日本書紀 第二十八巻 天武天皇上

天武即位前紀

 2-28-1天武天皇即位を辞退して吉野へ下る

天武元年

三、五月
 2-28-2壬申の乱の前触れ

六月
 2-28-3天武天皇の素早い決断と指示(二十二日)

 2-28-4天武天皇、吉野を出る(二十四、二十五日)  2-28-5不破道の閉鎖と近江朝の動き(二十六日)

 2-28-6高市皇子の力強い言葉(二十七日)  2-28-7吹負の軍事行動(二十八、二十九日、七月一日)

七月
 2-28-8壬申の乱本番(二~二十三日)   2-28-9壬申の乱のサイドストーリーと完全決着(一~二十六日)

八~十二月
 2-28-10壬申の乱の後処理と飛鳥浄御原宮建立

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日本書紀巻第二十八天渟中原瀛真人天皇上天武天皇天渟中原瀛真人天皇は天命開別天皇と同じ母親の弟である。若い時には大海人皇子と申し上げる。生まれたときからいい男だった。男盛りになって雄々しく猛々しかった。天文、占いに詳しかった。天智天皇の娘菟野皇女を召し入れて正妃とされた。天智天皇の元年に、東宮となられた。四年の冬十月の庚辰の日に、天皇が病気になられて、痛まれることがひどかった。ここに蘇我臣安麻侶を遣わせて、東宮を呼び出して大殿に招き入れた。時に安摩侶は、もとより東宮と仲が良かった。密かに東宮に振り返りまつって申すには「気を付けて下さい。」と申した。東宮はここに何か策略があると疑われて慎みたまわれた。天皇は東宮に勅して皇位を授けた。しかし辞退して申すには、「私は無事ではいられませんし、もとよりたくさんの病があります。どうして上手に国家を保てましょう。願わくば陛下よ、天下を挙げて皇后に任せたまえ。そして大友皇子を立てて、儲君としたまえ。私は今日、出家して陛下のために功徳を行います。」と申した。天皇はそれを許された。その日、出家して法服を着られた。それで自分の武器を返して、朝廷に納めた。壬午の日に、吉野宮に向われた。時に左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連、大納言蘇我果安臣たちが見送りられた。菟道から帰ってきた。ある人が言うには「寅に翼を付けて、放した。」といった。その夜、嶋宮に泊まられた。癸未の日に、吉野に着かれた。このときにたくさんの舎人たちを集めて語って申すには「私はいま仏道に入ろうとしている。私に従って行をしようと思う者は、ここに留まれ。もし私に仕えて名をあげようと思う者は、帰って朝廷に仕えよ。」と申した。しかし下がる者はいなかった。さらに舎人たちを集めて詔を前と同じようにした。これで舎人たちの半分は留まり、半分は帰った。
元年の春三月の壬辰の朔戊酉の日に、内小七位阿曇連稲敷を筑紫に遣わせて、天皇の喪を郭務悰たちに伝えた。ここに郭務悰たちはみんな喪服を着て、三度、哀悼を伝えた。東に向いて拝んだ。壬子の日に、郭務悰たちが拝礼して手紙と土地の品を献上した。夏五月の辛卯の朔壬寅の日に、甲冑弓矢を郭務悰たちに賜えた。この日、郭務悰たちに賜えた物は、絁一千六百七十三匹、布二千八百五十二端、綿六百六十六斤。戊午の日に、高麗は前部富加抃たちを遣わせて、貢物を献上した。庚申の日に、郭務悰たちが帰った。この月に、朴井連雄君が天皇に申すには、「私は、私用があって一人美濃に行きました。時に朝庭が美濃、尾張の二つ国の司に申すには『山陵を造るので、人をあらかじめ準備しておけ。』と申しました。すると、それぞれの人に武器を取らせました。私が思うに、山陵を造るのではなく、必ず戦をするのでしょう。もし速やかに逃げなければ、危ないことがあるかもしれません。」と申した。あるいは人が申すには「近江京から倭京にいたるまでに、ところどこで見張りが置かれていました。また菟道の守橋者に命じて、皇大弟の宮の舎人の食料を運ぶことを阻止しています。」と申した。天皇は畏み、そして問い正して、ことが既に本当であることを悟られた。ここに詔して申すには「私が御位を譲って世から離れたのは、一人、病を治し体を元通りにして、ながく百年を終えようと思ったからだ。しかしいま、やむをえずに災いを受けようとしている。どうして黙って身を滅ぼそうか。」と申された。
