古事記 中巻 人代の巻(上)


神武天皇

 1-2-1東征出発   1-2-2布都御魂と八咫カラス   1-2-3兄宇迦斯と弟宇迦斯

 1-2-4東征完了と即位   1-2-5家族   1-2-6崩御と騒動


欠史八代

 1-2-7綏靖天皇   1-2-7-2安寧天皇   1-2-7-3懿徳天皇

 1-2-7-4孝昭天皇   1-2-7-5孝安天皇   1-2-7-6孝霊天皇

 1-2-7-7孝元天皇   1-2-7-8開化天皇


崇神天皇

 1-2-8家族   1-2-9三輪山の神
 1-2-10建波邇安王の反乱  1-2-11称号と崩御


垂仁天皇

 1-2-12家族   1-2-13沙本毘古王と沙本毘売   1-2-14本牟智和気王
 1-2-15円野比売   1-2-16時じく香の木の実


景行天皇

 1-2-17家族   1-2-18大碓命と小碓命

ヤマトタケル

 1-2-19熊曾征伐   1-2-20出雲建征伐   1-2-21東征出発

 1-2-22美夜受比売  1-2-22-2崩御
 1-2-23御葬歌   1-2-24家族と景行天皇崩御


成務天皇

 1-2-25家族


仲哀天皇

 1-2-26家族   1-2-27神がかりと崩御

神功皇后

 1-2-28新羅征伐   1-2-29忍熊王の反乱   1-2-30気比大神

 1-2-31神功皇后のお酒


応神天皇

 1-2-32家族   1-2-33大山守命と大雀命
 1-2-34矢河枝比売   1-2-35髪長比売   1-2-36新羅人と百済人
 1-2-37大山守命の反乱   1-2-38皇位お譲り合い
 1-2-39天之日矛と神功皇后の先祖   1-2-40秋山之下氷壮夫vs春山之霞壮夫
 1-2-41若野毛二俣王と根鳥王の家族と、応神天皇の崩御

