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古事記 下巻 人代の巻 (下)
仁徳天皇
履中天皇
反正天皇
允恭天皇
安康天皇
雄略天皇
清寧天皇
顕宗天皇
1-3-31家族と置目の老女
1-3-32猪甘への仕返し
1-3-33雄略天皇の御陵
1-3-34仁賢天皇
1-3-35武烈天皇
1-3-36継体天皇
1-3-37安閑天皇
1-3-38宣化天皇
1-3-39欽明天皇
1-3-40敏達天皇
1-3-41用明天皇
1-3-42崇峻天皇
1-3-43推古天皇
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古事記下巻仁徳天皇から推古天皇まで、おおよそ十九天皇大雀命は難波の高津宮で天の下を治められた。この天皇が葛城の曾都毘古の娘石之日売命大后を娶ってお生みになられた御子大江之伊耶本和気命次に墨江之中津王次に蝮之水歯別命次に男浅津間若子宿禰命。四柱また上に伝えた日向の諸県君牛諸の娘、髪長比売を娶ってお生みになられた御子波多毘能大郎子またの名は大日下王次に波多毘能若郎女またの名は長目比売命またの名は若日下部命。二柱また庶妹八田若郎女を娶られた。また庶妹宇遅能若郎女を娶られた。この二柱は御子がいなかった。おおよそ、この仁徳天皇の御子は六王である。男王五柱、女王一柱。そして、伊耶本和気命が天の下を治められた。次に蝮之水歯別命もまた天の下を治められた。次に男浅津間若子宿禰命もまた天の下を治められた。この天皇の時代に、大后石之日売命の御名代として葛城部を定め、また皇太子伊耶本和気命の御名代として壬生部を定め、また水歯別命の御名代として蝮部を定め、また大日下の御名代として大日下部を定め、若日下部王の御名代として若日下部をお定めになられた。また秦人を使って茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池、依網池を作り、また難波の堀江を掘って海につなげ、また小椅江を掘り、また墨江の津をお定めになられた。
ここに天皇が高い山に登って、国を見渡して仰せられるには「周りで煙が上がっていない。国の人が貧しいようだ。今より三年間、国民の課役を全て免除する。」と仰せられた。そのために大殿が破れ壊れて、あちこちから雨が漏っても修理をせず、桶でその漏れてきた雨を受けて、漏れないところに移ってお住まいになられた。後に国の中をご覧になられると、国に煙が満ちていた。それで国民が豊かになったと思い、今だと課役を課した。これにより百姓が栄え、課役を苦しく思わなかった。それで、その御世を称えて聖帝の御世という。
その大后石之日売命はとても妬まれた。それで天皇に使われている妃たちはお宮の中を覗こうとせず、噂が立てば足をあがいて妬まれた。天皇は、吉備の海部直の娘、名前を黒日売の姿がきらきらしいと聞いて、呼び出して使われた。するとその大后の妬みに畏まって、本の国に逃げていった。天皇が高台に上って、その黒日売の船が出て、海に浮かんでいるのを遠くからご覧になってお歌いになられるには、沖方には小船連らくくろざやのまさづ子我妹国へ下らすと。そして大后はこの和歌を聞いていたく怒り、人を大浦に遣わせて船から降ろし、歩いて追いやった。ここに天皇は、その黒日売が恋しくなられて、大后に嘘をついて申されるには「淡路島を見ようと思う。」と仰せられて行幸された時、淡路島ではるか彼方を望んでお歌いになられるにはおしてるや難波の崎よ出で立ちてわが国見れば淡島淤能碁呂島檳榔の島も見ゆさけつ島見ゆとお歌いになられた。そしてその島を渡って吉備国に行幸された。
ここに黒日売が、その国の山で仁徳天皇をお招きして食事を献上した。そこで汁物を煮ようとして青菜を積んでいるときに、天皇がその乙女が青菜を摘んでいるところにやってきてお歌いになられるには山県に蒔ける菘菜も吉備人と共にし採めば楽しくもあるかと。天皇が都へ上られる時、黒日売が歌を贈って言うには倭方に西風吹き上げて雲離れ退き居りとも我忘れめやまた歌って言うには倭方に往くは誰が夫隠りづの下よ延へつつ往くは誰が夫と歌った。
これより後、大后は豊楽の準備のために御綱柏を取りに木国に出掛けている間に、天皇は八田若郎女とご結婚をされた。ここに大后は御綱柏を船に積んで帰ろうとされる頃、水取司として仕えている吉備国の児島の仕丁が自分の国に帰ろうとすると、難波の大渡に遅れてやってきた倉人女の船と出会った。そこで言うには「天皇はこのごろ八田若郎女とご結婚をされて、昼も夜も戯れて遊ばれているのを、もしや大后はこの事を聞いていないのかもしれません。だから、このように静かに遊んでおられるでしょう。」と言った。ここにその倉人女は、言われた事を聞いて、石之比売の船を追い、児島の仕丁の言った通りに申し上げた。すると大后がとても恨み怒って、その船に乗せていた御綱柏をみんな海に投げ捨てた。それでその地を名づけて御津前という。
