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日本書紀 第二十七巻 天智天皇
天智即位前紀
天智元〜何年
2-27-2百済救援(元年)
2-27-3白村江の戦いと百済の滅亡(二年)
2-27-4冠位の改定と筑紫の防衛(三年)
2-27-5百済の難民と唐から大量の使い(四年)
2-27-6高麗の使いと佐伯子麻呂(五年)
2-27-7斉明天皇たちを葬る(六年)
2-27-8天智天皇の即位と高麗の滅亡(七年)
2-27-9中臣鎌足、死ぬ間際に藤原姓を賜る(八年)
2-27-10壬申の乱の予感(九年)
天智十年
2-27-11体制作り(一~九月)
2-27-12大海人の出家と天智天皇の崩御(十~十二月)
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日本書紀巻二十七天命開別天皇天智天皇天命開別天皇は息長足日広額天皇の皇太子である。母を天豊財重日足姫天皇と申し上げる。皇極天皇の四年に位を孝徳天皇に譲られた。天皇を立てて、皇太子とされた。孝徳天皇は後の五年の十月に崩御された。翌年に皇祖母尊が即位された。七年の七月の丁巳の日に崩御された。皇太子は素服を献上して、政治を行った。この月に、蘇将軍と突厥の王子契苾加力たちが、水陸の両路から高麗の城下に攻めてきた。皇太子は長津宮に移られて、ようやく海外の軍事情勢を聞くことが出来た。八月に前将軍大花下阿曇比邏夫連小花下河辺百枝臣たち、後将軍大花下阿倍引田比邏夫臣大山上物部連熊大山上守山君大石たちを遣わせて、百済を救わせた。それで武器、五穀の食料を送らせた。ある本の、この末尾で伝えるには、別に大山下狭井連檳榔、小山下秦造田来津を遣わせて、百済王豊璋を守らせたという。九月に、皇太子は長津宮におられた。織物を百済の王子豊璋に授けられた。多臣蔣敷の妹を妻とした。それで大山下狭井連檳榔、小山下秦造田来津を遣わせて、軍五千余りを率いて、元の国を守らせるために遣わせた。ここに豊璋が国に入る時に、福信が迎えに来て、頭を下げて国の政治を献上し、全てを委ねた。十二月に、高麗が申すには「この十二月に高麗国は寒さが極まり、泪が凍ります。それで唐の軍が雲車、衝輣を持ち出し、鼓鉦を鳴らして攻めてきました。しかし高麗の兵士は勇ましくて、雄々しいのです。それで更に唐の二つの陣地を奪いました。ただ二つの陣地だけがあるだけです。また夜襲に備えています。唐の兵は膝を抱えて泣いています。しかし高麗の兵は鈍くなって力がつき、抜くこともできなくなっています。」と申した。臍を食う恥、これにあらずして何がある。釈道顕が伝えるには、春秋の志というのは、まさに高麗で起こった。それをまず百済に知らしめようとした。百済は近頃、侵略されることが多く、苦しんでいた。それでこういったという。この年、播磨国司岸田臣麻呂たちが宝の剣を献上して言うには、「狭夜郡の人を粟の畑で見つけました。」と奏上した。また高麗へ救援に行っている日本の将軍たちが、百済の加巴利浜に泊まって火を炊いた。灰が変わって穴となり、小さい音がした。その音は鳴る鏑のようであった。ある人が言うには「高麗、百済がついに滅んだしるしか。」と言った。
