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日本書紀 第二十二巻 推古天皇
推古即位前紀
推古元〜九年
2-22-2聖徳太子の紹介(元年)
2-22-3仏教が国家仏教となる(二〜七年)
2-22-4新羅対任那、日本は任那につく(八年)
2-22-5聖徳太子が斑鳩宮を建て、任那復興を謀る(九年)
推古十〜十九年
2-22-6新羅征伐の不発と暦 (十年)
2-22-7新羅征伐の不発と冠位十二階の制定(十一年)
2-22-8十七条の憲法(十二年)
2-22-9大仏の建立と制服支給(十三、十四年)
2-22-10神祇を祭り、小野妹子を隋に遣わす(十五年)
2-22-11帰ってきた小野妹子と隋からの使い(十六年)
2-22-12百済人の漂着と小野妹子の再帰国(十七年)
2-22-13新羅と任那の使い(十八年)
2-22-14堅苦しい薬狩り(十九年)
推古二十〜二十九年
2-22-15宴会をし、堅塩媛を改葬する(二十年)
2-22-16聖徳太子は聖人である(二十一年)
2-22-17桃とスモモ、瓜が実る(二十二~二十五年)
2-22-18高麗が隋を跳ね返し、雷の木を切る(二十六〜二十八年)
2-22-19聖徳太子が亡くなる(二十九年)
推古三十一〜三十六年
2-22-20唐からの留学生と対新羅政策(三十年)
2-22-21ある僧の殺人事件と連帯責任の範囲(三十二年)
2-22-22蘇我馬子宿禰大臣の死亡(三十三〜三十五年)
2-22-23推古天皇の崩御(三十六年)
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日本書紀巻二十二豊御食炊屋姫天皇推古天皇豊御食炊屋姫天皇は天国排開広庭天皇の次女である。橘豊日天皇の同母の妹である。幼い時、額田部皇女と申し上げた。お姿は端麗で、振る舞いは整っていた。年十八歳で立って、渟中倉太珠敷天皇の皇后となった。三十四歳で敏達天皇が崩御された。三十九歳で泊瀬部天皇の五年の十一月に、天皇は大臣馬子宿禰のために殺されたまわれた。皇位が空いた。臣たちは敏達天皇の皇后額田部皇女に要請して、即位してもらおうとした。皇后は辞退された。百寮は上奏文を献上して勧めた。三度目にして皇位につくことに従われた。それで天皇の璽印を献上した。冬十二月の壬申の朔己卯の日に、皇后は豊浦宮で即位した。
元年の春一月の壬寅の朔丙辰の日に、仏の舎利を法興寺の刹の柱の礎の中に置いた。丁巳の日に、刹の柱を立てた。夏四月の庚午の朔己卯の日に、厩戸豊聡耳皇子を皇太子とした。そして摂政をさせた。全ての政治をことごとく委ねた。用明天皇の二番目の皇子である。母の皇后を穴穂部間人皇女と申し上げる。皇后は皇子を出産する日に宮の中を回られて、役人たちを見られた。馬官のところにやってきたときに、厩の戸にぶつかって、悩まないうちに産んだ。生まれながらにして、よく喋った。聖なる人の智りがあった。男盛りになって、一度に十人の訴えを聞きたまいて、聞き間違えずに理解をしたまわれた。かねてから将来のことを見通した。また仏の教えを高麗の僧慧慈に習い、儒教の経典を博士覚哿に学ばれた。そして、ことごとく悟られた。父の天皇が聖徳太子を愛されて、大宮の南の上殿に住まわせた。それでその名を称えて、上宮厩戸豊聡耳皇子という。秋九月に用明天皇を河内磯長陵に改めて葬った。この年、初めて四天王寺を難波の荒陵に造った。この年、太歳癸丑。
二年の春二月の丙寅の朔の日に、皇太子、大臣たちに詔して、三宝を栄えさせた。このとき諸々の臣、連たちはそれぞれの君、親のために競って仏殿を造った。即ちこれを寺という。三年の夏四月、沈水が淡路嶋に漂着した。その大きさは一囲。島の人は沈水であることを知らずに、薪にして竈で焼いた。その煙は遠くまで香った。それで違うとして献上した。五月の戊午の朔丁卯の日に、高麗の僧慧慈が帰化した。それで皇太子の仏法の教師とされた。この年、百済の僧慧聡が来日した。この二人の僧は仏教を広めて、そして三宝の棟、梁となった。秋七月に将軍たちが筑紫から詣でた。四年の冬十一月に、法興寺が完成した。それで大臣の子、善徳臣を寺の司にした。この日に、慧慈、慧聡の二人の僧は初めて法興寺に住んだ。五年の夏四月の丁丑の朔の日に、百済の王は王子阿佐を遣わせて朝貢した。冬十一月の癸酉の朔甲午の日に、吉士磐金を新羅に遣わせた。六年の夏四月に、難波吉士磐金が新羅から帰ってきて、鵠二羽を献上した。それで難波社で飼った。枝に巣を作って子を生んだ。秋八月の己亥の朔の日に、新羅は孔雀一羽を献上した。冬十月の戊戌の朔の日丁未の日に、越国は白鹿一頭を献上した。
七年の夏四月の乙未の朔辛酉の日に、地震があって建物がことごとく壊れた。それで四方に命じて、地震の神を祭らせた。秋九月の癸亥の朔の日に、百済はラクダ一匹、ロバ一匹、羊二頭、白雉一羽を献上した。