そしてお宮に戻らず、その船を引き寄せて堀江をさかのぼり、川に沿って山代に上っていかれた。この時お歌いになられるには、つぎねふや山代河を河上り我が上れば河の辺に生ひ立てる烏草樹を烏草樹の木其が下に生ひ立てる葉広ゆつ真椿其が花の照りいまし其が葉の広りいますは大君ろかもそして山代から回って、那良の山の口にやってきて歌うにはつぎねふや山代河を宮上り我が上ればあおによし奈良を過ぎ小楯大和を過ぎ我が見が欲し国は葛城高宮我家のあたりこのように歌って帰り、しばらく筒木の韓人、名を奴理能美の家に入った.。天皇は大后が山代から戻ってこないと聞いて舎人で、名を鳥山という人を遣わせて、御歌を送って申されるには山代にい及け鳥山い及けい及け我が愛し妻にい及き遇はむかもまた続いて丸邇臣口子を遣わせて歌われるにはみもろのその高城なる大葦古が原大猪子が腹にある肝向ふ心をだにか相思はずあらむまたお歌いになられるにはつぎねふ山代女の木鍬持ち打ちし大根根白の白腕枕かずけばこそ知らずとも言はめそして、この口子臣がこの御歌を申し上げようとした時、ひどい雨が降った。しかし、雨を避けようともせず表の殿戸で頭を下げていると、大后石之比売はわざと裏の戸から出ていき、裏の殿戸で頭を下げていると、わざと表の戸から出ていかれた。そして這いつくばって進み庭の真ん中にひざまづくと、水が腰まで及んだ。その臣は赤い紐をつけた青摺りの衣を着ていた。そして水が赤い紐に濡れて青いのがみんな赤く染まった。ここに口子臣の妹口日売が大后に仕えていた。その口日売が歌うには山代の筒木の宮に物申す我が兄の君は涙ぐましもここに大后が、その訳をお聞きになられた時に答えて申し上げるには「私の兄口子臣です。」と申し上げた。そこで口子臣、その妹の口比売、また奴理能美の三人が相談して、天皇に奏上させるには「大后が出掛けているのは、奴理能美の飼っている虫が一度は這う虫となり、一度は蚕となり、一度は飛ぶ鳥になって、三つの姿に変る怪しい虫です。この虫をご覧にお入りになられただけです。他に意味はありません。」と言った。このように奏上すると、天皇が仰せられるには、「それなら私も不思議だと思うので、見に行こうと思う。」と仰せられて、お宮から行幸されて奴理能美の家にお入りになられ時、その奴理能美が飼っている三種の虫を大后に献上した。そして天皇は大后のいる御殿の戸の前に立ってお歌いになられるにはつぎねふ山代女の木鍬持ち打ちし大根さわさわに汝が言へせこそうち渡すやがはえなす来入り参来れこの天皇と大后が読んだ歌六つは、志都歌の返し歌である。
天皇が八田若郎女に恋をして、歌を残した。その歌でいうには八田の一本菅は子持たず立ちか荒れなむあたら菅原言をこそ菅原と言はめあたら清し女ここに八田若郎女が答えて歌うには八田の一本菅は一人居りとも大君しよしと聞こさば一人居りともそして、八田若郎女の御名代として、八田部をお定めになられた。また天皇は、その弟の速総別王を仲立ちとして、その実の妹女鳥王をお求めになられた。ここに女鳥王は速総別王に言うには「大后が強いので、八田若郎女と結婚できずにおられました。なのでお仕えは出来ないと思います。私はあなたの妻になりたい。」と言って、すぐに結婚をした。それで速総別王は天皇に戻って奏上しなかった。そして天皇は女鳥王のところに行幸されて、彼女のいる御殿の敷居の上におられた。そこで女鳥王は機織に座って生地を織っていた。ここに天皇が歌うには女鳥のわが王の織ろす服誰が料ろかも女鳥王が答えて歌うには高行くや速総別の御襲料そして、天皇はその気持ちを知ってお宮にお帰りになられた。このとき、その夫速総別王がやって来た時、その妻女鳥王が歌うには雲雀は天に翔る高行くや速総別鷦鷯取らさね天皇はこの歌を聞いて、すぐに軍をおこして殺そうとなされた。そこで速総別王と女鳥王は共に逃げて、倉椅山に登った。ここで速総別王が歌うには梯立ての倉椅山を嶮しみと岩懸きかねて我が手取らすもまた歌うには梯立ての倉椅山は嶮しけど妹と登れば嶮しくもあらずそして、そこから逃げ失せて、宇陀の蘇邇までやってきたとき、御軍に追いつかれて殺された。その将軍山部大楯連が女鳥王の手に巻いていた玉釧を取って、自分の妻に与えた。その後、豊楽をなされてる時、各氏族の女たちが帝参りをした。そこに大楯連の妻が女鳥王の玉釧を自分の手に巻いて赴いた。大后石之比売命が自らお神酒の柏を持って、それぞれの氏族の女たち与えた。ここに大后はその玉釧を知っており、お神酒の柏を与えずに下がらせになられた。その夫大楯連を呼び出して仰せられるには「その王たちは非礼なので下がらせた。それはおかしなことではない。大楯連の妻の手に巻いた玉釧は、殺した女鳥王から肌がまだ暖かいうちに剥ぎ取り、自分の妻に与えたのだ。」と仰せられて、死刑となされた。
あるとき天皇が豊楽を楽しもうとされて日女島に行幸されたとき、その島で雁が卵を産んだ。そこで建内宿禰命を呼び出して、歌で雁が卵を産むときの様子をたずねた。その歌で申されるにはたまきはる内の朝臣汝こそは世の長人そらみつ大和の国に雁卵生と聞くやすると建内宿禰命が歌で語って申すには高光る日の御子うべしこそ問ひたまへ吾こそは世の長人そらみつ大和の国に雁卵生といまだ聞かずこう言って御琴を頂戴して歌って申すには汝が御子や終に知らむと雁は卵生らしこれは本岐歌の片歌である。この御世に兔寸河の西に一本の高い木があった。その木の影は朝日が当たれば淡路島にまで届き、夕日に当たれば高安山を越えた。その木を切って船を作ると、とても早く進む船となった。その船を名づけて枯野という。そして、その船で朝夕に淡路島の湧き水汲んで、大御水を献上した。この船が壊れたので塩で焼き、その焼け残った木を取って琴を作ると、その音は七つの里に響いた。そこで歌うには枯野を塩に焼きしが余り琴に作りかき弾くや由良の門の門中の海石に振れ立つ侵漬の木のさやさやこれは志都歌の歌返しである。この天皇の年は八十三歳。丁卯の年の八月十五日に崩御された。御陵は毛受の耳原にある。