元年の春一月の辛卯の朔の日丁巳に、百済の佐平鬼室福信に、矢十万隻糸五百斤綿一千斤布一千端なめし皮一千張稲種三千斛を与えた。三月の庚寅の朔癸巳の日に、百済の王に布三百端を与えた。この月に、唐人と新羅人が高麗を討った。高麗は救いを帝に求めた。それで将軍を遣わせて、そ留城を守らせた。それで唐人は、その南の境を侵略することが出来ず、新羅はその西の陣地を落とすことが出来なった。夏四月にネズミが馬の尻尾で子を生んだ。釈道顕が占って申すには、「北の国の人が、南の国につこうとしている。もしや高麗が敗れて、日本につこうとしているのだろうか。」と言った。五月に大将軍大錦中阿曇比羅夫連たちが船師百七十艘を率いて豊璋らを百済国に送って、宣勅して豊璋らにその位を継がせた。また金策を福信に給いて、その背をなでて、褒めて爵禄を賜えた。時に豊璋と福信は拝礼して勅を受け、諸々のために涙を流した。六月の己未の朔丙戌の日に、百済は達率万智たちを遣わせて、貢物を献上した。冬十二月の丙戌の朔の日に、百済の王豊璋は、その臣佐平福信たち、狭井連名を漏らした。、朴市田来津と話し合って申すには「この州柔は、田畑と遠く隔てられおり、土地は痩せている。農業、養蚕の出来るところではない。しかしここは防ぎ、戦う場所である。ここに長くいたら、民は飢えてしまう。今、避城に移るべきだ。避城は西北の一帯に古連旦涇の川があり、東南は深い沼地と貯水池があって守るのにいい。田に囲まれ、溝を掘って雨を流している。果物は三韓でも有名である。着物、食物の源は、天地の産物である。平地ではあるが、移るべきであろう。」と申した。朴市田来津が一人進み出て、なだめて申すには「避城と敵のいる所とは、一晩行っただけのことろです。近いこと甚だしい。もし思いもよらないことがあったら、それは悔いても及び難いことです。飢える前に、やられてしまうでしょう。今、敵がみだらにやってこないのは、州柔が山の険しいところなので、これにことごとく守られ、山が高く谷が迫っているので、守りやすく攻めにくいが故です。もし低い土地にいたら、どうすればそこにいられて、動かずに今日までいられましょうか。」と言った。ついに意見を聞かずに避城に都を移した。この年、百済を救うために、武器を用意し、船を準備し、兵の食料を備えた。この年、太歳壬戌。
二年の春二月の乙酉の朔丙戌の日に、百済は達率金受たちを遣わせて、貢物を献上した。新羅人は百済の南のほとりの四つの国を焼き払った。合わせて、徳安たちが重要な土地を奪った。ここに避城に賊が攻めてくることは間近であった。それで勢いでそこにいることができなくなった。それで帰って州柔にいた。田来津の言った通りであった。この月、佐平福信は唐の捕虜続守言たちを送った。三月に、前将軍上毛野君稚子間人連大蓋中将軍巨勢神前臣訳語三輪君根麻呂後将軍阿倍引田臣比羅夫大宅臣鎌柄を遣わせて、二万七千人を率いて、新羅を討たせた。夏五月の癸丑の朔の日に、犬上君名を漏らした。が駆けつけて、戦のことについて高麗に告げて帰った。糺解を石城で見た。それで糺解は福信の罪を語った。百済の王豊璋は、福信が謀反を起こすのではないかと疑って、革で彼の腕を縛った。時に、自分では決められなかった。どうしていいか分からなかった。それで臣たちに聞いて申すには「福信の罪は、このようなことであった。斬るべきかどうか。」と言った。ここに達率徳執得が申すには、「この悪逆なる者は許すべきではありません。」と申した。福信は即ち、執得に唾をかけ、「腐った犬みたいや奴め」と言った。王が健児に福信を押さえさせて斬り、首を酢につけた。秋八月の壬午の朔甲午の日。新羅は百済の王が自分の信頼する将軍を斬ったのを知って、すぐに国に入って、州柔を奪うことを謀った。