六月の辛酉の朔壬午の日に、村国連男依、和珥部臣君手、身毛君広に詔して申すには、「いま聞くには、近江朝廷の臣らは、私を殺そうと謀っている。ここをもってお前たち三人は速やかに美濃国に行って、安八磨郡の湯沐令多臣品治に伝えて、重要な土地を示して、まずその郡の兵を起こせ。なお国司たちに伝え、それぞれの軍を起こして、速やかに不破道を塞げ。私はいまから出発する。」と申された。甲申の日に東に入ろうとした。時に一人の臣が申すには「近江の臣たちははじめから謀反を起こす気でいました。必ず天下を覆します。すなわち道を通るのは難しいでしょう。どうして一人の兵もなしに、素手で東に入りたまわれましょうか。私が恐れるのは、ことが成らないことです。」と申した。天皇はそれに従って、男依たちを呼び戻そうと思った。それで大分君恵尺、黄書造大伴、逢臣志摩、を留守司高坂王の元に遣わせて、駅鈴を求めさせた。それで恵尺たちに語って申すには、「もし鈴を手に入れたら、すぐに志摩は戻って報告せよ。恵尺は急いで近江に行き、高市皇子、大津皇子を呼んで、伊勢で合流せよ。」と申した。既に恵尺たちが留守司のもとに着いて、東宮のご命令を伝え、駅鈴を高坂王に求めた。しかし高坂王はそれを許さなかった。恵尺は近江に行った。志摩がすぐに戻って報告するには「鈴をもらうことができませんでした。」と申した。この日に、出発して東国に向われた。事を急いでいたので、大御馬を待たずに行幸された。不意に県犬養連大伴の鞍をつけた馬に会ったので、馬に乗った。それで皇后は輿に乗ってお供した。津振川までやってきて、大御馬がやってきた。それで、馬に乗った。この時に、始めから従って来た者は草壁皇子、忍壁皇子そして舎人朴井連雄君、県犬養連大伴、佐伯連大目、大伴連友国、稚桜部臣五百瀬、書首根摩呂、書直智徳、山背直小林、山背部小田、安斗連智徳、調首淡海、の類、二十人余り。女孺、十数人余り。その日、菟田の吾城に着いた。大伴連真来田、黄書造大伴が吉野宮から追ってやってきた。この時に、屯田司の舎人土師連馬手が従駕者の食事を献上した。
甘羅村を過ぎ、狩者二十人余り。大伴朴本連大国は狩者の首である。全てを呼び出して、お供として仕えさせた。また美濃王を呼んだ。それでやってきてお供として仕えた。湯汁の米を運ぶ伊勢国の荷物を運ぶ馬五十匹と、菟田郡家のほとりで会った。それで全ての米を捨てて、歩いているお供を乗らせた。大野にやってきて日が暮れた。山が暗く、進むことが出来なかった。それで、その村の家の塀を壊して、火を灯した。夜中になって隠郡に到着して、隠駅家を焼いた。それで村の中で知らせるには、「天皇が東国に入られた。人々よ、みな詣でてきなさい。」と言った。しかし一人も出てこなかった。横河に入ろうとした時、黒い雲があった。広さ十余丈で、天に広がっていた。時に天皇が怪しまれた。それで火を捧げて、みずから式を取って占って申すには「天下が二つに分かれるしるしである。しかし、私はついに天下を得られるだろうか。」と申した。それで速やかに進んで伊賀郡について、伊賀馬家を焼いた。伊賀の山の中に到って、その国の郡司たちが数百の兵を率いて集まってきた。