御子伊耶本和気王は伊波礼の若桜宮で天の下を治められた。この天皇が葛城の曾都比古の子葦田宿禰の娘、名を黒比売命を娶ってお生みになられた御子市辺の忍歯王次に御馬王次に妹青海郎女またの名は飯豊郎女三柱。もと、難波宮にいるとき、大嘗祭の豊明をなされた時、大御酒を飲みすぎて寝入ってしまわれた。ここに、その弟墨江中王は皇位を奪おうと企み、火を大殿につけた。ここに倭の漢直の祖先阿知直が連れ出して、馬に乗せて倭にお向いになられた。そして多遅比野までやって来た時に目が覚めて、「ここはどこだ。」と仰せられた。それで阿知直が申し上げるには「墨江中王が御殿に火をおつけになられました。それでお連れして倭に逃げています。」と申し上げた。そこで天皇が歌うには多遅比野に寝むと知りせば立薦も持ちて来ましを寝むと知りせば波邇賦坂までやってきたとき、難波宮を遠く見ると、その火がなおも激しく燃えていた。そこで天皇が歌うには波邇賦坂わが立ち見ればかぎろひの燃ゆる家群妻が家のあたりそして波邇布坂までやってきたとき、一人の女性とお会いになられた。その女性が申されるには「兵器を持った人たちが、この山を塞いでいます。当岐麻道を回って行ったほうがいいでしょう。」と申された。ここに天皇がお歌いになられるには大阪に遇ふや嬢子を道問へば直には告らず当岐麻道を告るそして上って石上神宮についた。そこに弟の水歯別命がやってきてお会いになろうとされた。そこで天皇が仰せられるには「私は、あなたも墨江中王と同じではないかと疑っている。なので話すことは出来ない。」と仰せられた。答えて申されるには「私に反逆する気はありません。墨江中王と同じではありません。」と申せられた。また仰せられるには「ならば、今すぐ下って墨江中王を殺して戻って来い。それなら私は必ず話をしよう。」それで難波に帰って、墨江中王の側近として仕える隼人で、名を曾婆加里を騙して仰せられるには「もしお前が私の言うことに従えば、私は天皇となり、お前を大臣にして天の下を治めよう。どうだ。」と仰せられた。曾婆加里が答えるには「命の仰せの通りに。」と申し上げた。そしてたくさんの物をその隼人の者に与えて仰せられるには「それなら、お前の王を殺せ。」と仰せられた。ここに曾婆加里は自分の王がトイレに入ったのをひそかに伺って、矛で刺し殺しまつった。そして曾婆加里を連れて倭に上るとき、大坂の山の入口まで来たとき思うには「曾婆加里は私の為には大きな功績を挙げたが、自分の王を殺してしまったのは、これ不義である。しかし、その功績に報いないのは誠実がないといえるだろう。また、それを誠実に行えば、かえってその心が恐ろしい。だから、その功績に報いても、奴を殺してしまおう。」とお思いになられた。それで曾婆加里に言うには「今日はここに泊まって、まず大臣の位を賜い、明日、倭に上ろう。」と仰せられた。その山の口に留まって、仮宮を造って、すぐに豊明をされて、その隼人に大臣の位を賜い、多くの役人に拝礼をさせられた。隼人が喜び、志を遂げたと思った。ここに隼人に仰せられるには、「今日は大臣と同じ盃の酒を飲もう。」と仰せられて、共に酒を飲むとき、顔を隠すほどの大盃に、勧める酒を盛った。ここで、まず王子が先にお飲みになられ、隼人が後から飲んだ。そして隼人が飲むとき、大盃が顔を覆った。ここに席の下に隠した剣を取り出して、その隼人の首を切りたまわれて、次の日に行幸された。それでそこを名づけて近つ飛鳥という。上って倭までやって仰せられるには「今日はここに泊まり、祓禊をして、明日、出かけて神の宮に参ろう。」と申された。それでその地を名づけて遠つ飛鳥という。そして石上神宮に赴いて、天皇に奏上するには「ご命令を既に終えましたので、参上して控えております。」と申し上げた。ここに招き入れて語り合った。天皇はここに阿知直をはじめて蔵官に任じ、また粮地をお与えになられた。またこの御世に若桜部臣たちに若桜部の名を与え、また比売陀君たちに姓を与えて比売陀君という。また伊波礼部をお定めになられた。天皇の御年は六四歳。壬申の年の一月三日に崩御された。御陵は毛受にある。
弟の水歯別命は多治比の柴垣で天の下を治められた。この天皇は身長九尺二寸半、歯の長さ一寸広さ二分、上下等しく整って、すでに珠が通っているようである。天皇は丸邇の許碁登臣の娘、都怒郎女を娶ってお生みになられた御子甲斐郎女次に都夫良郎女。二柱また同じ臣の娘、弟比売を娶ってお生みになられた御子財王次に多訶弁郎女。合せて四王である。天皇の御年は六十歳。丁丑の年の七月に崩御された。御陵は毛受野である。弟の男浅津間若子宿禰命は遠つ飛鳥宮で天の下を治められた。この天皇が意富本杼王の妹忍坂之大中津比売命を娶ってお生みになられた御子木梨之軽王次に長田大郎女次に境之黒日子王次に穴穂命次に軽大郎女またの名衣通郎女名に衣通王と付けられたのは、その身の光が衣から通り出ているこそである。次に八瓜之白日子王次に大長谷命次に橘大郎女次に酒見郎女九柱。おおよそ天皇の子供たちは九柱である。男王五柱、女王四柱。この九柱の中の穴穂命が天の下を治めた。次に大長谷命が天の下を治めた。
天皇ははじめ、皇位を継ごうとする時、辞退して仰せられるには「私は長く患っている。皇位を継ぐことは出来ない。」と仰せられた。しかし大后をはじめ、様々な卿たちが固く奏上するので、天の下を治めた。この時、新羅の国主が貢物を八十一艘分を献上した。その御調の大使の名を金波鎮漢紀武という人が薬の調合に詳しかった。そして、天皇の御病をお治しした。天皇は天の下の氏氏名名の人々の氏姓が誤っているのを憂いたまわれて、味白檮の言八十禍津日の前に、くか瓮を供えて、天の下の八十友緒の氏姓をお定めになられた。また木梨之軽太子の御名代として、軽部を定め、大后の御名代として、刑部を定め、大后の妹の田井中比売の御名代として、河部をお定めになられた。天皇の年は七十八歳。甲午の年の一月十五日に崩御された。御陵は河内の恵賀の長枝にある。
