい。特に、生ハムは酸味がきいて、コリッと歯ごたえがよく、スパイスがきいて野生的でたまらない。「日本で聞いてきた話と、一分の齟齬もない。個展はきっとうまくいく」わたしは、ゆっくりビールを飲み干した。
かって、第二次世界大戦前後、このアルカラ大通りを外国人義勇兵の国際旅団が道いっぱいになって行進したのか。ヘミングウエイも、アンドレ・マルローもいただろう。「インター・ナショナル」の歌声が響き渡ったにちがいない。今は恋人たちが行き交うアルカラ通りは、少しずつ暮れていく。
その夜、ぐっすり眠り込んでいた私たちの部屋の扉をひそかにたたくものがあった。午前2時である...
マドリッドのルカ−19
午前2時、ぐっすり眠り込んでいた私たちの部屋の扉をホトホトとたたく音。ルカが立っていた。手に畳んだダンボール箱を持っている。
「どうしたの。こんな夜中に、一人なの」
「ジンとけんかしたんです。突然帰るって言い出すなんて残酷だ、エゴイストだって」
「こんな時間に追い出したの」
ルカは醒めた顔でうなずいた。「私のほうがもう冷静なんです。この部屋は僕の部屋だから出て行ってほしいって。もう、顔も見たくないって」
「結構じゃないの。刃物振り回すなんてことはなかったのね」ルカは楽しそうにうなずいた。
「けんかしながら荷物をまとめたの」
「ルカちゃん、男と見事に別れるなんてえらい」
「ジンは愛するならそんな残酷なことできないはずだとか、みんなに今度こそ本当に愛する人に出会ったとか、友達に紹介してバカみたいだとか、ウソつきだって」
「自分こそ、仕事があるって、日本から呼び出したんじゃない」母親の眉毛が上がる。
「わたしもそう言ったわ」私はルカと母親をさえぎった。
「今、そんな話してる場合じゃないよ。とも角、ルカちゃんは身一つで出てきたんだ。そしてもう戻れない。私たちがここを発つのは今日の9時。荷物を部屋から出すのは8時45分、それまでに、とにかくルカちゃんのために、この部屋をもう1箔予約して、荷物を運び込まなくっちゃ。ルカちゃん、荷物はいくつにまとまったの」
「5つです。後は捨てるものと冬もののオーバーです」
「捨てられないものなの」
母親がさえぎった。
「この子の物はみな良い物ばかりなの。ルカ、あんた、バカじゃない。どうして、空のダンボール箱しか持って出てこなかったのよ」
「ともかく、今、いくらお金があるの。荷物を日本へ送るのにもお金はいるし、ホテルの支払いもいるわ。日本へ帰ってから、成田から京都までだってお金がいるのよ」
ルカの母親は引ったくられて無一文。ルカはほんの8000ペセタも持っていなかった。私は海外旅行をする時は現金を持たない。わたしの全財産は1万ペセタと、ポケットに縫いこんだ4万円だけだ。それしかない。
「日本へ帰って、あなたの働いたお金で返してちょうだい」
「5個の荷物ならお母さんと私が1つずつ、ルカちゃんが3つよね。それは、なんとか、自分で持って帰りなさい」
私はスーツケースの荷物をぎゅっと押し込んでスペースを空けた。ルカの母親のあの大きなスーツケースは鍵を盗られて、無用の長物なのだ。
「今から、荷物を取りに行けない」
「真夜中では、管理人の持っている1階の鍵が開きません」
スペインの朝は遅い。
マドリッドのルカ−20
スペインの朝は遅い。この国の太陽は遅く落ち、遅く昇るのだ。私たちの飛行機は、ホテルを9時には出なければ乗れない。国をあげての宵っ張りのこの国で、7時半ではまだアパートの8階の住人が起きないという。私は、あの、大きな時代物の鍵を思い出す。二人の住んでいたアパートは、表玄関と、8階入り口と、そしてジンの部屋と3つの鍵が侵入を拒否しているのだ。
「よし、じゃあ、7時行動開始として、それまで眠ろうよ」