明け方に、莿萩野について、しばらく行幸をやめて食事をした。積殖の山口に着いたとき、高市皇子が鹿深を越えて詣でた。民直大火、赤染造徳足大蔵直広隅坂上直国麻呂古市黒麻呂竹田大徳胆香瓦臣阿倍がお供をしていた。大山を越えて、伊勢の鈴鹿に着いた。ここに国司守三宅連石床介三輪君子首そして湯沐令田中臣足麻呂高田首新家たちが鈴鹿郡で詣でた。そしてまた、五百の軍を起こして鈴鹿山道を塞ごうとした。川曲の坂下に到って、日が暮れた。皇后が疲れられたので、しばらく輿を留めて休んだ。すると、夜暗くなって、雨が降ろうとしていた。長く休めないので、出発した。寒くなって、雷が鳴り、雨の降ることがひどくなった。移動に従う者は着物が濡れて、寒さに耐えられなくなった。それで三重郡家に着いた時に、家を一軒焼いて、寒がる者を暖めた。この夜中に、鈴鹿関司が使いを遣わせて申すには、「山部王、石川王が共に詣でてきました。それで関に待たせています。」と申した。天皇はすぐに路直益人を遣わせて、呼び出した。
丙戌の日に、明け方に朝明郡の迹太川の近くで、天照太神を遠くから拝まれた。この時に益人がやってきて申すには、「関で待っていたのは、山部王、石川王ではありません。それは大津皇子です。」と申した。そして益人に従って、詣でた。大分君恵尺難波吉士三綱駒田勝忍人山辺君安麻呂小墾田猪手泥部し枳大分君稚臣根連金身漆部友背の仲間がお供として仕えた。天皇は大いに喜ばれた。郡家に到着しようとする時に、男依が馬に乗ってやってきて申すには「美濃の兵三千人が興って、不破道を塞ぐことが出来ました。」と申した。ここに天皇は雄依の仕事をほめ、郡家に到着してから、まず高市皇子を不破に遣わせて、軍事を見させた。山背部小田、安斗連阿加布を遣わせて、東海の軍を起こした。また稚桜部臣五百瀬、土師連馬手を遣わせて、東山の軍を起こした。この日に、天皇は桑名郡家に宿泊した。留まって出発しなかった。
この時に、近江朝は大皇弟が東国に入りたまわれたことを聞いて、その臣たちがことごとく怖気付いて、都の中は大騒ぎとなった。あるいは逃げて東国に入ろうとした。あるいは山、沢に隠れようとした。ここに大友皇子が臣たちに語って申すには「何を謀ろうか。」と申された。一人の臣が進んできて言うには「遅く謀れば、遅れをとります。どうでしょう、速やかに騎馬兵を集めて、後に追いましょう。」と申した。皇子は聞き入れられなかった。韋那公磐鍬書直薬忍坂直大摩侶を東国に遣わせた。穂積臣百足弟の五百枝物部首日向を倭の都に遣わせた。また佐伯連男を筑紫に遣わせた。樟使主磐手を吉備国に遣わせて、兵を起こさせた。それで男と磐手に語って申すには、「その筑紫大宰栗隈王と吉備国守当摩公広嶋の二人が大皇弟に付いていることがありえる。疑えば背くこともありえる。もし服従しないのが顔に出ていたら、すぐに殺せ。」と申された。ここに磐手が吉備国に着いて、手紙を授ける日に広嶋をだまして、刀を解かせた。磐手はそれで刀を抜いて殺した。男が筑紫に着いた。時に栗隈王が手紙を受け取って答えて申すには「筑紫国は、もとより辺境の賊からの災から守っています。城を高くして、溝を深く掘って、海を見て守りをするのは、なぜ中の賊のためでしょうか。いま、ご命令を畏まって軍を起こせば、国は手薄になります。もし予想外のことが急に起きたら、ひたすら国は傾いてしまうでしょう。そうなった後に百回私を殺したとしても、何の利益がありましょうか。なぜ、私があえて徳に背きましょうか。たやすく兵を動かせないのは、このような理由です。」と申した。時に、栗隈王の二人の御子三野王、武家王は剣を腰に帯びて、そばに立って離れなかった。ここに男は、剣を握って進んだら、かえって殺されるのではないかと恐れた。それで事を成すことができず、虚しく帰った。東の方の駅使磐鍬たちが不破に着こうとするときに、磐鍬は一人、山中に兵がいるのではと疑って、遅れてゆっくり進んだ。時に隠れた兵が山から出てきて薬たちの後をふさいだ。磐鍬はこれを見て、薬たちが捕らわれたことを知り、戻って逃げた。わずかに逃げることができた。この時に当たって、大伴連馬来田と弟の吹負の二人は、この良くない状況を見て、病といって倭の家に帰った。そうしてその皇位を継ぐのは、必ず吉野におられる大皇弟であろうということを知った。これをもって馬来田はまず天皇に従った。ただし吹負は留まって思うには、名を一度に挙げって、禍を収めようと思った。吹負はそれで一人二人の親族と様々な豪傑を招いて、わずか数十人の仲間を得た。