天皇が崩御された後、木梨之軽太子が皇位を継ぐと決まったが、皇位を継承する前に、妹の軽大郎女と関係をもって歌うにはあしひきの山田を作り山高み下樋をわしせ下どひに我がとふ妹を下泣きに我が泣く妻をこぞこそは安く肌触れこれは志良宣歌である。また歌っていうには笹葉に打つや霰のたしだしに率寝てむ後は人は離ゆとも愛しとさ寝しさ寝てば刈薦の乱れば乱れさ寝しさ寝てばこれは夷振の片歌である。これにより百官、天の下の人たちは軽太子を離れ、穴穂御子のもとに集まった。ここに軽太子は怖くなり、大前小前宿禰の大臣の家に逃げ込み、武器を準備したまわれた。その時に作った矢は、その矢の内側を銅にした。それで、その矢を名づけて軽箭という。穴穂御子もまた武器を作りたまわれた。この王子の作った矢は、つまり今の矢である。これを穴穂箭という。ここに穴穂御子が軍を起して大前小前宿禰の家を囲みたまわれた。そしてその門にやって来たとき、大氷雨が降った。そして歌って言うには大前小前宿禰が金門蔭かく寄り来ね雨立ち止めむここに、その大前小前宿禰が手を挙げ、膝を打ち、舞を踊り歌いながらやって来た。その歌で言うには宮人の脚結の小鈴落ちにきと宮人とよむ里人もゆめこの歌は宮人振である。こう歌って帰って申すには「我が天皇の御子よ、兄弟の王と戦をなされてはなりません。もし戦をなされれば、必ず人は笑います。私が捕まえて献上します。」と申し上げた。ここに兵を下がらせてお待ちになられた。そして大前小前宿禰が軽太子を捕えて、連れ出てきて献上した。
その太子が捕えられて歌うにはあまだむ軽の嬢子いた泣かば人知りぬべし波佐の山の鳩の下泣きに泣くまた歌うにはあまだむ軽嬢子したたにも寄り寝てとほれ軽嬢子どもそして軽太子は伊余の湯に流しまつられた。また流されたまわれようとされた時に歌っていうには天飛ぶ鳥も使そ鶴が音の聞えむ時は我が名問はさねこの三歌は天田振である。また歌って言うには王を島に放らば船余りい帰り来むぞわが畳ゆめ言をこそ畳と言はめ我が妻はゆめこの歌は夷振の片下しである。その衣通王が歌を贈った。その歌で言うには夏草のあひねの浜の蠣貝に足踏ますなあかして通れそして後に恋い慕って、堪らず追っていくときに歌って言うには君が往き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじこの山たづとは、今の造木である。そして追い付いたときに懐かしんで歌って言うには隠りくの泊瀬の山の大峰には幡張り立てさ小峰には幡張り立て大峰よし仲定める思ひ妻あはれ槻弓の臥やる臥やるも梓弓起てり起てりも後も取り見る思ひ妻あはれまた歌って言うには隠りくの泊瀬の河の上つ瀬に斎杙を打ち下つ瀬に真杙を打ち斎杙には鏡を懸け真杙には真玉を懸け真玉如す吾が思ふ妹鏡如す吾が思ふ妻ありと言はばこそよ家にも行かめ国をも偲はめこのように歌って、一緒になって自ら死んだ。この二歌は読歌である。
御子穴穂御子は石上の穴穂宮で天の下を治められた。その天皇が、実の弟の大長谷王のために、坂本臣の祖先、根臣を大日下王の許に遣わせて仰せられるには「あなたの妹の若日下王を、大長谷王と結婚させようと思う。なので、献上しなさい。」と仰せられさせた。大日下王は四度拝礼して申し上げるには「もしかしたら、このようなご命令もあるのではないかと思っていました。それで外にも出さず、家にいさせました。これは恐れ多い。ご命令の通りに献上しましょう。」と申し上げた。しかし、言葉で申し上げる事が無礼だと思って、妹のしるしの品として押木の玉縵を持たせて献上した。根臣は、しるしの玉縵を横取りし、大日下王のことを悪く言うには「大日下王は勅命を受け入れず、『私の妹を同族の下席になどするものか』と言って、太刀をとって怒っておいででした。」といった。天皇は大変恨み、大日下王を殺して、その王の妻である長田大郎女を奪って、皇后となされた。それ以後、天皇は神床で昼寝をされていた。ここにその后に仰せられるには「お前は何か思うところがあるか?」と仰せられると、答えて申し上げるには「天皇の厚い愛情を頂いているので、何の不満がありましょう。」と申された。
その大后は前の子、目弱王、これが七歳であった。この王が、その話をしているときに、その御殿の下で遊んでいた。その若い王が御殿の下で遊んでいるのを知らずに大后に仰せられるには「私はいつも気になることがある。何かといえば、お前の子目弱王が成人したとき、私が彼の父王を殺したと知ったら、反逆するのではないだろうか。」と仰せられた。その御殿の下で遊んでいた目弱王はこの事を聞いて、天皇がお昼寝しているのを密かに窺い、その傍においてある太刀を取り、天皇の首を切り、都夫良意富の家に逃げ込んだ。天皇の御年は五六歳。御陵は菅原の伏見岡にある。
ここに大長谷王子、当時は子供であられたが、この事を聞いて怒って、すぐに兄黒日子王の許に行って申されるには、「人が天皇を殺した。どうしてやりましょうか。」と申された。しかし、その黒日子王は驚きもせず、また呑気であった。それで大長谷王がその兄を罵って「一つには天皇であり、また一つには兄弟であるのに、何の頼もしさもなく、兄が殺されたことを聞いても驚きもせず、なんて愚かなんだ。」と言って、衿をつかんで連れ出し、刀を抜いて切り殺したまわれた。また兄の白日子王のもとへ行って伝えた様子は前と同じようであるが、その愚かな様子もまた黒日子王のようであった。それで衿を取って引きずりだし、小治田に来て、穴を掘り、立たせたまま埋めると、腰まで埋めたときに両目が飛び出して死んだ。
また軍を起して、都夫良意富の家をお囲みになられた。ここに軍を起して戦い、撃ってくる矢は芦のように飛んで散らばった。そして大長谷王が矛を杖として、その戦っている最中に仰せられるには「私と話した乙女は、もしやこの家にいるのではないか。」と仰せられた。ここに都夫良意富美が、この言葉を聞いて自ら出て行き、腰の武器をほどいて、八度拝礼して申すには「先日問われた娘訶良比売は控えております。また五つの屯宅も一緒に献上しましょう。いわゆる五村の屯宅は今の葛城の五村の苑人である。しかし、自分で出て行けない訳は、昔から今に至るまで、臣、連が王のお宮に逃げ込むことは聞きますが今までに王子が臣の家に逃げ込んだことは聞いたことがありません。これを聞いて思うに、卑しい私意富美が力を尽くして戦ったとしても、勝てないでしょう。しかし私を頼って、卑しい家に入ってきた王子は、たとえ私が死んだとしても見捨てることはしません。」と申した。こう言って、武器を取って中に戻って戦った。そして力も出なくなり、矢も尽きてしまったので王子に申し上げるには「私はことごとく傷を負い、また矢も尽きてしまいました。もう戦えません。どうしましょう。」と申した。その王子が答えるには「それなら、もう更にできることはない。私を殺せ。」と仰せられた。そして刀で王子を刺し殺し、すぐに自分の首を切って死んだ。