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古事記中巻神倭伊波礼毘古命はその兄五瀬命と二柱で高千穂宮で話し合われて仰せられるには「どの地であれば、平和に天の下の政治を治めることができようか。さらに東へ行こうと思う。」と仰せられて、すぐに日向を出発し筑紫に行幸された。そこで豊国の宇沙に到着された時、そこの国の人、名は宇沙都比古と宇沙都比売の二人が足一騰宮を作り、大きな宴を献上した。そこから移って竺紫の岡田宮に一年おられた。またその国から上って、阿岐国の多祁理宮に七年おられた。またその国から上って移られて、吉備の高島宮に八年おられた。そしてその国から出掛けられる時、亀の甲羅に乗って釣りをしながら、袖を振りながらやって来る人と速吸門で出会った。ここに呼び寄せて、「お前は誰だ」とお聞きになられると「私は国つ神である。」と答え申し上げた。また「お前は海の道を知っているか。」とお問いになられると、「よく知っている。」とお答え申し上げた。また「従って仕え奉るか。」とお問きになられると「仕え奉ろう。」とお答え申し上げた。そこで槁機を差し伸ばして、御船に引き入れて、名を与えて槁根津日子と名付けになられた。これは倭国造たちの祖先である。そしてその国より上って行かれる時、浪速の渡を越えて、青雲の白肩津に泊まられた。
ここで登美の那賀須泥毘古が軍を興して待ち構えていたので戦った。ここに御船に入れてあった楯を取って降り立たれた。それで、その地を名付けて楯津という。今は日下の蓼津という。ここで登美毘古との戦いになった時、五瀬命はその御手に登美毘古の痛矢串を受けて傷を負った。そしてここで仰せられるには「私は日の御子であるのに、日に向かって戦ったのが良くなかった。だから賤しい奴に痛手を負ってしまったのだ。今すぐに回りこんで背に日を受けて撃とう。」と誓い、南から迂回された時、血沼海にやって来た時、御手の血をお洗いになられた。それで血沼海という。そこから回って紀国の男之水門にやってきたときに申されるには「賤しい奴らの手にかかって死ぬ。」と雄叫びして崩御された。その水門を名付けて男の水門という。陵は紀国の竃山にある。
神武天皇がその地より巡られて熊野村までやって来られた時に大熊が少し見えたかと思うとすぐにいなくなった。すると天皇がたちまち倒れてしまい、軍の兵も皆倒れてしまった。その時、熊野の高倉下が一振りの太刀を持って、天つ神の御子の倒れている所にやってきて献上すると、天つ神の御子が目を覚まして、「長く寝てしまった。」と仰せられた。そしてその太刀を受け取られると、その熊野の山の荒ぶる神が自然と切り倒れた。すると倒れていた軍がことごとく目を覚ました。そして天つ神の御子がその太刀を手に入れたわけを尋ねられると、高倉下が答えて申し上げるには「私が見た夢で、天照御神、高木神二柱の神のご命令で建御雷神をお招きして仰せられるには『葦原中国が随分騒がしいようです。また私の御子たちが病んでおられるようです。その葦原中国はあなたが平らげた国です。それで建御雷神よ、降りていきなさい。』と申されました。ここに答えて申されるには『私が降りなくても、その国を平らげた太刀があれば十分です。その太刀を降ろすべきでしょう。』と申されました。この太刀の名は佐士布都神といい、またの名は甕布都神といい、またの名は布都御魂という。この太刀は石上神宮で祀られている。『この太刀を降ろす所は、高倉下の倉の屋根に穴をあけ、そこから落とし入れましょう。高倉下よ、朝、目覚めたら、お前はこれを持ち出して、天つ神の御子に献上せよ。』と申されました。それで夢の教えの通り、次の日に私の倉を見ると、本当に太刀がありました。それでこの太刀を持って献上したのです。」と申し上げた。そして高木大神のご命令として、注意して申されるには「天つ神の御子をここから奥に行かせてはならん。荒ぶる神が大変多くいる。今から八咫烏を遣わす。その八咫烏が導く。その後を付いて行け。」と申された。
そして、その教えのとおりに八咫烏の後から行幸すれば、吉野河の川尻にやって来られたとき、筌を作って魚を取っている人がいた。ここで天つ神の御子は、「お前は誰だ」とお聞きになられると、「私は国つ神、名は贄持之子という。」とお答え申し上げた。これは阿陀の鵜養の祖先である。そこからさらに行幸されると、尾のはえた人が井戸から出てやってきた。その井戸に光があった。ここに「お前は誰だ」とお尋ねになられると、「私は国つ神、名は井氷鹿という。」とお答え申し上げた。これは吉野首たちの祖先である。そしてその山に入っていかれると、また尾のはえた人とお会いになられた。この人は岩を押し分けて出てきた。ここに「お前は誰だ」とお尋ねになられると、「私は国つ神、名は石押分之子という。今、天つ神の御子が行幸されと聞いたので、お迎えにやって来たのだ。」とお答え申し上げた。これは吉野の国巣の祖先である。
そこより踏み穿ち越えて宇陀に行った。それで宇陀の穿という。しかし、ここ宇陀に兄宇迦斯と弟宇迦斯の二人がいた。そこで、先に八咫烏を遣わして二人に問われるには「今、天つ神の御子がやってこられる。お前達はお仕えされるか。」と言った。ここで兄宇迦斯が鳴鏑でその使いを撃ち返した。それで、その鳴鏑の落ちた所を訶夫羅前という。待ち構えて撃とうと言って軍を集めたが、人を集めることが出来ず、お仕えすると偽って大殿を作り、その御殿の中に押機を作って待ち構えている時に、弟宇迦斯が先に向かって拝礼して言うには「私の兄、兄宇迦斯が天つ神の御子の使いを撃ち返し、待ち構えて攻めようと軍を集めましたが人が集らなかったので、御殿を作り、その中に押機を張って、待ち構えて撃とうとしています。それで参上して全てを明らかにお話しします。」と申し上げた。ここに大伴連たちの祖先である道臣命と久米直たちの祖先である大久米命の二人が兄宇迦斯を呼び出して罵っていうには「お前が作った大殿にはまずお前が入って、仕えるのを見せろ。」と言い、すぐに太刀の柄を握って、矛を向け、矢をつがえて追い込むと、自分の作った押に打たれて死んだ。ここに、すぐに連れ出して切り散らした。それで、その地を宇陀の血原という。そしてその弟宇迦斯が献上した大宴会は軍にも振舞われた。この時、歌われるには宇陀の高城に鴫罠張る我が待つや鴫は障らずいすくはし鯨障る前妻が肴乞はさばたちそばの実の無けくを後妻が肴乞はさばいちさかき実の多けくをこきだひゑねええしやこしやこはいのごふそああしやこしやこは嘲笑ふぞと歌われた。その弟宇迦斯は宇陀の水取たちの祖先である。
そこからさらに進まれて忍坂の大室に到着されると、尾のはえている土雲八十建がその家で待っていた。そこで天つ神の御子の命令により、宴を八十建にふるまった。ここで八十建のために八十膳夫を用意し、それぞれの人に刀を付けさせ、その膳夫たちに教えて、「歌を聞いたら、一斉に切れ」と申された。そして、その土雲を撃とうとする時に披露した歌は忍坂の大室屋に人多に来入り居り人多に入り居りともみつみつし久米の子が頭椎い石椎いもち撃ちてしやまむみつみつし久米の子らが頭椎い石椎いもち今撃たば宜しこのように歌って、刀を抜いて一斉に撃ち殺した。しかる後、登美毘古を撃とうとされる時に、歌われるにはみつみつし久米の子らが粟生には臭韮一本そねが本そね芽繋ぎて撃ちてしやまむまた歌われるにはみつみつし久米の子らが垣下に植ゑし椒口ひひく吾は忘れじ撃ちてしやまむまた歌って言うには神風の伊勢の海の生石に這ひもとほろふ細螺のい這ひもとほり撃ちてしやまむまた兄師木、弟師木をお撃ちになられたときに、軍勢もしばし疲れた。ここで歌われるには楯並めて伊那佐の山の木の間よもい行きまもらひ戦へば吾はや飢ぬ島つ鳥鵜養が伴今助けに来ねすると、ここに邇芸速日命がやって来て、天つ神の御子に申し上げるには「天つ神の御子が天降ったと聞いたので、追って降りてきた。」と申して、天つ瑞を献上して仕え奉った。そして邇芸速日命が登美毘古の妹登美夜毘売を娶って生んだ子は宇麻志麻遅命。これは物部連、穂積臣、婇臣の祖先である。そして、このように荒ぶる神どもを言い聞かし服従させ、従わぬ人どもを追い払って、畝火の白檮原宮に住まわれて、天の下を治められた。
そして日向におられた時、阿多の小椅君の妹、名は阿比良比売を娶って生んだ子多芸志美美命次に岐須美美命二柱がいた。しかし、更に大后にする乙女をお探しになられると、大久米命が申し上げるには「ここに乙女がいます。この子は神の御子と言われています。彼女が神の御子という訳は、三島湟咋の娘、名は勢夜陀多良比売は、その容姿が麗しかったのです。それで美和の大物主神が見惚れて、その美人が大便をする時に、丹塗矢になってその大便の排水溝から流れ下って、その美人の陰部を突きました。するとその乙女が驚いて走り慌てふためきました。それでその矢を持って床の端に置くと、たちまち麗しい男になりました。そしてその乙女を娶って生んだ子、名は豊登多多良伊須須岐比売命といい、またの名は比売多多良伊須気余理比売といいます。これはその豊登というのを憎んで、後に名を改めたのだ。それで、このような訳で神の御子というのです。」と申し上げた。ここに七人の乙女が高佐士野で遊んでいる中に伊須気余理比売がいた。そこに大久米命がその伊須気余理比売を見て、歌で神武天皇に申し上げるには倭の高佐士野を七行く媛女ども誰をしまかむここに伊須気余理比売が、その乙女たちの一番前に立っていた。そこで天皇は乙女たちを見て、伊須気余理比売が一番前に立っているのに気付いて、歌でお答えになられるにはかつがつもいや先立てる兄をしまかむここに大久米命が天皇のご命令により、その伊須気余理比売に仰せられるとき、その大久米命の刺青の入った鋭い目を見て、怪しいと思って歌って言うにはあめつつちどりましととなど黥ける利目ここに大久米命、答えて歌って言うには媛女に直に逢はむと我が黥ける利目そして、その乙女は「お仕え致します」と申し上げた。ここにその伊須気余理比売の家は狭井河の上流にあった。天皇がその伊須気余理比売の元に行幸されて一晩泊まった。その川を狭韋河と言う訳は、その川の辺りに山ゆり草が多く生えていた。それでその山ゆり草の名を使って狭韋河と名付けた。山ゆり草の本当の名は狭韋という。後にその伊須気余理比売のお宮の中にやって来たとき、天皇が歌で申されるには葦原のしけしき小屋に菅畳いやさや敷きて我が二人寝しそして生まれた御子の名は日子八井命次に神八井耳命次に神沼河耳命三柱である。