八年の春二月に、新羅と任那は攻め合った。天皇は任那を救おうと思った。この年、境部臣に命じて、大将軍とした。穂積臣を副将軍とした。ともに名は漏らした。すなわち一万余りの兵を率いて、任那のために新羅を討とうとした。ここに、まっすぐに新羅を目指して、船で出発した。新羅に着いて、五つの城を攻めて突破した。ここに新羅の王は畏まって、白旗をあげて将軍の印の旗の下にやってきた。多多羅素奈羅弗知鬼委陀南加羅阿羅羅の六つの城を割いて、従うと申した。時に将軍が話し合って申すには、「新羅は罪と認めて従った。強いて討つのはよくはない。」と言った。そして申し上げた。ここに天皇はまた難波吉師神を新羅に遣わせた。また難波吉士木蓮子を任那に遣わせた。ともにことの事情を検討した。ここに新羅、任那の二つの国は使いを遣わせて貢物を献上した。それで上奏文を献上して申すには「天に神がいます。地に天皇がいます。この二柱の神を除いて、他に畏いことがありましょうか。今後、攻めあうことはありません。また船の舵を乾かさないように、毎年必ず来朝します。」と申した。そして使いを遣わせて、将軍を呼び戻した。将軍たちが新羅から詣でた。それで新羅はまた任那を侵攻した。
九年の春二月に、皇太子は初めてお宮を斑鳩に建てられた。三月の甲申の朔戊子の日に、大伴連嚙を高麗に遣わせ、坂本臣糖手を百済に遣わせて、詔して申すには「速やかに任那を救え。」と申された。夏五月に天皇は耳梨の仮宮におられた。この時に大雨が降った。川の水があふれて、お宮の庭が水で溢れた。秋九月の辛巳の朔戊子の日に、新羅のスパイ迦摩多が対馬にやってきた。それで捕らえて献上した。上野国に流した。冬十一月の庚辰の朔甲申の日に、新羅の攻撃について話し合った。
十年の春二月の己酉の朔の日に、来目皇子をもって新羅征伐の将軍とした。諸々の神部、そして国造、伴造たち合わせて軍勢二万五千人を授けた。夏四月の戊申の朔の日に、将軍来目皇子が筑紫に到着した。さらに進んで嶋郡に集まり、船を集めて軍の食料を運んだ。六月の丁未の朔己酉の日に、大伴連囓、坂本臣糖手がともに百済から詣でた。この時に、来目皇子は病に伏せていて、討つことが出来なかった。冬十月に、百済の僧観勒が詣でた。それで暦の本と天文地理の書、合わせて占星術の書を献上した。この時に、書生三、四人を選んで、観勒に学び習わした。陽胡史の祖先玉陳は暦を習った。大友村主高聡は天文と占星術を学んだ。山背臣日立は方術を学んだ。皆、学んで業をなした。閏十月、乙亥の朔己丑の日に、高麗の僧僧隆、雲聡が共に来朝した。
十一年の春二月の癸酉の朔丙子の日に、来目皇子が筑紫で亡くなった。それで早馬で申し上げてきた。ここに天皇がこれを聞き驚き、皇太子、蘇我大臣を呼び出して、詔して申すには、「新羅を討つための大将軍来目皇子が亡くなりました。この大きなことに臨んで、遂げることができませんでした。とても悲しいことです。」と申された。それで周芳の沙婆で殯をした。それで土師連猪手を遣わせて、殯のことを掌らせた。それで猪手連の子孫を沙婆連という。これがその由縁である。後に河内の埴生山の岡の上に葬った。夏四月の壬申の朔の日に来目皇子の兄、当摩皇子を新羅を討つ将軍とした。秋七月の辛丑の朔癸卯の日に、当摩皇子が難波から船で出発した。丙午の日に、当摩皇子が播磨に到着した。この時に従ってきた妻舎人姫王が明石で亡くなった。それで赤石の檜笠岡の上に葬った。そして当摩皇子は帰った。ついに伐つことをしなかった。冬十月の己巳の朔壬申の日に、小墾田宮に移った。十一月の己亥の朔の日に、皇太子は諸々の大夫に語って申すには、「私は尊い仏像を持っている。誰かこの像を引き受けて、敬わないか。」と申した。時に秦造河勝が進んできて申すには、「私が拝みます。」と申した。仏像を受けた。それで蜂岡寺を造った。この月に、皇太子が天皇に奏上して、大楯、そして靫を作り、また旗幟に描いた。十二月の戊辰の朔壬申の日に、初めて冠の位を行った。大徳小徳大仁小仁大礼小礼大信小信大義小義大智小智合わせて十二階。並びに当たる色の絁で縫った。てっぺんは全て袋のようにして、縁を付けた。ただ元日の日には、髺花を差した。
十二年の春一月の戊戌の朔の日に、初めて冠位を臣たちに賜い、それぞれに違いがあった。夏四月の丙寅の朔戊辰の日に、皇太子はみずから憲法十七条を作りたまわれた。一つに曰く、和をもって尊しとし、逆らうことのないのを旨とせよ。人は皆、群れようとする。また悟るものは少ない。これをもって、あるいは君、父に従わない。また隣の里と背く。しかれど上は和らぎ、下は睦んで、事を話し合うことができれば、事はおのずから通る。何事も出来るであろう。二つに曰く、厚く仏教を敬え。三宝とは仏、法、僧である。すなわち四つ生れの終わりの拠り所、よろずの国の行き着く教えである。いずれの世、いずれの人も、この法を尊ばずにはいられない。人は甚だ悪い者の少ない。よく教えれば従う。それ三宝に依りまつらずば、何をもって曲がれるを直せるだろうか。三つに曰く、天皇の詔を承ったら、必ず謹みなさい。君を天とする。臣を地とする。四つの季節に則って、全ての気が通うことができる。地が天を覆おうとする時は、秩序を壊すことをしようとする。これをもって君の宣うことを臣は承る。上が行えば、下は従う。それで詔を承ったら、必ず謹め。謹まなかったら、みずから敗れるだろう。四つに曰く、卿たち百寮たちよ、礼をもって本とせよ。それは国民を治める本質であり、必ず礼がある。上に礼のない時、下は整わない。下が無礼な時は、必ず罪がある。これをもって臣たちに礼があるときは、位の順は乱れない。