その後、淡海の佐々紀の山君の祖先、名は韓帒が申すには「淡海の久多綿の蚊屋野には獣がたくさんいます。その足は萩原のようであり、突き上がる角は枯松のようです。」と申し上げた。この時、市辺之忍歯王を連れて、淡海に行幸され、その野原に着いてから、それぞれ別の仮宮を作って宿をとられた。次の朝、まだ日も上がってこないうちに、忍歯王は平常心で馬に乗ったまま、大長谷王の仮宮のそばまで来て、その大長谷王子のお供に仰せられるには「まだ目が覚めないか。早くしろと言ってくれ。夜はもう明けている。狩に出掛けるぞ。」と仰せられて、すぐに馬を進めて出てゆかれた。すると、その大長谷王の近くで控える人たちが申し上げるには「偉そうに物をいう王子だ。それでお慎みたまい下さい。また体に防具をつけたほうがいいでしょう。」と申し上げた。そして衣の中に鎧を着込み、弓矢を取って馬に乗って出て行かれ、すぐに馬を並べ、矢を抜いて忍歯王をうち撃ち落して、その身を刻んで馬縮に入れて土と同じ高さに埋めた。
ここに市辺王の王子たち、意祁王と袁祁王二柱がこの乱を聞いて逃げ去られた。そして山代の苅羽井にやってきたときに御粮を食べようとするとき、顔に入墨をした老人がきて、粮を奪った。そこで、二柱の王が仰せられるには「飯は惜しくない。しかし、お前は誰だ。」と仰せられると、答えるには「私は山代の猪甘だ。」といった。そして玖須婆の河を渡って針間国にいき、その国人で名を志自牟の家に入って身を隠し、馬飼い、牛飼いとしてお勤めになられた。針間国若建命は長谷の朝倉宮で天の下を治められた。天皇は大日下王の妹、若日下部王を娶られた。子無し。また、都夫良意富の娘、韓比売を娶ってお生みになられた御子白髪命次に妹若帯比売命。二柱そして白髪太子の御名代として白髪部を定め、また長谷部の舎人を定め、また河瀬の舎人をお定めになられた。このとき呉人が渡ってきた。その呉人を呉原に住まわせられた。また、その地を名づけて呉原という。
はじめ大后が日下におられた時、日下をまっすぐに通る道から河内へ行幸された。そこで山の上に登って国を見渡すと、堅魚を屋根に作っている家があった。天皇はその家のことを聞いて仰せられるには「その堅魚を屋根に作ったのは誰だ。」と仰せられると、答えて申し上げるには「志幾の大県主の家です。」と申し上げた。そこで天皇が仰せられるには「奴め、自分の家を天皇の御舎に似せて造りおった。」と仰せられて、すぐに人を使わせてその家を焼き払おうとされた時、その大県主が怖気ずき、恐れ入って詫びて申し上げるには「卑しい者であるのに、卑しい者ともわからずに、誤って作ってしまったのは大変恐れ多い。それでお詫びの物を献上します。」と申し上げて、布を白い犬にかけ、鈴を付けて、自分の家族の、名を腰佩という人に、犬の綱を持たせて献上した。それで火をつけることをおやめになられた。そして、その若日下部王の許に行き、その犬を賜いて仰せられるには「この物は今日、道の途中でもらった珍しい物だ。これを妻問いの物としよう。」と言って賜われた。そして若日下部王が天皇に奏上するには「日に背を向けて行幸される事は、大変恐れ多い。それで私が行って仕えましょう。」と奏上した。それで、お宮に帰るときに、山の坂の上に立って歌うには日下部の此方の山と畳薦平群の山の此方此方の山の峡に立ち栄ゆる葉広熊白檮本にはいくみ竹生ひ末方にはたしみ竹生ひいくみ竹いくみ寝ずたしみ竹たしには率寝ず後もくみ寝むその思ひ妻あはれと歌った。すぐにこの歌を持たせて使いを返させた。
あるとき、天皇が遊びに行幸され、美和河にやって来られたとき、川で衣を洗う乙女がいた。その姿はとても麗しかった。天皇がその乙女にお聞きになられるには、「お前は誰の子だ。」とお聞きになられると、答えて申し上げるには「私は引田部の赤猪子と申します。」と申し上げた。そこで仰せられるには「お前は他の男に嫁ぐな。今私が呼び寄せる。」と仰せられてお宮にお帰りになられた。そして赤猪子は天皇に呼び出されるのを待って、八十歳が過ぎた。そこで赤猪子が思うには「命を待っている間にすでに長く時間が過ぎ、姿は痩せ衰え、いまさら頼む人もいない。しかし、待っているのを伝えずにいるのは忍びない。」と思って、たくさんの贈物を持って、天皇のもとに参出でて献上した。すると天皇は既に前に言ったことを忘れていて、その赤猪子に聞いて仰せられるには「お前はどこの老女だ。何の用で来たのだ。」と仰せられた。そこで赤猪子が答えるには「その年その月、天皇のお言葉を頂戴して、ご命令を待って今日に至るまで八十歳を過ぎました。今はすっか老いて、いまさら頼む人もいません。しかし私の思いを申し上げようと参出でました。」と申し上げた。ここに天皇は大変驚いて、「私はすっかり前の事を忘れていた。しかし、お前は志を守って私の命令を待ち、いたずらに青春時代をすごしてしまった、これは大変悲しいことだ。」と仰せられて、内心、結婚してやりたいと思うが、とても老いた者を抱くことは出来ないのを悼み、歌を賜いた。その歌で言うには御諸の厳白檮がもとゆゆしきかも白檮原童女と歌いたまわれた。また歌うには引田の若栗栖原若くへに率寝てましもの老いにけるかもと歌いたまわれた。次に赤猪子の流した涙が、着ていた丹摺りの袖を濡らした。その大御歌に答えていうには御諸につくや玉垣つき余し誰にかも依らむ神の宮人と歌った。また歌うには日下江の入江の蓮花蓮身の盛り人羨しきろかもと歌った。ここにその老女にたくさんの物を与えて帰した。この四歌は志都歌である。