ここに百済は賊の計画を知って、将軍たちに語って申すには「今聞くには、大日本国の救将廬原君臣が、兵数万人を率いて、まさに海を越えてやってくる。願わくば、将軍たちよ、事前に作戦を考えておけ。私がみずから行って、白村で待ち合わせる。」と言った。戊戌の日に、賊の将軍が州柔に入ってきて、その王の城を囲んだ。大唐の将軍は戦船百七十艘を率いて、白村江に並んだ。戊申の日に、日本の船師の先に着いた者と、大唐の船師とが戦った。日本は負けて退いた。大唐は陣を固めて守った。己酉の日に、日本の将軍たちと百済の王は、その様子を見ずに話し合って申すには「我らが先を争えば、みずから退くであろう。」と言った。さらに日本の統制の乱れた中軍の兵を率いて、進み出て大唐の守りを固めた軍を討った。大唐は左右から船を挟み撃ちし、囲んで戦った。あっというまに官軍が敗れた。水に落ちて溺れ死ぬ者が多かった。船の向きを変えることが出来なかった。朴市田来津が天を仰いで誓い、歯を食いしばって怒り、数十人を殺した。ここに戦って死んだ。この時に、百済の王豊璋はたくさんの人と船に乗って、高麗に逃げ去った。九月の辛亥の朔丁巳の日に、百済の州柔城がついに唐に降伏した。このとき、国の人が話すには「ついに降伏した。事がどうなることはない。百済の名はこの日、絶える。お墓へは行けるだろう。ただ弖礼城に行って、日本の将軍たちに会って、重要なことを話し合うだけだ。」と言った。ついに枕服岐城にいる妻子たちに教えて、国を去る気持ちを知らせた。辛酉の日に、牟弖に出発した。癸亥の日に、弖礼に到着した。甲戌の日に、日本の船師、および佐平余信達率木素貴子谷那晋首憶礼福留、合わせて百済の国民たちが弖礼城にやってきた。翌日、船が出発し、日本に向かった。
三年の春二月の己卯の朔丁亥の日に、天皇は大皇弟に命じて、冠位の階名を増やすこと、そして氏上、民部、家部について申した。その冠は二十六階あり。大織小織大縫小縫大紫小紫大錦上大錦中大錦下小錦上小錦中小錦下大山上大山中大山下小山上小山中小山下大乙上大乙中大乙下小乙上小乙中小乙下大建小建これを二十六階とした。前の花を改めて錦という。錦から乙に至まで十階を加えた。また前の初の位一階を加えて、大建、小建の二階にした。これらが前と違うところである。余りは前のままである。大氏の氏上には大刀を賜う。小氏の氏上には小刀を賜う。その伴造たちの氏上には干楯、弓矢を賜う。またその民部、家部を定めた。三月に百済王善光王たちを難波に住まわせた。星が都の北に落ちた。この春に地震があった。夏五月の戊申の朔甲子の日に、百済の鎮将劉仁願と朝散大夫郭務悰たちを遣わせて、手紙と貢物を献上した。この月に大紫蘇我連大臣が死んだ。ある本で伝えるには、大臣が死んだのは五月と記している。六月に嶋皇祖母尊が亡くなった。冬十月の乙亥の朔の日に、郭務悰たちに遣わす勅を申した。この日に中臣内臣、沙門智祥を遣わせて、物を郭務悰に賜えた。戊寅の日に、郭務悰たちに宴を賜えた。この月に、高麗の大臣蓋金がその国で死んだ。子供達に遺言して申すには「お前たち兄弟よ、仲良きことは魚と水のようにし、爵位を争うな。もしそのようにしなければ、必ず隣に笑われる。」と言った。十二月の甲戌の朔乙酉の日に、郭務悰たちが帰った。この月に、淡海国が言うには、「坂田郡の人で小竹田史身の飼っている猪の水槽の中に、たちまち稲が育ちました。身はこれを刈って収めました。日々、富を得ます。また栗太郡の人で磐城村主殷の新妻の布団の端に、一晩の間に稲が生えて実ました。その次の日に穂が垂れて熟しました。翌日の夜、さらに一つの穂が生えました。新妻が庭に出ました。そこに二つの鍵が天から落ちてきました。その女性が取り上げて、殷に与えました。殷ははじめて豊かになりました。」と申した。この年に、対馬嶋、筑紫国などに、防人とのろしを置いた。また筑紫に大堤を築いて、水を蓄えさせた。名付けて水城という。