百姓に礼があれば、国家は自然と治まる。五つに曰く、食に貪ることをやめ、人から欲っするのを捨てて訴訟を裁け。百姓の訴えは、一日に一千件ある。一日でもこうなのに、いわんや年を通したらどれくらいだろう。このごろ訴えを受け付ける者は、利益を得ることを常とし、賄賂を見てから訴えを聞く。すなわち財産のある者の訴えは、石を水に投げ入れるようなものである。貧しい人の訴えは、水を石にかけるのに似ている。よって貧しい国民はどうすることもできない。臣の道は、ここが欠けている。六つに曰く、悪を懲らしめ、善を奨めることは、昔からのよいしきたりである。これをもって、人の善を隠すことなく、悪いことを見たら必ず正せ。へつらいあざむく者は、国家を覆す鋭い武器であり、国民を絶つ鋭い剣である。また媚びる者は、上に対して好んで下の過ちを説き、下の者と会っては上の過ちをなじる。このような人々は、皆、君に忠誠心がなく、国民に仁がない。これは大きな乱れの元である。七つに曰く、人にはそれぞれ仕事がある。司ることを乱すことのないように。賢い者を役人に任ずる時は、称える声が起こる。悪い者が役人にいると、禍、乱れがひどくなる。世に生まれながらにして、分かる者は少ない。よく考えれば聖人となる。事の大小なく、人を得れば必ず治まる。時に早い遅いということはない。賢い人に会えば、自然と寛容になれる。これによって国家は永久にして、社禝が危うくなる事はない。故に古の聖王は役人のために人を求め、人のために役人を求めなかった。八つに曰く、卿たち、百寮よ、早く出勤して、遅くなってから帰社せよ。公の仕事に暇はない。一日掛けても終え難い。よって遅くなって出勤すると、急な仕事に間に合わない。早く帰宅すると仕事が終わらない。九つに曰く、信は義の根本である。事あるごとに信を尽せ。それ良さも悪さも、成るも成らぬも、必ず信がある。臣たち共に信があれば、何事もできないことはない。臣たちに信がなかったら、何事も失敗する。十に曰く、心の怒りを絶ち、思いの怒りを捨てて、人と違う事に怒るな。人は、みな心がある。心でそれぞれ行動する。彼が良いとしたことを、私はよくないことと思う。私が良しとしたことを、彼はよくないこととする。私は必ずしも聖ではない。彼は必ずしも愚かではない。共にただの人なだけである。良いか悪いかの理は誰が決められようか。お互いに賢く、愚かなことは輪っかに端がないようなものだ。彼が人を怒ったとしたら、戻って自分の過ちを恐れよ。自分ひとり得ることが出来たとしても、他の人たちに従って同じように行え。十一に曰く、功績、誤りをよく判断して、賞罰する事を必ず行え。日頃、賞は功績があっても行っていない。罰は罪があっても与えていない。実務を行う卿たちよ、賞罰することをはっきりさせろ。十二に曰く、国司、国造よ、百姓を自分のものにするな。国に二人の君はいない。民に二人の主はいない。国の国民は王を主とする。実務に当たる官司は、皆、王の臣である。どうして公と国民を治められようか。十三に曰く、様々な役に任じている者よ、同じく自分の職掌を知れ。あるいは病気となりあるいは使いとなったとして、事を怠る者がいる。しかし分かった日には、やることは昔から分かっているようにせよ。それを預かり知らずと言って、公の仕事を妨げるな。十四に曰く、卿たち、百寮よ、うらやみ、ねたむことなかれ。私が人をうらやむ時は、人もまた自分をうらやんでいる。ねたみ、うらやむ病は、その際限を知らない。この故に智が自分より勝っているときは喜ばない。才が自分より優る時は妬んでしまう。これをもって五百年たった今、賢き人と会った。千年に一人の聖人を待つのは難しい。その賢者聖人を得ずば、何をもって国を治めようか。十五に曰く、私欲に背いて公に向くのは、これ臣の道である。人が私欲にあるときは、必ず恨みがある。恨みがあるときは必ず整わない。公私が同じくらいである時は、私欲が公を妨げる。恨みが起こるときは決まりに背き、法を破る。ゆえに第一条に伝えたように、上下の者が和やかに整えられて、というのは、それまたこの気持ちからである。十六に曰く、国民を使うのに季節を限るのは、古のよい教えである。この故に、冬の月の間であれば民を使うべし。春から秋の間は、農業、養蚕の季節である。よってこの季節は民を使うべからず。農業をせずして何を食べられようか。蚕を飼わずに何が着られようか。十七に曰く、事を一人で決めるな。必ず様々な人たちと話し合うべし。些細ない事、これ軽い。必ずしも様々な人と話し合う必要はない。ただ大きなことを話し合うに及んで、誤りがあることを疑う。それで人々と話し合うことは、ことの理を得る。秋九月に、朝礼を改めた。それで詔して申すには「朝廷の門を出入りするときは、両手を土につけ、両足でひざまずいてから門の枕木を超えて、それから立ち上がって行きなさい。」と申された。この月に、初めて黄書画師、山背画師を定めた。
十三年の夏四月の辛酉の朔の日に、天皇は皇太子、大臣及び諸々の王、諸々の臣に詔して、共に同じ誓いを立てて、初めて銅、繡の丈六の仏像、それぞれ一体を作ることにした。それで鞍作鳥に命じて、仏を作る匠とした。この時に、高麗国の大興王が日本国の天皇が仏像を作りたまうと聞いて、黄金三百両を献上した。閏七月の己未の朔の日に、皇太子は諸々の王、諸々の臣に命じて、褶を着させた。冬十月に、皇太子は斑鳩宮に住まわれた。