そして天皇が崩御された後、その長男多芸志美美命がその大后伊須気余理比売を娶った時、その三柱の弟を殺そうとして謀っている間に、その親伊須気余理比売が患い苦しんで、歌で御子達にお知らせになられた。歌うには狭井河よ雲立ちわたり畝火山木の葉さやぎぬ風吹かむとすまた歌って言うには畝火山昼は雲とゐ夕されば風吹かむとそ木の葉さやぎぬここにその御子が聞いて驚き、すぐに多芸志美美命を殺そうとなされる時、神沼河耳命がその兄神八井耳命に申されるには「あなたが武器を持って当芸志美美を殺したまえ。」と申した。そして武器を持って殺そうとされる時、手足がわなないて殺したまう事ができなかった。そこで弟神沼河耳命が兄の持っている武器を受け取り、当芸志美美を殺したまわれた。それで、その御名を称えて建沼河耳命という。ここに神八井耳命が弟神沼河耳命に譲って申すには「私は仇を殺す事が出来なかった。あなたは既に仇を殺したまわれた。なので私は兄だが上に立つべきではない。これ以降、あなたが上に立って天の下を治めよ。私はあなたを助けて、忌人となって仕えまつる。」と申された。そして、その日子八井命は茨田連手島連の祖先。神八井耳命は意富臣小子部連坂合部連火君大分君阿蘇君筑紫の三家連雀部臣雀部造小長谷造都祁直伊余国造科野国造道奥の石城国造常道の仲国造長狭国造伊勢の船木直尾張の丹波臣島田臣たちの祖先である。神沼河耳命は天の下を治められた。およそこの神武天皇の年は百三十七歳。御陵は畝傍山の北の方の白檮尾の上にある。
神沼河耳命は葛城の高岡宮で天の下を治められた。この天皇は師木県主の祖先河俣毘売を娶ってお生みになられた御子師木津日子玉手見命一柱。天皇の御年は四十五歳。御陵は衝田崗にある。師木津日子玉手見命は片塩の浮穴宮で天の下を治められた。この天皇は河俣毘売の兄、県主波延の娘阿久斗比売を娶ってお生みになられた御子常根津日子伊呂泥命次に大倭日子鉏友命次に師木津日子命この天皇の御子たち、合せて三柱のうち、大倭日子鉏友命が天の下を治められた。次に師木津日子命の子は二人の王がいた。一柱の子孫は、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置の祖先である。一柱の子和知都美命は、淡道の御井宮におられた。そしてこの王には二柱の娘がいた。上の名は蝿伊呂泥またの名は意富夜麻登久邇阿礼比売命下の名は蝿伊呂杼である。天皇の御年は四十九歳。御陵は畝傍山のみほとにある。
大倭日子鉏友命は軽の境崗宮で、天の下を治められた。この天皇は師木県主の祖先賦登麻和訶比売命またの名を飯日比売命を娶ってお生みになられた御子御真津日子訶恵志泥命次に多芸志比古命。二柱。そして、御真津日子訶恵志泥命が天の下を治められた。次に多芸志比古命は、血沼之別、多遅麻の竹別、葦井の稲置の祖先である。天皇の御歳は四十五歳。御陵は畝傍山の真名子谷の上にある。
御真津日子訶恵志泥命は葛城の掖上宮で天の下を治められた。この天皇は尾張連の祖先である沖津余曾の妹、名は余曾多本毘売命を娶ってお生みになられた御子天押帯日子命次に大倭帯日子国押人命二柱。そして弟の大倭帯日子国押人命が天の下を治められた。兄天押帯日子命は春日臣大宅臣粟田臣小野臣柿本臣壱比韋臣大阪臣阿那臣多紀臣羽栗臣知多臣牟耶臣都怒山臣伊勢の飯高君壱師君近淡海国造の祖先である。天皇の御歳は九十三。御陵は掖上の博多山の上にある。
大倭帯日子国押人命は葛城の室の秋津島宮で天の下を治められた。この天皇は姪の忍鹿比売命を娶ってお生みになられた御子大吉備諸進命次に大倭根子日子賦斗邇命。二柱。そして大倭根子日子賦斗邇命が天の下を治められた。天皇の御歳は百二十三歳。御陵は玉手岡の上にある。
大倭根子日子賦斗邇命は黒田の廬戸宮で天の下を治められた。この天皇は十市県主の祖先大目の娘細比売命を娶ってお生みになられた御子大倭根子日子国玖琉命。一柱また、春日の千千速眞若比売を娶ってお生みになられた御子千千速比売命。一柱また、意富夜麻登玖邇阿禮比売命を娶ってお生みになられた御子夜麻登登母母曾比売命次に日子刺肩別命次に比古伊佐勢理毘古命またの名を大吉備津日子命次に倭飛羽矢若屋比売。四柱また、その阿禮比売命の妹蝿伊呂杼を娶ってお生みになられた御子日子寤間命次に若日子建吉備津日子命。二柱この天皇の御子は合せて八柱。男王五柱、女王三柱。大倭根子日子国玖琉命が天の下を治められた。大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命が互いに協力して針間の氷河の前に忌瓮をすえて、針間を道の口として、吉備国を言向け平定した。そしてこの大吉備津日子命は吉備の上道臣の祖先である。次に若日子建吉備津日子命は吉備の下道臣、笠臣の祖先である。次に日子寤間命は針間の牛鹿臣の祖先である。次に日子刺肩別命は高志の利波臣豊国の国前臣五百原君角鹿済直の祖先である。この天皇の御年は百六歳。御陵は片岡の馬坂の上にある。
大倭根子日子国玖琉命は軽の堺原宮で天の下を治められた。この天皇は穂積臣たちの祖先内色許男命の妹、内色許売命を娶ってお生みになられた御子大毘古命次に少名日子建猪心命次に若倭根子日子大毘毘命。三柱また内色許男命の娘伊迦賀色許売命を娶ってお生みになられた御子比古布都押之信命また、河内青玉の娘、名は波邇夜須毘売を娶ってお生みになられた御子建波邇夜須毘古命。一柱この天皇の御子は合せて五柱である。そして、若倭根子日子大毘毘命が天の下を治められた。その兄大毘古命の子、建沼河別命は阿部臣たちの祖先。次に比古伊那許士別命は膳臣の祖先である。比古布都押之信命は尾張連たちの祖先意富那毘の妹、葛城の高千那毘売を娶って産んだ子、味師内宿禰。これは山代の内臣の祖先である。また木国造の祖先、宇豆比古の妹山下影日売を娶って産んだ子、建内宿禰。建内宿禰の子は合せて九人である。男七人、女二人である。波多八代宿禰は波多臣林臣波美臣星川臣淡海臣長谷部君の祖先である。次に許勢小柄宿禰は許勢臣雀部臣軽部臣の祖先である。次に蘇賀石河宿禰は蘇我臣川邊臣田中臣高向臣小治田臣櫻井臣岸田臣たちの祖先である。次に平群都久宿禰は平群臣佐和良臣馬御織連の祖先である。次に木角宿禰は木臣都奴臣坂本臣の祖先である。次に久米能摩伊刀比売次に怒能伊呂比売次に葛城長江曾都毘古は玉手臣的臣生江臣阿藝那臣の祖先である。また若子宿禰は江野間臣たちの祖先である。この天皇の御年は五十七歳。御陵は劔池の中岡の上にある。
若倭根子日子大毘毘命は春日の伊邪河宮で天の下を治められた。この天皇、旦波の大縣主、名は由碁理の娘竹野比売を娶ってお生みになられた御子比古由牟須美命。一柱また庶母伊迦賀色許売命を娶ってお生みになられた御子御眞木入日子印惠命次に御眞津比売命。二柱また丸邇臣の祖先日子国意祁都命の妹意祁都比売命を娶ってお生みになられた御子日子坐王。一柱また葛城の垂見宿禰の娘鸇比売を娶ってお生みになられた御子建豊波豆羅和気。一柱この天皇の子たちは合せて五柱である。男王四柱、女王一柱。そして御眞木入日子印惠命が天の下を治められた。その兄、比古由牟須美命の子、大筒木垂根王次に讃岐垂根王。二王この二王には娘五柱がおられた。次に日子坐王は山代の荏名津比売、またの名は苅幡戸辨を娶って生んだ子大俣王次に小俣王次に志夫美宿禰王。三柱また春日の建国勝戸売の娘名は沙本の大闇見戸売を娶って生んだ子沙本毘古王次に袁邪本王次に沙本毘売命またの名は佐波遲比売この沙本毘売命は、垂仁天皇の后となった。次に室毘古王。四柱また近淡海の御上の祝が祀っている天之御影神の娘息長水依比売を娶って生んだ子は丹波比古多々須美知能宇斯王次に水穂之真若王次に神大根王またの名を八瓜入日子王次に水穂五百依比売次に御井津比売。五柱またその母の妹袁祁都比売命を娶って生んだ子山代の大筒木真若王次に比古意須王次に伊理泥王。三柱おおよそ日子坐王の子、合せて十一王である。そして兄大俣王の子曙立王次に菟上王。二柱この曙立王は伊勢の品遅部君伊勢の佐那造の祖先である。菟上王は比売陀君の祖先である。次に小俣王は当麻勾君の祖先である。次に志夫美宿禰王は佐々君の祖先である。次に沙本毘古王は日下部連甲斐国造の祖先である。次に袁邪本王は葛野之別近淡海の蚊野之別の祖先である。次に室毘古王は若狭の耳別の祖先である。その美知能宇斯王は丹波の河上の摩須郎女を娶って生んだ子比婆須比売命次に真砥野比売命次に弟比売命次に朝廷別王。四柱この朝廷別王は三川の穂別の祖先である。この美知能宇斯王の弟水穂眞若王は近淡海の安直の祖先である。次に神大根王は三野国の本巣国造長幡部連の祖先である。次に山代の大筒木眞若王が弟の伊理泥王の娘丹波の阿治佐波毘売を娶って生んだ子迦邇米雷王この王が丹波の遠津臣の娘高材比売を娶って生んだ子息長宿禰王この王が葛城の高額比売を娶って生んだ子息長帯比売命次に虚空津比売命次に息長日子王。三柱この王は吉備の品遅君針間の阿宗君の祖先である。また息長宿禰王が河俣の稲依比売を娶って生んだ子大多牟坂王これは多遅麻国造の祖先である。上に書いた建豊波豆羅和気王は道守臣忍海部造御名部造稲羽の忍海部丹波の竹野別依網の阿毘古たちの祖先である。天皇の御年は六十三歳。御陵は伊邪河の坂の上にある。
御眞木入日子印恵命は師木の水垣宮で天の下を治められた。この天皇は木国造の荒河刀辨の娘、遠津年魚目目微比売を娶ってお生みになられた御子豊木入日子命次に豊鉏入日売命。二柱また尾張連の祖先である意富阿麻比売を娶ってお生みになられた御子大入杵命次に八坂之入日子命次に沼名木之入比売命次に十市之入命比売。四柱また大毘古命の娘、御真津比売命を娶ってお生みになられた御子伊玖米入日子伊沙知命次に伊邪能真若命次に国片比売命次に千千都久和比売命次に伊賀比売命次に倭日子命。六柱この天皇の御子たち、合せて十二柱である。男王七柱、女王五柱である。そして、伊玖米入日子伊沙知命が天の下を治められた。次に豊木入日子命は上毛野、下毛野君たちの祖先である。次に豊鉏入比売命は、伊勢大神の宮で拝むことに奉仕された。次に大入杵命は、能登臣の祖先である。次に倭日子命。この王の時に初めて御陵に人垣を立てた。