四年の春二月の癸酉の朔丁酉の日に、間人大后が亡くなられた。この月に、百済国の官位の階級について検討した。佐平福信の功績をもって鬼室集斯に小錦下の位を授けた。そのもとの位は達率である。また百済の百姓男女四百人余りを、近江国の神前郡に住まわせた。三月の癸卯の朔の日に、間人大后のために、三百三十人を出家させた。この月に神前郡の百済人に田を給う。秋八月に達率答ほん春初を遣わせて、城を長門国に築かせた。達率憶礼福留、達率四比福夫を筑紫国に遣わせて、大野と椽に二つの城を築かせた。耽羅が使いを遣わせて来朝した。九月の庚午の朔壬辰の日に、唐国は朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高たちを遣わせた。“たち”というのは、右戎衛郎将上柱国百済禰軍朝散大夫柱国郭務悰をいう。全部で二百五十四人。七月二十八日に対馬にやってきた。九月二十日に筑紫にやってきた。二十二日に手紙を献上した。冬十月の己亥の朔己酉の日に、大いに菟道で謁見した。十一月の己巳の朔辛巳の日に、劉徳高たちと宴をした。十二月の戊戌の朔辛亥の日に、物を劉徳高たちに与えた。この月に劉徳高たちが帰った。この年に、小錦守君大石たちを大唐に遣わしと、云々。“たち”というのは小山坂合部連石積、大乙吉士岐弥、吉士針間をいう。もしや、唐の使いを見送ったのか。
五年の春一月の戊辰の朔戊寅の日に、高麗は前部能婁たちを遣わせて、貢物を献上した。この日に耽羅が王子姑如たちを遣わせて、貢物を献上した。三月に皇太子は自ら佐伯子麻呂連の家に行って、病を見舞われたまわれた。初めから仕えていた功績を嘆きたまわれた。夏六月の乙未の朔戊戌の日に、高麗の前部能婁たちが帰った。秋七月に大水があった。この秋に、租調を許した。冬十月の甲午の朔己未の日に、高麗は臣乙相奄すを遣わせて、貢物を献上した。大使臣乙相奄す副使達相遁二位玄武若光たち。この冬に都のネズミが、近江国に向かって移っていった。百済の男女二千人余りを東国に住まわせた。僧か一般人かを問わず、癸亥の年から始まって三年間に至まで、行政が食事を与えた。倭漢沙門智由が指南車を献上した。
六年の春二月の壬辰の朔戊午の日。斉明天皇と間人皇女を小市岡上陵に一緒に葬った。この日に、皇孫大田皇女を陵の前の墓に葬った。高麗、百済、新羅が皆、道で哀悼を捧げた。皇太子が臣たちに語られるには「私は、皇太后天皇の勅されたことを受け賜わって、万民が憂い困っているので、石槨の役を起こさないこととした。願うところは、永代にいたるまで明らかな戒めとすることだ。」と申した。三月の辛酉の朔己卯の日に、都を近江に移した。この時に天下の百姓は都を移すことを願っておらず、それに文句を言う者も多かった。童謡が多かった。昼夜問わず、火災が多かった。六月に葛野郡が白燕を献上した。秋七月の己未の朔己巳の日に、耽羅は佐平椽摩たちを遣わせて、貢物を献上した。八月に、皇太子が倭の都に行幸された。冬十月、高麗の大兄男生が城を出て、国を巡った。