丁亥の日に、高市皇子が使いを桑名郡家に遣わせて申すには「御所が遠いところにあっては、作戦を行うのにはなはだ不便です。近いところにいらして下さい。」と申した。その日、天皇は皇后を留めておいて、不破に入りたまわれた。郡家に着くころ、尾張国司守小子部連鉏鉤が二万の軍勢を連れて味方した。天皇はそれでほめて、その軍を配置して所々の道を塞いだ。野上に到着されると、高市皇子が和蹔から迎えに来て、申すには「昨夜、近江朝から駅使が走ってきました。それで伏兵が捕まえれば、それは書直薬と忍坂直大麻呂でした。どこに行くのかと聞きました。答えて申すには『吉野においでになられる大皇弟の御為に、東国の軍を起こしに遣わされた韋那公磐鍬の仲間です。しかし磐鍬は兵が起きるのをみて、逃げ帰りました。』と申しました。」と申した。天皇が高市皇子に語って申すには「近江朝には左右大臣、そして賢い臣たちが話しながら決めている。いま私には、一緒になって考える者がいない。ただ幼い子供がいるだけだ。どうするか。」と申した。皇子が腕をまくり上げて、剣を持って申し上げるには「近江には臣たちがたくさんいますが、なぜ天皇の霊に逆らえましょうか。天皇一人だけがおられるといえども、臣高市は天つ神国つ神の霊を頼り、天皇の命を受けて、将軍たちを率いて征伐します。なぜ防ぐことができますでしょうか。」と申した。ここに天皇がほめて、手を取り背中を撫で申すにはと申した。よって鞍をつけた馬を賜いて、全ての軍事を預けたまわれた。皇子は和蹔に帰った。天皇はここに行宮を野上に建てて住まわれた。この夜、雷が鳴って、ひどい雨が降った。天皇が祈られるには「天つ神国つ神よ、私を助けたまうなら、雷、雨がやむ。」と申した。言い終わると、すぐに雷、雨がやんだ。戊子の日に、天皇は和蹔に行幸されて軍事について謀られて帰りたまわれた。
己丑の日に天皇は和蹔に行幸されて高市皇子に命じて、軍勢に号令された。天皇はまた野上に戻られた。この日に、大伴連吹負が密かに、留守司坂上直熊毛と謀って、一人二人の漢直たち語って申すには、「私が偽って高市皇子と名乗り、数十の騎馬兵を率いて飛鳥寺の北の道から出て行って陣地に向かう。そしてお前たちは内応せよ。」と言った。既に兵を百済の家に集めて、南の門から出発した。まず秦造熊にふんどしをさせて馬に乗せ、走らせて寺の西の陣地の中で叫ばせるには、「高市皇子が不破からやってこられた。軍勢をたくさん従えてきたぞ。」と言った。ここに留守司高坂王、そして兵を起こす使い穂積臣百足たちは、飛鳥寺の西の木の下を陣地とした。ただし百足だけは小墾田の武器庫にいて、武器を近江に運んだ。時に陣地の中の軍勢は、熊の叫ぶ声を聞いて、みんな逃げ出した。それで大伴連吹負は数十の騎馬兵を率いて、急に攻め込んだ。それで熊毛とたくさんの直たちがこれに連携した。兵士達もそれに従った。すなわち高市皇子の命令と言って、穂積臣百足を小墾田の武器庫に呼んだ。ここに百足は馬に乗ってようやくやってきた。飛鳥寺の西の木の下に着くと、人がいて申すには「馬から降りなさい。」と言った。時に百足は馬から下りるのが遅かった。するとその襟をつかんで引き降ろし、弓を射て一矢を当てた。それで刀を抜いて、切って殺した。そして穂積臣五百枝と物部首日向を捕えた。しばらくしてから許して、軍の中に捕まえておいた。また高坂王と稚狭王を招いて軍に従わせた。すでに大伴連安麻呂坂上直老佐味君宿那麻呂たちを不破宮に遣わせて、ことの様子を奏上させた。天武天皇は大いに喜ばれた。それで吹負に命じて、将軍に任命した。この時に、三輪君高市麻呂、鴨君蝦夷たち、そしてたくさんの豪傑の人々が響くように将軍のしるしの旗の下に集まった。そして近江を襲うことを謀った。兵の中で優れたものを選び、別将そして軍監とした。