十四年の夏四月の乙酉の朔壬辰の日に、銅と繡の丈六の仏像が、一緒につくり終わった。この日に、丈六の銅の仏像を元興寺の金堂に鎮座させようとした。時に仏像は、金堂の戸より大きかったために、堂に入れまつることが出来なかった。そこで、様々な職人たちが話し合って言うには「堂の戸を壊して納めよう。」と言った。しかし鞍作鳥の優れた技によって、戸を壊さずにして堂に入れることが出来た。その日、法会を行った。許されて集められた人々は、あえて数えなかった。この年より初めて寺ごとに四月の八日、七月の十五日に法会を行った。五月の甲寅の朔戊午の日に、鞍作鳥に勅して申すには、「私は仏教を起こして栄えさせようと思います。仏刹を建てようとして、初めて舎利を求めました。時に、あなたの祖父の司馬達等がすぐに舎利を献上しました。また国に僧、尼がいませんでした。それであなたの父多須那は用明天皇のために出家して、仏法を慎み敬まれました。またあなたの叔母嶋女は、初めて出家してたくさんの尼の導者となり、仏の教えを実践しました。いま私は丈六の仏を作りまつるために、良い仏像を探していました。あなたが献上した仏像は私が求めていたものにかなったものでした。また仏像がつくり終り、お堂に入れることが出来ませんでした。たくさんの匠が考えたことがうまくいかず、まさに堂の戸を壊そうとしていました。しかし、あなたは戸を壊さずに入れてくれました。これはみな、あなたの功績です。」と申された。それで大仁の位を賜えた。それで近江国の坂田郡の水田二十町を給わった。鳥はこの田で、天皇のために金剛寺を作った。これは今、南淵の坂田尼寺という。秋七月に天皇は皇太子に要請して、勝鬘経を講義させた。三日かけて説き終わった。この年、皇太子はまた法華経を岡本宮で講義された。天皇は大変喜んで、播磨国の水田百町を皇太子に贈りたまわれた。それで斑鳩寺に納められた。
十五年の春二月の庚辰の朔の日に、壬生部を定めた。戊子の日に詔して申すには「私が聞くに、昔、我が皇祖の天皇たちは世を治められること、天に体をかがめ、地に抜き足を踏んで、篤く天つ神国つ神を敬われたまわれた。あまねく山川を祭り、はるかな乾坤を通わせました。これをもって季節は開き和んで、成し出るものが共に整いました。いま私の御世に当たって、天つ神国つ神を祭ることを、なぜ怠れましょうか。そこで卿たちよ、共に真心を尽くして、天つ神国つ神を敬い祭りましょう。」と申された。甲午の日に、皇太子と大臣と百寮を引き連れて、天つ神国つ神を祭り敬った。秋七月の戊申の朔庚戌の日に、大礼小野臣妹子を大唐に遣わせた。鞍作福利を通訳とした。この年の冬に、倭国に高市池藤原池肩岡池菅原池を作った。山背国に、大溝を栗隈に掘った。また河内国に戸刈池依網池を作った。また国ごとに屯倉を置いた。
十六年の夏四月に、小野臣妹子が大唐から帰ってきた。唐国は妹子を名付けて蘇因高という。そして大唐の使い裴世清と下客十二人は、妹子臣に従って、筑紫にやってきた。難波吉士雄成を遣わせて、大唐の客裴世清を招待した。唐の客のために、新しい館を難波の高麗館の近くに建てた。六月の壬寅の朔丙辰の日に、客たちは難波津に泊まった。この日に、飾船三十艘で客たちを河口で迎えて、新しい館に住まわせた。ここに中臣宮地連烏麻呂、大河内直糖手、船史王平を掌客とした。ここに妹子臣が申すには「私は帰るときに、唐の帝が手紙を私に授けました。しかし百済国を通る日に、百済人が探ってかすめ取りました。ここで献上することが出来ません。」と申した。ここに臣たちが話し合って申すには、「使いである人は死んだとしても、役目を忘れてはいけない。この使いは何を怠って、大国の手紙をなくしたのか。」と言った。それで島流しの刑にした。時に天皇が勅して申すには、「妹子が手紙を失くしたのには罪がありますが、簡単に罰してはいけません。その大国の客たちに聞くことも、また良くありません。」と申した。それで許して罰しなかった。秋八月の辛丑の朔癸卯の日に、唐の客が都に入った。この日、飾騎七十五頭を遣わせて、唐の客を海石榴市の道で迎えた。額田部連比羅夫が、礼の言葉を述べた。壬子の日に、唐の客を朝廷に招いて、使いの用件を申させた。時に、阿倍鳥臣、物部依網連抱の二人を客の導者とした。ここに大唐の国の物を庭の中に置いた。時に使主裴世清がみずから手紙を持って二度拝んで、使いの旨を申して立った。その手紙に曰く、「皇帝より、倭の天皇に問う。使い長吏大礼蘇因高たちが詣でて思いを話してくれた。私は宝命を喜んで承り、天下に臨み仰いでいる。徳を広め、全ての者に蒙らせようと思っている。恵み養う気持ちに、遠く近くの隔たりなし。天皇は、海の外に居られて国民を撫で安心させ、国内を平和にして、国の習わしを融和し、深き心配りに誠があって、遠くからやって来てきたことがわかった。丁寧な真心の美しさを、私は喜ぶところである。ようやく暖かくなった。この頃はいつものこのようだ。それで鴻臚寺の掌客裴世清たちを遣わせて、ようやく遣わせた思いを伝える。あわせて送った物は、別の手紙にある。」と言った。時に阿倍臣が進み出て、その手紙を受け取って行った。