城内の二人の弟が、中で働く人たちから悪い噂を聞いて、防いで入れようとしなかった。それで男生は急いで大唐に入って、その国を滅ぼすことを謀った。十一月の丁巳の朔乙丑の日に、百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡たちを遣わせて、大山下境合部連石積を筑紫都督府に送った。己巳の日に、司馬法聡たちが帰った。小山下伊吉連博徳、大乙下笠臣諸石を送使とした。この月に、倭国の高安城、讃吉国の山田郡の屋嶋城、対馬国の金田城を築いた。閏十一月の丁亥の朔丁酉の日に、錦十四匹、纈十九匹、緋二十四匹、紺布二十四端、桃染布五十八端、斧二十六釤六十四刀子六十二枚を椽摩たちに与えた。
七年の春一月の丙戌の朔戊子の日に、皇太子は即位した。ある本で伝えるには、六年の歳次丁卯の三月に御位につきたまわれた。壬辰の日に臣たちと内裏で宴をされた。戊申の日に、送使博徳たちが帰ってきて報告した。二月の丙辰の朔戊寅の日に、古人大兄皇子の娘、倭姫王を立てて、皇后とした。ついに四人の女性を召し入れた。蘇我山田石川麻呂大臣の娘で、遠智娘という。ある本で伝えるには、美濃津子娘という。一人の彦皇子と、二人の姫皇子を生んだ。その一人を大田皇女と申し上げる。その二人を鸕野皇女と申し上げる。天下を治めるにいたって、飛鳥清御原宮に住まわれた。後に宮を藤原に移した。その三人を建皇子と申し上げる。啞で、話すことが出来なかった。ある本で伝えるには、遠智娘は一人の彦皇子と二人の姫皇子を生んだ。その一人を建皇子という。その二人を大田皇女という。その三人を鸕野皇女という。ある本で伝えるには、蘇我山田麻呂大臣の娘を茅渟娘という。大田皇女と娑羅羅皇女を生んだという。次に遠智娘に妹がいた。姪娘という。御名部皇女と阿陪皇女を生んだ。阿陪皇女は天下を治めるに至って、藤原宮におられた。後に都を乃楽に移した。ある本で伝えるには、姪娘を名付けて、桜井娘という。次に阿倍倉梯大臣の娘で、橘娘という。飛鳥皇女と新田部皇女を生んだ。次に蘇我赤兄大臣の娘で、常陸娘という。山辺皇女を生んだ。またお宮の女官で、彦皇子と姫皇子を生んだ者が、四人いた。忍海造小竜の娘で色夫古娘という。一人の彦皇子と二人の姫皇子を生んだ。その一人を大江皇女という。その二人を川嶋皇子という。その三人を泉皇女という。また栗隈首徳万の娘で、黒媛娘という。水主皇女を生んだ。また越の道君伊羅都売がいて施基皇子を生んだ。また伊賀采女宅子娘がいて、伊賀皇子を生んだ。後の御名を大友皇子と申し上げる。夏四月の乙卯の朔庚申の日に、百済は末都師父たちを遣わせて、貢物を献上した。庚午の日に、末都師父たちが帰った。五月五日に、天皇は蒲生野で狩りしたまう。時に大皇弟、王たち、内臣、そして臣たちがことごとくお伴をした。六月に伊勢王とその弟王が相次いで死んだ。いまだ官位は明らかにされていない。秋七月に、高麗は越の道から使いを遣わせて貢物を献上した。波風が高かった。そのために帰ることが出来なかった。栗前王を筑紫率に任命した。時に近江国が武道を習った。またたくさんの牧場を用意して、馬を放った。また越国が燃える土と燃える水を献上した。また浜台の下に、様々な魚が海を覆っていた。また蝦夷と宴をした。また舎人たちに命じて、宴を所々で行わせた。時の人が言うには「王朝が尽きようとしているのか。」といった。秋九月の壬午の朔癸巳の日に、新羅は沙とく級飡金東厳たちを遣わせて、貢物を献上した。