天皇が吉野に行幸された際、吉野の川のほとりに乙女がいた。その姿は麗しかった。それで、この乙女と愛し合ってお宮へ帰えられた。後に再び吉野に行幸されたときに、その乙女と出会ったところに留まられて、そこに大御呉床を立てて御呉床に座って琴を弾いて、その乙女に舞わせた。そこで少女が巧に舞うので、歌をお詠みになられた。その歌にいわく呉床居の神の御手もち弾く琴に舞する女常世もがなそして阿岐豆野に行幸されて、狩をしたとき、天皇が御呉床に座っておられた。アブが腕をさし、するとトンボが来てそのアブを食べて飛んでいった。そこで御歌をお詠みになられた。その歌にいわく、み吉野のをろが獄に猪鹿伏すと誰れぞ大前に奏すやすみしし我が大君の猪鹿待つと呉床に坐し白たえの衣手着そなふ手腓にあむかきつきそのあむを蜻蛉はや咋ひかくの如名は負はむとそらみつ倭の国を蜻蛉島とふそして、それ以来その地を名づけて阿岐豆野という。
あるとき天皇が葛城の山の上にのぼられた。ここに大きい猪が出た。すぐに天皇は鳴鏑で、その猪を射てたまわれると、その猪が怒って突進してきた。それで天皇は怖くなり榛の上にのぼった。ここで歌うにはやすみししわが大君の遊ばしし猪の病猪のうたき畏みわが逃げ登りしありをの榛の枝と歌いたまわれた。
またあるとき天皇が葛城山へ登りに行幸されるとき、多くの役人たちは皆赤い紐のついた青摺の衣を給わって着ていた。そのとき、その向かいの山の麓から山に登る人がいた。その姿は天皇の行幸と同じであり、またその装いの様子、また人たちもそっくりであった。ここに天皇がそれを見て仰せられるには「この倭の国に私以外に王はいないのに、今そこを通る人は誰だ。」と仰せられると、その答えて申される様子もまた天皇のお言葉のようであった。ここに天皇は大変怒り、矢をつがいて、役人たちもそれぞれ矢をつがいた。すると、その人等もまた皆矢をつがいた。そしてまた天皇が聞いて仰せられるには「しからば名を名乗れ。お互い名乗ってから矢を放とう。」と仰せられた。そこで答えて申されるには、「私は先に聞かれた。なので私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、いいことも一言で言い放つ神一言主大神である。」と申された。天皇が恐れ畏んで申されるには「恐れ多い。我が大神よ。この世に姿を現してこられるとは思いませんでした。」と申し上げて、大御刀また弓矢をはじめ、役人たちの着ている衣服を脱がせて、拝礼して献上された。するとその一言主大神は手を打って、その献上された物をお受け取りになられた。そして天皇がお帰りになられるとき、その大神は山の頂上で長谷が山の麓までお見送りになられた。このように、一言主大神はこの時に現れたまわれたのである。
また天皇は丸邇の佐都紀臣の娘袁杼比売を娶るために、春日に行幸されたとき、乙女と道で出会った。そして行幸を見て、岡のほとりに逃げ隠れた。それで御歌をお詠みになられた。その歌でいわく媛女のい隠る岡を金鉏も五百箇もがも鉏きはぬるものとお歌いになられた。それで、この岡を名づけて金鉏岡という。また天皇が長谷の欅の下で、豊楽をなされているとき、伊勢国の三重の采女が大御盃を捧げた。すると欅の葉が落ちて大御盃に浮いた。その采女は盃に落ち葉が浮かんでいるのに気付かず、なおも大御酒を献上した。天皇はその盃に浮かんでいる葉っぱをご覧になって、その采女を打ち伏せ、刀をその首にさし当てて切りたまわろうとなされたとき、その采女が天皇に申し上げるには「私を殺さないでください。申し上げることがあります。」と申し上げて、そして歌って曰く、纒向の日代の宮は朝日の日照る宮夕日の日がける宮竹の根の根垂宮木の根の根はぶ宮八百土よしい築きの宮真木さく桧の御門新嘗屋に生ひ立てる百足る槻が枝は上つ枝は天を覆へり中つ枝は東を覆へり下枝は鄙を覆へり上つ枝の上ほつ末葉は中つ枝に落ち触らばへ中つ枝の枝つ末葉は下つ枝に落ち触らば下枝の枝の末葉はあり衣の三重の子が指挙かせる瑞玉盞に浮きし脂落ちなづさひ水こをろこをろにこしもあやかしこし高光る日の御子事の語り言も是をばと歌った。そしてこの歌を献上すると、その罪をお許しになられた。ここに大后がお歌いになられた。その歌でいわく倭のこの高市に小高る市のつかさ新嘗屋に生ひ立てる葉広ゆつ真椿そが葉の広りいましその花の照りいます高光る日の御子に豊御酒献らせ事の語り言も是をばとお歌いになられた。そして天皇がお歌いになられるにはももしきの大宮人は鶉鳥領巾とりかけて鶺鴒尾行き合へ庭雀うずすまり居て今日もかも酒みずくらし高光る日の宮人事の語り言も是をばとお歌いになられた。この三歌は天語歌である。そして、この豊楽に三重婇を誉めて、多くの褒美を与えた。そして、この豊楽の日、また春日の袁杼比売が大御酒を献上する時、天皇がお歌いになられていわくみなそそく臣の嬢子秀罇取らすも秀取とり堅く取らせ下堅く弥堅く取らせ秀取とらす子とお歌いになられた。これは宇岐歌である。ここに袁杼比売が歌を献上した。その歌で言うにはやすみししわが大王の朝とにはい寄り立たし夕とにはい寄り立たす脇机が下の板にもがあせをと言った。これは志都歌である。天皇の御歳は百二十四歳。己巳年、八月九日に崩御された。御陵は河内の多治比の高鸇にある。