大伴囓連が迎えでて手紙を受け取り、帝の前の机の上に置いて申した。事が終わって退いた。この時に、皇子たち、王たち、臣たちは、金の髻花を頭に差していた。また衣服に皆、錦、紫、繡、織物、そして五色の綾羅を使っていた。ある伝えでは、服の色は皆、冠の色を用いたという。丙辰の日に、唐の客たちを朝廷でもてなした。九月の辛未の朔乙亥の日に、客たちを難波の大郡でもてなした。辛巳の日に、唐客の裴世清が帰ることになった。それでまた小野妹子臣を大使とした。吉士雄成を小使とした。福利を通訳とした。唐の客に添えて遣わせた。ここに天皇は唐の帝を気に掛けた。その言葉で申すには「東の天皇が、謹んで西の皇帝に申します。使い鴻臚寺の掌客裴世清たちが詣でて、久しく思い、打ち解けました。秋になってようやく涼しくなりました。そちらはどうでしょう。思うに、穏やかでしょう。ここもいつものようです。今、大礼蘇因高、大礼乎那利たちを遣わせて、うかがわせます。謹んで申し上げます。具ならず。」と言った。この時に、唐の国に遣わせる学生倭漢直福因奈羅訳語恵明高向漢人玄理新漢人大圀学問僧新漢人日文南淵漢人請安志賀漢人志賀慧隠新漢人広済たち合わせて八人である。この年、新羅人が多く帰化した。
十七年の夏四月の丁酉の朔庚子の日に、筑紫大宰が奏上して申すには、「百済の僧道欣、恵弥の二人を長とした十人と一般の人七十五人が、肥後国の葦北津に泊まりました。」と申した。この時、難波吉士徳摩呂と船史竜を遣わせて、聞かせて申すには「どうした。」と言った。答えて申すには、「百済の王の命により、呉国に遣わされました。その国に乱れがあって、入ることも出来ませんでした。それで国に帰りました。
たちまち暴風にあって、海を漂いました。しかし、大いなる幸があって、聖帝の辺に着きました。それで喜んでいるところです。」と言った。五月の丁卯の朔壬午の日に、徳摩呂たちが朝廷に戻って報告した。それで徳摩呂と竜の二人を戻らせて、百済の人たちに付き添わせて、道欣たちをもとの国に送り遣わした。対馬までやってきた時、僧たち十一人を留まるように頼んだ。それで上奏文を献上して留まった。よって元興寺に住まわせた。秋九月に小野臣妹子たちが大唐から詣でた。ただ、通訳の福利だけが戻らなかった。
十八年の春三月に、高麗の王が僧曇徴、法定を献上した。曇徴は五経に詳しかった。また、よく絵の具、紙と墨を作り、あわせて水車の臼を造った。もしや水臼を造るのは、このときに始まったのか。秋七月に新羅の使い沙たく部奈末竹世士、任那の使いたく部大舎首智買が、筑紫にやってきた。九月に、使いを遣わせて、新羅、任那の使いを招いた。冬十月の己丑の朔丙申の日に、新羅と任那の使いが都に着いた。この日、額田部連比羅夫に命じて、新羅の客を迎える荘馬の長とした。膳臣大伴を任那の客を迎える荘馬の長とした。それで阿斗の河辺の館に滞在させた。丁酉の日に、客たちが朝廷を拝礼した。ここに秦造河勝、土部連菟に命じて、新羅の導人とした。間人連塩蓋、阿閉臣大籠を任那の導人とした。共に連れて南の門から入って、庭の中に立たせた。時に大伴咋連、蘇我豊浦蝦夷臣、坂本糖手臣、阿倍鳥子臣が自分の場所から立ち上がって、進んでいって庭に伏せた。ここに両国の客たちがそれぞれ拝して、使いの旨を申した。それで四人の大夫が立ち上がって進み、大臣に伝えた。時に大臣は自分の場所から立り上がって、庁の前に立って聞いた。既にそれぞれの客には贈物を賜えた。それぞれに違いがあった。乙巳の日に、使いたちを朝廷でもてなした。河内漢直贄を新羅の共食者とした。錦織首久僧を任那の共食者とした。辛亥の日に、客たちは礼の儀式が終わって帰った。
十九年の夏五月の五日に、菟田野で薬猟をした。暁に藤原池のほとりで集まった。曙に出発した。粟田細目臣を前の部領とした。額田部比羅夫連を後ろの部領とした。この日に、臣たちの服の色は、皆の冠の色に合わせた。それぞれ髺花を差した。大徳、小徳は金を用いた。大仁、小仁は豹の尻尾を用いた。大礼以下は鳥の尻尾を用いた。秋八月に、新羅は狭たく部奈未北叱智を遣わせ、任那は習部大舎親智周智を遣わして、共に朝貢した。
二十年の春一月の辛巳の朔丁亥の日に、大御酒を召して卿たちと宴をした。この日に大臣が大御盃を献上して歌うにはやすみしし我が大君の隠ります天の八十陰出で立たす御空を見れば万代に斯くしもがな千代にも斯くしもがな畏みて仕へ奉らむ拝みて仕へ奉らむ歌献きまつる天皇が答えて歌うには真蘇我よ蘇我の子らは馬ならば日向の駒太刀ならば呉の真刀諾しかも蘇我の子らを大君の使はすらしき二月の辛亥の朔庚午に、皇太夫人堅塩媛を檜隈大陵に改めて葬った。この日に、軽の道で忍びの言葉を献上した。第一に、阿倍内臣鳥が天皇の御言葉の忍ぶ言葉を献上した。即ち御霊に物を献上した。食器、喪服の類、一万五千種である。第二にもろもろの皇子たちが順番に忍ぶ言葉を読んだ。第三に、中臣宮地連烏摩侶が大臣の言葉を忍ぶ言葉で献上した。第四に、大臣が八腹臣たちを引き連れて、そして境部臣摩理勢に氏姓の本で忍ぶ言葉を奏上した。時の人が言うには、「摩理勢と烏摩侶の二人は、よく忍ぶ言葉を奏上した。ただ鳥臣だけは忍ぶ言葉を奏上することが出来なかった。」と言う。夏五月の五日に、薬猟をして、羽田に集まって、並んで朝廷に出向いた。