この天皇の御世に疫病が多く起り、人々が死に絶えようとしていた。ここに天皇が憂い嘆かれて神床におられた夜、大物主大神が夢に現れて仰せられるには「これは私の意思である。意富多々泥古に私を祀らせれば、神の気が起こらず、国も安らかに治まるだろう。」と申された。それで駅使を四方に走らせ、意富多々泥古という人をお探しになられると、河内の美努村にその人を見つけて、連れてきて献上した。ここに天皇が「お前は誰の子だ。」とお聞きになられると、答えて申し上げるには「僕は大物主大神が陶津耳命の娘、活玉依毘売を娶ってお生みになられた御子、名は櫛御方命の子飯肩巣見命の子建甕槌命の子、意富多々泥古だ。」と奏上した。ここに天皇は大いに喜ばれて仰せられるには「天下が平和になり、民が栄える。」と仰せられて、すぐに意富多々泥古命を神主とし、御諸山の意富美和之大神の前で拝み祀りたまわれた。また、伊迦賀色許男命に仰せられて、天の八十びらかを作り、天神地祗の社を定められた。また、宇陀の墨坂神に赤色の楯矛を祭り、また坂の御尾の神、また河の瀬の神に、ことごとに忘れることなく幣帛を捧げられた。これにより疫病が全てやみ、国が治まった。
この意富多々泥古という人が神の子と知ったのは、以下のような訳である。上に伝えた活玉依毘売はその容姿がきらきらしかった。ここに男がいて、その姿かたちは時に類なく、夜中にたちまちやってきた。そしてお互いに引かれ合い、愛し合って住んでいる間に、幾日も経たないうちに、その乙女が身ごもった。ここに両親は娘が妊娠した事を怪しみ、娘に聞くには「あなたが自然と妊娠するはずがない。夫がいないのに何で妊娠するのだ。」と言えば、その娘が答えるには「麗しい男性がいらっしゃって、その名前も知りませんが、毎晩やっきて一緒に過ごすうちに自然と妊娠しました。」と言った。それで両親は、その人を調べようと思い、娘に教えるには「赤土を床の前に撒いて、へその糸を針に通して彼の服のすそに引っ掛けてやりなさい。」そして教わった通りにして次の日に見ると、針のつけた麻は戸の鍵穴を通って、残った麻は三勾だけだった。そして鍵穴から出て行ったのを知って、糸を追って訪ねていくと美和山にいたって神の社に届いた。そして神の子と知ったのである。また麻が三勾残ったので、そこを名付けて美和というのである。この意富多々泥古命は神君、鴨君の祖先である。
またこの御世に大毘古命を高志道に遣わし、その子建沼河別命を東の十二道に遣わして、従わない人々を平定された。また日子坐王を旦波国に遣わして、玖賀耳之御笠これは人の名であるを殺させられた。そして大毘古命が高志国に向っている時に、腰裳を着た少女が山代の幣羅坂に立って歌うには御真木入日子はや御真木入日子はや己が緒を盗み殺せむと後つ戸よい行き違ひ前つ戸よい行き違ひ窺はく知らにと御真木入日子はやと歌った。そして大毘古命は怪しいと思い、馬を返してその少女に聞くには「おまえが言った事は何の事だ。」と言った。すると少女が答えるには「私はものを言えません。ただ歌を詠っただけ。」と言って、行く先もわからずにたちまち消えてしまった。そして大毘古命が戻って参上し天皇に願い出る時、天皇が答えて仰せられるには「これは山代国にいるあなたの兄建波邇安王が反逆を起こそうとするしるししかない。伯父さん、軍を連れて行ってくれ。」と仰せられて、すぐに丸邇臣の祖先日子国夫玖命と共に遣わせる時、丸邇坂に忌瓮を据えて向かった。ここに山代の和訶羅河に到ると、その建波邇安王が軍を起こして待ち構え、それぞれ川を挟んで向かい合って挑んだ。それで、その地を名付けて伊杼美という。今は伊豆美という。ここに日子国夫玖命が願い出て言うには「そっちの人よ、まず忌矢を放つべし。」と言った。ここにその建波邇安王は矢を射ったが当たらなかった。そして、国夫玖命の放った矢はすぐに建波邇安王に当たって死んだ。その戦は建波邇安王の軍勢がことごとく破れて逃げ散った。ここに逃げる軍勢を追い攻めて、久須婆の渡りに来たとき、皆攻め立てられて、糞が出て袴にかかった。そこを名付けて糞袴という。今は久須婆という。またその逃げる軍勢をさえぎって斬れば、鵜のように川に浮いた。それでその河を名付けて鵜河という。またその兵士を切って葬った。それでそこを名付けて波布理曾能という。このように平定し終えて、参上って報告した。
そして大毘古命は先のご命令の通りに高志国に赴いた。そして東の方から遣わされた建沼河別はその父大毘古と相津に赴いて合流した。それでそこを相津という。これをもって各地に遣わされた国の政治を平らげて戻ってきて報告した。ついに天の下は平定され、人々が富み栄えた。ここで初めて男は弓矢で取った貢物、女が手作りした貢物を献上させられた。それでこの御世を称えて初国知らしし御真木天皇と言うのである。またこの時代に依網池を作り、また軽の酒折池を作った。天皇の御年は百六十八歳。戊寅の年の十二月に崩御された。御陵は山辺道の勾の岡の上にある。
伊久米伊理毘古伊佐知命は師木の玉垣宮で天下を治められた。この天皇が沙本毘古命の妹佐波遲比売命を娶ってお生みになられた御子品牟都和気命。一柱また旦波比古多々須美知宇斯王の娘氷羽州比売命を娶ってお生みになられた御子印色入日子命次に大帯日子淤斯呂和気命次に大中津日子命次に倭比売命次に若木入日子命。五柱また氷羽州比売命の妹沼羽田之入毘売命を娶ってお生みになられた御子沼帯別命次に伊賀帯日子命。二柱またその沼羽田之入毘売命の妹阿邪美能伊理毘売命を娶ってお生みになられた御子伊許婆夜和気命次に阿邪美都比売命。二柱また大筒木垂根王の娘迦具夜比売命を娶ってお生みになられた御子袁邪弁王。一柱また山代の大国之淵の娘苅羽田刀弁を娶ってお生みになられた御子落別王次に五十日帯日子王次に伊登志別王またその大国之淵の娘弟苅羽田刀弁を娶ってお生みになられた御子石衝別王次に石衝比売命またの名を布多遅能伊理毘売命。二柱おおよそ、この天皇の御子たち、十六王である。男王十三人、女王三人。そして大帯日子淤斯呂和気命が天下を治められた。身長一丈二寸、脛の長さは四尺一寸である。次に印色入日子命は血沼池を作り、また狭山池を作り、また日下の高津池をお作りになられた。また鳥取の河上宮で太刀千振りを作らせ、これを石上神宮に奉納され、そしてその宮で河上部をお定めになられた。次に大中津日子命は山辺之別三枝之別稲木之別阿太之別尾張国の三野別吉備の石无別許呂母之別高巣鹿之別飛鳥君牟礼之別たちの祖先である。次に倭比売命は伊勢大神宮に奉仕された。次に伊許婆夜和気命は沙本の穴太部之別の祖先である。次に阿邪美都比売命は稲瀬毘古王に嫁がれた。次に落別王は小月之山君三川之衣君の祖先である。次に五十日帯日子王は春日山君高志池君春日部君の祖先。次に伊登志別王は子がいないので、子供の代わりに伊登志部を定めた。次に石衝別王は羽昨君三尾君の祖先。次に布多遅能伊理比売命は倭建命の后となられた。
この天皇が沙本毘売を后とされたとき、沙本毘売の兄沙本毘古王が妹に聞くには「夫と兄とどっちを愛しているか。」と言えば、「お兄様を愛しています。」とお答えになられた。ここに沙本毘古王が謀るには「お前が本当に私を愛しているなら、私とお前とで天の下を治めよう。」と言い、八塩折の紐小刀を作り、妹に授けて言うには「この小刀で天皇が寝ているときに刺し殺せ。」と言った。そして天皇はその陰謀を知らずに后の膝枕で寝ていた。そこで后は紐小刀で天皇の首を刺そうと三度腕を振りあげたが、悲しく忍びなくなり首を刺す事が出来ず、こぼれ落ちた涙が天皇のお顔に溢れた。すると天皇が驚いてお起きになられて、その后に申されるには「私は変な夢を見た。沙本の方から豪雨が降り、急に私の顔をぬらした。また錦色の小さな蛇が私の首にまとわりついた。この夢は何のしるしだろう。」と仰せられた。すると后はもう争えないと思い、天皇に申し上げるには「私の兄沙本毘古王が私に言うには『夫と兄とどっちを愛しているか。』と言いました。これを目の当たりに聞かれたので言いそびれ、私は『お兄様を愛しています。』と答えてしまいました。そこで私に勧めて『私はお前とで一緒に天の下を治めようと思う。だから天皇を殺しまつれ。』と言って、この八塩折の紐小刀を作って私に授けました。それで首を刺そうと思い、三度刀を振り上げましたが、悲しくなって首を刺す事ができず、泣いた涙が落ちてお顔をぬらしました。その夢はきっとそのしるしでしょう。」と申し上げた。ここに天皇が仰せられるには「私はだまされるところだった。」と申されて、すぐに軍をおこして沙本毘古王を討ち取ろうとされると、その王は稲城を作って待ち構えていた。この時、沙本毘売命はその兄と別れられず、後の門から逃げ出して、稲城に入っていった。
その后は身籠っていた。ここに天皇はその后が身籠っており、そして寵愛して三年になることもあって忍びなかった。それで軍を廻らせたが、すぐには攻撃をされなかった。このように待っているうちに、身籠っていた御子が生まれていた。そしてその御子を稲城の外に置き天皇に申し上げるには「もしこの御子を天皇の御子と認めてくれるなら、引き取ってください。」と申し上げた。そして天皇が仰せられるには「そなたの兄を恨んではいるが、それでも后を愛しているので忍びない。」と仰せられた。これをもって后を取り戻そうと思った。それで兵士の中の力士で軽く速い人を選び集めて、申されるには「その御子を引き取る時、その母王も奪い取れ。髪であれ、手であれ、取れる所を取って、つかんで引き出してこい。」と申された。その后はかねてから天皇の思いを知っておられたので、全ての髪を剃りって、その髪で頭を覆い、また玉の緒を腐らして三重に手に巻き、また酒で着物を腐らせた、普通の着物のように着込んだ。このように準備して、その御子を抱いて城の外に差し出された。そして、その力士達は御子を引き取ると、すぐに御親をつかんだ。ここにその御髪を取れば御髪が自然と落ち、その御手を取れば、玉の緒が切れ、また着物を取ると、着物はすぐに破れた。よって御子は取り返せたが、その御親はが取り返せなかった。そして、兵士たちが戻ってきて奏上するには「御髪が自然と落ち、着物はすぐに破れ、また御手に巻いた玉の紐はすぐに切れてしまいました。なので御親は捕まえられず、御子だけを連れてきました。」と申し上げた。そして天皇は悔いて恨み、玉を作った人達を憎んで、その者達の土地をお奪いになられた。それで諺に「地得ぬ玉作」という。また天皇はその后に仰せられるには「おおよそ子の名前は必ず母が名付けるもので、なんとこの子の御名を呼ぼう。」と仰せられた。すると答えて申されるには「今、火が稲城を焼いている時に、炎の中で生まれました。それでその名は本牟智和気御子とお呼び下さい。」と申し上げた。また仰せられるには「どうやって育てるのか。」と仰せられれば、答えて申し上げるには「乳母をつけて、大湯坐、若湯坐を決めて、お育て下さい。」と申し上げた。それで、その后の言った通りに育てられた。またその后に仰せられるには「あなたが結んだみずの小佩は誰が解いてくれるのだ。」と申されると、答えて申し上げるには「旦波比古多々須美智宇斯王の娘、名は兄比売、弟比売、この二柱の女王は清い人たちです。なのでお使い下さい。」と申された。そして、ついにその沙本毘古王をお殺しになられると、その妹も従っていった。