とても、眠る状態にはなく、朝はすぐやってきた。私たち3人はタクシーで、ジンのアパートにやって来た。もう、7時半である。玄関は開いていた。エレベーターで8階に上がる。ルカは唇に指を立て「ここで待っていて」と言って、8階のベルを押し続ける。誰かが中から鍵を開け、ルカが扉の中へ消えた。
「ギャアーッとでも聞こえたら一目散に飛び込まなくっちゃ」私と母親はエレヴェーターの陰に身をひそめて、こらえきれなくて、声を殺して笑った。TVドラマの主人公みたい。深刻な場面なんだけど、興奮していて、高ぶった笑いをこらえられない。
ルカが大きなポリ袋を両手に持って出てくるまでに20分。7時50分だ。「バカね。大事な物から持って出てくればいいのに」ルカは、又部屋へ。時計をにらんで私たちは待つ。ルカが2度目の荷物を持って現れて8時5分。
とりあえず目の前の荷物を1階へ降ろさなくては。私は荷物の番に1階に残り、ルカの母親が上がって行った。管理人が出てきて、私を職務質問する。スペイン語はゼロだから、ただ、「ルカ、ハポン、ルカ、ハポン」と繰り返すばかり。ハポンとは日本のことだ。胡散臭そうな管理人の問いに辟易するうち、ルカと母親が降りてきた。ルカの顔を見た管理人は、わたしの犯罪者扱いを謝って管理室へ退散した。
私はルカの母親の格好を見て、たまらず大声で笑い出した。彼女は7月のマドリッドに冬のオーバーを着て、脇の下にブーツをはさみ、夏帽子をかぶってトランクとスーツケースを押していたのである。横断歩道を渡ってタクシーをつかまえる。出勤途上の人が笑いながら、荷物を持ってくれた。ホテルに転がり込んだのが8時半、私のトランクに詰め込めるだけ詰め込んで、8時45分。母親のトランクは鍵を盗られて開かない。荷物は無事にポーターの手に渡るだろう。こうして、私と母親はルカに見送られてホテルを発った.。しかし、この話はこれで終わったわけではなかった。
マドリッドのルカ−21
明日の飛行機に乗るというルカに見送られて帰国した私達。あくる日の朝である。添乗員から電話が入った。
「ルカさん、飛行機に乗られてないんです」私は腰の力が一瞬抜けるような気がした。とりあえずルカの母親に電話をかける。母親のうろたえ、取り乱した様子が受話器の向こうに大写しに見える。
「どうしよう。もう、ダメだわ。あの時一緒に連れて帰って来るべきだった。荷物なんか、みんな捨てて・・・」
「でも、コンピューターの故障ってこともありうるわよ」
「もう気休め言わないでよ。男の所へ帰ったんだわ。あんなバカだと思わなかった」
「私の家へいらっしゃいよ。成田でもう一度添乗員が確かめてくれるって言ってるんでしょう」
彼女はやって来たが取り乱している。マドリッドで引ったくりにすっかり盗られた時だって、かえって彼女は私に気を使っていて、気丈な母親と思っていたが、彼女は泣いていた。
「お父さんに可愛そうなことした。あんなに喜ばせちゃったのに。どうして、飛行機に引っぱりこまなかったんだろう」
ジンの部屋に電話したと言う。「ルカ、ハポン、ルカ、ハポンって眠そうな声で言うのよ」全く、眠そうとは何事か。人の気も知らないで。しかし、ジンが知らないとなると??ルカは一体どこへ?もう一度、ジンに電話しようとする私に母親は、弱々しく首を振った。
「もう、ルカがマドリッドにいること、ジンに知られたくないの」
私は言うべき言葉を持たなかった。母親は父親からの連絡もあるだろうと家に帰り、わたしも落ち着かない時間を過ごした。午後3時、ルカから電話が入った。私たちの心配をよそに、彼女はキョトンとした声で言ったものだ。
「どうして??ちゃんと飛行機に乗っていましたよ」
ルカはこうして、日本に帰った。しかし、若い彼女の悲しい恋はこれで終わったわけではない。完