秋七月の庚寅の朔辛卯の日に、天皇は紀臣阿閉麻呂多臣品治三輪君小首置始連菟を遣わせて、数万の兵を率いて伊勢の大山を越えて倭に向かわせた。また村国連男依書首根麻呂和珥部臣君手胆香瓦臣安倍を遣わせて、数万の兵を率いて不破を出発し、すぐに近江に入らせた。その兵が、近江の兵と区別しづらいのを恐れて、赤色を衣の上に着させた。それから別に多臣品治に命じて、三千人の兵を率いて莿萩野にいさせた。田中臣足麻呂を遣わせて、倉歴道を守らせた。時に近江は山辺王蘇賀臣果安巨勢臣比等に命じて、数万の兵を率いて不破を襲うために、犬上川のほとりを出発させた。山辺王は、蘇賀臣果安と巨勢臣比等等のために殺された。この乱れによって、進軍できなかった。それで蘇賀臣果安は犬上から戻って、首を刺して死んだ。この時に、近江の将軍羽田公矢国とその子供大人たちが、自分の一族を連れて従ってきた。それで斧鉞を授けて、将軍とした。そして北越に入らせた。それより前に近江は精兵を出発させて、たちまちに玉倉部邑を攻撃した。それで出雲臣狛を遣わせて追撃させた。
壬辰の日に、将軍吹負は乃楽山に集まっていた。時に荒田尾直赤麻呂が将軍に申すには「古い都は、もとの営の地です。固く守るべきです。」と申し上げた。将軍はそれに従った。それで赤麻呂と忌部首子人を遣わせて、古い都を守らせた。ここで赤麻呂たちは古い都にやってきて、道路の橋の板を取り外して楯を作り、都の周辺の分かれ道を作って守った。
癸巳の日に、将軍吹負は近江の将大野君果安と乃楽山で戦った。吹負は果安の為に破られて、兵士がことごとく逃げた。将軍吹負はなんとか逃げることができた。ここに果安は、追って八口までやってきて、山に登って都を見ると、街ごとに楯が立っていた。兵が隠れているのではないかと疑って、ようやく引いて帰った。甲午の日に、近江の別将田辺小隅が鹿深山を越えて、幡を巻き鼓を抱いて、倉歴にやってきた。夜中に串を噛んで城を伺って、突如、陣地の中に入った。それで自分の兵と足摩侶の兵が区別しにくいことを恐れて、人々に「金」と言わせた。それで刀を抜いて討ち、「金」と言わなかった者を切ることにした。ここに足摩侶の兵がみんな混乱した。ことが急に始まってどうしていいか分からなかった。ただし、足摩侶だけが鋭く理解して、一人、「金」と言って、逃げることができた。
乙未の日に、小隅がさらに進んで、莿萩野の陣地を襲おうとして、急いで行った。ここに将軍多臣品治が防いで、精兵をもって追撃した。小隅は一人免れて、逃げた。これ以降、攻めてこなかった。丙申の日に、男依たちは近江の軍と息長の横河で戦って破った。その将境部連薬を斬った。
戊戌の日に、男依たちは近江の将秦友足を鳥籠山で討って、斬った。この日、東道将軍紀臣阿閉麻呂たちは、倭京の将軍大伴連吹負が近江に破られたことを聞いて、軍を配置して、置始連菟を遣わせて、千騎あまりの兵を率いて、すぐに倭京に急がせた。壬寅の日に、男依は安河のほとりで戦って、大いに破った。それで社戸臣大口、土師連千嶋を捕えた。丙午の日に栗太の軍を討って、追った。辛亥の日に、男依たちが瀬田に着いた。時に大友皇子と臣たちが共に橋の西を宿営して、大きな陣地をなしていた。その後が見えなかった。旗幡が野が隠し、塵が天につながっていた。鉦鼓の声が、数十里まで聞えた。連なった弓が乱れうちされ、矢が飛んでくること雨のようだった。その将智尊は精兵を率いて、先鋒を防いだ。それで橋の真ん中を切ること三丈ばかりにして、一つの長板を置いた。板を踏んで渡る者がいたら、すぐに板を引いて落とそうとした。このために前に進んで、襲うことができなかった。ここに勇ましい兵士がいた。大分君稚臣という。矛を捨て、鎧を重ね着して、刀を抜いて急いで板を踏み渡った。そして板につけていた綱を切って、矢にうたれながら敵陣に突入した。兵士達はことごとく乱れて、逃げ出した。止めることが出来なかった。時に将智尊は刀を抜いて、逃げるものを斬った。しかし止めることができなかった。そして智尊を橋の近くで切った。大友皇子、左右大臣たちは何とか逃げた。男依たちは、それで粟津岡の下で軍を出発させた。この日、羽田公矢国と出雲臣狛が合流して、三尾城を攻めて降伏させた。