そしてその御子を連れて遊んだ様子は尾張の相津の二俣椙で二俣小舟を作り、それを持って来て倭の市師池、軽池に浮かべて、その子を引き連れて遊んだ。しかしこの御子は八拳鬚が胸元に伸びるまで言葉を言わなかった。今、空高く飛ぶ鵠の声を聞いて、初めて「あぎ」とお尋ねになられた。そこで山辺之大鷹これは人の名である。を遣わせて、その鳥を捕まさせられた。そして、この人はその鵠を追い訪ねて、木国から針間国に到り、また追って稲羽国を越えて、そして丹波国、多遅麻国に到って東の方に追っていき近つ淡海国に到って、そして三野国を越え、尾張国に伝わって科野国に追いついに高志国で追いついて和那美の水門に網を張って、その鳥を捕まえて、持ち帰って献上した。それで、その水門を名付けて和那美の水門という。また本牟智和気王がその鳥を見れば言葉を話すと思われたが、思われた通りに話される事はなかった。
ここで天皇が心配されながら寝られている時に、見た夢で教えられるには、「私の宮を天皇の御舎のように造ってくれれば御子は必ず話すようになる。」と仰せられた。このように教えられた時、太占で占い、どの神の意思なのかと求めると、その祟りは出雲の大神の御心であった。そして、その御子を連れて大神のお宮をお参りに遣わされる時に、誰を付き添わせたらよいかと占った。ここに曙立王と占いに出た。そして曙立王に仰せられて誓約を申させるには「この大神をお参りして本当にしるしがあるならば、この鷺巣池の樹に住む鷺よ、この誓約により落ちよ」と申し上げさせた。このように仰せられると、誓約をしたその鷺は地に落ちて死んだ。また「この誓約により生き返れ」と申し上げさせた。するとさらに生き返った。また甜白檮の先に生る葉広熊白檮を誓約により枯らせ、また誓約で生き返らせた。ここに名をその曙立王に賜いて、倭者師木登美豊朝倉曙立王といった。そして曙立王、菟上王の二王をその御子に付き添わせて遣わせたとき、「奈良からは足萎えや目くらと会ってしまう。大阪からも足萎えや目くらと会ってしまう。ただ木戸からだけはよい方向である。」と占いに出て、行かせた時に立ち寄った先ごとに品遅部をお定めになられた。そして出雲に到着して大神のお参りを終えて帰る時、肥河の中に樔橋を作り、仮宮でお仕えし、しばらくそこにおられた。ここで出雲国造の祖先で名は岐比佐都美が青葉の山を飾ってその川下に立て、お食事を出そうとする時、その御子が仰せられるには「この川下に青葉の山のようなのは、山に見えて山ではないな。もしかして出雲の石くまの曾宮に鎮まる葦原色許男大神のいる祝の大庭ではないか。」とお尋ねになられた。ここにお供に遣わされた王達がこれを聞いて喜び見て喜んで、御子を檳榔の長穂宮にいさせて、駅使を天皇の下に走らせた。ここに、その御子は一晩、肥長比売と愛し合った。そして、その乙女を密かに覗くと蛇になった。すぐに恐くなって逃げ出した。そしてその肥長比売は落ち込みながら海原を照らして船で追いかけてきた。すると益々恐くなり、山のたわに船を引き入れて逃げていった。ついに帰り付いて奏上するには「大神をお参りしたので、大御子は物を仰せられるようになりました。それで上京してきました。」と申し上げた。そして天皇は喜んで、そして菟上王を出雲に返して神宮を造らせた。ここに天皇はその御子にちなんで、鳥取部鳥甘部品遅部大湯坐若湯坐をお定めになられた。
その后の申された通りに、美知能宇斯王の娘達、比婆須比売命次に弟比売命次に歌凝比売命次に円野比売命合せて四柱を召し上げられた。しかし比婆須比売命と弟比売命の二柱を残し、その弟王二柱は、とても醜いので元の国にお送りされた。ここに円野比売が恥じて言うには「同じ兄弟なのに姿が醜いからと帰された事は、近くの里に聞えてしまうでしょう。これは本当に恥ずかしい。」と言って、山代国の相楽に来た時に、木の枝にぶら下がって死のうとした。それでその地を名付けて懸木といったが、今は相楽という。また弟国にやってきた時、遂に険しい淵に落ちて死んだ。それでその地を名付けて堕国といったが、今は弟国といっている。
また天皇が三宅連たちの祖先、名は多遅摩毛理を常世国に遣わせて、時じくの香の木の実を探させられた。そして、多遅摩毛理は遂にその国に到着し、その木の実を採り、縵八縵、矛八矛を持ち帰ってくる間に、天皇は既に亡くなっていた。ここで多遅摩毛理は縵四縵、矛四矛を分けて大后に献上し、縵四縵、矛四矛を天皇の御陵の戸に差し上げ、その木の実を捧げて叫び吠えて申し上げるには、「常世国のときじくの木の実を持って帰って参りました」と申し上げて、遂に叫び吠えて死んだ。その時じくの香の木の実は、今の橘である。この天皇の御歳は百五十三歳。御陵は菅原の御立野の中にある。またその大后比婆須比売命の時に石祝作を定め、また土師部を定められた。この后は狭木の寺間陵に葬りまつられた。
大帯日子淤斯呂和気天皇は纏向の日代宮で天下を治められた。この天皇が吉備臣等の祖先若建吉備津日子の娘針間之伊那毘能大郎女を娶ってお生みになられた御子櫛角別王次に大碓命次に小碓命またの名は倭男具那命次に倭根子命次に神櫛王五柱。また八尺入日子命の娘入日売命を娶ってお生みになられた御子は若帯日子命次に五百木之入日子命次に押別命次に五百木之入日売命また、ある妾の子は豊戸別王次に沼代郎女また、ある妾との子は沼名木郎女次に香余理比売命次に若木之入日子王次に吉備之兄日子王次に高木比売命次に弟比売命また日向の美波迦斯毘売を娶ってお生みになられた御子は豊國別王また、伊那毘能大郎女の妹伊那毘能若郎女を娶ってお生みになられた御子は真若王次に日子人之大兄王また倭健命の曽孫須売伊呂大中日子王の娘訶具漏比売を娶ってお生みになられた御子は大枝王おおよそ、この景行天皇の御子たちは記せたのが二十一王、古事記に入れなかったのが五十九王。合せて八十王の中の若帯日子命と倭健命と、また五百木之入日子命の三柱は太子の名を負い、その他の七十七王はそれぞれ国の国造、また和気、県主に分けられた。そして、若帯日子命が天下を治められた。小碓命は東西の荒ぶる神、また従わない人たちを服従させられた。次に櫛角別王は、茨田下連等の祖先である。次に大碓命は、守君、大田君、島田君の祖先である。次に神櫛王は、木国の酒部阿比古、宇陀の酒部の祖先である。次に豊國別王は、日向国造の祖先である。
ここに天皇は三野国造の祖先大根王の娘、名は兄比売、弟比売の二人の乙女が、その容姿が麗しいとお聞きになられたので、御子大碓命を遣わせてお呼びになられた。しかし、その遣わされた大碓命は天皇に献上せず、みずからがその二人の乙女と結婚し、さらに他の女性を探し、偽ってその乙女と名乗らせて献上した。ここに天皇はそれが他の女であることを知り、いつも目を細め、また娶らずにおられて、お困りになられた。そして大碓命が兄比売を娶って生んだ子押黒之兄日子王これは三野の宇泥須和気の祖先である。また弟比売を娶って生んだ子押黒之弟日子王これは牟宜都君たちの祖先である。この御世に田部を定め、また東の淡水門を定め、また膳の大伴部を定め、また倭の屯家を定め、また坂手池を作って、そして竹を堤にお植えになられた。
天皇が小碓命に仰せられるには「どうしてお前の兄は朝晩の食事に出てこないのか。お前から言って聞かせなさい。」と仰せられた。このように仰せられてから五日が経っても出てこなかった。ここに天皇が小碓命に申されるには「なぜお前の兄はまだ出てこないのだ。もしやまだ伝えていないのか。」とお聞きになられると、答えて申し上げるには「もう言いました。」と申し上げた。また「どう言ったのだ。」と仰せられれば、答えて申されるには「明け方、トイレに入っているのを待ち構えて、出てきた所をつかみ取り、手足を引き抜いて薦に包んで投げ捨てました。」と申し上げた。
ここに天皇はその御子の猛々しく荒々しい性格に怖気づいて仰せられるには「西に熊曾建の二人がいる。奴らは従わない、礼知らずの人達だ。だからその人たちを討ち取れ。」と仰せられて遣わせた。この時に当って、その髪を額に結わいた。そして小碓命は叔母の倭比売命の御衣と御裳を頂き、剣を御懐に入れて行幸された。そして熊曾建の家に着いてご覧になられると、その家の周りを軍が三重に囲み、熊曾建は作った家の中にいた。ここに家の宴をするということで、食事を準備していた。そしてそのそばで時間を潰し、その宴の日をお待ちになられた。その宴の日になって、乙女の髪のようにその結んだ御髪を梳いて垂らし、叔母の御衣と御裳を着て、乙女の姿となって女性の中に混じってその家の中に入られた。ここに熊曾建の兄弟二人が、その乙女に見惚れて自分たちの間に座らせ盛り上がって宴をした。そしてその宴たけなわな時になって懐から剣を取り出し、熊曾の衣の衿を取って、剣で胸をお刺さしになられると、その弟建が恐くなって逃げ出した。すぐに追ってその家の階段の下に来た時、その背中の皮をつかみ、剣を尻から刺し通された。ここに熊曾建が申し上げるには「その刀を動かさないでくれ。私に申し上げることがある。」と申し上げた。そこでしばし許して押し倒した。ここに「あなた様は誰だ。」と申し上げた。そこで仰せられるには「私は纒向の日代宮にいて大八島国を治める景行天皇の御子名は倭男具那王である。私は熊曾建の二人が服従しない無礼者と聞いて、お前たちを討ち取れと仰せられて遣わされた。」と仰せられた。ここにその熊曾建が申し上げるには「まさにその通りだ。西には我ら二人を除いて、建く強い人はいない。しかし、大倭国に我等二人より建き男がいた。それで私は名を贈ろう。今から倭建御子と称えよう。」と申し上げた。このことを申し終えると、熟瓜のように振り裂いてお殺しになられた。そして還り上る時に、山の神、川の神、また穴戸の神を皆、平定してお帰りになられた。