丁未の日に、中臣内臣沙門法弁秦筆を遣わせて、新羅の上臣大角干庾信に船一艘を与え、東厳たちに授けた。庚戌の日に、布勢臣耳麻呂を遣わせて、新羅の王に貢物を献上するための船一艘を与えて、東厳たちに授けた。冬十月に、大唐の大将軍英公が高麗を打ち滅ぼした。高麗の仲牟王は初めて国を建てたときに、千年の間、国を治めたいと思った。母夫人が言うには「たとえ上手に国を治めたとしても、出来ないでしょう。ただし、七百年は治められましょう。」と言った。今、この国が滅んだのは、まさに七百年の末にある。十一月の辛巳の朔の日に、新羅の王に絹五十匹、綿五百斤、韋百枚を与えた。金東厳たちに預けた。東厳たちにそれぞれ品物を賜うのに、それぞれ差があった。乙酉の日に、小山下道守臣麻呂、吉士小鮪を新羅に遣わせた。この日、金東厳らが帰った。この年、沙門道行が草薙剣を盗んで、新羅に向かって逃げた。しかし道中で風雨にあって、迷って帰ってきた。
八年の春一月の庚辰の朔戊子の日に、蘇我赤兄臣を筑紫率に任命した。三月の己卯の朔己丑の日に、耽羅が王子久麻伎たちを遣わせて、貢物を献上した。丙申の日に耽羅の王に、五穀の種を賜う。この日に、王子久麻伎が帰った。夏五月の戊寅の朔壬午の日に、山科野で狩りをされた。大皇弟、藤原内大臣、そして臣たちが、皆、お伴として仕えた。秋八月の丁未の朔己酉の日に、天皇は高安嶺に登られて、話し合って城を造ろうとした。しかし民が疲れているのを痛んで、造るのをやめられた。時の人は感動してほめるには、「これは仁愛の徳が、豊であるからだ。」と、云々。この秋、藤原内大臣の家で落雷があった。九月の丁丑の朔丁亥の日に、新羅が沙飡督儒たちを遣わせて、貢物を献上した。冬十月の丙午の朔乙卯の日に、天皇は藤原内大臣の家に行幸されて、自ら病気の見舞いをされた。するとかたじけなく思うこと極めて甚だしかった。そして詔して申すには「天の道が仁者を助けることに、何の偽りがあろうか。善を積んで、余りある喜びのあることは、これがしるしでなかろうか。もしして欲しいことがあったら、聞いてやろう。」と申した。答えて申すには「私は愚か者です。何を申せましょうか。ただ葬儀は簡素にやって下さい。生きている時は、軍事に何の役目も果たせませんでした。死んで、なぜあえて重ねて悩ませましょうか。」と云々。時の賢しい人が聞いてほめて申すには「この一言は、ひそかに昔の賢しい人の善言の類である。大樹将軍の賞せられることを辞退したと、いつかの年に同じように語られることがあろう。」と言った。庚申の日に、天皇は東宮大皇弟を藤原内大臣の家に遣わせて、大織冠と大臣の位を授けた。そして姓を与えて、藤原氏とした。これ以降、通して藤原内大臣という。辛酉の日に、藤原内大臣が死んだ。日本世紀で伝えるには、「内大臣は五十歳で、私邸で死んだ。移して山の南で殯をした。天はなぜよからずして、無理にでもこの年寄りを残さなかったのだろう。ああ、悲しきかな。碑文で伝えるには、五十六歳で死んだという。」といった。甲子の日に、天皇は藤原内大臣の家に行幸された。大錦上蘇我赤兄臣に命して、恩詔を申された。なお、金の香炉を賜えた。十二月に大蔵で火災があった。この冬に高安城を造って、畿内の田税を収めさせた。時に斑鳩寺で火災があった。この年に、小錦中河内直鯨たちを遣わせて、大唐に使いさせた。また佐平余自信、佐平鬼室集斯たち男女七百人を近江国の蒲生郡に移して住まわせた。また大唐は郭務悰たち二千人余りを遣わせた。