壬子の日に、男依たちは近江の将犬養連五十君と谷直塩手を斬った。ここに大友皇子は逃げても隠れるところがなかった。それで戻って山前に隠れて、自殺した。時に左右大臣と臣たちは皆逃げた。ただし、物部連麻呂、また一人二人の舎人だけは従った。はじめ将軍吹負は乃楽に向かって進み、稗田に到着した日に人が言うには「河内から兵がたくさんやってきます。」と言った。それで、坂本臣財長尾直真墨倉墻直麻呂民直小鮪谷直根麻呂を遣わせて、三百の兵士を率いて、竜田で防がせた。また佐味君少麻呂を遣わせて、数百人を率いて、大坂にいさせた。鴨君蝦夷を遣わせて、数百人を率いて、石手道を守らせた。この日、坂本臣財たちは平石野に泊まった。時に近江の軍が高安城に向って出発した。そして近江の軍は財たちが来ることを知って、ことごとく税倉を焼いて、皆逃げ失せた。それでは城の中に泊まった。
明け方に西の望み見ると、大津、丹比の二つの道から、軍の兵たちがたくさんやってきた。旗がはっきり見えた。人がいて言うには、「近江の将壱伎史韓国の部隊だ。」と言った。財たちは高安城から下りて、衛我河を渡り、韓国と川の西で戦った。財たちは兵が少なく、防ぐことができなかった。これより先、紀臣大音を遣わせて、懼坂道を守らせた。ここに財たちは懼坂に退いて、大音の陣地にいた。この時に河内国司守来目臣塩籠は不破宮に帰順したいと思っていて、軍衆を集めた。ここに韓国がやって来て、密かにその策略を聞いて、まさに塩籠を殺そうとした。塩籠はことが漏れたことを知って、みずから死んだ。一日おいて近江の軍は、それぞれの道の配置に着いた。それで戦うことなく撤退した。この日、将軍吹負は近江に敗れて、ただ一人二人の騎兵を連れて逃げた。墨坂までやって来て、たまたま菟の軍のやってきたのと出会った。さらに戻って金綱井に集まって、散らばった兵を集めた。ここに近江の軍が大坂道からやってくると聞いて、将軍は軍を率いて西へ向かった。当麻の分かれ道にやって来て、壱伎史韓国の軍と、葦池のそばで戦った。時に勇士来目という者がいて、刀を抜いて走り、ただ軍の中に飛び込んだ。騎馬兵があとから続いてきた。近江の軍はことごとく逃げた。追って斬ることが大変な数だった。ここに将軍が軍に命令するには「兵を起こしたのは、百姓を殺すためではない。賊のためである。みだらに殺すな。」と言った。ここに韓国は軍をひとり離れて逃げた。将軍がこれをはるかに見渡して、来目に矢で射させた。
しかし当てることが出来ず、ついに走って逃げることができた。将軍はまた、陣地に戻った。時に東の兵がたくさんやってきた。すなわち軍に分配して、それぞれ上中下の道を担当させて配備した。ただし将軍吹負は、みずから中道を担当した。ここに近江の将犬養連五十君が中道にやって来て、村屋に留まり、別将廬井造鯨を遣わせて、二百の精兵を率いて、将軍の陣地を攻撃した。時に将軍の陣地に人が少なく、防ぐことができなかった。ここに大井寺の奴で、名を徳麻呂たち五人がいて、軍に従っていた。そして徳麻呂たちは先鋒となって、進んで矢を射た。鯨の軍は進むことができなかった。この日に、三輪君高市麻呂と置始連菟が上道を担当し、箸陵の近くで戦った。大いに近江の軍を破って、勝ちに乗って、合わせて鯨の軍の後を封鎖した。鯨の軍勢はことごとく逃げて、多くの兵を殺した。鯨は白馬に乗って逃げた。馬が泥田に落ちて、進むことができなくなった。それで将軍吹負が甲斐の勇者に語って申すには「あの白馬に乗っている者は廬井鯨である。すぐに追って射よ。」と言った。ここに甲斐の勇者が走って追った。鯨に追いつくころ、鯨は急に馬にムチを打った。馬が泥から抜け出した。そして走って逃げることができた。将軍はまたさらにもとの所に戻って、軍を起こした。これ以降、近江の軍はついにやってこなかった。