御子白髪大倭根子命は伊波礼の甕栗宮で天の下を治められた。この天皇は皇后がおらず、また御子もいなかった。それで御名代に白髪部をお定めになられた。よって天皇が崩御されると、天の下を治める王がいなかった。皇位を継ぐ王を探す間に、市辺之忍歯王の妹忍海郎女、またの名を飯豊王が葛城の忍海の高木の角刺宮におられた。山部連小楯が針間国の宰として任じられたとき、その国の民、名は志自牟の新築の家にやってきて宴会をした。そして宴会が盛り上がり、酒を酌み交して順番に皆が舞った。さらに火焚きの子供二人が竈のそばにいた。その子供たちに舞わせた。そのとき、一人の子供が言うには「お兄ちゃんが先に舞ってくれ。」と言えば、その兄も「お前が先に舞え。」と言った。このように譲り合っていると、そこに集まっていた人たちがその様子を見て笑った。そして兄が舞い終わって、次に弟が舞おうとするとき詠っていうには物部のわが夫子が取り佩ける太刀の手上に丹画き着けその緒は赤幡を載せ赤幡を立てて見ればい隠る山の三尾の竹をかき苅り末押しなびかすなす八鉉の琴を調べたるごと天の下治めたまひし伊耶本和気の天皇の御子市辺の忍歯王の奴末と言った。そして、これを聞いた小楯連が驚き、イスから転げ落ちて、その部屋にいた人たちを追い出して、その二柱の王子を左右の膝に座らせ、泣き喜んで、人を集めて仮宮を作り、その仮宮に住まわせて、駅使を送った。叔母である飯豊王がこれを聞いて喜び、お宮に上京させた。
そして天の下を治めようとする間に、平郡臣の祖先で、名を志毘臣が歌垣に立って、袁祁命が娶ろうと思っていた乙女の手を取った。その乙女は菟田首たちの娘、名は大魚である。そこで袁祁命も歌垣に立った。そして志毘臣が歌うには大宮のをとつ端手隅傾けれと歌った。こう歌って、この歌の続きを求められると、袁祁命が歌っていうには大匠をぢなみこそ隅傾けれそして志毘臣がまた歌うには王の心をゆらみ臣の子の八重の柴垣入り立たずありと歌った。ここに王子がまた歌うには潮瀬の波折りを見れば遊び来る鮪が端手に妻立てり見ゆと歌った。ここに志毘臣がますます怒って歌うには王の御子の柴垣八節結り結りもとほし切れむ柴垣焼けむ柴垣と歌った。ここで王子がまた歌うには大魚よし鮪突く海人よしがあれば心恋しけむ鮪突く鮪このように歌って、戦い明かしてそれぞれ帰った。次の朝、意祁命と袁祁命の二柱が相談して仰せられるには、「おおよそ朝廷の人たちは朝に朝廷に赴き、昼になると志毘の家に集まっています。また今、志毘は必ず寝ているでしょう。家にも人は集まっていないでしょう。だから、今でなければ策略を成功させるのは難しいかもしれません。」と仰せられて、すぐに軍を興して志毘臣家を囲んで、殺したまわれた。
ここに二柱の王子たちはお互いに天下を譲り合った。意祁命は弟の袁祁命に皇位を譲って仰せられるには「針間の志自牟の家に住んでいるとき、お前が名前を言わなければ、ここで天の下に臨む君になることはなかったろう。これはお前の功績だ。だから私は兄だが、それでもお前がまず天の下を治めよ。」と仰せられて、固く譲られた。それで辞退することが出来なくて袁祁命が先に天の下を治められた。
履中天皇の御子、市辺之忍歯王の御子、袁祁の石巣別命は近つ飛鳥宮で天の下を治めること八年である。天皇は石木王の娘、難波王を娶り、子はいなかった。この天皇が、その父王市辺王の亡骸を捜していると、淡海国のある賤しい老婆がやってきて申し上げるには「王子の骨を埋めた所は私だけがよく知っています。また歯で本人だと分かります。歯は三枝のような八重歯であった」と申し上げた。ここで人を使って土を掘って、その骨を探させた。そしてその御骨を見つけ、蚊屋野の東の山に御陵を作って葬り、韓岱の子供たちにその御陵を守らせた。しかる後にその御骨を持って帰った。そして帰り上ってその老婆を召し上げて、忘れずに覚えていたことを誉めて、名前を置目老媼と名付けた。そしてお宮の中に召し入れて、厚く広く慈しまれた。その老婆の住む家をお宮のすぐ近くに作って、毎日呼び入れられた。それで鈴を大殿の戸にかけて、その老婆を呼ぼうと思ったときは、必ず鈴をお鳴らしになられた。ここで歌をお作りになられた。その歌で仰せられるには浅茅原小谷を過ぎて百伝ふ鐸響くも置目来らしもと仰せられた。ここに置目老媼が申し上げるには「私は大変年老いました。国に帰ろうと思います。」と申した。そして言った通りに帰るとき、天皇が見送って歌われていわく置目もや淡海の置目明日よりはみ山隠りて見えずかもあらむと歌われた。はじめに天皇が災難にあってお逃げになられたとき、御粮を奪った猪甘の老人を探し、彼を見つけて連れ出し、飛鳥河の河原で切り、その家族の膝の筋を切りたまわれた。それで今に至るまで、その子孫は倭に上る日は、必ずびっこをひくのである。そして、その老人の土地を示した。それで、その土地を志米須という。
天皇は、その父王を殺したまわれた雄略天皇を深く怨んで、その霊に報いてやりたいと思った。それで雄略天皇の御陵を壊してやりたいと思い、人を遣わそうとすると、その兄意祁命が奏上するには「この御陵を壊すのに、他の人を遣わしてはならない。私自身が行って、天皇の意に沿うように壊して戻ってこよう。」と申された。ここに天皇が仰せられるには「ならば、そのようにしてくれ。」と仰せられた。それで意祁命が自ら行幸され、その御陵の隅を少し掘って、帰って帰り事を奏上するには「掘って壊してきた。」と申された。すると天皇は早く帰ってきたのを怪しんで仰せられるには「どう壊したのだ。」と仰せられた。答えて申されるには「その陵の隅の土を少し掘った。」と申された。天皇が仰せられるには「父の仇を討とうと思うなら、ことごとく陵を壊して欲しいのに、何で少しだけ掘っておしまいにするのだ。」と仰せられた。答えて申されるには「父の怨みをその霊に報いるのは、これ実に理に適っている。しかし、その雄略天皇は父の怨みだが、もともと私たちの叔父である。また天の下を治めた天皇である。ただ父の仇という志だけでことごとく天の下を治めた天皇の陵を壊したら、後の人は必ず悪く言う。ただの父の仇ではない。それで、陵の隅を少し掘った。これで辱めたので、後の世に示すには十分だ。」と申された。こう奏上されると、天皇が答えて仰せられるには「それももっともだ。兄のした通りでいい。」と仰せられた。天皇が亡くなって、意祁命が天津日続を継いだ。天皇の御年三八歳。天の下を治めること八年である。御陵は片岡の石坏崗の上にある。