そして出雲国に入られて、そこの出雲建を殺そうと思い、そこに到着するなり友の契りをお結びになられた。そして密かに赤檮で偽りの剣を作って腰に刺して、共に肥河で水浴びをなされた。ここで倭建命が先に川から上がり、出雲建が解いた太刀を腰につけて、「刀を変えよう。」と仰せられた。そして後から出雲建が川から上がってきて、倭建命の偽りの太刀を腰につけた。そして倭建命が「いざ刀を合せよう。」と挑発して仰せられた。そして各々その太刀を抜く時、出雲建は偽りの太刀を抜けなかった。そして倭建命が刀を抜いて、出雲建を打ち殺したまわれた。ここで御歌で申されるにはやつめさす出雲建が佩ける刀黒葛さは巻きさ身無しにあはれとお歌いになられた。そしてこのように治め、都に戻って奏上した。
ここに天皇は重ねて倭建命に仰せられるには「東の方の十二道の荒ぶる神、また従わない人どもを平定し、従わなさい。」と仰せられて、吉備臣たちの祖先、名は御鉏友耳建日子を付き従わせて遣わされる時、ひひらぎの八尋矛をお与えになられた。そしてご命令を受けて下がられる時、伊勢の大御神に詣でて、神の朝庭で参拝し、叔母の倭比売命に申し上げるには「天皇はもう僕に死ねと思っているのか、何とか西の方の悪い人達を討たせに行かせて、帰って報告するとすぐに軍勢も付けてもくれず、今、更に東の方の十二道の悪い人達を平定させに遣わされます。これを思えば、僕にもう死ねと思っているしるしです。」と申されて、憂い泣いて下がられる時に、倭比売命が草那芸剣を与え、また袋を与えて、「もし危なくなったら、この袋の口を開けなさい。」と仰せられた。
そして尾張国に着いて、尾張国造の祖先美夜受比売の家に入った。そこで愛し合おうと思ったけれど、また帰ってくるときに愛し合おうと思い、約束を交わして東の国に行幸され、ことごとく山、川のあらぶる神、そして服従しない人達を平定された。そして相武国に着いたとき、その国造が偽って申し上げるには「この野の中に大沼があります。この沼の中に住んでいる神はとても凶暴な神です。」と申し上げた。ここにその神にお会いなられために、その野に入られた。ここでその国造が火をその野に点けた。そして欺かれたと知り、叔母の倭比売命からもらった袋の口を解いて開けるとみると、火打ちがその中にあった。ここにまず御刀で草を刈り払い、その火打ちで火を起こし、向火を点けて焼きはらい、戻ってきてその国造らを切り滅ぼし、そして火を点けてお焼きになられた。それで、今は焼津という。
そこから進んで走水海をお渡りになられている時、その渡りの神が波を起こし、船を回して進み渡る事が出来ずにおられた。ここにその后、名は弟橘比売が申し上げるには、「私が御子に代わって海の中に入りましょう。御子は遣わされた役目を遂げて、帰ってご報告されて下さい。」と申し上げて、海に入ろうとする時に、菅畳八重、皮畳八重、絁畳八重を波の上に敷いて、その上におりていった。ここにその荒波が自然にやんで、御船が進むことができた。ここにその后がお歌いになられるにはさねさし相武の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はもとお歌いになられた。そして七日後、その后の櫛が海辺に上がった。そしてその櫛を拾って、御陵を作って納めた。
そこから進んで、ことごとく荒ぶる蝦夷どもを服従させ、また山河の荒ぶる神どもを平定してお帰りになられる時、足柄の坂本に着いて御食事をするところに、その坂の神が白い鹿になってやって来た。ここに食い残した乾燥飯の切れ端を投げつけると、鹿はその目に当たって殺された。それでその坂に登って、三度嘆いて、「あづまはや」と仰せられた。それでその国を名付けて阿豆麻という。そして、その国を越えて甲斐に出て、酒折宮にいる時にお歌いになられるには新治筑波を過ぎて幾夜か寝つるとお歌いになられた。ここにたき火の番をしている老人が歌に続いて歌って言うには日日並べて夜には九夜日には十日をと歌った。それでその老人をほめて、東国造を与えた。
その国から科野国を越えて、そして科野国の坂の神を従わせて尾張国に戻ってきて、先の日に契りをお交わしになられた美夜受比売のもとにお入いりになられた。ここでお食事を出される時、その美夜受比売が盃を捧げて献上された。ここに美夜受比売の着物の裾に月経がついた。その月の障りを見て御歌をよまれるには、ひさかたの天の香具山鋭喧にさ渡る鵠弱細撓や腕を枕かむとは我はすれどさ寝むとは我は思へど汝が著せる襲の裾に月立ちにけりとお歌いになられた。ここに美夜受比売が歌って答えるには、高光る日の御子やすみしし我が大君あらたまの年が来経ればあらたまの月は来経行く諾な諾な君待ちがたに我が著せる襲の裾に月立たなむよと歌った。そして抱き合い、その御刀の草那芸剣をその美夜受比売のもとに置いて、伊服岐の山の神を取りに出て行かれた。
ここで仰せられるには「この山の神は、素手で討ち取ってやろう。」と仰せられて、その山に登ると、白い猪と山の下で出会った。その大きさは牛のようであった。ここに言挙げて仰せられるには「この白い猪となっているものは、その神の使いだろう。いま殺さなくても、帰るときに殺してやる。」と仰せられて登っていった。ここに大氷雨を降らされて、倭建命を惑わせた。この白い猪は、その神の使いではなくその神自身であったのに、言挙げしたために惑わされたのだ。そして帰り下られて玉倉部の清泉に着いて休んでおられると、気持ちがようやく落ち着いた。それでその清泉を名付けて居寤清泉という。そこから発って当芸野の近くまで着いた時に言うには「私はいつも空を飛んで行くつもりでいる。しかし今の私は足を進めることが出来ず、ぎこちなくなった。」と仰せられた。それでその地を名付けて当芸という。そこから少し進むと非常に疲れたので、杖をついてようやく進んだ。それでその地を名付けて杖衝坂という。尾津前の一本松のもとに到着され、まず御食事をなされる時、そこに忘れていった御刀がなくならずに、なおもそこにあった。ここに御歌をお歌いになられるには尾張に直に向へる尾津の崎なる一つ松あせを一つ松人にありせば大刀佩けましを衣着せましを一つ松あせをとお歌いになられた。そこから進まれて三重村に到着されると、また仰せられるには、「私の足は三重の餅のようになってしまい、とても疲れた。」と仰せられた。それでその地を名付けて三重という。
そこからお進みなられて能煩野に到着された時、国を偲んで歌われるには倭は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる倭しうるはしまた歌われるには命の全けむ人はたたみこも平群の山のくま白檮が葉をうずに挿せその子この歌は国思歌である。また歌われるには愛しけやし我家の方よ雲居立ち来もとお歌いになられた。これは片歌である。このとき病が急にひどくなった。ここで歌われるには嬢子の床の辺に我が置きし剣の大刀その大刀はや歌い終えて、そして崩御された。ここに駅使を遣わせた。ここに倭におられる后たち、また御子たちが皆やって来て御陵を作り、そしてそこの周りの田んぼに這い回って泣いてお歌いになられるにはなづきの田の稲幹に稲幹に匍ひ廻ろふ野老蔓ここに八尋白智鳥になって、空をはばたいて浜に向って飛んでゆかれた。ここにその后、そして御子たちが、その竹の切り株で足が傷ついても、その痛さを忘れて泣きながら追ってゆかれた。この時にお歌いになられるには浅小竹原腰なづむ空は行かず足よ行くなまた海に入って、もがきながら追う時に歌われるには海が行けば腰なづむ大河原の植ゑ草海がはいさよふまた飛び立って、その磯にいるときにお歌いになられるには浜つ千鳥浜よりは行かず磯伝ふこの四歌はそれぞれ葬儀で歌う。そして今に至ってもその歌は天皇の葬義で歌われている。そして、その国から飛び立って、河内国の志幾に留まった。それでそこに御陵を作って鎮まられた。その御陵を名付けて、白鳥御陵という。しかし、その土地からさらに天に向って飛び立っていかれた。おおよそ、その倭建命は国を平定して回っているときに、久米直の祖先名は七拳脛がいつも膳夫としてお仕えしていた。
この倭建命が垂仁天皇の娘布多遅伊理毘売命を娶ってお生みになられた御子帯中津日子命。一柱またその海にお入りになられた弟橘比売を娶ってお生みになられた御子若建王。一柱また近淡海の安国造の祖先意富多牟和気の娘布多遅比売を娶ってお生みになられた御子稲依別王。一柱また吉備臣建日子の妹大吉備建比売を娶ってお生みになられた御子建貝児王。一柱また山代の玖々麻毛理比売を娶ってお生みになられた御子足鏡別王。一柱また、ある女性の子息長田別王。おおよそ、この倭建命の御子たちは合わせて六柱である。そして、帯中津日子命が天の下を治められた。次に稲依別王は犬上君建部君たちの祖先。次に建貝児王は讃岐の綾君伊勢之別登袁之別麻佐首宮首之別の祖先。足鏡別王は鎌倉之別小津石代之別漁田之別の祖先である。次に息長田別王の子杙俣長日子王。この王の子、飯野真黒比売命次に息長真若中比売次に弟比売。三柱そして上に伝えた若建王が飯野真黒比売命を娶ってお生みになられた子須売伊呂大中日子王。この王が淡海の柴野入杵の娘柴野比売を娶ってお生みになられた子迦具漏比売命そして景行天皇がこの迦具漏比売命を娶ってお生みになられた子大江王一柱。この王が異母兄弟の妹銀王を娶ってお生みになられた子大名方王次に大中比売命。二柱そして大中比売命は香坂王、忍熊王の祖先である。この景行天皇の御年は一三七歳である。御陵は山辺の道の上にある。