これより先、金綱井軍を起こしたときに、高市郡大領高市県主許梅が急に口を閉じて、ものを言うことが出来なくなった。三日後に神がかりして言うには、「私は高市社にいる、名は事代主神である。また、身狭社にいる、名は生霊神である。」と言った。そして表して申すには、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬や様々な武器を献上せよ。」と言った。そしてまた申すには「私は皇御孫命の前後に立って、不破に送り奉って、帰ってきた。今もまた官軍の中に立って、守っている。」と言った。また申すには「西道から軍勢が来ようとしている。注意せよ。」と言った。いい終わって覚めた。それで許梅を遣わせて御陵を祭り、拝ませて、馬、武器を献上した。また幣帛を捧げて、高市、身狭の二つの社の神を敬い祭った。そうした後に壱伎史韓国が大坂からやってきた。それで時の人が申すには「二つの社の神の教えたまえた御言葉は、このことであったか。」と言った。また村屋神が祝に神がかりして申すには、「いま、我が社の中道から軍勢がやってくる。それで社の中道を閉鎖せよ。」と言った。そして数日もしないうちに廬井造鯨の軍が中道からやってきた。時の人が申すには、「つまり神が教えたまえる御言葉は、これである。」と言った。壬申の乱が全て終わった時に、将軍たちはこの三柱の神の教えたまわれた御言葉を申した。そして勅して、三柱の神の位階を上げて祀られた。辛亥の日に、将軍吹負は既に倭の地を定めた。それで大坂を越えて、難波に着いた。その他の別将たちはそれぞれ三つの道から進んで、山前に着いて、川の南で集まった。それで将軍吹負は難波の小郡に留まって、西の諸々の国司たちに命じて、官鑰、駅鈴、伝印を提出させた。
癸丑の日に、諸々の将軍たちがことごとく筱浪に集まって、左右大臣、そして諸々の罪人たちを探し出して捕えた。乙卯の日に、将軍たちは不破宮に向かった。そして大友皇子の頭を捧げて、陣地の前に献上した。八月の庚申の朔甲申の日に、高市皇子に命じて、近江の臣たちの罪状を述べさせた。そして重罪八人を死刑にした。なお右大臣中臣連金を浅井の田根で斬った。この日に左大臣蘇我臣赤兄、大納言巨勢臣比等、そしてその子供たち、合わせて中臣連金の子、蘇我臣果安の子をことごとく流した。その他は、全て許した。これより先に、尾張国司守少子部連鉏鉤は山に隠れて自殺した。天皇が申すには「鉏鉤は功績のあった者である。罪もないのに、どうして自殺したのだろう。何か陰謀があったのだろうか。」と申した。丙戌の日に、諸々の功績のある者に恵みの勅をして、賞を賜えた。
九月の己丑の朔丙申の日に、車駕が帰られて、伊勢の桑名で宿をとりたまわれた。丁酉の日に、鈴鹿で宿をとりたまわれた。戊戌の日に阿閉で宿をとりたまわれた。己亥の日に、名張で宿をとりたまわれた。庚子の日に、倭京に詣でて、嶋宮におられた。癸卯の日に、嶋宮から岡本宮に移りたまわれた。この年、大宮を岡本宮の南に造った。その冬に移って住まわれた。これを飛鳥浄御原宮という。
冬十一月の戊子の朔辛亥の日に、新羅の客金押実たちと筑紫で宴をした。その日にそれぞれの品物を賜い、それぞれに差があった。十二月の戊午の朔辛酉の日に、様々な功績のあった者を選んで、冠位を上げたまわれた。なお小山位以上を賜うこと、それぞれの品に差があった。壬申の日に、船一隻を新羅の客に与えた。癸未の日に、金押実たちが帰った。この月に、大紫韋那公高見が死んだ。日本書紀巻第二十八