九年の春一月の乙亥の朔辛巳の日に、士大夫たちに詔して、大いにお宮の中に弓を射った。戊子の日に、朝廷での儀礼の最中、道行く人を追いやることを命じられた。また噂話、予言することを禁じた。二月に、戸籍を作った。盗賊と浮浪をやめた。時に天皇は蒲生郡の匱迮野に行幸されて、新しいお宮の土地をご覧になられた。また高安城を造って、穀物と塩を収めた。また長門城一つ、筑紫城二つを築いた。三月の甲戌の朔壬午の日に、山御井のそばに、神等の御座を敷いて幣帛を捧げた。中臣金連が祝詞を奏上した。夏四月の癸卯の朔壬申の日に、夜明けに法隆寺で火災があった。一つの家も残らなかった。大雨が降り、雷が鳴った。五月に、童謡でいうには打橋の集楽の遊に玉手の家の八重子の刀自出でましの悔はあらじぞ出でませ子玉手の家の八重子の刀自六月に村の中で亀を捕まえた。背に申の字が書かれてあった。上は黄色で、下は黒かった。長さ六寸くらい。秋九月の辛未の朔の日に、阿曇連頬垂を新羅に遣わせた。この年、水碓を作って、冶金した。
十年の春一月の己亥の朔庚子の日に、大錦上蘇我赤兄臣と大錦下巨勢人臣とが前に進んで賀正事を申した。癸卯の日に、大錦上中臣金連が命じて神事を申した。この日に、大友皇子をもって太政大臣に任命した。蘇我赤兄臣を左大臣とした。中臣金連を右大臣とした。蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣を御史大夫とした。御史とは、もしや今の大納言か。甲辰の日に、東宮太皇弟が奉宣して、ある本で伝えるには、大友皇子が命じたという。冠位、法律のことを行いたまわれた。天下に大赦した。法律、冠位の名は、具体的に新しい律令に載せられた。丁未の日に、高麗は上部大相可婁たちを遣わせて、貢物を献上した。辛亥の日に、百済の鎮将劉仁願が李守真たちを遣わせて、手紙を献上した。この月に大錦下を佐平余自信、沙宅紹明法官大輔である。に授け、小錦下を鬼室集斯学職頭である。に授けた。大山下を達率谷那晋首兵法に習った。木素貴子兵法に習った。憶礼福留兵法に習った。ほん日比子賛波羅金羅金須薬を知っている。鬼室集信薬を知っている。に授けた。小山上を達率徳頂上薬を知っている。吉大尚薬を知っている。許率母五経に詳しい。角福牟陰陽を習った。に授けた。小山下を残りの達率たち五十人余りに授けた。童謡で言うには、橘は己が枝枝生れれども玉に貫く時同じ緒に貫く二月の戊辰の朔庚寅の日に、百済は台久用善たちを遣わせて、貢物を献上した。三月の戊戌の朔庚子の日に、黄書造本実が水準器を献上した。甲寅の日に、常陸国が中臣部若子を献上した。身長一尺六寸。その生まれた年丙辰よりこの年になるまで十六年である。夏四月の丁卯の朔辛卯の日に、水時計を新しい台に置いた。初めて時間を刻んだ。鐘鼓を響かせた。初めて水時計を使った。この水時計は天皇が皇太子である時に、初めてみずから作られたと、云々。この月、筑紫国が申すには「八つある足の鹿が、生まれてすぐに死にました。」と申した。五月の丁酉の朔辛丑の日に、天皇は西の小殿におられた。皇太子、臣たちと宴をした。ここに田舞が再び舞われた。六月の丙寅の朔己巳の日に、百済の三部の使いが求めた軍事について申された。庚辰の日に、百済は羿真子たちを遣わせて、貢物を献上した。この月に、栗隈王をもって筑紫率とした。新羅は使いを遣わせて貢物を献上した。別に水牛一頭、山鶏一羽を献上した。秋七月の丙申の朔丙午の日に、唐人李守真たちと百済の使いたちが共に帰った。