若帯日子天皇は近淡海の志賀の高穴穂宮で天の下を治められた。この天皇が穂積臣たちの祖先建忍山垂根の娘、名は弟財郎女を娶ってお生みになられた御子和訶奴気王。一柱そして建内宿禰を大臣とし、大国、小国の国造をお定めになられ、また国々の堺、また大県、小県の県主をお定めになられた。天皇の歳は、九五歳。乙卯の年の三月十五日に崩御された。御陵は沙紀の多他那美にある。帯中日子天皇は穴門の豊浦宮、そして筑紫の訶志比宮で天の下を治められた。この天皇が大江王の娘、大中津比売命を娶ってお生みになられた御子は香坂王忍熊王。二柱また息長帯比売命これは大后である。を娶ってお生みになられた御子は品夜和気命次に大鞆和気命またの名を品陀和気命。二柱この太子の御名に大鞆和気命と名付けた訳は、お生まれになられたとき、鞆のようなコブが腕にできていた。それで名前にお付けになられたのである。またお腹の中にいるときから国を治めになられた。この御世に淡道の屯倉をお定めになられた。その大后息長帯日売命が、その時神がかりなされた。天皇は筑紫の訶志比宮におられて、熊曾国を討とうとなされている時、天皇は御琴を弾き、建内宿禰大臣が沙庭にいて、神の御命令を求めた。ここに大后が神がかりして、言葉を教え諭して仰せられるには「西の方に国がある。金銀をはじめ、目の輝くような様々な珍しい宝がたくさんその国にある。私は今、その国を与えよう。」と仰せれた。
そして、全て教えられたとおりに準備し、軍を整えて船を並べて海を渡ると、海原の魚が大きさを問わず、船を背負って渡った。ここに追い風が強く吹いて、船は波に乗って進んだ。そして、その船の波は新羅の国に押し上がって国の中にまで届いた。ここにその国王が恐しこまって奏上するには「今後、天皇のご命令に従って御馬甘として、毎年船を並べ、船腹を空にせず、棹を乾かさないように、天地が尽きないように仕え奉りましょう。」と申し上げた。そして、これをもって新羅国を御馬甘と定め、百済国は渡の屯家とお定めになられた。ここに杖を新羅国の国王の門に付き立てて、墨江大神の荒御魂を国守ります神として祭り鎮めて、お帰りの航海につかれた。
しかしその征伐が終わり切らないうちに、お腹の子が生まれそうになった。そこで御腹を落ち着かせようとして、石を取って御裳の腰に巻きつけて、筑紫国に渡られて、その御子がお生まれになられた。それで、その御子の生まれた所を名付けて宇美という。また御裳に巻いた石は筑紫国の伊斗村にある。そして筑紫の末羅県の玉島里に来たとき、その川のそばでお食事をされたのが、四月上旬に当たる。ここにその川の中の磯で御裳の糸を抜いて飯粒を餌にして、川の鮎をお釣りになられた。その河の名を小河という。また磯の名を勝門比売という。それで四月のに女性が着物の糸を抜いて飯粒を餌にして鮎を釣ることが、今に至るまで続いている。
ここで神功皇后が倭に帰えられるとき、人を疑っていたので、喪船を一つ用意し、御子をその喪船に乗せて、まず「御子はもう崩御された。」と言い漏らさせたまわれた。このようにして帰ってこられるとき、香坂王と忍熊王がこれを聞いて、待ち伏せしようと思い、斗賀野に出て誓約狩をした。そこで香坂王が歴木に登るとそこに怒り狂った猪が現れ、その歴木の根元を掘って、香坂王を食べてしまった。しかしその弟忍熊王がその結果を顧みずに軍をおこし待ち構えて、喪船に向かって空船で攻めようとした。ここに喪船から軍を下ろして互いに戦った。この時、忍熊王は難波の吉師部の祖先伊佐比宿禰を将軍とし、皇太子の方には丸邇臣の祖先難波根子建振熊命を将軍となされた。そして追い払いつつ山代に到り、帰り立ってそれぞれ退かずに戦った。ここに建振熊命が謀って、「神功皇后はすでに死んだ。ここまで戦う必要はない。」と言って、弓のツルを切って偽って降伏した。すると将軍がすぐにその嘘を信じて弓の弦をはずし、兵を下げさせた。すると丸邇臣の軍勢は束ねた髪の中から用意しておいたツルを取り出して弓に張って追撃した。そして逢坂に逃げ出して、立ち向かって戦った。そこで忍熊王と伊佐比が共に追い攻められて、船に乗って海に浮び、歌うにはいざ吾君振熊が痛手負はずは鳰鳥の淡海の海に潜きせなわと歌って、海に入って共に死んだ。そして建内宿禰命はその太子を連れて、禊をしようと淡海、そして若狭国にを通った時、高志の前の角鹿に仮宮を作ってお住まいになれた。ここに、そこ祀られている伊奢沙和気大神の命令が夜の夢に現れて、「私の名を御子の御名と変えてほしい。」と仰せられた。ここに喜び申し上げるには「恐れ多い。ご命令の通りにお変えしましょう。」と申し上げた。また、その神が仰せられるには「明日の朝、浜においでなさい。名をかえた贈り物を献上しよう。」と仰せられた。そして次の日の朝行ってみると、鼻の破れた入鹿魚が既に浦いっぱいに集まっていた。ここに御子が神に奏上して仰せられるには「私に御食の魚を贈ってくれた。」と仰せられた。そして、その名を称えて御食津大神と名付けた。そして今に気比大神という。その入鹿魚の鼻が血で臭かった。それでその浦を名付けて血浦という。今は都奴賀という。
そして帰ってくると、その御親神功皇后が待酒を醸して献上した。ここで、その御親が歌うにはこの御酒は我が御酒ならず酒の司常世に坐す石立たす少名御神の神寿き寿き狂はし豊寿き寿き廻ほし献り来し御酒ぞあさず食せささこう歌って大御酒を献上した。ここに建内宿禰命が御子の為に答えて歌うにはこの御酒を醸みけむ人はその鼓臼に立てて歌ひつつ醸みけれかも舞ひつつ醸みけれかもこの御酒の御酒のあやにうた楽しささこれは酒楽の歌である。おほよそ仲哀天皇の御年は五二歳。壬戌年六月十一日に崩御された。御陵は河内の恵賀の長江にある。皇后は百歳で崩御された。狭城の楯列陵に葬られた。
品陀和気命は軽島の明宮で天の下を治められた。この天皇は品陀真若王の娘三柱の女王を娶られた。一柱の名は高木之入日比命、次に中日売命、次に弟比売命。この女王たちの父品陀真若王は、五百木之入日子命が尾張連の祖先建伊那陀宿禰の娘志理都紀斗売を娶って生んだ子である。そして高木之入日比命の子は額田大中日子命次に大山守命次に伊奢之真若命次に妹大原郎女次に高目郎女。五柱中日売命の御子は木之荒田郎女次に大雀命次に根鳥命。三柱弟比売命の御子は安部郎女次に阿貝知能三腹郎女次に木之莬野郎女次に三野郎女。五柱また丸邇の比布礼能意富美の娘、名は宮主矢河枝比売を娶ってお生みになられた御子は宇遅能和紀郎子次に妹八田若郎女次に女鳥王。三柱また、その矢河枝比売の妹、袁那弁郎女を娶ってお生みになられた御子は宇遅能和紀郎女。一柱また咋俣長日子王の娘、息長真若中比売を娶ってお生みになられた御子は若沼毛二俣王。一柱また桜井の田部連の祖先、島垂根の娘糸井比売を娶ってお生みになられた御子速総別命。一柱また日向の泉長比売を娶ってお生みになられた御子は大羽江王次に小羽江王次に幡日之若郎女。三柱また迦具漏比売を娶ってお生みになられた御子川原田郎女次に玉郎女次に忍坂大中比売次に登富志郎女次に迦多遅王。五柱また葛城の野伊呂売を娶ってお生みになられた御子伊奢能麻和迦王。一柱この天皇の御子たちは合わせて二十六王。男王十一柱、女王十五柱。この中の大雀命が天の下を治められた。
ここに天皇が大山守命と大雀命にお聞きになって仰せられるには「お前たちは、兄の子と弟の子と、いずれが愛しいか」と仰せになられた。天皇がこの問を言われたのは、宇遅能和紀郎子に天下を治めさせようと思ったからこそである。ここに大山守命は「兄の子こそかわいい。」と申し上げた。次に大雀命は天皇のお聞きになられたお気持ちを知っていて申し上げるには「兄の子は既に成人しておりますので、構ってやることもありませんが、弟の子はいまだに成人しておりませんので、それこそかわいいでしょう。」と申したまわれた。ここに天皇が仰せられるには、「さざき!お前が言ったことこそ、私の思っていたことだ。」と申されて、さらに仰せられて分けられるには「大山守命は山、海の行政に従事せよ。大雀命は食国の行政を取り仕切れ。そして宇遅能和紀郎子は、天津日継をしらしめせ。」と仰せられた。そして、大雀命は天皇の御命令に背かれることはなかった。
ある時、天皇が近つ淡海国に行幸されたとき、宇遅野に立って、葛野を見渡してお歌いになられるには千葉の葛野を見れば百千足る家庭も見ゆ国の秀も見ゆそして、木幡村にやって来られると、麗しい乙女とその分かれ道で出会った。ここに天皇がその乙女にお聞きにって申されるには「お前は誰の子だ。」と仰せられると、答えて申し上げるには「丸邇の比布礼能意富美の娘、名前は宮主矢河枝比売です。」と申し上げた。天皇がその乙女に仰せられるには、「私は、明日帰るときに、お前の家に寄っていく。」と仰せられた。そして矢河枝比売はつぶさに父に伝えた。ここにその父が言うには「それは天皇でおられる。恐れ多い。我が子よ、お仕えしなさい。」と言って、その家を装い飾って控え待てば、次の日にやってきた。そして大宴を献上されると、その娘矢河枝比売命に大御酒盞を取らせて献上した。ここに天皇が大御酒盞を取らさせながら御歌で申されるにはこの蟹やいづくの蟹百伝ふ角鹿の蟹横去らふいづくに至る伊知遅島み島に着き鳰鳥の潜き息づきしなだゆふ佐々那美道をすくすくと我がいませばや木幡の道に逢はしし嬢女後方は小楯ろかも歯並は椎菱なす櫟井の和邇坂の土を初土は膚赤らけみ底土は丹黒きゆゑ三つ栗のその中つ土をかぶつく真火には当てず眉画きこに画き垂れ逢はしし美女かもがもと我が見し子らかくもがと我が見し子にうたたけだに向ひ居るかもい添ひ居るかもとお歌いになられた。このようにお見合いされてお生みになられた御子は、宇遅能和紀郎子である。