顕宗天皇の兄、意祁王は石上の広高宮で天の下を治められた。天皇は雄略天皇の御子、春日大郎女を娶ってお生みになられた御子、高木郎女次に財郎女次に久須毘郎女次に手白髪郎女次に小長谷若雀命次に真若王また丸邇の日爪臣の娘、糠若子郎女を娶ってお生みになられた御子春日山田郎女この天皇の子は合わせて七柱。この中の小長谷若雀命が、天の下を治められた。小長谷若雀命は長谷の列木宮で天の下を治められること八年である。この天皇は、太子がいなかった。それで御子代として小長谷部をお定めになられた。御陵は片岡の石坏崗にある。
天皇が崩御されて、皇位を継ぐ王がいなかった。それで応神天皇の五世の孫、袁本杼命を近淡海国から上京させて、手白髪命と結婚させて天の下を授けられた。応神天皇の五世の孫、袁本杼命は伊波礼の玉穂宮で天の下を治められた。天皇が三尾君たちの祖先、名は若比売を娶ってお生みになられた御子大郎子次に出雲郎女。二柱また尾張連たちの祖先凡連の妹、目子郎女を娶ってお生みになられた御子広国押建金日命次に建小広国押楯命。二柱また仁賢天皇の御子手白髪命彼女は大后である。を娶ってお生みになられた御子天国押波流岐広庭命。一柱息長真手王の娘、麻組郎女を娶ってお生みになられた御子佐佐宜郎女。一柱また坂田大俣王の娘、黒日売を娶ってお生みになられた御子神前郎女次に田郎女次に白坂活日子郎女次に野郎女またの名は長目比売。四柱また三尾君加多夫の妹、倭比売を娶ってお生みになられた御子大郎女次に丸高王次に耳王次に赤比売郎女。四柱また阿倍之波延比売を娶ってお生みになられた御子若屋郎女次に都夫良郎女次に阿豆王。三柱この天皇の御子たちは合わせて十九王である。男七王、女十二王この中の天国押波流岐広庭命が天の下を治められた。次に広国押建金日命も天の下を治められた。次に建小広国押楯命も天の下を治められた。次に佐佐宜王は伊勢神宮に勤められた。この御世に、筑紫君石井が天皇のご命令に従わなず、無礼なことが多かった。それで物部荒甲之大連と大伴金村連の二人を遣わして、石井を殺したまわれた。天皇の御年は四三歳。丁未の年の四月九日に崩御された。御陵は三島の藍陵である。
継体天皇の御子広国押建金日王は勾の金箸宮で天の下を治められた。この天皇は御子がいなかった。乙卯の年の三月十三日になくなった。御陵は河内の古市の高屋村にある。
安閑天皇の弟の建小広国押楯命は檜坰の廬入野宮で天の下を治められた。天皇は仁賢天皇の御子、橘之中比売を娶ってお生みになられた御子石比売命次に小石比売命次に倉之若江王また川内之若子比売を娶ったお生みになられた御子火穂王次に恵波王。この天皇の御子たちは合わせて五王である。男三柱、女二柱。そして火穂王は志比陀君の祖先である。恵波王は韋那君、多治比君の祖先である。宣化天皇の弟、天国押波流岐広庭天皇は師木島の大宮で天の下を治められた。天皇が檜坰天皇の御子、石比売命を娶ってお生みになられた御子八田王次に沼名倉太玉敷命次に笠縫王。三柱またその妹小石比売命を娶ってお生みになられた御子上王。一柱また春日の日爪臣の娘、糠子郎女を娶ってお生みになられた御子春日山田郎女次に麻呂古王次に宗賀之倉王。三柱また宗賀の稲目宿禰大臣の娘、岐多志毘売を娶ってお生みになられた御子、橘之豊日命次に妹石坰王次に足取王次に豊御気炊屋比売命次に麻呂古王次に大宅王次に伊美賀古王次に山代王次に妹大伴王次に桜井之玄王次に麻怒王次に橘本之若子王次に泥杼王。十三柱また岐多志毘売命の叔母、小兄比売を娶ってお生みになられた御子馬木王次に葛城王次に間人穴太部王次に三枝部穴太部王またの名は須売伊呂杼次に長谷部若雀命五柱おおよそ、この天皇の御子たちは合わせて二十五王である。この中の、沼名倉太玉敷命が天の下を治められた。次に橘之豊日命が天の下を治められた。次に豊御気炊屋比売命が天の下を治められた。次に長谷部命が天の下を治められた。合わせて四柱が天の下を治められた。欽明天皇の御子沼名倉太玉敷天皇は他田宮で、天の下を治めること十四年である。天皇が妹の豊御気炊屋比売命を娶ってお生みになられた御子静貝王またの名を貝蛸王次に竹田王またの名は小貝王次に小治田王次に葛城王次に宇毛理王次に小張王次に多米王次に桜井玄王。八柱また伊勢大鹿首の娘、小熊子郎女を娶ってお生みになられた御子布斗比売命次に宝王またの名を糠代比売王。二柱また息長真手王の娘、比呂比売命を娶ってお生みになられた御子、忍坂日子人太子またの名を麻呂古王次に坂騰王次に宇遅王。三柱また春日の中若子の娘、老女郎女を娶ってお生みになられた御子難波王次に桑田王次に春日王次に大俣王。四柱この天皇の御子たちは合わせて十七王の中の日子人太子は妹の田村王、またの名を糠代比売王を娶ってお生みになられた御子は崗本宮で天の下を治めた天皇次に中津王次に多良王。三柱また漢王の妹、大俣王を娶ってお生みになられた御子知奴王次に妹桑田王。二柱また妹の玄王を娶ってお生みになられた御子山代王次に笠縫王。二柱合わせて七王である。甲辰の年の四月六日に崩御された。御陵は河内の科長にある。
敏達天皇の弟の橘之豊日王は池辺宮で、天の下を治めること三年である。この天皇が稲目大臣の娘、意富芸多志比売を娶ってお生みになられた御子多米王。一柱また妹の間人穴太部王を娶ってお生みになられた御子、上宮之厩戸豊聡耳命次に久米王次に植栗王次に茨田王。四柱また当麻之倉首比呂の娘、飯女之子を娶ってお生みになられた御子当麻王次に妹須加志呂古郎女。この天皇は丁未の年の四月十五日に崩御された。御陵は石寸の掖上にあったのを、後に科長中陵に移しまつった。
用明天皇の弟の長谷部若雀天皇は倉椅の柴垣宮で、天の下を治めること四年である。壬子の年の十一月十三日に崩御された。御陵は倉椅崗の上にある。
崇峻天皇の妹の豊御気炊屋比売命は小治田宮で、天の下を治めること三十七年である。戊子の年の三月十五日、癸丑の日に崩御された。御陵は大野崗の上にあったのを、後に科長の大陵に移しまつった。