その装いは菟田の狩りのようであった。この年、百済国から自ら帰化した者がいた。その体は、まだらであった。もしや白癩である者か。その人の異様なのを嫌って、海の中の島に捨てようとした。するとその人が言うには「もし私のまだらな肌が気持ち悪いのなら、白斑な牛馬を、国の中で飼うな。また私は、ちょっとした才能がある。よく山、丘の形を作る。だから私を留めて使えば、国のために利益があろう。なぜ虚しく海に捨てようとするのだ。」と言った。ここにその言葉を聞き捨てなかった。それで須弥山の形と呉橋を南庭に構えろと命じた。時の人はその人を名付けて、路子工といった。またの名は芝耆摩呂。また百済人味摩之が帰化した。言うには、「呉で学んで、伎楽の舞を身に付けた。」と言った。それで桜井に住まわせて、子供たちを集めて、伎楽の舞を教えさせた。ここに真野首弟子、新漢済文の二人が習って、その舞を伝えた。これは今、大市首、辟田首たちの祖先である。
二十一年の冬十一月に、掖上池、畝傍池、和珥池を作った。また難波から都まで大きい道を作った。十二月の庚午の朔の日に、皇太子が片岡に出掛けられた。時に飢えた人が道の端に伏せていた。それで名前をお聞きになられた。しかし答えなかった。皇太子はこれをご覧になられて、食べるものを与えたまわれた。そして衣裳を脱がれて、飢えた人にかけてやって申すには、「安らかに寝ているがよい。」と申した。それで歌って申すにはしなてる片岡山に飯に飢て臥せるその旅人あはれ親無しに汝生りけめやさす竹の君は無き飯に飢て臥せるその旅人あはれ辛未の日に、皇太子が使いを遣わせて飢えた人を見に行かせた。使いが戻ってきて申し上げるには「飢えた人はもう死んでいました。」と申した。ここに皇太子は大変悲しんだ。それでその所に埋めて葬った。墓を築き固めた。数日後、皇太子は近くで仕える者を呼んで、語って申すには「前に道で倒れていた飢えた人は、ただの人ではない。必ず聖人である。」と申されて、使いを遣わせて見に行かせた。ここに使いが戻って申すには「お墓にいって見てみると、埋めたところは動いていません。それで開いて見てみると、遺体はすでになくなっていました。ただ衣服だけが畳まれて棺の上に置かれていました。」と申した。ここに皇太子がまた使いを戻らせて、その御衣を取ってこさせた。いつものように着た。時の人は大変怪しんで申すには「聖の聖を知るのは、それは本当だ。」と言って、いよいよ畏まった。
二十二年の夏五月の五日に、薬猟をした。六月の丁卯の朔己卯の日に、犬上君御田鍬、矢田部造名は分からない。を大唐に遣わせた。秋八月に、大臣が病に臥せた。大臣のために男女合わせて一千人が出家した。二十三年の秋九月に、犬上君御田鍬と矢田部造が大唐から詣でた。百済の使いが犬上君に従って、詣でた。十一月の己丑の朔庚寅の日に、百済の客をもてなした。癸卯の日に、高麗の僧慧慈が国に帰った。二十四年の春一月に、桃、李が実った。三月に掖玖人三人が帰化した。夏五月に夜勾人七人が帰化した。秋七月にまた掖玖人二十人がやってきた。前後合わせて三十人。皆、朴井に住まわせた。帰る前に皆、死んだ。秋七月に、新羅は奈末竹世士を遣わせて、仏像を献上した。
二十五年の夏六月に、出雲国が申し上げるには、「神戸郡に瓜があります。大きさが土瓶くらいです。」と申し上げた。この年、五穀が実った。二十六年の秋八月の癸酉の朔の日に、高麗は使いを遣わせて国の物を献上した。それで申すには、「隋の煬帝が三十万の兵を起こして、我々を攻めてきました。しかし逆に我らにやられました。それで捕虜の貞公、普通の二人と、鼓、笛弩、抛石の類十物、合わせて土物、駱駝一匹を献上します。」と申した。この年、河辺臣名は分からない。を安芸国に遣わせて、船を造らせた。山に入って船の材料を探した。すぐにいい木が見つかり、切ろうとした。時に人がいて言うには、「雷神の木である。切ってはならない。」と言った。河辺臣が言うには、「それが雷の神であったとしても、なぜ天皇のご命令に逆らえようか。」と言って、多くの捧げ物で祝い祭って、人使って切らせた。すぐに大雨がふって、落雷した。ここに河辺臣が剣を取って申すには「雷の神よ、人を傷付けるな!私の身を傷つけよ。」と言って、仰ぎ待った。十余りの落雷があったが、河辺臣に落ちる事はなかった。それで小さい魚になって、木の枝に挟まっていた。その魚を取って焼いた。ついに船を造った。
二十七年の夏四月の己亥の朔壬寅の日に、近江国が申すには「蒲生河に何かあります。その形は人のようであります。」と申した。秋七月に摂津国に漁師がいて、網を堀江に沈めた。物が網にかかった。その形は稚児のようであった。魚ではなく、人でもなく、なんと呼んでいいか分からなかった。二十八年の秋八月に掖玖人二人が伊豆嶋に流れ着いた。冬十月に砂礫を檜隈陵の上にひいた。それで周りに土を積んで山にした。氏ごとに負わせて、大柱を土の山の上に建てさせた。時に倭漢坂上直の立てた柱は、優れていてとても高かった。時の人は名付けて、大柱直といった。十二月の庚寅の朔の日に、天に赤い気があった。長さ一丈余り。形は雉の尾に似ていた。この年、皇太子と嶋大臣とが話し合って、天皇記、及び国記、臣、連、伴造、国造、百八十部、合わせて公民等の本記を記録した。