八月の乙丑の朔丁卯の日に、高麗の上部大相可留たちが帰った。壬午の日に、蝦夷と宴をされた。九月に天皇は病気になられた。ある本で伝えるには、八月に天皇が病気になったという。冬十月の甲子の朔庚午の日に、新羅は沙飡金万物たちを遣わせて、貢物を献上した。辛未の日に、内裏で百仏の開眼をされた。この月に、天皇は使いを遣わせて袈裟、金鉢、象牙、沈水香、旃檀香、そしてたくさんの珍しい財宝を法隆寺の仏に奉らせた。庚辰の日に、天皇は御病が重くなった。勅して東宮を招いて、大殿に招き入れて、詔して申すには、「私は病がひどい。後のことを任せる。」と、云々。ここで拝礼したまいて、病を理由に辞退しもうし、引き受けなられないと申すには「お願いです、皇位を大后に授けまつります。大友王に全ての政治を命じさせましょう。私の願いは、天皇のために出家して行をすることです。」と申された。天皇はそれを許した。東宮が立ち上がって、拝礼した。そして内裏の仏殿の南に出ていき、胡床に座って、ヒゲ、髪を剃られて、法師となられた。ここに天皇は次田生磐を遣わせて、袈裟を送らせた。壬午の日に、東宮は天皇と会われて、吉野に行って、仏道の修行をすると申した。天皇は許された。東宮は吉野に出発された。大臣たちが一緒に同行した。大臣たちは菟道まで行って戻ってきた。十一月の甲午の朔癸卯の日に、対馬国司が使いを筑紫大宰府に遣わして申すには「月たちて二日の日に、沙門道久筑紫君薩野馬韓嶋勝娑婆布師首磐の四人が唐からやって来て申すには『唐国の使人郭務悰たち六百人、送使沙宅孫登たち千四百人、合わせて二千人が船四十七艘に乗って、共に比知嶋に泊まって話し合うには、今、我らの人、船の数が多い。いっぺんに彼らの所に行ったら、恐らく、防人が驚いて戦おうとするだろう。それで、まず道久たちを遣わせて、あらかじめ来朝の意思を伝えておこう。』と言っております。」と申した。丙辰の日に、大友皇子が内裏の西殿の織の仏像の前にいた。左大臣蘇我赤兄臣右大臣中臣金連蘇我果安臣巨勢人臣紀大人臣が控えていた。大友皇子は手に香炉を持って、まず誓って申すには「六人の心を一つにして、天皇の詔を承ります。もしこれと違うことがあれば、必ず天罰を被るでしょう。」と云々。ここに左大臣蘇我赤兄臣たちが手に香炉を取って、順番に立ち上がった。泣きながら誓って申すには、「私達五人は殿下に従って天皇の詔を承ります。もし違うことがあれば、四天王に打たれましょう。天つ神国つ神がまた罪を与えましょう。三十三天がこのことを明らかにしましょう。子孫はまさに絶え、家は必ず滅びましょう。」と云々。丁巳の日に、近江宮で火災があった。大蔵省の第三倉庫から出火した。壬戌の日に、五人の臣は大友皇子を奉って、天皇の前で誓った。この日、新羅の王に絹五十匹、絁五十匹、綿一千斤、韋百枚を賜えた。十二月の癸亥の朔乙丑の日に、天皇は近江宮で崩御された。癸酉の日に新宮で殯をした。時に童謡でいうにはみ吉野の吉野の鮎鮎こそは島傍も良きえ苦しゑ水葱の下芹の下吾は苦しゑその一つ臣の子の八重の紐解く一重だにいまだ解かねば御子の紐解くその二つ赤駒のい行き憚る真葛原何の伝言直にし良けむその三つ己卯の日に、新羅の貢物を献上しに来た使沙飡金万物たちが帰った。この年、讃岐国の山田郡の人の家に、四本足の鳥の子が生まれた。また大炊に八つの釜があって、鳴った。あるいは一つの釜が鳴った。あるいは二つ、あるいは三つが一緒に鳴った。あるいは八つの釜が鳴った。日本書紀巻第二十七