天皇が日向国の諸県君の娘名は髪長比売、その姿が麗しいとお聞きになって、使いをやって連れてこさせようとし時、その太子大雀命は、その乙女が難波津に宿泊したのを見て、その姿がきらきらしいことに見入り、建内宿禰大臣に頼みいって仰せられるには「この日向より連れてきた髪長比売を、天皇の元に行って、私に賜わさせなさい。」と仰せられた。ここに建内宿禰大臣がお言葉を願い出られると、天皇は髪長比売をその御子に賜われた。賜われた時の様子は、天皇が豊明をお聞きになられた日、髪長比売にお神酒の柏を取らせて皇太子に賜われた。ここに御歌で仰せられるにはいざ子ども野蒜摘みに蒜摘みに我が行く道の香ぐはし花橘は上枝は鳥居枯らし下枝は人取り枯らし三つ栗の中つ枝のほつもり赤ら嬢子をいざささば宜らしなとお歌いたまわれた。また御歌で仰せられるには水溜る依網池の堰杙打ちがさしける知らに蓴繰り延へけく知らに我が心しぞいや愚にして今ぞ悔しきとお歌いたまわれた。こう歌って譲ったのだ。そして、その乙女を賜われた後、皇太子が歌って言うには道の後古波陀嬢子を雷のごと聞こえしかども相枕まくと歌われた。また歌って言うには道の後古波陀嬢子は争はず寝しくをしぞもうるはしみ思ふとお歌いになられた。また吉野の国主たちが大雀命の腰に付けた御刀を見て歌うには品陀の日の御子大雀大雀佩かせる太刀本剣末ふゆふゆ木のすからが下樹のさやさやと歌った。また吉野の白檮上に横臼を作って大御酒を醸し、それを献上するとき、口鼓を打ち鳴らして歌うには、白檮の生に横臼を作り横臼に醸みし大御酒うまらに聞こしもち飲せまろが父と歌った。この歌は、国主たちが食事を献上するときに、常に、そして今に至るまで詠う歌である。この御代に海部、山部、山守部、伊勢部をお定めになられた。また剣池を作った。また新羅人が海を渡ってやってきた。それで建内宿禰命が彼らを引き連れて、渡の堤池として百済池を作った。また百済の国主照古王が牡馬一頭、雌馬一頭を阿知吉師と共に献上した。この阿知吉師は阿直史たちの祖先。また刀と大鏡を献上した。また百済国に「もし賢い人がいるなら献上せよ。」と仰せられた。それでお言葉を受けて献上した人、名は和邇吉師、そして論語十巻、千字文一巻、合わせて十一巻をこの人と共に献上した。この和邇吉師は文首たちの祖先。また手人韓鍛名は卓素、また呉服の西素の二人を献上した。また秦造の祖先、漢直の祖先、また酒を醸すことを知っている人名は仁番、またの名は須須許理たちが渡ってきた。この須々許理が大御酒を醸して献上した。ここに天皇がこの献上された大御酒に喜び歌われるには須々許理が醸みし御酒にわれ酔ひにけりことな酒ゑ酒にわれ酔ひにけりこのように歌って行幸されたとき、御杖で大坂の道に転がっている大きな石を打つと、その石が走り去った。それで諺に「堅石も酔人を避く」という。
そして天皇が崩御されたあと、大雀命は天皇のご命令に従って天下を宇遅能和紀郎子にお譲りになられた。しかし大山守命は天皇のご命令に背いて、なおも天下を取ろうと思い、その弟の皇子を殺すために密かに兵を集めて攻めようとした。大雀命は兄が兵を集めたことを聞いて、すぐに使いを遣わせて、宇遅能和紀郎子にお伝いになられた。それを聞いて驚き、兵を河の周りに伏せさせ、また山の上にきぬ垣を張りって帷幕を立てて、舎人を偽って王として、わかるように呉床に座らせ、百官が敬いながら出入りする様子は、本当に王子のいる所のようにして、さらに、その兄王が河を渡る時のために、船、舵を備えて飾り、さな葛の根をついて、その汁を取って船の中の腰掛に塗って、踏むと倒れるように仕掛けを作り、その王子は布の衣褌を着てすっかり賤しい人の姿になって、舵を持って船にお立ちになられた。ここに兄王は兵を隠し、衣の中に鎧を着て、川のほとりまでやってきて船に乗ろうとする時、その装い飾られた所をはるかに望んで、弟王がその呉床にいるものと思い、また舵を取って船に立っているのに気付かず、そして舵取りに聞くには「この山に荒々しい大きな猪がいると噂に聞いている。私はその猪を捕ろうと思う。その猪を獲れるだろうか。」と言った。ここに舵取りが答えるには「できない。」と言った。また聞くには「なぜだ。」と言えば、答えて「時々あちこちで獲ろうとするが、捕まえたためしがない。だからできないといった。」と言った。川の中ほどまで着たとき、舵取りがその船を傾けて水の中に落とし入れた。すぐに浮き上がって、水に任せて流れ下った。そして流されながら歌うにはちはやぶる宇治の渡に棹執りに速けむ人しわがもこに来むと歌った。ここに川の周りに隠れていた兵士が、あちこちから立ち上がり、矢を刺してを流した。そして訶和羅の先まで来たときに沈んでしまった。鉤でその沈んだ所を探ると、その衣の中の甲がかかり、訶和羅と鳴った。それで、そこを名づけて訶和羅の前という。その屍を引き出した時に、弟王が歌っていうにはちはや人宇治の渡に渡り瀬に立てる梓弓檀弓い伐らむと心は思へどい取らむと心は思へど本方は君を思い出末方は妹を思い出いらなけくそこに思い出かなしけくここに思い出い伐らずそ来る梓弓檀弓とお歌いになられた。その大山守命の屍は那良山に葬った。そして大山守命は土形君幣岐君榛原君たちの祖先である。
ここに大雀命と宇遅能和紀郎子の二柱が互いに天下をお譲りされていると、そこに海女が大贄を献上した。ここに兄が辞退して弟に献上させ、また弟も辞退して兄に献上させ、お互いにお譲りされている間に、幾日が過ぎてしまった。こうやってお譲りされ合うことが一度や二度ではないので、海女は行き来に疲れて泣いてしまった。それで諺に「海人や、己が物によりて泣く」と言うのだ。しかし宇遅能和紀郎子が早く崩御された。それで大雀命が天下をお治められた。
また昔新羅の国王の子がいた。名は天之日矛という。この人が海を渡ってやってきた。海を渡ってやって来た訳は、新羅国に一つの沼があった。名前は阿具奴摩という。この沼のほとりに一人の賤しい女が昼寝をしていた。ここに日の輝きが虹のようになって陰部を照らした。また一人の男がいて、その様子が怪しいと思いその女の行動を伺っていた。すると、この女が昼寝をしている時に妊娠し、赤玉を生んだ。その様子を覗いていた男がその玉をもらい受けて、いつも紙に包んで腰につけていた。この人は田を山と谷の間に作った。そして耕作人たちの食事を一匹の牛に背負わせて谷に入ると、その国王の子、天之日矛と出会った。ここにその人に聞くには「何でお前は食物を牛に背負わせて谷に入るのだ。お前、必ずこの牛を殺して食うのだろう。」と言って、その人を捕まえて牢屋に入れようとした。その人が答えて言うには「私は牛を殺そうとしているのではない。ただ、田んぼで働く人たちの食事を運んでいるだけだ。」と言った。しかしなおも許そうとはしなかった。それで腰の玉をほどいて、その国王の子に差し出した。するとその男を許して、その玉を持って床に置いておくと、麗しい乙女となった。それで結婚し、妻とした。ここにその乙女は毎日のように様々な食事を用意して、その夫のためを食べさせた。すると、国主の子が驕って妻を罵り、その女が言うには「だいたい私がお前の妻になるべき女ではない。私の親の国に行く。」と言って、密かに小船に乗って逃げ渡って来て、難波に留まった。彼女は難波の比売碁曾社で祭られる阿加流比売という神である。それで天之日矛はその妻が逃げことを聞いて、すぐに追って海を渡って来て、難波に渡る間に、その渡の神に遮られて入れなかった。それで戻って多遅摩国に泊った。
そしてその国に留まって、多遅摩の俣尾の娘、名は前津見を娶って生んだ子多遅摩母呂須玖。その子多遅摩斐泥。その子多遅摩比那良岐。その子多遅摩毛理。次に多遅摩比多訶次に清日子。三柱この清日子が当摩之咩斐を娶って生んだ子、酢鹿之諸男次に妹菅竈由良度美。そして、上に伝えた多遅摩比多訶がその姪由良度美を娶って生んだ子葛城の高額比売命。これは神功皇后の祖先である。
その天之日矛の持ってきた物は玉つ宝という珠二貫また浪振るひれ浪切るひれ風振るひれ風切るひれまた奥つ鏡辺つ鏡合わせて八種である。これは伊豆志の八前の大神である。そしてこの神伊豆志の八前の大神の娘、名は伊豆志袁登売神がおられた。多くの神々がこの伊豆志袁登売を手に入れようと望んだが、皆結婚することが出来なかった。
ここに二柱の神がいた。兄は秋山之下氷壮夫といい、弟は春山之霞壮夫という。その兄が弟に言うには「私は伊豆志袁登売を求めたが、結婚できなかった。お前はこの乙女を手に入れられるか。」と言った。答えていうには「簡単に結婚できる。」と言った。そこで兄が言うには「もし、お前がその乙女を手に入れられたら、上下の着物を割いて身長を測り、その高さの甕で酒を醸してさらに山川の物をことごとく備えると、かけをしよう。」と言った。ここにその弟は兄が言ったことをそのまま母に伝え、すぐに母はふぢ葛を取って、一晩の間に着物と袴、また足袋、沓を織り縫い、また弓矢を作って、着物、袴などを着せ、弓を持たせて、その乙女の家に遣わせば、その着物また弓矢が藤の花になった。それで春山之霞壮夫は弓矢を乙女のトイレに立て掛けた。ここに伊豆志袁登売がその花を怪しいと思って持ち帰る時に、春山之霞壮夫はその乙女の後ろをついていき、その部屋に入るやいなや抱き合った。そして一柱の子を生んだ。
ここにその兄に申し上げるには「私は伊豆志袁登売を手に入れた。」と言った。しかしその兄は弟が結婚したことに怒り、その約束の物を用意しなかった。ここに憂えて、その母に言ったとき、その親が言うには「我が御世の事、よくこそ神習はめ。またうつくしき青人草習へや。その物償はぬ。」と言って、その兄の子を恨み、伊豆志河の河島の一節竹を取って、八目の荒籠を作り、その河の石を取って塩をかけてその竹の葉に包んで、呪わせるには「この竹の葉が青むように、この竹の葉の萎れように、青み萎れよ。また、この塩の満ち乾くように、満ち乾よ。また、この石の沈むように、沈み臥いよ。」と言った。こう呪わせて、竈の上に置いた。これによりその兄は八年の間、乾き萎れ、病み枯れた。その兄は患い泣いて、その親に許しを請いて、すぐにその呪いを返させた。すると、その体は元のように戻って落ち着いた。これは「神うれづく」の言葉の元である。
この応神天皇の御子若野毛二俣王がその母の妹百師木伊呂弁、またの名は弟比売真若比売命を娶って生んだ子大郎子またの名を意富々杼王次に忍坂之大中津比売命次に田井之中比売次に田宮之中比売次に藤原之琴節郎女次に取売王次に沙禰王。七柱そして意富々杼王は三国君波多君息長の坂君酒人君山道君筑紫の米多君布勢君たちの祖先である。また根鳥王が庶妹の三腹郎女を娶って生んだ子中日子王次に伊和島王。二柱また堅石王の子は久奴王である。おおよそ応神天皇の御歳は百三十歳。甲午の年の九月九日に崩御された。御陵は川内の恵賀の裳伏崗にある。