二十九年の春二月の己丑の朔癸巳の日の夜中に、厩戸豊聡耳皇子命が斑鳩宮で亡くなられた。この時に、諸々の王、諸々の臣、そして天下の百姓たちことごとくは、翁は愛しい子供を失ったように悲しみ、塩、酢を口にしても味が分からなかった。若い者は慈悲深いの両親を失ったように、泣き声が道に響いた。畑を耕す者は鍬を止め、稲をつく女は杵の音をさせなかった。皆が言うには「日月が光を失って、天地が崩れてしまった。今後誰を頼ろうか。」と言った。この月に、上宮太子を磯長陵に葬った。この時に当たって、高麗の僧慧慈は、上宮皇太子が亡くなられたと聞いて大変悲しんだ。皇太子のために僧を呼んで拝んだ。それで自らお経を説く日に、誓って申すには、「日本国に聖人がいた。上宮豊聡耳皇子と言う。まことに天に許された、生まれながらに優れていた人であった。はるかなる聖の徳をもって、日本の国に生まれた。三統を包み貫いて、先の聖の大きな計画を続け、三宝を慎み敬って、国民の苦しみを救った。これ、まことに大きな聖である。今、太子は既に亡くなられた。私は国が違うが、友情でつながっていた。一人で生きていても、何のいいことがあろうか。私は来年の二月の五日に必ず死のう。それで上宮太子と浄土で会って、共に衆生を救おう。」と言った。慧慈は約束の日になって死んだ。それで時の人の誰も彼もが共に言うには、「一人上宮太子だけが聖人ではなかった。慧慈も聖人であった。」と言った。
三十一年の秋七月に、新羅は大使奈末伊弥買を遣わし、任那は達率奈末智を遣わせて、共に来朝した。そして仏像一式と金の塔、合わせて舎利を献上した。また大きな観頂幡一式、小幡十二条を献上した。仏像を葛野の秦寺に納めた。他の舎利、金の塔、観頂幡などを皆、四天王寺に納めた。この時に大唐の学問者で僧恵斉、恵光、そして医者恵日、福因たち、並びに智洗爾を連れてやってきた。ここに恵日たちが共に言うには、「唐国に留まっている学者は皆、学んで道をなしました。招くべきでしょう。また大唐国は、法律の決まった珍の国です。いつも通うべきでしょう。」と言った。この年、新羅は任那を討った。任那は新羅に服従した。ここに天皇はついに新羅を討とうとした。大臣と話し合い、臣たちに聞かれた。田中臣が答えて申すには「急いでに討ってはいけません。まず様子を調べ、従わないのが分かった後に討っても遅くはありません。頼みます、試しに使いを遣わせて、その様子を見させましょう。」と申した。中臣連国が言うには「任那ははじめから我が内官家です。いま新羅人を討つべいです。お願いです、兵に命じて新羅を討ち、任那を取り返て百済に戻すべきです。新羅から得られる事が必ず多いでしょう。」と申した。田中臣が申すには、「よくありません。百済は何度も裏切る国です。道の途中ですらだまそうとします。おおよそその国の求めるところは、いいところがありません。よって百済につけてはいけません。」と申した。それで新羅を討たなかった。吉士磐金を新羅に遣わせて、吉士倉下を任那に遣わせて、任那について問いただした。時に新羅国の王は八人の大夫を遣わせて、新羅国のことを磐金に申した。また任那国の事を倉下に申した。それで約束して申すには、「任那は小さい国ですが、天皇に付き従う国です。なぜ新羅がたやすく手に得られましょう。これまでのように内官家と定め、願わくば煩わせることのないようにします。」と申した。それで奈末智洗遅を遣わせて、吉士磐金に従わせた。また任那人達率奈末遅を吉士倉下に従わせた。それで両国の貢物を献上した。しかし磐金たちが戻る前、その年に、大徳境部臣雄摩侶、小徳中臣連国を大将軍とした。小徳河辺臣禰受、小徳物部依網連乙等、小徳波多臣広庭、小徳近江脚身臣飯蓋、小徳平群臣宇志、小徳大伴連名は漏らした。、小徳大宅臣軍を副将軍とした。数万の兵力を率いて、新羅を討つことにした。磐金たちは任那の港で合流し、船で出発するために風を待っていた。ここに船団が海に満たしてやってきた。二つ国の使いがこれを望み見て怖気づいた。それで国に戻って留まった。堪遅大舎に代え、任那の貢物の使いとして献上した。ここに磐金たちが話し合って申すには、「ここに軍がやってきたことは、前の話と違う。これで任那のことは、どうにもならない。」と言った。そして船を出発させて海を渡った。ただここで将軍たちが任那に渡った時に初めて話し合い、新羅を襲おうとした。ここに新羅の王は、大軍がやってきたと聞いて、あらかじめ怖気づいて服従すると申した。そこで将軍たちはともに話し合って手紙を献上した。天皇は許された。冬十一月に、磐金、倉下たちが新羅から詣でた。時に大臣がその様子を聞いた。答えて申すには「新羅は御命令を承って、驚き畏まりました。それで、一緒に専使を遣わせて、両国の貢物を献上しました。しかし船団がやってきたのを見て、貢物の使いが帰っていってしまいました。ただ貢物だけは献上しました。」と言った。ここに大臣が申すには、「悔しい事だ、早く兵を遣わせた事は。」と申した。時の人が申すには「この軍事行動は境部臣と阿曇連が、先に新羅からたくさんの物を取ろうとし、大臣に征伐を進めたのだろう。そのために使いの話を待たずに、早く征伐したかったのだ。」と言った。初めて磐金たちが新羅に渡った日、新羅の港に着くころ、荘船一艘が海の浦で迎えた。磐金が聞いて申すには「この船はどこの国の迎船だ。」と言った。答えて申すには、「新羅の船です。」と言った。磐金がまた申すには「どうして任那の迎船がないのか。」と言った。すぐに任那のために船一艘を加えた。新羅が迎船二艘を用いるのは、この時に始まったのか。春から秋まで長雨があって、大きな水害があった。五穀は実らなかった。
三十二年の夏四月の丙午の朔戊申の日に、一人の僧が斧を取って祖父を殴った。時に天皇がこれを聞いて、大臣を呼び出し、詔して申すには「出家した者はひたすら三宝に帰依して謹みを守るのです。何ぜ悔い忌むことなくして、たやすく逆らうことを犯すのでしょうか。いま私が聞くには、僧が祖父を殴ったといいます。それで全ての寺の僧、尼を集めて、本当かどうかを聞きなさい。もし事実なら、重い罪としなさい。」と申した。ここに諸々の僧、尼を集めて問いただした。逆らった僧、そしてその他の僧、尼を一緒に罪にしようとした。ここに百済の観勒僧が手紙を献上して申すには「仏法が西国から漢にやってきて三百年が経ち、そして百済国に伝えられてわずか百年です。そして我が王が日本の天皇が賢くおられると聞いて、仏像と経典を献上してまだ百年にもなりません。いまこの時に当たって、僧、尼はいまだ法を習っておらぬので、たやすく逆うことを犯します。それで僧、尼は畏まってどうしていいか分かりません。願わくば、逆うことをした者を除いて、他の僧尼を皆許して、罪にしてはなりません。これ大きな功徳です。」と申した。天皇は許された。戊午の日に詔して申すには、「道を行う人も法を犯します。何をもって普通の人を教えましょう。今後、僧正、僧都を任命して、僧、尼を管理させましょう。」と申した。壬戌の日に、観勒僧を僧正とした。鞍部徳積を僧都とした。その日、阿曇連名は漏らした。を法頭とした。秋九月の甲戌の朔丙子の日に、寺および僧、尼のことを考えて、詳しくその寺を造った由縁、また僧、尼の入道の由縁、そして出家した年月日を記した。この時に当たって、寺四十六所、僧八百十六人、尼五百六十九人、合わせて一千三百八十五人がいた。冬十月の癸卯の朔の日に、大臣が阿曇連名は漏らした。、阿倍臣摩侶の二人の臣を遣わせて天皇に申させるには、「葛城県は、私の出身地です。その県にちなんで名前としました。それで願わくば永遠にその県を賜って、私が賜った県としたいのです。」と申した。ここに天皇が詔して申すには「私は蘇何の出身です。大臣は私の伯父です。よって大臣の言葉を、夜に言えば夜が明けてしまい、昼に言えば昼が過ぎてしまい、いつのときでもその言葉が気になるでしょう。しかるにいま私の世にして、ついにこの県を失ってしまったら、後世の君がこう言うでしょう。『愚かでかたくなな女性が、天下に臨んで、ただその県を失った。と申されるでしょう。なぜ私一人が幼くいられましょう。大臣もつたなくなりました。これは後世の悪しき名となりましょう。」と申されて許さなかった。
三十三年の春一月の壬申の朔戊寅の日に、高麗の王が僧恵灌を献上した。よって僧正に任命した。三月に、寒くなって霜が降った。夏五月の戊子の朔丁未の日に、大臣が亡くなった。それで桃原墓に葬った。大臣は稲目宿禰の子である。人となりは武略があって、また弁才があった。また三宝を慎み敬って、飛鳥河のほとりに家があった。庭の中に小さな池を掘ってあった。小さな島を池の中に作った。それで時の人は嶋大臣といった。六月に、雪が降った。この年、三月から七月に到るまで、長雨が振った。天下は大いに飢えた。老人は草の根を食べて、道のほとりで死んだ。幼いのは乳を含んで、母子ともに死んだ。また強盗、窃盗がたくさん現れ、やまなかった。
三十五年の春二月に、陸奥国に、狢がいて、人になって歌った。夏五月にハエが集まった。その集まること十丈ばかり。大空に浮かんで信濃坂を越えた。鳴る音は雷のようだった。そして東の方の上野国に到って自然と散った。三十六年の春二月の戊寅の朔甲辰の日に、天皇が病に倒れたまわれた。三月の丁未の朔戊申の日に、日が欠け消えてしまうことがあった。壬子の日に、天皇は痛みがひどくなり、我慢できなかった。それで田村皇子を呼んで語って申すには、「高御座に昇って皇位を治め整えて、全ての政治に関わって国民を養うことはたやすく言うことではありません。いつも重いものです。それで、あなたが謹んで見てあげなさい。軽々しく言ってはいけません。」と申された。その日、山背大兄を呼んで教えて申すには「あなたは未熟です。たとえ皇位を望んだとしても、強く言ってはいけません。必ず臣たちの言葉を待って、従いなさい。」と申した。癸丑の日に、天皇は崩御された。時に年七十五。それで南庭で殯した。夏四月の壬午の朔辛卯の日に、雹が降った。大きさは桃の実のようであった。壬辰の日に、雹が降った。大きさは李の実のようであった。春から夏に到るまで、日照りであった。秋九月の己巳の日に、初めて天皇の葬儀を始めた。この時に、臣たちはそれぞれ殯宮で忍びごとを奏上した。これより先に、天皇は遺言して申すには「この頃、五穀が実りません。百姓がとても飢えています。私のために陵を作って、厚く葬ることのないように。竹田皇子の陵に葬りなさい。」と申された。壬辰の日に、竹田皇子の陵に葬った。日本書紀巻第二十二